逃げられるものならお好きにどうぞ。

小花衣いろは

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まだ、気づかないふり

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 時刻は夜の十九時。仕事を終えて、いつもなら真っ直ぐ家に帰って、今頃は夕食を食べながらテレビでも観てぼうっとしている時間だけど……何故か私は“Bar curación”に足を運んでいた。
 理由はただ一つ。黒瀬くんに自分の働いている姿を見にきてほしいと言われ、私がそれに頷いてしまったからだ。ついこの間、黒瀬くんを看病していた際、会話の流れでそんな話になったことは覚えている。
 私は「都合が合えば」と伝えたつもりだったのだけど――仕事を終えてスマホを見れば、新着メッセージが一件入っていたのだ。

 “今日は二十時までのシフトだから、間に合いそうだったらきてほしいな”

 ――時間的にはまだ十分に間に合う。だけど、正直面倒な気も……いやでも、前に約束してしまったわけだし……。

 そんな葛藤を繰り広げながらも、足は勝手に自宅ルートを逸れてバーの方へと向かっていて――気づけば店の前に辿り着いていたというわけだ。

「いらっしゃいませ」

 私の来店に気づいたマスターが、眦に皺を寄せた優しい笑顔で挨拶してくれる。
 次いで視界に映ったのは、カウンター席に座る綺麗な女性だった。カウンターから出てきた黒瀬くんが、女性の前にグラスを置いている。
 これまで黒瀬くんが女性と一緒に居るのを見かけた時は、いつだって険悪な空気が漂っていたけれど、その女性とは仲睦まじそうに会話している。
 だけど私の来店に気づくと、女性との会話を終わらせて笑顔で近づいてくる。

「お姉さん、いらっしゃい。待ってたよ」
「……急にあんな連絡よこして、私がこないかもって思わなかったの?」
「だってお姉さんは、もしこれないなら絶対に連絡入れてくれるでしょ。真面目だからね」

 楽しそうに笑っている黒瀬くんは、私を空いているカウンター席に通すと、カウンターの中に入っていく。どうやら黒瀬くんが、私にカクテルを作ってくれるらしい。
 バックバーからボトルを取り出している黒瀬くんは、黒のカマーベストに黒いネクタイを合わせていて、白いワイシャツを肘のあたりまで捲りあげている。
 いつもは無造作に下ろされている黒髪も、今は前髪を上げるような形できっちりセットされていた。ただでさえ普段から大人っぽい雰囲気なのに、今日はそこに色気までプラスされているような気がする。

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