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第四章
こんなはずでは(5)
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ルチカは息をのむ。
うつむき、ベッドの上に小さく座っているウラハの姿が、子供の人形のように見える。
感情を打ち明けられることを望んで問いかけたはずが、いざ打ち明けられると言葉が出てこない。
目の前にいる少女は、大声を出しただけでも壊れてしまいそうなほど幼気だ。
なんでですか?
いつもなら、すぐにそう聞くことができただろう。しかし、いつもと違うウラハの姿を目のあたりにし、ルチカは自ずと身動きがとれなくなってしまった。
「……わけないでしょ」
今度は、低い声だった。
ウラハは勢いよく顔をあげ、ルチカから枕をひったくると、掛布団の下に隠した。すかさず、口を開く。
「誰にも打ち明けたことなんてなかったのに、あんたにはわかっちゃうのね……とでも言ってほしかったの? ただ感受性が強いだけのくせに、調子に乗るな! これは、絵の具よ。あたしが染めたの」
あごをあげ、眉と目をつりあげ、ルチカをにらみつけながら、乱暴にベッドを叩く。
いつものウラハだ。
ルチカはさきほどとのギャップに戸惑いながらも、心の隅でどこかほっとした気分になった。そのうえで、ウラハの言葉に眉をひそめる。
「……絵の具には見えなかったです」
「絵の具よ。あたしにも青く見えてるわ」
「いえ、あの色は涙の色です」
ゆっくりと首を横にふりながらも、ルチカはウラハから目をそらさずに言い切った。
「前にもちょっと言いましたけど、涙は乾くときらきらして見えるんです。ウラハさんの枕についた青も、きらきらしてました。絵の具じゃそんなふうにきらきらしたりしないですよね? それに僕、青い涙はこれまで何度も見てきました。服の袖とか、ハンカチとか、僕の枕も……とにかく、何度も見てきた色なので、絶対間違いないです」
ルチカは、これまでさみしい思いをして生きてきた。友人がいないさみしさで、子供のころはよく泣いた。幾度となく自分につきまとってきた青い色を、この目が覚えている。
「違うって言ってるでしょ! あたしが嘘ついてるって、疑ってるわけ?」
「疑うとか疑わないとか、そんな話じゃないです。僕は目に見た事実を話しているだけですから」
事情が事情だけに、例えウラハが相手でも譲れない。ルチカは瞬きもせずに、強い視線をウラハに向け続ける。
そんなルチカに挑むように、ウラハがとがった視線を投げ返してきた。
「……なによ、むきになって。枕にかこつけて押し倒そうとしたけど失敗したから、誤魔化そうとしてるわけ?」
「ご、誤魔化すなんて、そんな……! 僕は、枕の涙のあとが見過ごせなかっただけです」
「実際あたしの上に乗ってきたくせに、あくまでも認めないつもり? じゃあ聞くけど、あんたはこれまでちょっとでもあたしを変な目で見たことないって言える? この部屋に来てから、一瞬も、一秒も、いやらしい目で見てませんって言えるの?」
ルチカは固まった。
なんせ、ついさっき、邪なことを考えてしまったばかりなのだ。
ウラハの指に触れられたいと、はっきりと思った。
言い返すことなどできない。
「……ほら、言えないじゃない!! なんなの、助手のくせに気持ち悪い!」
「ま、待ってください!! 確かに、僕はウラハさんを女の子として意識してます。でも、ウラハさんは僕の特別なひとなんです。そんなひとを傷つけるようなことは、したくないです!」
ルチカは呼吸を荒げた。それは、両手を動かし、必死に自分の思いを訴えているからという理由だけではない。
ルチカのなかで、もはやウラハの存在は絶対的である。
その絶対的なひとから疑いの目を向けられていることに、焦っているのだ。心なしか、全身が汗ばんでいるように思えて、右手で額を拭うような仕草をした。
ウラハは、ルチカから目をそらした。
「……薄っぺらい綺麗ごとね。じゃあ、あたしが入学式の日に泣いてた理由を教えてもらえる権利と、あたしのからだを好きなようにできる権利、ひとつだけもらえるとしたらどっちが欲しいって聞かれたら、あんたどうするの?」
「……え?」
唐突な二択に、ルチカは唖然とする。
白い涙の理由と、少女の肉体。
どうしてそのふたつを、並べて、選ばなければならないのか。意味がわからず、思考が止まってしまった。
「どうせ、セックスするくせに」
小さく、吐き捨てるようなウラハの冷めた声に、ルチカは我にかえる。
ウラハは自分の話を信じてくれたひとだ。
それは揺るぎなくルチカの心を満たしていた。
出会って以来、彼女のルチカに対しての発言は、乱暴ながらも筋の通ったものが多かった。
それがルチカにとって心強いものであり、彼女への信頼を深めていった。
ウラハに惹かれていく要因のひとつでもあったのだ。
だがいまの言葉は、あまりにもルチカの感情を軽視している。
自分の性質も、ウラハへの想いも、「どうせ、その程度のものだろう」とバカにされたような気がした。
ウラハらしくないウラハの言葉に、ルチカは動揺を隠せず詰めよった。
「……ウラハさん、僕を信じてくれないんですか? 誰も信じてくれない僕の涙の色の話を信じてくれたのに、こんなことでは僕を疑うんですか?」
すがるような瞳で、ウラハを見おろす。ルチカは自分のシャツの胸をつかんだ。怒りとも悲しみとも決めかねる感情が、じりじりと心を燃やしていくように熱い。
「……あんたって、本当にそればっかりね。あたしはあんたを信じるために生きてるんじゃないわ。あんたはあたしを特別っていつも言うけど、ほんとは自分に都合のいいときだけ引っ張り出して、あたしを利用したいだけなんじゃないの? 自分を証明できるから、あたしが必要なだけじゃないの?」
ウラハはルチカに一瞥もくれず、どこともつかない床の一点を見つめながら一息で言った。
「ど……どういう意味ですか? 僕はウラハさんに出会えたことが嬉しくて、もっと仲良くなりたいって、そう思っているだけです」
「じゃあっ……」
言いかけたももの、ウラハはためらうように息を止める。
肩をさげ、静かにゆっくりと一呼吸すると、表情をいっそう固くした。
「……じゃあ、あたしが、本当はあんたの話を信じてないって言ったらどうするの?」
「……え?」
「あたしが本当はあんたの話を信じてなかったら……あんたが欲しかった特別な人間じゃなかったら、あんたは、もうあたしを必要だとは思わないんでしょ?」
ウラハはベッドに座ったまま、床を見ている。無表情だ。
嫌な予感、というのだろうか。ルチカは急にからだが重くなったような感覚がして、息を詰まらせた。
「な……なんで、そ、そんなこと言うんですか……? だって、ウラハさんは僕の話……信じてくれたじゃないですか」
首筋に、鼓動を感じる。ふいに、どこからか、いままで気づきもしなかった時計の秒針の音が聞こえてきた。針が時を刻む音を、ルチカの鼓動が追い越していく。
長い沈黙がふたりを覆う。
ルチカは動けなかった。ウラハも動かなかったが、やがてわずかに目を細め、口を開いた。
「はじめは自分でもそう思ってた。でも……本当は、信じようとしたけどできなくて、信じたフリをしてただけだったんだと思う」
総毛立ち、ルチカは思い切り息を吸い込んだ。
「なっ……な、なんでそんなことっ……」
「……わからない」
ルチカは言葉をなくし、呆然となった。
ウラハを見据えていた目の焦点が、徐々にぼやけていく。
輪郭がにじみ、背景に溶け、彼女を見失う。ルチカの視界は、部屋中に溢れる様々な色と影とのコントラストだけをとらえていた。
「……帰って」
かすれた声でつぶやくようにそう言うと、ウラハはようやく顔をルチカのほうへと向けた。微動だにしないルチカを見て、眉を寄せて立ちあがる。
「帰って!」
ウラハはドアを開け、ルチカを押し出すように無理やり部屋から追い出した。
しめ出され、ドアが閉まる。それでも、ルチカは動けないでいた。
信じようとしたけどできなくて。
ウラハの言葉が頭のなかをぐるぐるとまわり、めまいに襲われる。
うしろに倒れるように、軽くよろけた。そのまま無意識に向きを変え、よろよろと足を進める。
まさか。
ウラハさんが本当は僕を信じていなかった、なんて。
彼女に出会えたときの感動は、激情は、一体なんだったんだろう。
一緒に過ごしたあの大切な時間たちは、一体なんだったんだろう。
彼女に焦がれた僕の思いは、なんだったんだろう。
どうして、こんなことに……。
彼女にもわからないことが、僕にわかるわけがない。
どうして、こんなことになったんだろう。
ここにきてふたりで絵を描いているときは、あんなに穏やかだったのに。
彼女と、心が通じ合えた気すらした。
確実に、仲良くなりはじめていると思った。
でも、それは間違いだったのか。
あんなに楽しかったのに。
彼女は、自分は僕の特別なひとじゃないと言った。
それじゃあ、やっぱり僕には特別なひとなんていないのか。
あんなに嬉しかったのに、どうしてこんなことに?
どうして?
どうして――
ごん、という鈍い音がした。
足が止まる。視界が茶色い。どうやら木にぶつかったらしい。ルチカは崩れ落ちるように、その場にしゃがみ込んだ。
後方から、ドアの開く音が聞こえた。
「……助手!」
これまで何度も聞いた愛着のある声に、ルチカは反射的に振り向く。家のほうから、ウラハが真っ直ぐに、つかつかとこちらへ歩いてきている姿が見えた。
ウラハはルチカの目の前で立ち止まると、しゃがみ込んだ。気の強い眼差しで、ルチカを見据える。
「動くなよ」
言われなくても、いまのルチカに動く気力などない。ウラハは固まったままのルチカの右肩に手をかけ、顔を近づける。
自分の唇が、わずかにルチカの唇に触れた瞬間、一度ためらってあごをひいた。すぐに、押しつけるように唇を重ねる。
数秒ほどして離れると、小さく息を吐き、ウラハは立ちあがった。
「……さっさと帰って」
そう言うと、小走りで自室に駆け込んだ。勢いよくドアが閉まる。
ルチカは再びめまいがして、樹にもたれかかった。
ウラハの唇が、自分の唇と合わさったことはわかっている。
柔らかな感触も、まだ残っている。
しかし、頭がジンジンと痺れるばかりで、なにも考えられない。
ルチカはしばらく、その場から動くことができなかった。
うつむき、ベッドの上に小さく座っているウラハの姿が、子供の人形のように見える。
感情を打ち明けられることを望んで問いかけたはずが、いざ打ち明けられると言葉が出てこない。
目の前にいる少女は、大声を出しただけでも壊れてしまいそうなほど幼気だ。
なんでですか?
いつもなら、すぐにそう聞くことができただろう。しかし、いつもと違うウラハの姿を目のあたりにし、ルチカは自ずと身動きがとれなくなってしまった。
「……わけないでしょ」
今度は、低い声だった。
ウラハは勢いよく顔をあげ、ルチカから枕をひったくると、掛布団の下に隠した。すかさず、口を開く。
「誰にも打ち明けたことなんてなかったのに、あんたにはわかっちゃうのね……とでも言ってほしかったの? ただ感受性が強いだけのくせに、調子に乗るな! これは、絵の具よ。あたしが染めたの」
あごをあげ、眉と目をつりあげ、ルチカをにらみつけながら、乱暴にベッドを叩く。
いつものウラハだ。
ルチカはさきほどとのギャップに戸惑いながらも、心の隅でどこかほっとした気分になった。そのうえで、ウラハの言葉に眉をひそめる。
「……絵の具には見えなかったです」
「絵の具よ。あたしにも青く見えてるわ」
「いえ、あの色は涙の色です」
ゆっくりと首を横にふりながらも、ルチカはウラハから目をそらさずに言い切った。
「前にもちょっと言いましたけど、涙は乾くときらきらして見えるんです。ウラハさんの枕についた青も、きらきらしてました。絵の具じゃそんなふうにきらきらしたりしないですよね? それに僕、青い涙はこれまで何度も見てきました。服の袖とか、ハンカチとか、僕の枕も……とにかく、何度も見てきた色なので、絶対間違いないです」
ルチカは、これまでさみしい思いをして生きてきた。友人がいないさみしさで、子供のころはよく泣いた。幾度となく自分につきまとってきた青い色を、この目が覚えている。
「違うって言ってるでしょ! あたしが嘘ついてるって、疑ってるわけ?」
「疑うとか疑わないとか、そんな話じゃないです。僕は目に見た事実を話しているだけですから」
事情が事情だけに、例えウラハが相手でも譲れない。ルチカは瞬きもせずに、強い視線をウラハに向け続ける。
そんなルチカに挑むように、ウラハがとがった視線を投げ返してきた。
「……なによ、むきになって。枕にかこつけて押し倒そうとしたけど失敗したから、誤魔化そうとしてるわけ?」
「ご、誤魔化すなんて、そんな……! 僕は、枕の涙のあとが見過ごせなかっただけです」
「実際あたしの上に乗ってきたくせに、あくまでも認めないつもり? じゃあ聞くけど、あんたはこれまでちょっとでもあたしを変な目で見たことないって言える? この部屋に来てから、一瞬も、一秒も、いやらしい目で見てませんって言えるの?」
ルチカは固まった。
なんせ、ついさっき、邪なことを考えてしまったばかりなのだ。
ウラハの指に触れられたいと、はっきりと思った。
言い返すことなどできない。
「……ほら、言えないじゃない!! なんなの、助手のくせに気持ち悪い!」
「ま、待ってください!! 確かに、僕はウラハさんを女の子として意識してます。でも、ウラハさんは僕の特別なひとなんです。そんなひとを傷つけるようなことは、したくないです!」
ルチカは呼吸を荒げた。それは、両手を動かし、必死に自分の思いを訴えているからという理由だけではない。
ルチカのなかで、もはやウラハの存在は絶対的である。
その絶対的なひとから疑いの目を向けられていることに、焦っているのだ。心なしか、全身が汗ばんでいるように思えて、右手で額を拭うような仕草をした。
ウラハは、ルチカから目をそらした。
「……薄っぺらい綺麗ごとね。じゃあ、あたしが入学式の日に泣いてた理由を教えてもらえる権利と、あたしのからだを好きなようにできる権利、ひとつだけもらえるとしたらどっちが欲しいって聞かれたら、あんたどうするの?」
「……え?」
唐突な二択に、ルチカは唖然とする。
白い涙の理由と、少女の肉体。
どうしてそのふたつを、並べて、選ばなければならないのか。意味がわからず、思考が止まってしまった。
「どうせ、セックスするくせに」
小さく、吐き捨てるようなウラハの冷めた声に、ルチカは我にかえる。
ウラハは自分の話を信じてくれたひとだ。
それは揺るぎなくルチカの心を満たしていた。
出会って以来、彼女のルチカに対しての発言は、乱暴ながらも筋の通ったものが多かった。
それがルチカにとって心強いものであり、彼女への信頼を深めていった。
ウラハに惹かれていく要因のひとつでもあったのだ。
だがいまの言葉は、あまりにもルチカの感情を軽視している。
自分の性質も、ウラハへの想いも、「どうせ、その程度のものだろう」とバカにされたような気がした。
ウラハらしくないウラハの言葉に、ルチカは動揺を隠せず詰めよった。
「……ウラハさん、僕を信じてくれないんですか? 誰も信じてくれない僕の涙の色の話を信じてくれたのに、こんなことでは僕を疑うんですか?」
すがるような瞳で、ウラハを見おろす。ルチカは自分のシャツの胸をつかんだ。怒りとも悲しみとも決めかねる感情が、じりじりと心を燃やしていくように熱い。
「……あんたって、本当にそればっかりね。あたしはあんたを信じるために生きてるんじゃないわ。あんたはあたしを特別っていつも言うけど、ほんとは自分に都合のいいときだけ引っ張り出して、あたしを利用したいだけなんじゃないの? 自分を証明できるから、あたしが必要なだけじゃないの?」
ウラハはルチカに一瞥もくれず、どこともつかない床の一点を見つめながら一息で言った。
「ど……どういう意味ですか? 僕はウラハさんに出会えたことが嬉しくて、もっと仲良くなりたいって、そう思っているだけです」
「じゃあっ……」
言いかけたももの、ウラハはためらうように息を止める。
肩をさげ、静かにゆっくりと一呼吸すると、表情をいっそう固くした。
「……じゃあ、あたしが、本当はあんたの話を信じてないって言ったらどうするの?」
「……え?」
「あたしが本当はあんたの話を信じてなかったら……あんたが欲しかった特別な人間じゃなかったら、あんたは、もうあたしを必要だとは思わないんでしょ?」
ウラハはベッドに座ったまま、床を見ている。無表情だ。
嫌な予感、というのだろうか。ルチカは急にからだが重くなったような感覚がして、息を詰まらせた。
「な……なんで、そ、そんなこと言うんですか……? だって、ウラハさんは僕の話……信じてくれたじゃないですか」
首筋に、鼓動を感じる。ふいに、どこからか、いままで気づきもしなかった時計の秒針の音が聞こえてきた。針が時を刻む音を、ルチカの鼓動が追い越していく。
長い沈黙がふたりを覆う。
ルチカは動けなかった。ウラハも動かなかったが、やがてわずかに目を細め、口を開いた。
「はじめは自分でもそう思ってた。でも……本当は、信じようとしたけどできなくて、信じたフリをしてただけだったんだと思う」
総毛立ち、ルチカは思い切り息を吸い込んだ。
「なっ……な、なんでそんなことっ……」
「……わからない」
ルチカは言葉をなくし、呆然となった。
ウラハを見据えていた目の焦点が、徐々にぼやけていく。
輪郭がにじみ、背景に溶け、彼女を見失う。ルチカの視界は、部屋中に溢れる様々な色と影とのコントラストだけをとらえていた。
「……帰って」
かすれた声でつぶやくようにそう言うと、ウラハはようやく顔をルチカのほうへと向けた。微動だにしないルチカを見て、眉を寄せて立ちあがる。
「帰って!」
ウラハはドアを開け、ルチカを押し出すように無理やり部屋から追い出した。
しめ出され、ドアが閉まる。それでも、ルチカは動けないでいた。
信じようとしたけどできなくて。
ウラハの言葉が頭のなかをぐるぐるとまわり、めまいに襲われる。
うしろに倒れるように、軽くよろけた。そのまま無意識に向きを変え、よろよろと足を進める。
まさか。
ウラハさんが本当は僕を信じていなかった、なんて。
彼女に出会えたときの感動は、激情は、一体なんだったんだろう。
一緒に過ごしたあの大切な時間たちは、一体なんだったんだろう。
彼女に焦がれた僕の思いは、なんだったんだろう。
どうして、こんなことに……。
彼女にもわからないことが、僕にわかるわけがない。
どうして、こんなことになったんだろう。
ここにきてふたりで絵を描いているときは、あんなに穏やかだったのに。
彼女と、心が通じ合えた気すらした。
確実に、仲良くなりはじめていると思った。
でも、それは間違いだったのか。
あんなに楽しかったのに。
彼女は、自分は僕の特別なひとじゃないと言った。
それじゃあ、やっぱり僕には特別なひとなんていないのか。
あんなに嬉しかったのに、どうしてこんなことに?
どうして?
どうして――
ごん、という鈍い音がした。
足が止まる。視界が茶色い。どうやら木にぶつかったらしい。ルチカは崩れ落ちるように、その場にしゃがみ込んだ。
後方から、ドアの開く音が聞こえた。
「……助手!」
これまで何度も聞いた愛着のある声に、ルチカは反射的に振り向く。家のほうから、ウラハが真っ直ぐに、つかつかとこちらへ歩いてきている姿が見えた。
ウラハはルチカの目の前で立ち止まると、しゃがみ込んだ。気の強い眼差しで、ルチカを見据える。
「動くなよ」
言われなくても、いまのルチカに動く気力などない。ウラハは固まったままのルチカの右肩に手をかけ、顔を近づける。
自分の唇が、わずかにルチカの唇に触れた瞬間、一度ためらってあごをひいた。すぐに、押しつけるように唇を重ねる。
数秒ほどして離れると、小さく息を吐き、ウラハは立ちあがった。
「……さっさと帰って」
そう言うと、小走りで自室に駆け込んだ。勢いよくドアが閉まる。
ルチカは再びめまいがして、樹にもたれかかった。
ウラハの唇が、自分の唇と合わさったことはわかっている。
柔らかな感触も、まだ残っている。
しかし、頭がジンジンと痺れるばかりで、なにも考えられない。
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