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第七章
涙(2)
しおりを挟むひとりになったルチカは、廊下に出て、突き当りにある美術室に目をやる。
ウラハを待って三十分以上経っているが、扉は固く閉ざされ、ひとが出てくる気配はない。
ルチカはそのまま階段をおり、二年生の靴箱がある昇降口でウラハを待つことにした。
誰もいない昇降口は、雨音だけが聞こえている。
靴箱にもたれかかり、湿った空気を吸うと、ぼんやりと宙を見た。
必要、という言葉を先生は使ったけれど、いまいち自分にはしっくりこない。
僕は、ウラハさんに嘘をつかれた人間だ。
(信じたふりをしただけ)
僕が一番傷つく部分を、彼女は切り裂いた。
そんな彼女に、本当に僕が必要なのだろうか。
「彼女のしたことを許せるなら、いまの彼女を受け入れてあげて」
先生はそうも言った。
僕は、ウラハさんの名前が本名ではなかったことや、書き込みのことを教えてくれなかったことで、彼女を責めるつもりはない。
なぜなら、それは許せないというよりも、ただ驚いたというほうが、相応しいからだ。
しかも先生が言ったとおり、真実を隠した理由が、ウラハさんにとって辛いことを話したくない、ということだったとなれば、余計に責められないし、責める気もしない。
だけど、涙の色が見える、という僕の話を、信じていないのに信じていると嘘をついたことについては、話が別だ。
それを聞いたとき、僕は、悲しくて、辛くて、胸が痛くて――そして、「どうして、ウラハさんはそんなことをしたんだろう」という怒りも感じた。
いまだって、気持ちの整理はついていない。
そんな思いを、僕はこれから、ウラハさんにぶつけなければいけないんだ。
嘘をついた理由を、彼女は「わからない」と言ったけれど、真実を知ったいま、もう一度聞いて確かめたい。
そしてウラハさんの答えに納得できれば、許して、受け入れる。
受け入れる、というのは、相手を理解して、認めるということだ。
そして、彼女がどうしたいのか、気持ちを汲んで、受け止める。
ウラハさんという人間を理解して、受け止める……。
どんな答えを告げられれば、僕はそうすることができるのだろう。
いまの僕には、ウラハさんの気持ちがわからない。
彼女がどうしたいのか、わからない。
傷つき、彼女への不安を抱いたいま、彼女を心から許し、理解できるかどうかすら、想像がつかない。
もし、許せなかったらどうすればいいのだろう。
すべては、ウラハさんの答え次第なのだろうけど、それ以前に、彼女は僕に答えてくれるだろうか。
書き込みのことを隠していたのと同じで、僕の涙の話を信じることによって、彼女はなにか自分の辛いことを隠そうとしたのならば、真実を話してくれない可能性も……。
……いや、それはないか。だって、ウラハさんはあの日急に、「信じてふりをしていただけ」と自分から打ち明けた。打ち明けられるということは、なにかを隠したかったわけじゃないんじゃ……。
そこまで考え、ルチカはふと思い出した。
……そういえば、先生はもうひとつ、ひとが隠しごとをするときの理由を僕に教えてくれた。
先生の言ったその例は、「隠しごと」だけではなく、嘘をつくときの理由にも、あてはまりそうだ。
そもそも、隠しごとというのは、ある意味、嘘でもある。
もし、先生の言ったそのもうひとつの理由で、ウラハさんが僕に嘘をついたのならば……。
ルチカの考えが煮詰まったとき、ウラハがあらわれた。
気づけば、薄暗かった外が完全に暗くなっている。
ルチカは靴箱にあずけていたからだをぱっと起こし、ウラハの真正面に立った。
ウラハは一度靴箱の手前で足を止めたが、すぐに歩き出し、自分の靴箱からローファーを出した。
その横顔には生気がなく、瞳が濁って見える。
あまりにいつもと違うウラハのようすに、ルチカは言おうとしていたことも忘れ、直立したまま唾をのみ込んだ。
ウラハは靴を履きかえ、出入り口に向かって歩き始める。ルチカははっとして、あとを追う。
昇降口を出たウラハは、雨避けのひさしのあるところで立ち止った。
肩からかけたバッグのなかをおもむろに探ると、一冊のノートをルチカにさし出す。
「……見て。うしろから7ページ目」
「……え? これ……」
僕を信じてくれたあなたへ
表紙に書かれた見慣れた文字に、思わず、ルチカの声がうわずる。渡されたのは、以前自分がウラハに渡したものだった。
「……いいから見て。うしろから7ページ目」
ウラハの声は、低く、はっきりとしていた。
ルチカは息をのむ。
このノートには、ルチカに見える涙の色と、涙を流したときの感情の関係が羅列してある。
ノートのうしろから7ページ目というのは、その羅列がちょうど書き終わったページだ。そして、ついこの間、新たな涙の色の項目を書き足したばかりである。
ルチカはそのことをはっきりと覚えていた。
ふるえる手で、急いでページをめくる。
ウラハの肩下二十センチほどまで伸びた栗色の髪が、わずかに舞った。
「……教えたんだから、もういいでしょ。じゃあね」
小さな声でそう言うと、ウラハは雨のなかへと歩き出す。
ルチカはようやく、ノートのうしろから7ページ目に辿り着いた。
白い涙……
この文字は、自分で書いたものだ。
しかし、そのあとには確かに、自分の筆跡ではない文字で、見覚えのない文章が書かれていた。
白い涙……あのときあたしが泣いてた理由は、わからない。たしかに泣いたけど、理由は自分にもわからない。あの朝、家を出るとき急になにもかも嫌になって、どうしたらいいかわからなくて、そしたら自然に涙が出てきた。はっきりした感情なんて、わからない。
ルチカは口を開けたまま、ノートを見つめて立ち尽くした。
ふと、顔をあげると、ウラハの姿がない。急いで、ウラハを追いかける。
昇降口を出て、正門に向かう。すぐに、正門を出ていこうとするウラハのうしろ姿が目に入った。
「ま……待って下さい……!」
上履きのまま、ウラハのもとへ駆け出す。
出会った日と同じシチュエーションだ。
しかし、天気と気持ちは、あの日とは違う。
入学式のあったあの日は快晴で、人生ではじめて「特別なひと」と出会い、心は希望に満ちていた。
でも、今日は雨だ。心は乱れている。
ルチカは口をきけないまま、黙って早足で歩き続けるウラハのうしろを、ついていく。
道路にできた水たまりを踏むたび、上履きに水が染みてくる。しかし、全身が降る雨で濡れているせいか、もはや冷たさなど感じない。
ちょうど橋の上にさしかかったとき、ウラハはふいに立ち止った。ルチカも、立ち止まる。
ウラハのからだが、ふらりと橋の欄干に近づく。
血の気のない横顔が、水面を見おろした。
川の水は雨で水量が増し、濁流となって、不吉な轟音をたてている。
ウラハの左手がゆっくりと持ちあがり、欄干にかかった。
その瞬間、以前、ウラハが言ったセリフが頭をよぎり、ルチカの背筋が凍る。
(人間、いつ死ぬかなんてわからない)
その言葉の意味がいま、新たな可能性を浮上させる。
もしかして、ウラハさんは遺作を作ると決めたときから、よからぬことも考えていたのではないだろううか。
ルチカはウラハに駆けよると、欄干をつかむ彼女の小さな手を強く握った。
「……ここから飛んでも、死ねませんよ」
とっさに、そんな言葉が口をついた。
冷静に考えればおかしなことを言っているのだが、いまのルチカの頭のなかにあるのは、とにかく、彼女の意識がよくない方向へむかうのを止めたいという気持ちだけだった。
たしかに、ルチカが入学式の日にこの川に飛び込んだときは、無事だった。しかし、あの日と今日とでは、川のようすがまるで違う。いま飛び込めば、危険なのは目に見えている。
「……大丈夫よ。あたし泳げないから」
まばたきもせず、ウラハは静かに答えた。
ルチカはせめて、自分の気持ちを落ち着かせようと、そっと深呼吸をする。
「……僕が助けます」
「いらない」
視線を落としたままのウラハの顔には、そこかしこに雨粒が当たり、頬を伝っていく。
それはまるで涙の様に、少女の儚げな美しさを際立てる。
ルチカは悲しくなって目を細めた。
どんなにきれいでも、僕はこんなウラハさんは好きじゃない。
元気に怒っているウラハさんのほうがいい。
もっと僕が好きなのは、あのときの笑顔――
――そうだ。僕はこのひとの笑顔を知っている。
僕とウラハさんが一緒に過ごした時間。
そのなかで、なにが真実だったのかは明確ではないけれど、絵を描いているときの楽しげな彼女を、笑顔を、僕は知っている。
僕には、あれが偽りだとは思えない。
どういう経緯で思い立ったにせよ、死ぬ前に遺作を作りたいと彼女が思ったのは、絵を描いたり、なにかを作ったりするのが好きだからではないのだろうか。
その信念を、執着心を、どうか思い出して……。
ウラハの手を握るルチカの手に、ぐっと力が込められる。
「……ウラハさんは死ねないです。まだ、遺作を作ってなのに、死ねませんよ」
あなたの、生きる誇りを思い出してほしい。
言葉と手のひらで、そう伝える。
手のひらのなかで、ウラハがふるえた。
ウラハの顔が、ゆっくりとあがる。そして薄く開いた目が、ルチカを見た。
「……もういいの。どうせ、あたし才能なんてないから……」
少女の両目から、涙が溢れる。
雨に濡れ、ウラハの顔は蒼白だが、頬に白いすじが走っているのがルチカにははっきりと見えた。
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