逃げられるものならお好きにどうぞ。

小花衣いろは

文字の大きさ
上 下
83 / 134
全部全部、君だから。理由はそれだけで十分で。

3

しおりを挟む


「お、おわった……」
「香月さん、ずみません~……」

 現在時刻は二十二時を過ぎている。当然外は真っ暗だし、このフロアに残っているのも、私と佐々木ちゃんの二人だけだ。
 今日は久し振りに定時で上がれそうだったから、お昼休憩のタイミングで黒瀬くんには連絡を入れて、仕事帰りにバーに寄ることを伝えていた。久しぶりに会えることに、私は密かに浮き立っていた。

 だけど、あと一時間で定時になるといったタイミングで、それ・・は起こった。

 「何だねこれは!」と――係長の怒声が私の耳に飛び込んできたのだ。

「佐々木くん、この書類、一枚目から役職名の欄が全て間違っているぞ。これ、昨年のものじゃないのかい?」
「えっ、ウソ……そ、そんなはずは……」
「それに添付資料の見積もりの計算も、すべて桁がずれているじゃないか!」
「っ、す、すみません……!」
「まぁまぁ、そんなに怒らなくても。でも困りましたね。これは明日の朝一には先方に送らないといけないので……」
「あっ、あの! 今日中には修正しておきますので……!」

 係長の言葉に続いて、課長の困りきった声も聞こえてくる。
 ウチの部署は八人と少人数ではあるけど、比較的穏やかで優しい人が多い、と思う。係長も仕事に関しては厳しい人だけど、普段は普通に優しいし。だけど今日は二人が有給を取得していて、ただでさえ人手が足りないのだ。
 佐々木ちゃんを手伝いたい気持ちはあれど、皆自分の業務で手一杯なのだろうことが、漂う気まずい空気で何となく察せてしまう。

 ――仕方ない、か。

「佐々木ちゃん、手伝うよ」
「えっ、香月さ……でも……」

 涙目でデスクに戻ってきた佐々木ちゃんは、自身のPCを立ち上げながらも、目に見て分かるほどに肩を落としている。

「二人でやった方が早く終わるでしょ? 困った時はお互い様だから」
「か、香月さんんん~……!」

 えぐえぐと涙声で腕にしがみついてきた佐々木ちゃんの腕をぽんと軽く叩いて、「ほら、まずは業務の分担しちゃお」と書類に目を通した。
 当然定時に上がれるはずもないので、黒瀬くんには残業をすることになった旨の連絡を入れてある。どうやら佐々木ちゃんは誤って昨年の資料を使っていたようなので、今年の資料を引っ張り出して一から作り直すことになった。当然、やることはまだまだ山積みだ。

 一段落ついたところで給油室に行って珈琲を淹れていれば、林くんに声をかけられる。林くんは、同じ部署で働く私の後輩にあたる男の子だ。

「香月先輩、お疲れ様です」
「林くん、お疲れ様」
「あの、すみません。僕もお手伝いできたらよかったんですけど……」
「え? ……あぁ、だって林くんはこれから外で打ち合わせがあるんでしょ? 頑張ってね」

 社員の予定を把握するためにぶら下がっているホワイトボードには、林くんは夕方から打ち合わせが入っていて、確かそのまま直帰と書かれていたはずだ。

「香月さんって……本当に優しいですよね」
「え? 別に、そんなことはないと思うけど……」
「いえ、そんなことありますよ! それにその……お綺麗ですし、仕事も早くて……俺の憧れなんです」
「あ、ありがとう」

 林くんは爽やかな微笑を湛えたまま私を褒めちぎってくれる。けれどその笑みが、少しだけ崩れた。眉を下げてしゅんとした表情になる。

「それと……この間の飲み会の時は、失礼な態度をとってしまってすみませんでした」
「この前の飲み会?」

 ――あっ、思い出した。黒瀬くんが迎えにきてくれた時のこと……だよね。

「ううん、私の方こそ、何ていうか……驚かせちゃってごめんね」
「……あの人が、香月さんの彼氏さんなんですよね?」
「うん、そうだよ」
「年下の方ですか?」
「うん」
「……そうなんですね。何だかちょっと、嬉しいです」
「……うん? 嬉しいって、何が?」
「いえ、何でも。それじゃあお先に失礼しますね」

 林くんはにっこり笑って一礼すると、そのまま打ち合わせに向かっていった。

 ――嬉しいってどういう……いやいや、まさかね。

 自惚れるのは良くないと小さく頭を振って、頭の中に浮上した可能性を消し去った。出来上がった私と佐々木ちゃんの分の珈琲を持ってデスクに戻る。

 そうしたら、佐々木ちゃんは「先輩に珈琲を淹れさせてしまった……!」とこの世の終わりのような顔をして平謝りしてくるものだから――表情豊かな佐々木ちゃんに、何だか肩の力が抜けたというか。少しだけおかしくなってきて、クスリと笑み漏らしてしまった。やっぱり佐々木ちゃんは、一生懸命な良い子だ。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

私の入る余地なんてないことはわかってる。だけど……。

さくしゃ
恋愛
キャロルは知っていた。 許嫁であるリオンと、親友のサンが互いを想い合っていることを。 幼い頃からずっと想ってきたリオン、失いたくない大切な親友であるサン。キャロルは苦悩の末に、リオンへの想いを封じ、身を引くと決めていた——はずだった。 (ああ、もう、) やり過ごせると思ってた。でも、そんなことを言われたら。 (ずるいよ……) リオンはサンのことだけを見ていると思っていた。けれど——違った。 こんな私なんかのことを。 友情と恋情の狭間で揺れ動くキャロル、リオン、サンの想い。 彼らが最後に選ぶ答えとは——? ⚠️好みが非常に分かれる作品となっております。

ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます

沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!

俺を信じろ〜財閥俺様御曹司とのニューヨークでの熱い夜

ラヴ KAZU
恋愛
二年間付き合った恋人に振られた亜紀は傷心旅行でニューヨークへ旅立つ。 そこで東條ホールディングス社長東條理樹にはじめてを捧げてしまう。結婚を約束するも日本に戻ると連絡を貰えず、会社へ乗り込むも、 理樹は亜紀の父親の会社を倒産に追い込んだ東條財閥東條理三郎の息子だった。 しかも理樹には婚約者がいたのである。 全てを捧げた相手の真実を知り翻弄される亜紀。 二人は結婚出来るのであろうか。

ダブル シークレットベビー ~御曹司の献身~

菱沼あゆ
恋愛
念願のランプのショップを開いた鞠宮あかり。 だが、開店早々、植え込みに猫とおばあさんを避けた車が突っ込んでくる。 車に乗っていたイケメン、木南青葉はインテリアや雑貨などを輸入している会社の社長で、あかりの店に出入りするようになるが。 あかりには実は、年の離れた弟ということになっている息子がいて――。

あまやかしても、いいですか?

藤川巴/智江千佳子
恋愛
結婚相手は会社の王子様。 「俺ね、ダメなんだ」 「あーもう、キスしたい」 「それこそだめです」  甘々(しすぎる)男子×冷静(に見えるだけ)女子の 契約結婚生活とはこれいかに。

わたしは婚約者の不倫の隠れ蓑

岡暁舟
恋愛
第一王子スミスと婚約した公爵令嬢のマリア。ところが、スミスが魅力された女は他にいた。同じく公爵令嬢のエリーゼ。マリアはスミスとエリーゼの密会に気が付いて……。 もう終わりにするしかない。そう確信したマリアだった。 本編終了しました。

私が、良いと言ってくれるので結婚します

あべ鈴峰
恋愛
幼馴染のクリスと比較されて悲しい思いをしていたロアンヌだったが、突然現れたレグール様のプロポーズに 初対面なのに結婚を決意する。 しかし、その事を良く思わないクリスが・・。

社長室の蜜月

ゆる
恋愛
内容紹介: 若き社長・西園寺蓮の秘書に抜擢された相沢結衣は、突然の異動に戸惑いながらも、彼の完璧主義に応えるため懸命に働く日々を送る。冷徹で近寄りがたい蓮のもとで奮闘する中、結衣は彼の意外な一面や、秘められた孤独を知り、次第に特別な絆を築いていく。 一方で、同期の嫉妬や社内の噂、さらには会社を揺るがす陰謀に巻き込まれる結衣。それでも、蓮との信頼関係を深めながら、二人は困難を乗り越えようとする。 仕事のパートナーから始まる二人の関係は、やがて揺るぎない愛情へと発展していく――。オフィスラブならではの緊張感と温かさ、そして心揺さぶるロマンティックな展開が詰まった、大人の純愛ストーリー。

処理中です...