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まだ、気づかないふり
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しおりを挟む「……美代さん、何してるの?」
「何って……見て分かるでしょ?」
落ち着いた調子で話している美代さんと黒瀬くんだが、そこに先ほどまでの穏やかな雰囲気は見られない。
漂うピリピリとした空気は、どう考えても、私が余計なことを言って美代さんを怒らせてしまったせいだ。私を庇うようにして立っていた黒瀬くんの背中から顔を出して、美代さんに声を掛ける。
「あのっ、……美代さんを怒らせてしまったことは、謝ります。でも……さっき言ったことは、取り消すつもりありませんから」
謝ろうと思って口を開いたはずだったのに、先ほどの、黒瀬くんを物みたいに言っていた言葉を思い出してしまって――気づけばまた、余計な一言を付け足してしまった。
美代さんは怒っているのかさえよく分からない、読めない笑みを浮かべて黙ったままだし、黒瀬くんは――何だか肩が、小さく上下している気がする。
「……っ、ふっ。やっぱ、かっこいいな」
黒瀬くんが、小さな声で何か呟いた。よく聞き取れなくて顔を持ち上げれば、こちらを向いて身を屈めた黒瀬くんが、顔を近づけてくる。そして――。
「っ、んんっ……!」
気づけば黒瀬くんの顔が眼前まで迫っていて、柔らかな唇が重なっていた。以前の軽く触れただけのキスとは違う、呼吸もままならないほどの長くて深い口づけに、段々と頭の中が真っ白になっていく。
抵抗しようと両手で胸を押せば、黒瀬くんはすんなり離れていった。呼吸を整えていれば、黒瀬くんに肩を引き寄せられ、胸に寄りかかるような体勢になってしまう。
「見ての通り、俺、このお姉さんにべた惚れだからさ。この人に手出したら……美代さんでも、何するか分かんないよ?」
黒瀬くんが、にこりと綺麗な笑みを浮かべて美代さんを見る。だけどその目は、傍から見ても全く笑っているようには見えない。――ゾクリと、悪寒のようなものが走る。
「……はあ、分かったわよ。とりあえず、今日はもう帰るわ」
大きな溜め息を漏らした美代さんは、グラスの中身をグイっと飲み干して立ち上がる。
「百合子ちゃんも、またね」
やっぱり感情の読めない綺麗な笑みを浮かべた美代さんは、小さく手を振って店を出ていってしまった。
「お姉さん、送っていくからちょっと待ってて」
そう言って、黒瀬くんは奥の方に引っ込んでしまう。スマホの画面を見れば時刻は二十時を過ぎている。気づけば黒瀬くんの終業時間もとうに過ぎていたみたいだ。
「お姉さん、お待たせ。行こ」
「……」
言いたいことをひとまずグッと飲みこみ、黒瀬くんに促されるまま席を立った私は、マスターにも声を掛けて店を出た。
けれど私たちがバーを出た後、店内に居た一人の男が、私たちを見てにやりと笑っていたことには――もちろんこの時の私が気づくはずもなく。
この時に気づいていれば、目を付けられなければ……数日後に“あんなこと”に巻き込まれることもなかったのかもしれないのに。
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