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第四章
こんなはずでは(4)
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ルチカをにらむ目は、あの日、美術室で見たものに近い。
「……そんな話、あんたには関係ないでしょ。助手ルール違反よ。あんたはどうして今日ここにいるか、わかってるの?」
「……じょ、助手として、ウラハさんの遺作を手伝うためです」
「だったら、助手らしくしなさい。今度余計なこと言ったら、助手やめさせるから」
「い、嫌です。すみません……」
ルチカはうつむいて、小さくなった。ウラハは天井に目を向けると、苛立ちを見せつけるように、大げさなため息を吐く。ゆっくりとした動作で腰に手をやると、ふたたび視線をルチカにもどした。
「……じゃあ、脱いで」
「……え?」
唐突な話題の転換に、ルチカは顔を跳ねあげる。
「脱げって言ってんの。遺作、あんたの裸の像、作ることにしたから」
「え……ええっ?!」
ルチカは動揺しつつ、自分のからだを見まわしてみる。
「ぼ……僕の裸を? な、なんでそんなものを……」
「いま、思いついたの。超リアルな彫刻作るのもいいかなと思って」
リアルな、男の、裸体の像。
ルチカの頭には、その類ではおそらく世界で一番有名だと思われる全裸の男性が浮かんだ。筋骨隆々で均整のとれた、男らしく立派なからだ。イタリア在住で、日本の教科書にも掲載される彼だ。
「ダ……ダビデ像ですか。僕、ダビデ像みたいになるってことですよね?」
「ダビデ……?」
ウラハの片眉が、ピクリと動く。
「あのう、僕、あんなに見栄えのいいからだじゃないですけど、いいんですか? 見たひとが驚いてくれなさそうな気がします……」
申し訳なさそうに、ルチカの手が自分の薄い胸板をさする。ウラハはそっぽを向いて、舌を鳴らした。
「……ばか! あたしが、現存する実在の男の局部を精巧に作ることに価値があるんじゃない」
「は、はあ……そういうものなんですか」
ルチカは腕を組み、考える。
僕がモデルで、ウラハさんが作る。
そういうのも、共同作業ってことになるのかな? もしなるのなら、さっき一緒に絵を描いたときみたいに、僕とウラハさんの間に楽しい時間がまた訪れるかもしれない。もう一度、ウラハさんと笑い合いたい。あの柔らかな笑顔を、もっと僕に見せてほしい。
「……わかりました。遺作の役に立てるなら、僕、脱ぎます」
ルチカは躊躇いなく、シャツのボタンに手をかける。
「ぬ、脱ぐな、変態!! もういい、やめろ!」
ウラハは歪んだ顔で、床に転がっていたなにかしらのリモコンを拾いあげ、ルチカに投げつけた。頬をふくらませて部屋を横断すると、ベッドに仰向けで身を投げる。
「やる気そがれた。今日はもう中止」
「えっ……そんな……」
身をよじり、ウラハは背を向けた。動いたせいでにワンピースの裾がめくれあがり、太腿が露わになる。
乱れた髪。すらりと伸びる脚。白い素肌。
無防備に横たわる少女の姿に、ルチカは思わず喉を鳴らす。
しかし、ふとある色が目に入り、その瞬間、下心は消え去った。
掛布団とウラハの頭に隠れ、半分ほど見えている枕が、青く染まっている。
長方形の枕にかけられた白い枕カバーに、模様にしては不自然な青い染みが広がっているのだ。
ルチカは導かれるようにベッドに歩みより、枕をのぞき込んだ。
気配を感じたのか、ウラハの顔がぱっとこちらに向く。
「……な……なによ」
ウラハは怪訝そうな顔で、上半身を起こした。そのからだで、枕が隠れる。
ルチカは枕を見ようと、首をかたむけて身を乗り出した。
「ちょっ……やだ、なに?!」
座ったまま後ずさろうと、ウラハは肘をうしろに引いた。その肘に押され、枕がベッドと壁の隙間にずり落ちそうになる。それを受け止めようと、ルチカはベッドに片膝をついて、手を伸ばした。
枕をキャッチし、素早く持ちあげて確認すると、やはり青く染まっている。しかも、きらきらと光を放って見える。
あ、やっぱり涙のあとだ。
そう思った瞬間、下から突き上げるような衝撃を受けた。
「……ぃやっ……!!」
ウラハの両腕が、迫ってくるルチカのからだを止めようと、彼の胸を押した衝撃だった。
しかし、ウラハの思惑とは裏腹に、押されたことでルチカはバランスを崩し、ウラハに覆いかぶさるように、ベッドに倒れ込んだ。
ベッドのスプリングが大きく弾み、その余韻でからだが上下に揺れる。ふわりと、甘い香りがルチカの鼻腔に広がった。目には栗色が映っている。それがウラハの髪だと自覚すると同時に、からだの前面が柔らかな感触に襲われた。ふたりのからだの大部分は重なり、密着している。
そっと横目で髪の流れをたどると、自分の顔のすぐ横にウラハの顔があることに気がついた。
頬が触れあうほど至近距離で、目と目が合う。
見つめあったまま、ふたりは一瞬黙った。ウラハの眉間に、わずかにしわがよる。
ルチカははっとして、慌てて飛び退いた。
「すっ……すみません!! 大丈夫ですか?」
ルチカはうしろ向きでベッドから降り、そのまま一歩、二歩後ずさった。足もとになにかがぶつかり、よろめく。
ウラハはゆっくりからだを起こし、乱れた髪を一度かきあげると、うつむき加減でドアに視線を投げた。
「……変態」
「……ち、違います! 僕はただっ……」
言いかけて、両手で自分の口をふさぐ。
「……なによ」
「あの……たぶん遺作に関係のないことですけど、言ってもいいですか?」
まごつくルチカを見ようともせず、ウラハは背けたままの顔をしかめる。
「……なにを? いいわけするつもり? 言えるものなら言ってみなさいよ」
「い、いえ。いいわけというか、その……その、ウラハさんの枕が、青かったから気になって……」
「……え……?」
ウラハは顔をあげた。
「……ウラハさん、さみしいんですか?」
気がつくと、ルチカはそう言っていた。
ウラハが、目を見開く。
「なにか、あったんですか……?」
ルチカの問いかけには答えず、ウラハは視線を落とし、黙り込んだ。
さみしくて、流れた涙。
それはルチカの目には、青い涙に映る。
悲しい。
悔しい。
不安。
痛い。
様々な思いを持って泣く夜は、誰にだってあるだろう。
ウラハだって、泣くことはある。
はじめて会ったときは、白い涙を流したあとがあった。
あのときの涙の理由はまだわからないが、今回は理由がはっきりしている。
ウラハは、さみしくて泣いたのだ。
以前ウラハが言ったように、涙を流すときの感情は、複雑に混ざり合っていることが多い。
しかし、ウラハの枕は真っ青に染まっている。
ただたださみしくて、ウラハが泣いたという証拠だ。
どうして、さみしいのだろう。
ルチカがいま、なんとなく思いあたることといえば、家族関係のことだろうか。ウラハは庭の隅に建つこの離れを、自分の家だと言った。母屋があるのに、わざわざここに住んでいるということは、きっとなにか理由があってのことだと思う。
しかし、あくまでもそれは憶測にすぎない。もしかしたら、原因は友人関係かもしれないし、恋愛かもしれないし、もっと別の理由かもしれない。
ルチカは改めて、自分といないときのウラハのことなど、ほとんど知らないことに気がつく。自分の知らないウラハが、枕を青く染めたのだと思うと、少し嫉妬心を感じた。
ふたりに静寂が訪れてから、もうずいぶん時間が経ったように思える。
ウラハは無表情で、じっと枕を見つめたままだ。
ルチカも微動だにせず、棒立ちで答えを待っていた。
やがて、ウラハの細い指さきが枕に食い込み、枕はそのかたちを歪める。
「……さみしい」
かすれるような小さな声で、ウラハがつぶやいた。
「……そんな話、あんたには関係ないでしょ。助手ルール違反よ。あんたはどうして今日ここにいるか、わかってるの?」
「……じょ、助手として、ウラハさんの遺作を手伝うためです」
「だったら、助手らしくしなさい。今度余計なこと言ったら、助手やめさせるから」
「い、嫌です。すみません……」
ルチカはうつむいて、小さくなった。ウラハは天井に目を向けると、苛立ちを見せつけるように、大げさなため息を吐く。ゆっくりとした動作で腰に手をやると、ふたたび視線をルチカにもどした。
「……じゃあ、脱いで」
「……え?」
唐突な話題の転換に、ルチカは顔を跳ねあげる。
「脱げって言ってんの。遺作、あんたの裸の像、作ることにしたから」
「え……ええっ?!」
ルチカは動揺しつつ、自分のからだを見まわしてみる。
「ぼ……僕の裸を? な、なんでそんなものを……」
「いま、思いついたの。超リアルな彫刻作るのもいいかなと思って」
リアルな、男の、裸体の像。
ルチカの頭には、その類ではおそらく世界で一番有名だと思われる全裸の男性が浮かんだ。筋骨隆々で均整のとれた、男らしく立派なからだ。イタリア在住で、日本の教科書にも掲載される彼だ。
「ダ……ダビデ像ですか。僕、ダビデ像みたいになるってことですよね?」
「ダビデ……?」
ウラハの片眉が、ピクリと動く。
「あのう、僕、あんなに見栄えのいいからだじゃないですけど、いいんですか? 見たひとが驚いてくれなさそうな気がします……」
申し訳なさそうに、ルチカの手が自分の薄い胸板をさする。ウラハはそっぽを向いて、舌を鳴らした。
「……ばか! あたしが、現存する実在の男の局部を精巧に作ることに価値があるんじゃない」
「は、はあ……そういうものなんですか」
ルチカは腕を組み、考える。
僕がモデルで、ウラハさんが作る。
そういうのも、共同作業ってことになるのかな? もしなるのなら、さっき一緒に絵を描いたときみたいに、僕とウラハさんの間に楽しい時間がまた訪れるかもしれない。もう一度、ウラハさんと笑い合いたい。あの柔らかな笑顔を、もっと僕に見せてほしい。
「……わかりました。遺作の役に立てるなら、僕、脱ぎます」
ルチカは躊躇いなく、シャツのボタンに手をかける。
「ぬ、脱ぐな、変態!! もういい、やめろ!」
ウラハは歪んだ顔で、床に転がっていたなにかしらのリモコンを拾いあげ、ルチカに投げつけた。頬をふくらませて部屋を横断すると、ベッドに仰向けで身を投げる。
「やる気そがれた。今日はもう中止」
「えっ……そんな……」
身をよじり、ウラハは背を向けた。動いたせいでにワンピースの裾がめくれあがり、太腿が露わになる。
乱れた髪。すらりと伸びる脚。白い素肌。
無防備に横たわる少女の姿に、ルチカは思わず喉を鳴らす。
しかし、ふとある色が目に入り、その瞬間、下心は消え去った。
掛布団とウラハの頭に隠れ、半分ほど見えている枕が、青く染まっている。
長方形の枕にかけられた白い枕カバーに、模様にしては不自然な青い染みが広がっているのだ。
ルチカは導かれるようにベッドに歩みより、枕をのぞき込んだ。
気配を感じたのか、ウラハの顔がぱっとこちらに向く。
「……な……なによ」
ウラハは怪訝そうな顔で、上半身を起こした。そのからだで、枕が隠れる。
ルチカは枕を見ようと、首をかたむけて身を乗り出した。
「ちょっ……やだ、なに?!」
座ったまま後ずさろうと、ウラハは肘をうしろに引いた。その肘に押され、枕がベッドと壁の隙間にずり落ちそうになる。それを受け止めようと、ルチカはベッドに片膝をついて、手を伸ばした。
枕をキャッチし、素早く持ちあげて確認すると、やはり青く染まっている。しかも、きらきらと光を放って見える。
あ、やっぱり涙のあとだ。
そう思った瞬間、下から突き上げるような衝撃を受けた。
「……ぃやっ……!!」
ウラハの両腕が、迫ってくるルチカのからだを止めようと、彼の胸を押した衝撃だった。
しかし、ウラハの思惑とは裏腹に、押されたことでルチカはバランスを崩し、ウラハに覆いかぶさるように、ベッドに倒れ込んだ。
ベッドのスプリングが大きく弾み、その余韻でからだが上下に揺れる。ふわりと、甘い香りがルチカの鼻腔に広がった。目には栗色が映っている。それがウラハの髪だと自覚すると同時に、からだの前面が柔らかな感触に襲われた。ふたりのからだの大部分は重なり、密着している。
そっと横目で髪の流れをたどると、自分の顔のすぐ横にウラハの顔があることに気がついた。
頬が触れあうほど至近距離で、目と目が合う。
見つめあったまま、ふたりは一瞬黙った。ウラハの眉間に、わずかにしわがよる。
ルチカははっとして、慌てて飛び退いた。
「すっ……すみません!! 大丈夫ですか?」
ルチカはうしろ向きでベッドから降り、そのまま一歩、二歩後ずさった。足もとになにかがぶつかり、よろめく。
ウラハはゆっくりからだを起こし、乱れた髪を一度かきあげると、うつむき加減でドアに視線を投げた。
「……変態」
「……ち、違います! 僕はただっ……」
言いかけて、両手で自分の口をふさぐ。
「……なによ」
「あの……たぶん遺作に関係のないことですけど、言ってもいいですか?」
まごつくルチカを見ようともせず、ウラハは背けたままの顔をしかめる。
「……なにを? いいわけするつもり? 言えるものなら言ってみなさいよ」
「い、いえ。いいわけというか、その……その、ウラハさんの枕が、青かったから気になって……」
「……え……?」
ウラハは顔をあげた。
「……ウラハさん、さみしいんですか?」
気がつくと、ルチカはそう言っていた。
ウラハが、目を見開く。
「なにか、あったんですか……?」
ルチカの問いかけには答えず、ウラハは視線を落とし、黙り込んだ。
さみしくて、流れた涙。
それはルチカの目には、青い涙に映る。
悲しい。
悔しい。
不安。
痛い。
様々な思いを持って泣く夜は、誰にだってあるだろう。
ウラハだって、泣くことはある。
はじめて会ったときは、白い涙を流したあとがあった。
あのときの涙の理由はまだわからないが、今回は理由がはっきりしている。
ウラハは、さみしくて泣いたのだ。
以前ウラハが言ったように、涙を流すときの感情は、複雑に混ざり合っていることが多い。
しかし、ウラハの枕は真っ青に染まっている。
ただたださみしくて、ウラハが泣いたという証拠だ。
どうして、さみしいのだろう。
ルチカがいま、なんとなく思いあたることといえば、家族関係のことだろうか。ウラハは庭の隅に建つこの離れを、自分の家だと言った。母屋があるのに、わざわざここに住んでいるということは、きっとなにか理由があってのことだと思う。
しかし、あくまでもそれは憶測にすぎない。もしかしたら、原因は友人関係かもしれないし、恋愛かもしれないし、もっと別の理由かもしれない。
ルチカは改めて、自分といないときのウラハのことなど、ほとんど知らないことに気がつく。自分の知らないウラハが、枕を青く染めたのだと思うと、少し嫉妬心を感じた。
ふたりに静寂が訪れてから、もうずいぶん時間が経ったように思える。
ウラハは無表情で、じっと枕を見つめたままだ。
ルチカも微動だにせず、棒立ちで答えを待っていた。
やがて、ウラハの細い指さきが枕に食い込み、枕はそのかたちを歪める。
「……さみしい」
かすれるような小さな声で、ウラハがつぶやいた。
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