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第三章
ミドリの日(3)
しおりを挟む放課後、ルチカはウサギの像の裏でウラハを待った。
今日からは美術部の部活動があるため、それが終わるまで待たなければならない。待っている間中ずっと、ルチカはウサギの裏に腰をおろして空を見ていた。水色の裾が、わずかに橙に侵食されはじめたころに、ウラハはあらわれた。季節外れの陽気のせいか、今日はブレザー姿ではなく、シャツにスカートというあっさりした格好だ。シャツの白さがまばゆい。
そしてもうひとつ、ウラハには、白い部分があった。なぜか、顔に白いペイントがされている。左右の目の下まぶたからあごにかけ、1センチ幅の真っ直ぐな線がかかれていた。
「ちゃんと待ってたわね、助手」
「はい」
ルチカは立ちあがり、行動を促す。しかしウラハは、腕を組んだまま、動こうとしない。
「……ねえ。なんか言うこと、ない?」
「え……?」
「あたしの顔を、よく見ろ」
ウラハに近づき、言われたとおり、じっと見た。
長い睫毛に縁取られた、丸く潤んだ瞳が、上目づかいで見つめかえしてくる。色白の肌でありながら、ほんのり薄紅色に染まった頬。すねるようにとがらせたピンクの唇は、ふっくらとして、みずみずしい果実のようだ。
「……なんか、言うことあるでしょ」
ウラハに見つめられ、言えることはひとつしかない。ルチカは頬を赤くした。
「……可愛いです」
「はっ……?」
大きな目をさらに大きく開き、ウラハも頬を真っ赤にする。一歩、後ずさり、バッグを両手で抱えて口もとを隠した。
「なっ……なに言ってんの、あんた! あたしは、いつもと違うとこがないかって聞いてんのよ、ふざけないでくれる?!」
「い、いえ、ふざけてませんけど……」
いつもと違うところ……? ルチカから見れば、ウラハが可愛いのはいつものことだ。いま一度、ウラハの顔に視線を這わせる。いつもと違うところ、違う……といえば……。
「……もしかして、その白い線のことですか……?」
「な……なによ、わかってるんじゃない! だったら、もっと早くリアクションしなさいよ。あんたの大好きな、白い涙のあとでしょ!」
ルチカは首をかしげた。
「……それ、涙のあとじゃないですよね。絵の具かなにかに見えますよ」
「……な、なによそれ。なんで言い切れるわけ?」
ウラハは腕を組み、あごをあげる。顔はまだ、赤みがさしている。
「え……だって、絵の具と涙は、違いますから。涙のあとはもっと透明感があるというか……なんというか、きれいなんです。絵の具がきれいじゃないっていうわけではないんですけど、涙はもっと肌に馴染むというか、境目がなく見えるというか、乾いたらキラキラして見えるというか……とにかく、きれいなんです」
「きれい……」
ルチカの下手な説明に言い返すこともなく、ウラハはしばらく黙った。
「……だとしても、なんか言えよ。顔に白い線があるんだぞ」
真顔で、ウラハが問う。ルチカも真顔で、答えた。
「ウラハさんが堂々としてるので、もしかしたらいま、女の子の間ではそういうのがはやってるのかなあ思って……」
「……本気で言ってんの? 天然ぶるのも、いいかげんにしろよ」
「す、すみません。変なこと言いましたか、僕」
「っ……! へ、変じゃない、センスがないだけだ! せっかく騙してやろうと思ったのに、つまんないやつ!」
ウラハはさらに顔を真っ赤にして、大股で歩き出した。
向かったさきは、河原である。
ふたりがはじめて出会った日、ルチカが飛び込んだ川の河原だ。ところどころ草の生えた土手のしたに、大小さまざまなサイズの石がたくさん転がっている。川の流れは、今日も穏やかだ。
「じゃあ、石、拾ってきて。大きくて、平らなやつ」
「石……? あの」
「いいから、さっさといけ!」
ルチカは土手の石段にバッグを置き、ブレザーを脱いだ。夕方とはいえ、まだ暖かい。動いていると、汗がにじんできそうな気候だ。
シャツの腕をまくり、ウラハのそばにもどると、石を探し始める。ウラハの指定した「大きくて、平らな石」は、この河原にはあまりなさそうだ。あちこち歩き回り、石を拾いあげてはもどし、また探す。その間、ウラハは水際に座り、裸足の足を川につけて遊んでいた。
数分後、ようやくひとつ、よさそうな石を見つけたルチカは、喜び勇んでウラハのもとに見せにいった。
ウラハは、やれやれ、といった表情で、川面に視線を落とす。
「まあまあね。でも、これだけじゃ全然足りないわ。早く、もっと拾ってきて」
「も、もっとですか? たくさん石を使うんですね。なにができるのか、僕には想像できないです」
「さすが凡人ね。なにを作るか、教えてほしいの?」
「はい」
ウラハの口角があがる。立ちあがり、足を肩幅に開くと、手を腰にあて、あごをあげた。
「校庭に、でっかい墓石を立ててやるの!」
腕で大きく円を描き、ウラハは誇らしげな顔で笑う。ルチカは首をかしげた。
「ぼせき……? って、お墓……のことですよね」
「そう。石を大量に積んで、巨大な墓石を作るの。そんなものが一夜にして校庭にあらわれたら、壮観でしょ」
「石を積む……? ……あ、賽の河原みたいな感じですか?」
ルチカの質問に、ウラハはきょとんとした。
「……さ……さいの、かわら……?」
「なかったですか、そんな話。僕もよくは知りませんけど、たしか、亡くなった子供が、賽の河原っていうところで石を積むっていう……」
ウラハの目がつりあがり、みるみる血走っていく。
「……なんだよ、そのファンタジーテイストな話は!」
そう叫んで足もとの石をつかむと、ウラハはそれをルチカに向かって投げた。ルチカは驚いてうしろにさがったが、石はかすりもせず、あさっての方向へと飛んでいく。コントロールが、とんでもなく悪い。そのことが余計腹立たしかったのか、ウラハは手当たり次第石を拾い、ルチカを標的にビュンビュンと投げ続けた。
十二投目で、ようやく小石がルチカの左腕にヒットする。よし、とつぶやき、ウラハは肩を痛めたピッチャーのように左肩を押さえた。ルチカが時間をかけて見つけた大きくてひらたい石は、残念なことに行方不明になった。
「……はあ。もう、やる気そがれた」
ウラハはふてくされた顔で、ため息をつく。
「えっ……石はどうするんですか? 遺作は……」
「うるさい、今日は中止!」
くるん、と、ウラハが方向転換をする。その瞬間、濡れた石で右足が滑った。バランスをくずした方向が悪く、右半身を川に突っ込むかたちで転倒してしまう。
「だ、大丈夫ですか?!」
ルチカが焦って駆けよると、ウラハは水のなかからがばっと勢いよく上半身を起こした。まとった衣服の右半身だけ、水に濡れて色が濃くなっている。
「……いったあ!!」
膝を立てて座り込むウラハの半月板あたりが、赤い。左手の、親指をのぞく四本の指で、ウラハはひざを素早くさすった。
ルチカもしゃがみ込み、ポケットに入っていたハンカチをさし出す。ウラハはむっとした表情になった。
「なにそれ! こんだけ濡れてるのに、ハンカチごときででどうにかなるわけないでしょ!」
「いえ、涙が」
ウラハの目尻に、微かながら、緑色の水分が溜まっている。痛い涙だ。今日は何度目だろう。同じ色の涙を何度も見る日というのは、なかなかめずらしい。次第に、若干の赤い色も混じってくる。
「……うるさい!」
そう言うと、ウラハは川の水を両手ですくい、自分の顔にあびせた。濡れていない左側のシャツの袖で、滴る水滴を拭う。
彼女の目尻のクリスマスカラーは、すっかりなくなっている。頬を走っていた二本の白い線も、消えた。
しかし、ルチカは新たな色を発見してしまう。水に濡れ、からだにはりついたシャツから、ウラハの下着が透けているのだ。昼間の空と同じ、水色だった。
それに気がついたとたん、ルチカは一目散に走り出す。
「お……おい、どこいく!」
叫ぶウラハのもとに、ルチカはすぐにかえってきた。石段のしたに置き去りだったブレザーを手にしている。それを、ウラハの肩にそっとかけた。
「……なにそれ。別に、寒くないし」
ウラハは頬を膨らませ、ルチカをにらんだ。
「着ていたほうが、いいと思います」
やけにはっきりと断言するルチカの言葉に、ウラハは頭に疑問符を浮かべ、自分のからだを見まわしてみる。右胸に目をやった瞬間、「最悪」というセリフを言っているかのように、表情が歪んだ。ルチカの言葉の意味が、やっと理解できたらしい。
「……なにかっこつけてんの。見たいくせに」
「か、かっこつけたわけじゃ……」
もっと強く否定したい気持ちもあったが、「見たいくせに」というセリフも同時に言われてしまったため、全面的な反論はできなかった。彼はいま、見てはいけないと思ってブレザーを貸した反面、頭には彼女の水色が居座り、鼓動が高鳴っているという状態なのだ。
ウラハは立ちあがり、ふ、と笑った。
「まあいいわ。これは、もらっといてやる」
「もらっ……え? あのー、使い終わったら、返してもらわないと困りますけど」
「ごちゃごちゃうるさいわね」
ウラハは河原に放り投げてあった自分のバッグから、ブレザーを取り出した。ルチカに向かって投げる。
「じゃああんたには、それあげるわ」
ユニフォーム交換ならぬ、ブレザー交換。ルチカは渡された女子生徒用の小ぶりなブレザーをながめ、袖を通してみた。ほんのり花のようないい香りがする。一応、着られたものの、肩がぱんぱんだ。
「ウラハさん、これ小さいです」
「……着なくてもわかるだろ。ほんとにいいかげんにしないと、今度こそ石ぶつけるから」
言葉はきつかったものの、ウラハの表情はどことなく穏やかなものに見えた。
空は暮れ、風もやや冷たくなった。
伸びた影と一緒に、ルチカとウラハは駅までの道を並んで歩く。下校する光釘高校の生徒の姿はひとりふたりしかなかったが、車道を行き交う車の量は、昼間より増えていた。
以前、「びしょ濡れの人間と歩くなんて嫌」と発言したウラハだが、びしょ濡れの自分が誰かと歩くことは平気らしい。彼女の左手は、無軌道にバッグをふりまわしている。
ルチカはとなりにいるウラハに見とれながら歩いた。歩調に合わせ、弾むように動くウラハの髪が夕日に映え、とても美しい。
「あーあ、結局あんたのせいで、今日も時間が無駄になったわ」
「……あの、遺作って、いつまでに作る予定なんですか? もう何回も中止になってますよね」
「うっさいな、助手のくせに。ちゃんと、徐々に作るわよ。あたしはあんたに会う前から、作るって決めてたんだから。助手は余計なこと考えないで、黙って言われた仕事をすればいいの」
中止、中止、と先に進まないものの、ウラハの意志は固いらしい。
それなら早く作品を作って、白い涙の秘密を教えてほしい気もする。
でも、ウラハさんとこのまま一緒にいられるなら、一生助手でもいいかな……なんて、ちょっぴり感じる自分もいる。
しあわせな矛盾だ。
「……ねえ。一応確認しとくけど、あんたパソコンいじってないでしょうね?」
ふいに、ウラハがたずねてきた。ルチカの足が止まる。ウラハも全身の動きを止め、ふたりの目が合った。無表情で固まるルチカを、ウラハはきつい目でにらむ。
「……見たのか! また学校のサイト見たんだろ!! 助手のくせに、なんであたしの言うこときかないのよ!!」
ウラハはルチカの腕をつかみ、乱暴に揺さぶった。敵を威嚇する獣のごとく、息を荒げてすごんでくる。
「み、見てません。パソコンなんて触ってませんよ」
「じゃあ、なに?! なんかあったんでしょ、その態度は! 言え、話せ!」
ルチカは戸惑いながら頷くと、今日あった出来事を話し始めた。
米谷に手紙を出したこと。古賀との再会。試合中の事故。中庭で聞いた米谷の推測。米谷を疑ったと自白したこと。米谷の親切。米谷との決別……。
ウラハはルチカの腕をつかんだまま、聞いていた。瞳はじっとルチカをとらえ、ルチカも、目をそらさなかった。話を聞き終わり、先に視線をはずしたのは、ウラハのほうだ。腕を離し、息を吐く。
「……なにそれ。なにやってんのよ、あんた。そんなの、調子に乗って手紙なんて出すから、そうなったんじゃない。悪因悪果ね」
ふたりの視線が、また交わった。今度はなかば呆れ顔になりつつ、ウラハはルチカを見据える。
「で、なに? 明日は古賀ってやつに、手紙書くの?」
ルチカは頭をふった。
「もう、なにもしません」
うつむき、ひとことだけ告げる。
「……あっそう」
ウラハも、ひとことだけ返した。
お互いそれ以上追及することなく、ふたたび歩き始める。
前方に駅が近づいてきた。改札へと続く階段を、ひとびとが吸い込まれるようにあがっていく。バス通学のルチカは、電車通学のウラハとは、駅に着いたらお別れだ。
「じゃあね」
「はい……」
別れる前に、無性に自分の気持ちを吐き出したい衝動にかられ、ルチカは続けた。
「あ、あの、ウラハさん」
ウラハがルチカを見やる。
「なに? 勝手に話すのも、無駄話も禁止って言ったでしょ」
「あ……はい。でも、その……さっきの続きというか……ウラハさんに関することというか……それも、話しちゃダメですか?」
「……なによ、あたしのことって。うっとうしいわね、さっさと言えば。黙って思われてても気持ち悪いし」
「あの、僕のこと信じてくれて、ありがとうございます」
突然、真顔で真っ直ぐ自分を見つめるルチカに、ウラハはいぶかしげな顔をした。
「……なにそれ、急に」
いえ、とつぶやいてから、ルチカは表情を緩めた。
「今日いろいろあって……やっぱり、ウラハさんは特別なひとだなって思ったんです。僕のことなにも知らないときから、ウラハさんは僕の話を信じてくれて、それって、本当にすごいことなんだって改めて思いました。なんていうか、ウラハさんの心の柔らかさみたいなのがわかったんです。僕を信じてくれたことが一番嬉しいですけど、ウラハさんみたいなひとに出会えたこと自体、しあわせだなって思って……。僕は昔から……いまでも、まわりのひととはうまくつき合えてないですけど、でも、ウラハさんを思い出すと、気持ちが安らぐんです。僕の知らない白い涙を流して、僕のノートを貰ってくれて、涙の色の話も聞いてくれて、そんなひと、僕にはウラハさんしかいません。だから……僕、助手の仕事も頑張りますから、ウラハさんのそばにいたいです」
長いうえに、まとまりのないセリフだ。しかし、ルチカは思いを伝えようと懸命に話した。
いま、僕にはウラハさんがいる。
ウラハさんがいれば頑張れる。
ウラハさんのそばにいたい。
それが、僕の支えです。
「……憐れね」
しばらく黙っていたウラハは、そう言って、眉をひそめた。いつものように、怒って眉をつりあげたわけではない。眉をさげ、悲しげに顔をしかめたのだ。そのまま、視線を足もとに落とした。
「そんなこといまさら確かめなくても、もっとこき使ってあげるわよ」
ルチカは全身の力が抜けた。米谷と別れて以来、すっかり青ざめていた心に、血がかよった気がする。
ウラハの瞳が、慈しみを宿したように潤んだ。茶色く、暖かみのある虹彩が、母性をたたえて見える。
ただし、それは一瞬のことだった。すぐにウラハの眼光は鋭くなり、口の端がいたずらっぽくあがる。
「でも、明日はあんたに会わないわ」
「えっ?! なななななんでですか?!」
ルチカは前のめりになってうろたえた。
「学校、休みだから」
「あ……」
そういえば、もう週末だ。光釘高校は明日から二日間、休みである。
「あ、あの。明日とあさって、ウラハさんはどうするんですか? 遺作の制作予定を教えてください」
「はあ? 別に、予定なんて決めてないけど」
「決めてない……って……遺作は作らない、ってことですか?」
「違う。わからないって言ってるの。気分次第ってことよ」
「はあ……そ、そうですか……。じゃあ、ウラハさんがやる気になるまで、僕は自宅待機ですよね。あの、もし少しでもなにか思いついたら、僕の家に連絡してもらっていいですか? 家の番号、渡します。すぐに、いきますから」
……ん? ちょっと待って。
ルチカははっとして、斜め右を見あげた。頭のなかを整理してみる。
ウラハさんが二日間やる気にならなければ、どうなるのだろう。そうなると、丸二日、会えないことになる。その間、自分はなにをしているのだろうか。電話の前から動かず、ウラハからのコールを待ち続けるに違いない。焦がれ続けて、四十八時間。そんな状態ですごすなんて、たえられない。いてもたってもいられなくなるのは目に見えている。
できれば、会いたいです。
自分の希望をつけ足そうと、ルチカの上下のくちびるが離れる。その瞬間、ウラハがさきに言葉を発した。
「……ねえ。日曜、家にくる?」
心が、通じてしまった。
ルチカは口をぽかんと開けたまま、仰天する。
そして駅の構内にまで届きそうな声で、はい、と元気よく答えた。
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