月並みニジゲン

urada shuro

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第六章

黒で殺す(2)

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 美術部に入ったものの、自由でのんびりした部活、というものが、虹子にとっては思いのほかつまらなかった。
 
 美術部の部員数は十一名。そのうち、男子は四名、女子が虹子を含めて七名だ。
 真面目にカンヴァスに向かっている部員も少なからずいたのだが、ものを食べながら漫画を読んでいる部員や、しゃべってばかりでいっこうに手を動かさない部員もいる。

 その原因は、顧問の美術教師がほとんど部活に姿を見せないことだった。
 そのせいで、部活動中の美術室はいつもさわがしく、食べ物の匂いが漂っている。自由、といえば聞こえがいいが、ただの野放し状態だ。作品制作中は寝食がおろそかになるほど没頭するタイプの虹子には、この環境は驚くばかりだった。

 さらに、虹子にとって都合の悪いことが起こってしまう。

 部員のなかに、虹子が過去に個展を開いた画家であったことを覚えているものがいたのだ。これは虹子とって、大誤算だった。
 光釘高校に入学して以来、誰にも画家であった過去に関して触れられたことがなかった虹子は、ここには過去の自分を知るものはいないのだと、勝手に思い込んでいたのだが……

 現実はそうではなかった。虹子と同世代で、美術に興味のあるもののなかには、幼くして注目を浴びた少女画家の存在を覚えていたものが、わずかながらいたのである。その部員は念を入れて「槻南虹子」をインターネットで調べ、過去の個展の情報を得ると、あっという間に部員内に広めてしまった。

 ギャラリーに、自分の情報の削除依頼をしておくべきだった。そう悔やんでも、もう遅い。創作活動をやめて以来、虹子はずっと、ネット上にある自分の情報すべてを削除をしてほしいと思ってはいた。しかし、自分の過去を消してくれ、とギャラリーの店主に頼むことは、負けを意味するような気がして、申し入れができなかったのだ。

 過去を知られて以来、それまで会話をしたこともなかった部員たち――とりわけ、同級生の女子部員たちが虹子にやたらとよってくるようになっていた。
 そして、画家として活躍していた過去を引き合いにして、絵を褒められた。

 バカらしい。相手にしないようにしてはいたが、いらついた。中学時代の再放送のようだと虹子は思った。
 が、すぐに、「中学のころより、もっとたちが悪い」と思い直す。

 中学時代に虹子を褒めたクラスメイトたちは、虹子を「画家」という目で見ながらも、実力を純粋に褒めていた。
 でも、いまは違う。部員たちの言動のふしぶしに、刺を感じるのだ。

 女子部員たちは、「元・天才少女画家」というフィルターを通して虹子を見ているだけではなく、そこにさらに、「でも、いまは落ちぶれた人間」というもう一枚のフィルターも通しているらしい。
 その証拠に、褒めるついでに「中学時代はどうしてたの?」「どうして、美術科もないうちの学校なんて入ったの?」などと、にやついた顔で聞いてくるのだ。

 純粋に虹子の作品を好ましく思って賛辞を送るものは、誰ひとりいなかった。

 虹子のあては外れた。
 部活紹介で「楽しみましょう」と言った部長は、わたしはわたし、関係ない、とでも言いたげに、ひとりもくもくと静物画を描いている。

 全然、楽しくないじゃない。

 虹子は時折、部長をにらみつけた。
 そもそも、みんなが褒めてくれた幼少時代が、虹子の「楽しい」の基本である。
 ずっとちやほやされて生きてきた虹子は、どうしてもそれを欲してしまう。

 だが当然、そんな都合のいい日々は帰ってなどこない。

 虹子の心を暴けば、光釘高校の美術部に入った理由として、「あの子は普通に生活しているけど、本当はすごいひとなんだよね」という賛辞がほしいという目論みもあったのだ。他人がそう思ってくれれば、自分はある意味「特別な存在」になれる。おそらく、心のどこかで、「平凡」というものを見下していた。彼女にとって、「平凡」という言葉は、自分が身にまとえば、「特別」に引きあげてくれる道具と考えていたところがあったのだ。

 しかし、光高の美術部では、目論みとは逆の結果が待っていた。虹子のプロフィールは、「過去は輝いていたのに、いまは落ちぶれたひと」となり、「平凡」など通り越していた。道具が使えないと分かったいま、やはり自分は「平凡」など似合わない人間なのだと虹子は思い直した。

 部員のほかに、顧問の教師に対しても、虹子は腹を立てた。
 顧問も虹子の過去を知った途端、部活に出てくる回数が増え、やたらと虹子にだけ厳しくあたるようになっていたのだ。
 顧問の態度は、もと有名人の虹子に対して上から目線の批評やアドバイスをすることで、快感を得ているように見えた。
 ここはこうしたほうがいい、これはおかしい、などと言われるたび、虹子は「あたしを誰だと思っているんだ」という言葉をのみ込んでいた。

 そのストレスが重なり、ある日、虹子は小さな事件を起こす。

 いつものように、顧問がアドバイスをしてきたとき、虹子はすっと立ちあがり、「あなたの作品を見せて下さい。あなたに、あたしにとやかく言えるほどの実力や実績があるのか、あたしが見てあげます」と言い放ったのだ。

 美術室は凍りついた。
 そのひとことで、美術部の誰もが「過去の栄光を引きずるカンチガイ女」というレッテルを虹子に張った。

 そして、虹子にあるあだ名がついたのも、このころだ。

 そのあだ名は、「ニジゲン」といった。

 ニジゲンの「ニジ」、は、虹子の名前に使われている「虹」という漢字を訓読みしたものである。「ゲン」は、還俗の「ゲン」から取ったらしい。本来の「還俗」の意味そのものではなく、この場合、ただ「立場が変わったひと」という意味合いで使用しているという。日常生活ではあまり使用しない、難しい言葉を使うことを自分の個性としている、とある部員が考えたものだ。しかし、あだ名が部員内に広がる過程で、名づけられた経緯を知らず、「虹子、現実見えてない」を悪口用にアレンジしたものだと思って「ニジゲン」と呼んでいるものも多かった。
 
 はじめは仲間内で陰口を言うときのための隠語であり、生意気な虹子をバカにした、笑いを含んだものだった。だが、徐々に女子部員の一部が、わざと虹子に聞こえるように「ニジゲンうざくない?」などと言い始め、こちらを見て笑っていたので、自分に変なあだ名がついていることは虹子本人も知っていた。
 
 部活内での人間関係は最悪、絵を描くのも楽しいと思えない。
 虹子はいい加減バカらしくなり、入部してまだ一か月半ながら、そろそろ美術部をやめようと考えた。
 
 それなのに、そのタイミングで、またしても虹子にとって不測の事態が起きてしまう。

「槻南さんって、すごく有名な画家なんだよね。こんなつまんない部活、有名人にはふさわしくないって。さっさとやめればいいのに」

 部活の帰り際、同級生であるボブヘアの女子部員が、虹子の耳に届くような大声でそう話していたのを聞いたのだ。
 言うだけ言って、逃げるように部室をあとにするボブヘアの女子部員のうしろ姿を見ながら、虹子の脳裏には、「留学しろ」と言った父の顔が浮かんできた。

 ふざけるな。なんでこのあたしが、おまえなんかに指図されなきゃいけないんだ。

 虹子は心で叫びながら、絶対に部活はやめないと決めた。
 もともとやめようと思っていたのにもかかわらず、「いまやめたら逃げたことになる」という思いにかられ、虹子のプライドがそうさせたのだ。

 父も、顧問も、美術部のやつらも、みんな見返してやる。

 激しく燃えあがった情念は、虹子の頭を怒りと美術への執着でいっぱいにした。
 そんな虹子の現状とは裏腹に、美術部員のなかでは「槻南はきっと、部をやめる」という噂がたっていた。

 ある日の部活終わり、虹子が帰ったあと、永野という男子部員がため息交じりに首を横に振る。

「槻南がやめたら、うちの部活はゴミ箱だな。ブスとデブしかいねー」

 目さきの、軽い内輪ウケを狙った、浅はかな発言だった。
 男子部員はみな笑っていたが、それを聞いていた女子部員たちが怒り狂ったのは言うまでもない。

 彼女たちは顧問にその出来事を話し、翌日、永野は全部員の前で女子生徒たちに謝罪をさせられた。
 これで事態は収束に向かうと思われたのだが、思わぬ方向へと飛び火する。
 部員同士がもめているというのに、われ関せずとばかりに平然としている虹子に、女子部員たちの憎悪の矛先が向けられたのだ。

 女子部員たちはもともと、傲慢で奔放、そして外見のよさだけで男子にもてる虹子を毛嫌いしていたものばかりである。
「槻南虹子を懲らしめたい」という目的を共有し、団結するのは簡単なことだった。

 ほどなくして、「槻南虹子は、男子美術部員全員と関係がある」という、ありもしない噂が流れ始める。
 不名誉な噂は校内を駆け巡り、立場の悪くなった男子部員たちは、ひとりを除いてみんなすぐに美術部を去った。

 一方、虹子はやめなかった。

 好きでもない男たちと、ましてやあんなバカなやつらと噂になるのは、処女の虹子には耐え難い屈辱だったに違いない。

 それでも、美術部はやめなかった。
 別に、光高で美術を学ぶことにこだわりはない。やめるのは、たやすい。むしろ、やめたい。
 でも、やめたら、逃げたとみなされる。
 あいつらの思いどおりになんて、なってたまるか。

 そこにあったのは、他人に屈したくないというプライドだけだった。
 美術部をやめ、大人しくしていれば、女子美術部員たちとは距離ができ、多少は楽になれたかもしれない。

 だが、槻南虹子という人物は、プライドの塊だ。
 幼いころから「天才」ともてはやされ、無敵だった彼女には、防御というスキルが欠けていた。
 しかも悪いことに、両親が離婚した際に彼女は「絶対に人前では弱音ははかず、涙も見せない」と心に誓ってしまった。このことが、さらに彼女を追い込むことになるのにも関わらず。

 学校中の女子からは最低の女だと軽蔑され、男子からは時折、下品な言葉を浴びせられ、誘われる。どこからか、自分の悪口がネット上に書き込まれているという噂も聞いた。他人の前では気にしないふり、というスタンスを貫いてはいたが、虹子の心には確実に傷が増えていった。

 学校にも、家にも、居場所はない。
 相談できる相手もいない。するつもりも、ない。
 ネット上では、自分の悪口が全世界に向け発信されている。

 この世に、逃げ場はないように思えた。
 それでも、ひとりで、平然と、いじめに耐える。

 いくら気の強い虹子でも、そんな毎日を生き抜くことは困難を極めた。
 孤独に意地を張り続けるうち、気力はすり減っていく。

 昔のように、思うように絵も描けない。
 心のよりどころなんて、なにもない。

 学校から帰ると、毎日涙が頬を伝った。
 でも、泣いてもなにも状況は変わらない。
 現実は悪化するばかりで、立て直すこともできずに心が押しつぶされていく。

 やがて、限界、というものが彼女にも訪れた。

 いつしか、「自分が生きていくことに、なんの意味があるのだろうか」という、漠然とした暗闇に侵されはじめる。
 そこにプライドが加わり、「誰もが驚く作品を生み出し、美術部のあいつらを見返して、そのあとパッと死んでやる」そういう答えに辿り着く。

 もはや、それだけが虹子の生きるモチベーションであった。
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