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ささやかな願いを偲ばせて
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しおりを挟む「百合子さん。俺、行くね」
「黒瀬くん? 行くってどこに……待って、黒瀬くん!」
黒瀬くんは私に背を向けて、先の見えない真っ暗闇に向かって歩いていく。
追いかけようと足を前に動かしても、黒瀬くんとの距離は開いていくばかりで、その背はどんどん遠ざかっていく。名前を呼んでも、黒瀬くんは立ち止まってはくれない。こちらに振り向いてくれることもない。ただだた、何処かを目指して真っ直ぐに進んでいく。
でも、私はその先に、黒瀬くんを行かせたくない。行っちゃ駄目。黒瀬くん、お願いだから、戻ってきて……!
「っ、待って……!」
右手を伸ばす。でも、私の掌は何も掴んでいなかった。持ち上げていた手をゆっくり下ろそうとすれば――そんな私の手を、温かな体温が包み込んでくれる。
「百合子ちゃん、目が覚めたのね……!」
――どうやら私は、悪い夢を見ていたらしい。視界に飛び込んできたのは、見覚えのある木目の天井を背景にして、心配そうな面持ちをしている美代さんだった。
「全くもう、急に倒れるからびっくりしたじゃない。心配かけさせないでよ」
「美代さん……。あの、此処は……?」
「此処は旅館よ」
「旅館……っ、あの、黒瀬くんは……!?」
「隣、見てみなさい」
起き上がって美代さんの視線の先を辿れば、静かに寝息を立てている黒瀬くんが、隣の布団に横たわっている。
「本当は病院に連れていこうと思ってたんだけど、辛うじて意識を保ってた椿が、病院は嫌だってごねてね。だから知り合いの医者をこっちに呼んで診てもらったのよ。そのまま百合子ちゃんも一緒に診てもらったけど、手首の擦り傷以外に外傷は見られなかったって。他にどこか痛むところとか、気になるところはない?」
「はい、私は全然……大丈夫です」
「本当に? ……嘘をついても、私にはすぐに分かるんだからね」
「ほ、本当です」
「それなら良し」
満足げに笑った美代さんは、乱れている私の髪を軽く撫でて、整えてくれる。
「でも……誰かのためにあんなに必死になってる椿なんて、初めて見たわ。百合子ちゃんってば、本当に大切にされてるのね」
眠っている黒瀬くんを見て、優しい顔で微笑んでいた美代さんは、私と目が合うと茶目っ気たっぷりのウィンクを一つ落とした。
「あの、黒瀬くんの容態は……」
「背中を刺されたんだけどね、そこまで傷も深くなかったみたい。安静にしておけば大丈夫よ」
「そう、ですか。……はぁ、良かった……」
思わず、安堵の息が漏れた。黒瀬くんの顔をまじまじと観察してみるけど……うん、顔色も悪くなさそうだ。美代さんの言う通り、命に別状はないのだろう。
「それじゃあ私は、慎二さんたちにも百合子ちゃんが目覚めたって伝えてくるわね。ついでに、何か食べるものも用意してくるから」
「ありがとうございます」
「椿も直に目を覚ますだろうし……百合子ちゃんはこのまま、傍にいてあげてちょうだい。あんなことがあった後だし、百合子ちゃんも無理はしないで、安静にしてるのよ」
「はい。……美代さん、本当にありがとうございます」
「ふふ、このお代は高くつくからね。……椿のこと、頼んだわよ」
美代さんは口角を上げてニンマリ微笑みながら、ひらりと手を振って部屋を出ていった。
「……もう、あんな椿を見るのは、御免だからね」
だけど部屋を出る直前、切なそうに目を細めて放った美代さんの一言が、私の耳に届くことはなかった。
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