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第六章
黒で殺す(4)
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ひとつは、ルチカが虹子のアイディアを、他のなにかに重ねるところだ。
「地面に絵を描く」と言えば、「ナスカの地上絵ですか」と返される。
「石積んで墓石を作る」と言えば、「賽の河原ですか」と返される。
まるで、「あなたの発想は、いつもなにかの模倣ですね」と言われている気分だった。
それは、大部分が虹子の被害妄想だ。
作品がまったく同じなら問題があるが、表現したい発想やコンセプトが被ってしまうのは、よくあることである。そういった作品は世に五万とあり、むしろ、なにかに影響を受けていない作品など、存在し得るのかもわからない。
それは虹子にもわかっている。
ルチカに悪意がないのも、わかっている。自分を批判する気など毛頭ない、何気ない発言だということも、わかっている。
わかっていても、やはり実際に口にされると腹が立ち、ルチカの言葉はいちいち虹子を苛立たせ、焦らせた。
美術に関心もないようなやつに、本気でなにかを作ったこともないようなやつに、そんなことを言われたくない、という思いも強くあった。
そして彼の嫌なところのふたつめは、彼が自他ともに認める異端児であったことだ。
鈍条崎ルチカは、出会ったときから言動が変わっている。
変わった能力を持っている。
名字まで変わっている。
彼と比べると、いまの自分など霞んでみえた。
こんなことは、人生ではじめてだった。
他人をよせつけないほど超自己中心的で、非凡な才能を持つ人間は、ごくまれにいる。ごくまれ、ということは、存在はするけれど、そうそう身近にはいない、異端な存在ということだ。
虹子には、まさに自分こそがそういった異端のものだという自負があった。
これまで、たまにおかしな芸術家を見かけたことはあったが、才能を含む人間としての総合点では、自分をしのぐほどの存在に遭遇したと感じたことはなかった。
しかし、ついに出会ってしまったのだ。
鈍条崎ルチカは、紛れもない異端児である。
彼の言動、思考を目のあたりにするたびに、虹子は自分が平凡な人間に思えて、気が滅入った。
彼を知ることで、たびたび見舞われることになった、苛立ち。
それを感じながらも、彼をそばにおくためには、我慢して受け入れるしかない。
プライドの高い虹子が折れるしかないほど、虹子にとってルチカは必要な人物となっていった。
彼との時間を重ね、彼の言葉を反芻し、彼のくれた「僕を信じてくれたあなたへ」というノートを見るうちに、やがて虹子は、ある思いに辿り着く。
彼の話を信じているから、彼はあたしを好いている。
じゃあ、もし、あたしが信じていなかったら……?
以前、信じることと、受け入れることは違うのか、と、彼に聞いてみたことがあった。
そのとき彼は「よくわからないけれど、信じてくれる方がいい」と答えた。
それを思い出し、虹子に迷いが生じはじめる。
虹子も今年、十七歳になる。若いなりにさまざまなことを経験し、自分の性格を、少なからず自覚できてきたころである。
そもそも、本当に自分は彼を信じているのだろうか。
誰も信じなかったという彼の能力を信じることで、自分は普通の人間とは違う、という演出をしたかったのではないのだろうか。
己を非凡な人間に押しあげるために、本能で「信じよう」と決め、信じたふりをした可能性はないだろうか。
そんな疑念を抱かざるを得ない、自分という人間の素性に嫌気が差した。
ルチカは自己中心的で、面倒な人間だが、心根は純粋だ。
それなのに、自分ときたら。
嘘つきで、昔の実績にすがって芸術に執着する、嫌われもの。
こんなあたしを知ったら、彼はどう思うだろう。
もしかしたら、去っていってしまうかもしれない。
そんなの嫌だ。
さみしい。
あなたがいないと、さみしいよ。
虹子は混乱し、大きな目から涙をこぼした。
数日前、ルチカとはじめて出会ったときの虹子には、自分に都合の悪いことは隠し、誤魔化し、上手くルチカを操れればそれでいいと思っていた面があった。
それなのに、時間が経つにつれ、彼が自分にとってどれほど貴重で、唯一無二の存在であるか、自覚させられていく。
ルチカが慕っている「特別」な自分は、本当の自分ではないかもしれない。
虹子はそんな不安にさいなまれるようになり、自分の内面を、現状を、すべてを知ったうえで、受け入れ、愛してほしいというのが、自分の本当の願いなのだとわかった。
打ち明けるのは怖いけれど、自分の素直な気持ちに気づいたいま、このままではいけないという思いが強くなる。
だけど、思いはあっても、上手く伝えられない。
打ち明けかたも、謝りかたも、わからない。
どうしたらいいか、わからない……。
そんな悩める虹子に、チャンスが訪れる。
ルチカを自宅に入れた際、青い涙に染まる枕を見た彼に、さみしいのかと尋ねられたのだ。
虹子は勇気を振り絞り、「さみしい」と吐露し、心を開きかけた。
しかし、それに対してルチカがすぐに反応しなかったことで怖くなり、ちゃかしてしまう。
そのうえ、一度弱音を口にしてしまった自分を悔やみ、恥じ、ついには勢いで、秘めていた自分の思いを明かしてしまった。
「信じているふりをしていただけかもしれない」
こんな風に打ち明けるつもりはなかった。虹子は自分のしてしまったことに、ショックを受けた。
ルチカはそれ以上にショックを受けていた。
いたたまれなくなった虹子はルチカを部屋から追い出したのだが、すぐに激しい後悔に襲われる。
このまま帰してしまっては、嫌われ、もう関係が終わってしまうかもしれない。
虹子は部屋を飛び出し、興味を自分に繋ぎ止めたい一心で、ルチカの唇に、自分の唇を重ねた。
恋愛感情でも、友情でも、愛情でも、自分を思ってくれるならばなんでもよかった。
自分なりに考えた、苦肉の策だったのである。
策を実践してはみたが、その後の気分は沈んでいた。
肉体的接触で気持ちを繋ぎとめようとした、愚かな自分を恥じた。
そんなことをしたって、今後もルチカがまだそばにいてくれるという確信もない。
週が明け、学校へいく。
放課後、重い足取りで美術室に向かった虹子には、最悪の事態が待っていた。
これまで、どんな悪口にも耐えた。無視にも、好奇の目にも耐えた。
だがこの日、ついに虹子は激昂した。
棚の前のイーゼルに置かれたカンヴァスに、黒い絵の具で「鈍条崎ルチカに抱かれたい」と書き殴られていたのだ。
のちにこの場にやってくるルチカや麻乃花は気がつかなかったようだが、あのとき床に転がっていたカンヴァスがそれだった。
ルチカの存在を、最低のやつらに知られてしまった。
陰険なやつらのことだ、きっと、ルチカにあたしの真実の姿をバラすに違いない。
そうなれば、嫌われる。
終わりだ。
ルチカを失う恐怖に勝てず、虹子は崩壊した。
とっさに、かたわらにあったイーゼルを右手で持ち、主犯と思われるボブヘアの女子部員を殴りにいく。しかし、思い止まった。
これで殴れば、イーゼルが壊れる。
この手が、汚れる。
虹子は個展を開いた十一歳のころから、絵を描くとき以外は、なるべく利き手は使わないようにしてきた。
以前、河原でルチカに向かって石を投げたことがあったが、そのときコントロールが悪かったのも、利き手ではない左で投げていたせいだった。
大切にしてきたその利き手を、こんなやつらのために、汚したくない。
それに、やつらは美術部のくせに画材を平気で傷つけ、他人の作品に手を出すバカだ。
イーゼルで殴れば、虹子、おまえもこんなやつらと一緒になるぞ。そこまで落ちぶれるつもりか、虹子。
虹子は自分で自分を律すと、イーゼルを置いてボブヘアの女子部員のもとにいき、左手でつかみかかる。
すでに精神はボロボロだったが、この左手が、彼女に残った最後のプライドだった。
ボブヘアの女子部員は叫び、美術室の後方へ逃げる。
イスが転がり、イーゼルが倒れ、カンヴァスが床に落ちた。
虹子は追いかけ、渾身の力で女子生徒の胸ぐらをつかむ。
そのとき、自分を表す偽名が聞こえた。
腕を、強い力でつかまれる。
顔をあげる。
そこには、泣き出しそうな顔でこちらを見ている鈍条崎ルチカがいた。
――ああ、全部終わった。
虹子の心は、ここで闇に沈んだ。
「地面に絵を描く」と言えば、「ナスカの地上絵ですか」と返される。
「石積んで墓石を作る」と言えば、「賽の河原ですか」と返される。
まるで、「あなたの発想は、いつもなにかの模倣ですね」と言われている気分だった。
それは、大部分が虹子の被害妄想だ。
作品がまったく同じなら問題があるが、表現したい発想やコンセプトが被ってしまうのは、よくあることである。そういった作品は世に五万とあり、むしろ、なにかに影響を受けていない作品など、存在し得るのかもわからない。
それは虹子にもわかっている。
ルチカに悪意がないのも、わかっている。自分を批判する気など毛頭ない、何気ない発言だということも、わかっている。
わかっていても、やはり実際に口にされると腹が立ち、ルチカの言葉はいちいち虹子を苛立たせ、焦らせた。
美術に関心もないようなやつに、本気でなにかを作ったこともないようなやつに、そんなことを言われたくない、という思いも強くあった。
そして彼の嫌なところのふたつめは、彼が自他ともに認める異端児であったことだ。
鈍条崎ルチカは、出会ったときから言動が変わっている。
変わった能力を持っている。
名字まで変わっている。
彼と比べると、いまの自分など霞んでみえた。
こんなことは、人生ではじめてだった。
他人をよせつけないほど超自己中心的で、非凡な才能を持つ人間は、ごくまれにいる。ごくまれ、ということは、存在はするけれど、そうそう身近にはいない、異端な存在ということだ。
虹子には、まさに自分こそがそういった異端のものだという自負があった。
これまで、たまにおかしな芸術家を見かけたことはあったが、才能を含む人間としての総合点では、自分をしのぐほどの存在に遭遇したと感じたことはなかった。
しかし、ついに出会ってしまったのだ。
鈍条崎ルチカは、紛れもない異端児である。
彼の言動、思考を目のあたりにするたびに、虹子は自分が平凡な人間に思えて、気が滅入った。
彼を知ることで、たびたび見舞われることになった、苛立ち。
それを感じながらも、彼をそばにおくためには、我慢して受け入れるしかない。
プライドの高い虹子が折れるしかないほど、虹子にとってルチカは必要な人物となっていった。
彼との時間を重ね、彼の言葉を反芻し、彼のくれた「僕を信じてくれたあなたへ」というノートを見るうちに、やがて虹子は、ある思いに辿り着く。
彼の話を信じているから、彼はあたしを好いている。
じゃあ、もし、あたしが信じていなかったら……?
以前、信じることと、受け入れることは違うのか、と、彼に聞いてみたことがあった。
そのとき彼は「よくわからないけれど、信じてくれる方がいい」と答えた。
それを思い出し、虹子に迷いが生じはじめる。
虹子も今年、十七歳になる。若いなりにさまざまなことを経験し、自分の性格を、少なからず自覚できてきたころである。
そもそも、本当に自分は彼を信じているのだろうか。
誰も信じなかったという彼の能力を信じることで、自分は普通の人間とは違う、という演出をしたかったのではないのだろうか。
己を非凡な人間に押しあげるために、本能で「信じよう」と決め、信じたふりをした可能性はないだろうか。
そんな疑念を抱かざるを得ない、自分という人間の素性に嫌気が差した。
ルチカは自己中心的で、面倒な人間だが、心根は純粋だ。
それなのに、自分ときたら。
嘘つきで、昔の実績にすがって芸術に執着する、嫌われもの。
こんなあたしを知ったら、彼はどう思うだろう。
もしかしたら、去っていってしまうかもしれない。
そんなの嫌だ。
さみしい。
あなたがいないと、さみしいよ。
虹子は混乱し、大きな目から涙をこぼした。
数日前、ルチカとはじめて出会ったときの虹子には、自分に都合の悪いことは隠し、誤魔化し、上手くルチカを操れればそれでいいと思っていた面があった。
それなのに、時間が経つにつれ、彼が自分にとってどれほど貴重で、唯一無二の存在であるか、自覚させられていく。
ルチカが慕っている「特別」な自分は、本当の自分ではないかもしれない。
虹子はそんな不安にさいなまれるようになり、自分の内面を、現状を、すべてを知ったうえで、受け入れ、愛してほしいというのが、自分の本当の願いなのだとわかった。
打ち明けるのは怖いけれど、自分の素直な気持ちに気づいたいま、このままではいけないという思いが強くなる。
だけど、思いはあっても、上手く伝えられない。
打ち明けかたも、謝りかたも、わからない。
どうしたらいいか、わからない……。
そんな悩める虹子に、チャンスが訪れる。
ルチカを自宅に入れた際、青い涙に染まる枕を見た彼に、さみしいのかと尋ねられたのだ。
虹子は勇気を振り絞り、「さみしい」と吐露し、心を開きかけた。
しかし、それに対してルチカがすぐに反応しなかったことで怖くなり、ちゃかしてしまう。
そのうえ、一度弱音を口にしてしまった自分を悔やみ、恥じ、ついには勢いで、秘めていた自分の思いを明かしてしまった。
「信じているふりをしていただけかもしれない」
こんな風に打ち明けるつもりはなかった。虹子は自分のしてしまったことに、ショックを受けた。
ルチカはそれ以上にショックを受けていた。
いたたまれなくなった虹子はルチカを部屋から追い出したのだが、すぐに激しい後悔に襲われる。
このまま帰してしまっては、嫌われ、もう関係が終わってしまうかもしれない。
虹子は部屋を飛び出し、興味を自分に繋ぎ止めたい一心で、ルチカの唇に、自分の唇を重ねた。
恋愛感情でも、友情でも、愛情でも、自分を思ってくれるならばなんでもよかった。
自分なりに考えた、苦肉の策だったのである。
策を実践してはみたが、その後の気分は沈んでいた。
肉体的接触で気持ちを繋ぎとめようとした、愚かな自分を恥じた。
そんなことをしたって、今後もルチカがまだそばにいてくれるという確信もない。
週が明け、学校へいく。
放課後、重い足取りで美術室に向かった虹子には、最悪の事態が待っていた。
これまで、どんな悪口にも耐えた。無視にも、好奇の目にも耐えた。
だがこの日、ついに虹子は激昂した。
棚の前のイーゼルに置かれたカンヴァスに、黒い絵の具で「鈍条崎ルチカに抱かれたい」と書き殴られていたのだ。
のちにこの場にやってくるルチカや麻乃花は気がつかなかったようだが、あのとき床に転がっていたカンヴァスがそれだった。
ルチカの存在を、最低のやつらに知られてしまった。
陰険なやつらのことだ、きっと、ルチカにあたしの真実の姿をバラすに違いない。
そうなれば、嫌われる。
終わりだ。
ルチカを失う恐怖に勝てず、虹子は崩壊した。
とっさに、かたわらにあったイーゼルを右手で持ち、主犯と思われるボブヘアの女子部員を殴りにいく。しかし、思い止まった。
これで殴れば、イーゼルが壊れる。
この手が、汚れる。
虹子は個展を開いた十一歳のころから、絵を描くとき以外は、なるべく利き手は使わないようにしてきた。
以前、河原でルチカに向かって石を投げたことがあったが、そのときコントロールが悪かったのも、利き手ではない左で投げていたせいだった。
大切にしてきたその利き手を、こんなやつらのために、汚したくない。
それに、やつらは美術部のくせに画材を平気で傷つけ、他人の作品に手を出すバカだ。
イーゼルで殴れば、虹子、おまえもこんなやつらと一緒になるぞ。そこまで落ちぶれるつもりか、虹子。
虹子は自分で自分を律すと、イーゼルを置いてボブヘアの女子部員のもとにいき、左手でつかみかかる。
すでに精神はボロボロだったが、この左手が、彼女に残った最後のプライドだった。
ボブヘアの女子部員は叫び、美術室の後方へ逃げる。
イスが転がり、イーゼルが倒れ、カンヴァスが床に落ちた。
虹子は追いかけ、渾身の力で女子生徒の胸ぐらをつかむ。
そのとき、自分を表す偽名が聞こえた。
腕を、強い力でつかまれる。
顔をあげる。
そこには、泣き出しそうな顔でこちらを見ている鈍条崎ルチカがいた。
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