逃げられるものならお好きにどうぞ。

小花衣いろは

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ささやかな願いを偲ばせて

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「此処が渡月橋か」

 橋の欄干に手を掛けた黒瀬くんが、陽光を反射してきらきらと光っている川を見つめて、眩しそうに目を眇めている。

 見上げれば雲一つない青空が広がっている、五月晴れの今日。私と黒瀬くんは、嵐山を訪れていた。

 傷が浅かったとはいえ、昨日、黒瀬くんは刺されたのだ。絶対安静だろうし、観光は難しいと思っていたのだけど、今朝方お医者さんにも診てもらえば、常人に比べたら傷の直りがかなり早いと驚いていた。
 黒瀬くん本人も、もう痛みはないと言うので、お医者さんから外出をしてもいいとの許可が下りたのだ。といっても無理は禁物なので、本来予定していた観光ルートは中止にして、今日は渡月橋の辺りでのんびり過ごすことにした。

 心配だからと最寄りの嵐山駅まで送ってくれた美代さんたち三人は、夕方になったら、再びこちらまで迎えに来てくれることになっている。
 黒瀬くんはそこまで心配しなくてもいいとぼやいていたけど、そこは美代さんが引かなかった。

 「アンタの怪我が悪化して倒れでもしたら、百合子ちゃんが一人で対処しなきゃならないのよ? 無理に決まってるでしょ! いい? 直ぐに駆けつけられる距離にはいるから、何かあったら直ぐに連絡しなさい!」とのことだ。

 不貞腐れた顔をする黒瀬くんの髪をぐしゃぐしゃにかき回していた美代さんは、何だか心配性のお姉さんみたいに見えて、少しほっこりしてしまった。

「あの、黒瀬くん?」
「ん? どうかした?」
「……近くないかな?」

 河川敷に設置されている木製のベンチに腰を落ち着かせてから、数分。長閑な時間に身を委ねてお喋りを楽しんでいたのだけれど、近過ぎる距離が気になってしまい、とうとう声を上げてしまった。

 だって黒瀬くんってば、私の真横にぴったりくっついてくるんだもん。それはもう、紙一枚通す隙間もないくらいに、ぴったりと。
 その距離のまま顔を覗き込むように見上げてくるものだから、私としては、さっきから心臓がそわそわしっ放しなのだ。至近距離で蕩けるような笑みを向けられるこちらの身にもなってほしいし、黒瀬くんは自分の顔が良いことをもう少し自覚してほしい。……ううん、黒瀬くんのことだから、自覚した上でやっているのかもしれないけど。

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