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第三章
ミドリの日(2)
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二度と話しかけるな!
おととい、自分にそう言った少年が、目の前に立っている。話しかけるな、と言った彼のほうから、話しかけてきた。驚きで、二の句が継げない。彼の足もとを見ると、上履きに「米谷」と書かれている。やはり、米谷朋樹に間違いなかった。
「ちょっと、こいよ」
動揺するルチカの腕を、米谷は強引につかんだ。そのまま渡り廊下を横切り、人気がなく、日陰で薄暗い中庭の茂みまでルチカをつれていった。
「……あのさあ、やめろよ、手紙とか。気持ちワリイだろ、男のくせに」
青く繁るつつじの前で、米谷は苦々しい顔でそう告げた。ルチカはあたりを見まわし、折れた木の枝を見つけると、地面に文字を書き始める。
てがみ、よんでく……
「……おい、待て。なにやってんだよ」
途中で米谷に声をかけられ、手が止まる。いままで書いていた文字のとなりに、今度は別の文字を書き始めた。
おととい、にどとはな……
「やめろって! 意味わかんねえ、普通にしゃべれよ!!」
米谷は木の枝を握るルチカの手をつかんだ。そしてすぐに、投げ捨てるように放す。
ルチカは恐る恐る、口を開いた。
「……い、いいの? 米谷くんおととい、二度と話しかけるなって言ってたから、話さずに書いて伝えようと思って……」
「はあ?! ……や、言ったかもしんねえけど、そこまで忠実になるバカがいるかよ!」
「じゃあ、普通に話すけど、いい?」
「いいよ。ったく、めんどくせえな……」
米谷は苛立ちのこもった声色で答える。右足で地面を蹴り、長い息を吐いた。
ルチカはそっと木の枝を地面に戻すと、両手の指を腹の前で組んだ。
「ご、ごめん……。手紙は、どうしても謝りたくて……だって、ちゃんと謝ってなかったから……僕のせいで、佐々さんも怒っちゃったみたいだし……ごめんなさい」
「あー……ああ。まあ、まりあのことはもういいよ」
米谷の視線が、空を泳ぐ。口もとはわずかに緩んでいた。
「え? いい、って……許してくれるってこと?」
「まあ……おまえにはムカついたけど、女はあいつだけじゃねえしな。でも、もう手紙はまじでやめろ。おまえからもらったって、キモいだけでなんも嬉しくねえから」
「う、うん……わかった」
案外あっさりとした米谷の態度に、ルチカはなんだか拍子抜けしてしまった。
米谷がルチカを許したのには、実は理由がある。
おとといの朝まで、米谷は中学の同級生のなかで、三本の指に入るほどの美人だった「佐々まりあ」を落とそうと必死だった。まりあはワガママで扱いにくかったが、見た目がタイプだったので性格の難は目をつぶっていた。おとといも、ルチカの発言に怒ったまりあを米谷は追いかけ、彼女とつき合いたい一心で、懸命になだめたくらいだ。
しかしその後、光釘高校に足を踏み入れた途端、米谷の考えは一変した。まりあ以上の可愛い女の子たちを、そこで何人も目にしたのだ。米谷はワガママなまりあを追いかけることがバカらしくなり、それに伴って、ルチカに対する怒りも薄れたのであった。
「あの……米谷くん、そのことを言うために、僕を引き止めたの? どうもありがとう」
ルチカはぺこりと頭をさげた。
教室への帰り道、米谷は通常のコースからはずれ、わざわざひとりでルチカのあとを追ってきたのだ。わだかまりを解消するためにそんな行動してくれた米谷に、ルチカは感謝の念を抱いた。
「あー、いや……」
校舎を背にして、米谷が身を縮める。あたりを見わたしたあと、深刻な目で話し始めた。
「……なあ、ニジゲン。おまえ、さっきの試合中、古賀くんに殴られただろ」
「え……?」
意表を突く言葉に、ルチカは一瞬、呆然とした。
困惑しつつ、投げられた質問に、とりあえず答えてみる。
「な、殴られてないよ。肘はあたったけど、試合中の事故だよ」
「いや、あれはわざとだ。古賀くんはわざと、おまえにぶつかって殴ったんだよ」
「ええっ?! ど、どうして? だってあれは、僕がぼーっとしてたから悪いんだし……」
ルチカは、ただただ狼狽するばかりだ。米谷は小さく息を吐くと、ルチカをにらんだ。
「……ニジゲン、正直になれよ。オレにはわかってんだぞ。おまえ、古賀くんとなんかあったんだろ?」
「えっ。ど、どういうこと?」
「オレ……見たんだよな。光高の掲示板に、おまえの悪口書いてあったの」
ルチカの息が止まった。
光高の掲示板の悪口。すなわち、例の書き込みのことだ。
心臓の鼓動が、跳ねるように速まる。忘れようと決め、忘れかけていた心の痛点を、米谷がぐっと押さえてきた。
ルチカは一度視線を落としたが、意を決して顔をあげ、米谷を見据えた。
「……それって……死ねニジゲンってやつ?」
「え? し、知ってたのか?!」
「うん……」
米谷は半分目を閉じた。
「なんだ、そっか。おまえも見たのか……おまえは知らねえのかと思ってたよ。オレはたまたま、自分の通う高校のこと一応調べとくか、とか思って光高のサイト見たんだけど、そしたらアレがあって……でも、次の日見たらもうなかったし、すぐ削除されたみたいだからさあ」
削除された、のひと言に、ルチカの胸はすっとした。
自分の手で葬ったものの、ウラハにインターネットへの接触を禁じられたため、改めてちゃんと削除できているかどうかの確認はしていなかった。しかし米谷の発言で、もうあのサイト上に自分の悪口はないと、いまようやく確認できた。削除されたからといって、自分を含むそれを見たひとの記憶は消えはしないが、あんなものがずっと全世界に向けて配信されているなんて、生き地獄だ。削除されたほうがいいに決まっている。
米谷の話によると、あの書き込みが存在していたのはごく短時間のことだったらしい。その限られた時間内に見ることになってしまったなんて、運がいいのか悪いのか。なんだか、自分が恨めしい。
「なあ、あれって古賀くんだよな? いまんとこ、光校でおまえをニジゲンって呼んでんの、オレと古賀くんだけだろ。オレじゃないってことは、古賀くんしかいねえじゃん」
こ、古賀くん?!
脳天を鈍器で殴られたような衝撃が走る。
頭がこんがらがり、半開きの口がふさがらない。
昨日は、失礼ながら米谷が書き込んだものと思い込んでいた。それがいま、その本人から別の人間の名前を聞くなんて。しかも、容疑者は古賀ときている。
さらに、米谷は続けた。
「古賀くんには怖くて確認とかしてねえけどさ……おまえ、古賀くんになにしたんだよ? なんかないと、あんなこと書かれないだろ」
「な、なにも……。たぶん、なにもしてないと思うけど」
「ほんとかぁ? おまえ変わってるからさあ、怒らせたことに気づいてねえだけってことも、あんじゃねえの?」
「そ、そんな……」
確かに、僕は鈍いかもしれない。でも、中学三年生でクラスが分かれて以来、挨拶以上の会話をほとんどしていないひとに、僕がなにをしたというのだろう。
なによりルチカには、古賀とあの陰湿な書き込みとが結びつく糸など、まったく見えない。
古賀を取り巻く世界には、スポーツ、友達、笑顔、女子生徒があふれている。「青春を擬人化したら、こうなりました!」という感じの、はつらつとした少年。それがルチカのなかの、古賀京次郎なのだ。
米谷の発言は、ルチカにとって同調できるものではなかった。
「なんか、わかんねえけど……とりあえず、一応古賀くんに謝っとけば?」
「え……? なんで?」
「だって、相手は古賀だぞ? 敵うわけねえじゃん。あいつ、どんだけ上に知り合いいると思ってんだよ。オレらみたいな平民は、権力者にへりくだって生きたほうが得だろーが。戦うだけ損だろ!」
米谷の口調が激しくなった。両手を握りしめ、白目を若干血走らせている。さっきまで「古賀くん」、と呼んでいたのが、急に「古賀」に、さらに「あいつ」に変わったことに、ルチカは気がついていた。米谷が興奮し始めているのは明らかだ。
米谷朋樹。彼は力を持つものには徹底的に下手に出るが、自分に危害を加えないであろう弱者には、強い態度に出られる性格の持ち主だ。ルチカはどうやら、彼にとっての「弱者」らしい。
「でも、悪くないのに謝るなんて、おかしいよ」
「おかしくねえよ。考えてもみろって。おまえみたいな変人が、古賀に太刀打ちできるわけないだろ。古賀はみんなのヒーロー、おまえは謎の地底人だ。なんかあったときに、市民が味方すんのはヒーローに決まってんだぞ。地底人に市民権はねえの。だから古賀ともめるなんて、頭悪すぎるって。おまえ、高校でも孤立するぞ」
長いセリフのなかで、孤立、という言葉だけが、はっきりと耳に残った。
ルチカは小学三年生でニジゲン革命を起こす以前――つまり、幼稚園から小学校低学年の間も、それなりにクラスでは孤立していた。
マイペースでどこかひょうひょうとしており、時折「涙の色」の話をするルチカと、仲よくしてくれる同級生などいなかったのだ。暴力や面と向かった暴言でいじめられているわけではなかったが、「不思議チャン」と位置づけられ、遠巻きにされていたのは確かだった。休み時間はいつもひとりだったし、グループわけをするとき、ひとりあまるのはいつもルチカに決まっていたのである。
米谷とルチカは、幼稚園、小中学校、高校と、同じ学び舎に通っている。米谷もルチカを避けていたが、ルチカの孤独な歴史はちゃんと知っているのだ。
現状、ルチカは高校でもすでにクラスで孤立しつつある。米谷の予想はすでに当たっていた。
「……それに、もし古賀が本格的に腕力できたらどうするよ? お前なんて、一発で病院送り、いや、ブラジルのみなさんのもとまでぶっとぶぞ。さっきだって、おまえのことが憎いから、わざと殴ったんだよ。偶然の事故を装ってさ。ああいう人気者ってやつに限って、内面ドロドロしてたりするんだって、絶対!」
「そ、そう……かな」
「そうだよ! 人間、他人に見せてるパブリックな部分なんて、そいつのほんの欠片にすぎねえんだからよ」
「で、でも、古賀くんが書き込みしたって、確証があるわけじゃないし……」
「はあ? なんだよ、やけに古賀のことかばうじゃねえか。じゃあ、ほかに誰がやったっていうんだよ」
そんなこと、わからない。僕だって、知りたい。
でも、証拠もないのに疑うなと、ウラハさんに教えられたばかりだ。
黙りこむルチカに、米谷は眉をひそめた。
「……まさかおまえ、オレのこと疑ってないよな?」
「えっ……」
思わず、声がうわずった。ルチカの示した過剰な反応で、米谷はなにか察したようだ。半歩前に出て、ルチカに近づく。
「……疑ってんのか?」
「い、いまは……疑ってないけど……」
「いまは、って、どういう意味だよ」
米谷が、目を細める。ルチカは目をつぶって、頭をさげた。
「ご、ごめんなさい。米谷くん、おととい僕に怒ってたから、はじめて書き込みを見たときは、そうなのかなって……ごめん……」
問いただされてしまった以上、ルチカに嘘はつけなかった。こういうとき、まったく融通がきかない。それが鈍条崎ルチカだ。
「……なんだそれ。ふざけんなよ、おまえ」
米谷はルチカの胸を小突いた。ルチカのからだが、うしろに軽く飛ぶ。
短い沈黙のあと、ルチカから視線をはずし、米谷は息を吐き捨てる。腰に手をあて、あごを引くと、目をしっかり開いて再びルチカに視線を戻した。怒気を含んでいるせいか、その瞳は淀んで見える。
「確かに、オレは口は悪いよ。それは認める。ブスにはブスって言うし、表面上仲いい先輩の陰口だって言う。けどなあ、匿名で死ねって書き込むような、そんな陰湿なことは、絶対にしねえ。したことねえよ」
ずいぶんな主張だが、米谷には米谷なりのルールがある、ということらしい。
「オレのこと、なんも知らねえくせに……」
ふっと目をそらし、米谷がつぶやく。
小声だったが、ルチカの耳にはしっかりと届いていた。
どこかで、聞き覚えのあるセリフだ。
でも、どこで聞いたのか思い出せない。考えることを拒むように、側頭部が熱くなり、うずく。
「幼稚園小中高同じ学校のよしみで忠告してやったのに、すっげえ時間のムダだったな。あーあ、損した。ばっかみてえ」
今朝、靴箱に入れられたルチカからの謝罪の手紙を見て、ウザいと思いながらも米谷はほだされた。だから、体育館から教室に戻る通常のコースからはずれ、わざわざルチカを追ってきたのだ。それは、ルチカに書き込みのことを教えるための行動である。実際は事件に対する好奇心が主だった原動力であったが、気持ちの深さはどうであれ、たとえ一瞬でも、米谷がルチカの身を案じたことは確かだ。
ルチカはそのことにいまさら気がついて、動揺した。
「そ、そんな。僕、米谷くんが書き込みのこと教えてくれて、嬉しいよ。わざわざ声をかけてくれて、どうもありがとう」
「うるせえよ。オレはおまえのこと、見損なったわ。ただの変なやつだと思ってたけど、性格ワリイじゃねえか。今度こそ、もう二度とオレに関わるなよ。じゃあな、古賀によろしく」
率直な物言いに、ルチカは絶句した。あまりに端的で、逃げ場がない。
反論できるわけもなく、瞳をふせた。それ以上、身動きがとれない。
米谷は渡り廊下に向かって勢いよく歩き出したが、すぐに振り返り、ルチカを指をさした。
「おい、オレがおまえに書き込みのこと教えたって、死んでも古賀には言うなよ!」
言いたいことを言い、捨て台詞までばっちり決めた米谷は、本校舎へと消えた。
米谷がいなくなっても、ルチカはその場に佇んでいた。
書き込み事件の真相は結局わからないままだが、米谷の推測が正しいのか、古賀に確かめる気など起こりもしない。
むしろ、書き込みのことなど、もう考えたくもなかった。
昨日あれほど感じた恐怖も、どうでもいい気がした。
ようやく、米谷のつぶやいたセリフを、どこかで聞いたことがあると思った理由が、思い浮かぶ。
どこで聞いたわけでもない。
ただ、似ていたのだ。
僕のことを、誰も信じてくれない。
ルチカ本人が幼いころからずっと抱いてきた、そんな悲しみに似ていた。
これまで、「誰も自分のことを信じてくれない」と嘆いてきたけれど、僕だって、米谷くんを疑った。彼の人間性を信じなかったということだ。
僕のことをなにもわかっていないのに、どうしてはじめから疑いの目で見るんだろう。
そう悩んで生きてきた僕が、米谷くんのことをなにも知らずに疑った。
僕がこれまで傷ついてきたのと同じように、米谷くんの心は傷ついたに違いない。
僕が、傷つけた。
痛みを知っているのに、傷つけた。
どうして昨日、僕は彼を疑ったんだろう。
だって、僕は米谷くんを怒らせていたし、ニジゲンっていうあだ名で書き込みがされていたから。
だから、ごく自然に、疑った。当然のように。
米谷くんも、僕を疑ったことはある。
米谷くんは昔、僕のことを「嘘つき」と呼んだ。
僕は、嘘はついていない。でも、いまでも、疑いは晴れないままだ。
あのとき、僕は米谷くんを、心のなかでひどいひとだと思った。
それなのに、いまの僕は、あのときの米谷くんと同じじゃないか。
たとえいま、僕の話を聞いて「嘘つき」と呼ぶひとたちがあらわれても、僕は「なんで信じてくれないの?」などと、責める資格なんてない。
僕も、ひどいひとだ……。
ルチカは、米谷がもう自分と関わりを持ちたくないと言ったのは、当然の報いのような気がした。これまで知らなかった自分の内面の浅ましさを自覚しことが、ルチカにとってはなによりショックだった。
全てを信じることが、正しいことではない。
疑ってかからなければ危険なことも、世の中には多くある。
他人を疑うという能力も、自分の身を守るためには必要不可欠だ。
そんな誰でもわかりそうなことが、ルチカの感覚にはなかった。ずっと他人から疑われてきたぶん、「信じる」ということに対しての思い入れが強いのだ。
そのことが、ルチカを深く悩ませている原因でもあった。
遠くで、声が聞こえる。休み時間になり、生徒たちが動き出したらしい。
ルチカはようやく顔をあげた。木々が、自分を囲んでいる。そういえば、ここは中庭だった。新緑の輝きは、生命力にあふれている。
ここは、ウラハさんとランチを食べたいと思っている場所だ。
彼女の顔が浮かび、目の奥が熱くなる。いっそ、泣けたらすっきりするかもしれない。でも涙は出ない。むしろ、乾きを感じるくらいだ。
乾いた目に、緑がしみる。ルチカにとって、緑は痛みの色だ。緑色の涙は、痛みをあらわす。
悲しいでも、情けないでも、申しわけないでも折り合いがつかない、この感情。はっきり感じるのは、心の痛みだけだ。
いまになって、自分が思っている以上に、ウラハさんは特別な人間なんじゃないかと思える。
ウラハさんは、あっさりと僕を信じた。
バカじゃないから信じられる、と彼女は言った。
それを聞いたとき、彼女の存在は奇跡だと思った。でもいまは、奇跡以上の尊いものを感じる。
ウラハさんは入学式のあったあの日、なんで泣いたのだろうか。
頬に残る白い涙のあとは、可憐な彼女には似合って見えた。
しかし、涙というのは、ネガティブな感情によって引き起こされることが多い。
そうわかっていても、彼女が傷ついて泣いたわけではありませんように、と切に願わずにはいられない。
ウラハさん、僕はバカだから、米谷くんを疑ってしまったのかな。
ルチカはしばらく、東校舎を見あげていた。
おととい、自分にそう言った少年が、目の前に立っている。話しかけるな、と言った彼のほうから、話しかけてきた。驚きで、二の句が継げない。彼の足もとを見ると、上履きに「米谷」と書かれている。やはり、米谷朋樹に間違いなかった。
「ちょっと、こいよ」
動揺するルチカの腕を、米谷は強引につかんだ。そのまま渡り廊下を横切り、人気がなく、日陰で薄暗い中庭の茂みまでルチカをつれていった。
「……あのさあ、やめろよ、手紙とか。気持ちワリイだろ、男のくせに」
青く繁るつつじの前で、米谷は苦々しい顔でそう告げた。ルチカはあたりを見まわし、折れた木の枝を見つけると、地面に文字を書き始める。
てがみ、よんでく……
「……おい、待て。なにやってんだよ」
途中で米谷に声をかけられ、手が止まる。いままで書いていた文字のとなりに、今度は別の文字を書き始めた。
おととい、にどとはな……
「やめろって! 意味わかんねえ、普通にしゃべれよ!!」
米谷は木の枝を握るルチカの手をつかんだ。そしてすぐに、投げ捨てるように放す。
ルチカは恐る恐る、口を開いた。
「……い、いいの? 米谷くんおととい、二度と話しかけるなって言ってたから、話さずに書いて伝えようと思って……」
「はあ?! ……や、言ったかもしんねえけど、そこまで忠実になるバカがいるかよ!」
「じゃあ、普通に話すけど、いい?」
「いいよ。ったく、めんどくせえな……」
米谷は苛立ちのこもった声色で答える。右足で地面を蹴り、長い息を吐いた。
ルチカはそっと木の枝を地面に戻すと、両手の指を腹の前で組んだ。
「ご、ごめん……。手紙は、どうしても謝りたくて……だって、ちゃんと謝ってなかったから……僕のせいで、佐々さんも怒っちゃったみたいだし……ごめんなさい」
「あー……ああ。まあ、まりあのことはもういいよ」
米谷の視線が、空を泳ぐ。口もとはわずかに緩んでいた。
「え? いい、って……許してくれるってこと?」
「まあ……おまえにはムカついたけど、女はあいつだけじゃねえしな。でも、もう手紙はまじでやめろ。おまえからもらったって、キモいだけでなんも嬉しくねえから」
「う、うん……わかった」
案外あっさりとした米谷の態度に、ルチカはなんだか拍子抜けしてしまった。
米谷がルチカを許したのには、実は理由がある。
おとといの朝まで、米谷は中学の同級生のなかで、三本の指に入るほどの美人だった「佐々まりあ」を落とそうと必死だった。まりあはワガママで扱いにくかったが、見た目がタイプだったので性格の難は目をつぶっていた。おとといも、ルチカの発言に怒ったまりあを米谷は追いかけ、彼女とつき合いたい一心で、懸命になだめたくらいだ。
しかしその後、光釘高校に足を踏み入れた途端、米谷の考えは一変した。まりあ以上の可愛い女の子たちを、そこで何人も目にしたのだ。米谷はワガママなまりあを追いかけることがバカらしくなり、それに伴って、ルチカに対する怒りも薄れたのであった。
「あの……米谷くん、そのことを言うために、僕を引き止めたの? どうもありがとう」
ルチカはぺこりと頭をさげた。
教室への帰り道、米谷は通常のコースからはずれ、わざわざひとりでルチカのあとを追ってきたのだ。わだかまりを解消するためにそんな行動してくれた米谷に、ルチカは感謝の念を抱いた。
「あー、いや……」
校舎を背にして、米谷が身を縮める。あたりを見わたしたあと、深刻な目で話し始めた。
「……なあ、ニジゲン。おまえ、さっきの試合中、古賀くんに殴られただろ」
「え……?」
意表を突く言葉に、ルチカは一瞬、呆然とした。
困惑しつつ、投げられた質問に、とりあえず答えてみる。
「な、殴られてないよ。肘はあたったけど、試合中の事故だよ」
「いや、あれはわざとだ。古賀くんはわざと、おまえにぶつかって殴ったんだよ」
「ええっ?! ど、どうして? だってあれは、僕がぼーっとしてたから悪いんだし……」
ルチカは、ただただ狼狽するばかりだ。米谷は小さく息を吐くと、ルチカをにらんだ。
「……ニジゲン、正直になれよ。オレにはわかってんだぞ。おまえ、古賀くんとなんかあったんだろ?」
「えっ。ど、どういうこと?」
「オレ……見たんだよな。光高の掲示板に、おまえの悪口書いてあったの」
ルチカの息が止まった。
光高の掲示板の悪口。すなわち、例の書き込みのことだ。
心臓の鼓動が、跳ねるように速まる。忘れようと決め、忘れかけていた心の痛点を、米谷がぐっと押さえてきた。
ルチカは一度視線を落としたが、意を決して顔をあげ、米谷を見据えた。
「……それって……死ねニジゲンってやつ?」
「え? し、知ってたのか?!」
「うん……」
米谷は半分目を閉じた。
「なんだ、そっか。おまえも見たのか……おまえは知らねえのかと思ってたよ。オレはたまたま、自分の通う高校のこと一応調べとくか、とか思って光高のサイト見たんだけど、そしたらアレがあって……でも、次の日見たらもうなかったし、すぐ削除されたみたいだからさあ」
削除された、のひと言に、ルチカの胸はすっとした。
自分の手で葬ったものの、ウラハにインターネットへの接触を禁じられたため、改めてちゃんと削除できているかどうかの確認はしていなかった。しかし米谷の発言で、もうあのサイト上に自分の悪口はないと、いまようやく確認できた。削除されたからといって、自分を含むそれを見たひとの記憶は消えはしないが、あんなものがずっと全世界に向けて配信されているなんて、生き地獄だ。削除されたほうがいいに決まっている。
米谷の話によると、あの書き込みが存在していたのはごく短時間のことだったらしい。その限られた時間内に見ることになってしまったなんて、運がいいのか悪いのか。なんだか、自分が恨めしい。
「なあ、あれって古賀くんだよな? いまんとこ、光校でおまえをニジゲンって呼んでんの、オレと古賀くんだけだろ。オレじゃないってことは、古賀くんしかいねえじゃん」
こ、古賀くん?!
脳天を鈍器で殴られたような衝撃が走る。
頭がこんがらがり、半開きの口がふさがらない。
昨日は、失礼ながら米谷が書き込んだものと思い込んでいた。それがいま、その本人から別の人間の名前を聞くなんて。しかも、容疑者は古賀ときている。
さらに、米谷は続けた。
「古賀くんには怖くて確認とかしてねえけどさ……おまえ、古賀くんになにしたんだよ? なんかないと、あんなこと書かれないだろ」
「な、なにも……。たぶん、なにもしてないと思うけど」
「ほんとかぁ? おまえ変わってるからさあ、怒らせたことに気づいてねえだけってことも、あんじゃねえの?」
「そ、そんな……」
確かに、僕は鈍いかもしれない。でも、中学三年生でクラスが分かれて以来、挨拶以上の会話をほとんどしていないひとに、僕がなにをしたというのだろう。
なによりルチカには、古賀とあの陰湿な書き込みとが結びつく糸など、まったく見えない。
古賀を取り巻く世界には、スポーツ、友達、笑顔、女子生徒があふれている。「青春を擬人化したら、こうなりました!」という感じの、はつらつとした少年。それがルチカのなかの、古賀京次郎なのだ。
米谷の発言は、ルチカにとって同調できるものではなかった。
「なんか、わかんねえけど……とりあえず、一応古賀くんに謝っとけば?」
「え……? なんで?」
「だって、相手は古賀だぞ? 敵うわけねえじゃん。あいつ、どんだけ上に知り合いいると思ってんだよ。オレらみたいな平民は、権力者にへりくだって生きたほうが得だろーが。戦うだけ損だろ!」
米谷の口調が激しくなった。両手を握りしめ、白目を若干血走らせている。さっきまで「古賀くん」、と呼んでいたのが、急に「古賀」に、さらに「あいつ」に変わったことに、ルチカは気がついていた。米谷が興奮し始めているのは明らかだ。
米谷朋樹。彼は力を持つものには徹底的に下手に出るが、自分に危害を加えないであろう弱者には、強い態度に出られる性格の持ち主だ。ルチカはどうやら、彼にとっての「弱者」らしい。
「でも、悪くないのに謝るなんて、おかしいよ」
「おかしくねえよ。考えてもみろって。おまえみたいな変人が、古賀に太刀打ちできるわけないだろ。古賀はみんなのヒーロー、おまえは謎の地底人だ。なんかあったときに、市民が味方すんのはヒーローに決まってんだぞ。地底人に市民権はねえの。だから古賀ともめるなんて、頭悪すぎるって。おまえ、高校でも孤立するぞ」
長いセリフのなかで、孤立、という言葉だけが、はっきりと耳に残った。
ルチカは小学三年生でニジゲン革命を起こす以前――つまり、幼稚園から小学校低学年の間も、それなりにクラスでは孤立していた。
マイペースでどこかひょうひょうとしており、時折「涙の色」の話をするルチカと、仲よくしてくれる同級生などいなかったのだ。暴力や面と向かった暴言でいじめられているわけではなかったが、「不思議チャン」と位置づけられ、遠巻きにされていたのは確かだった。休み時間はいつもひとりだったし、グループわけをするとき、ひとりあまるのはいつもルチカに決まっていたのである。
米谷とルチカは、幼稚園、小中学校、高校と、同じ学び舎に通っている。米谷もルチカを避けていたが、ルチカの孤独な歴史はちゃんと知っているのだ。
現状、ルチカは高校でもすでにクラスで孤立しつつある。米谷の予想はすでに当たっていた。
「……それに、もし古賀が本格的に腕力できたらどうするよ? お前なんて、一発で病院送り、いや、ブラジルのみなさんのもとまでぶっとぶぞ。さっきだって、おまえのことが憎いから、わざと殴ったんだよ。偶然の事故を装ってさ。ああいう人気者ってやつに限って、内面ドロドロしてたりするんだって、絶対!」
「そ、そう……かな」
「そうだよ! 人間、他人に見せてるパブリックな部分なんて、そいつのほんの欠片にすぎねえんだからよ」
「で、でも、古賀くんが書き込みしたって、確証があるわけじゃないし……」
「はあ? なんだよ、やけに古賀のことかばうじゃねえか。じゃあ、ほかに誰がやったっていうんだよ」
そんなこと、わからない。僕だって、知りたい。
でも、証拠もないのに疑うなと、ウラハさんに教えられたばかりだ。
黙りこむルチカに、米谷は眉をひそめた。
「……まさかおまえ、オレのこと疑ってないよな?」
「えっ……」
思わず、声がうわずった。ルチカの示した過剰な反応で、米谷はなにか察したようだ。半歩前に出て、ルチカに近づく。
「……疑ってんのか?」
「い、いまは……疑ってないけど……」
「いまは、って、どういう意味だよ」
米谷が、目を細める。ルチカは目をつぶって、頭をさげた。
「ご、ごめんなさい。米谷くん、おととい僕に怒ってたから、はじめて書き込みを見たときは、そうなのかなって……ごめん……」
問いただされてしまった以上、ルチカに嘘はつけなかった。こういうとき、まったく融通がきかない。それが鈍条崎ルチカだ。
「……なんだそれ。ふざけんなよ、おまえ」
米谷はルチカの胸を小突いた。ルチカのからだが、うしろに軽く飛ぶ。
短い沈黙のあと、ルチカから視線をはずし、米谷は息を吐き捨てる。腰に手をあて、あごを引くと、目をしっかり開いて再びルチカに視線を戻した。怒気を含んでいるせいか、その瞳は淀んで見える。
「確かに、オレは口は悪いよ。それは認める。ブスにはブスって言うし、表面上仲いい先輩の陰口だって言う。けどなあ、匿名で死ねって書き込むような、そんな陰湿なことは、絶対にしねえ。したことねえよ」
ずいぶんな主張だが、米谷には米谷なりのルールがある、ということらしい。
「オレのこと、なんも知らねえくせに……」
ふっと目をそらし、米谷がつぶやく。
小声だったが、ルチカの耳にはしっかりと届いていた。
どこかで、聞き覚えのあるセリフだ。
でも、どこで聞いたのか思い出せない。考えることを拒むように、側頭部が熱くなり、うずく。
「幼稚園小中高同じ学校のよしみで忠告してやったのに、すっげえ時間のムダだったな。あーあ、損した。ばっかみてえ」
今朝、靴箱に入れられたルチカからの謝罪の手紙を見て、ウザいと思いながらも米谷はほだされた。だから、体育館から教室に戻る通常のコースからはずれ、わざわざルチカを追ってきたのだ。それは、ルチカに書き込みのことを教えるための行動である。実際は事件に対する好奇心が主だった原動力であったが、気持ちの深さはどうであれ、たとえ一瞬でも、米谷がルチカの身を案じたことは確かだ。
ルチカはそのことにいまさら気がついて、動揺した。
「そ、そんな。僕、米谷くんが書き込みのこと教えてくれて、嬉しいよ。わざわざ声をかけてくれて、どうもありがとう」
「うるせえよ。オレはおまえのこと、見損なったわ。ただの変なやつだと思ってたけど、性格ワリイじゃねえか。今度こそ、もう二度とオレに関わるなよ。じゃあな、古賀によろしく」
率直な物言いに、ルチカは絶句した。あまりに端的で、逃げ場がない。
反論できるわけもなく、瞳をふせた。それ以上、身動きがとれない。
米谷は渡り廊下に向かって勢いよく歩き出したが、すぐに振り返り、ルチカを指をさした。
「おい、オレがおまえに書き込みのこと教えたって、死んでも古賀には言うなよ!」
言いたいことを言い、捨て台詞までばっちり決めた米谷は、本校舎へと消えた。
米谷がいなくなっても、ルチカはその場に佇んでいた。
書き込み事件の真相は結局わからないままだが、米谷の推測が正しいのか、古賀に確かめる気など起こりもしない。
むしろ、書き込みのことなど、もう考えたくもなかった。
昨日あれほど感じた恐怖も、どうでもいい気がした。
ようやく、米谷のつぶやいたセリフを、どこかで聞いたことがあると思った理由が、思い浮かぶ。
どこで聞いたわけでもない。
ただ、似ていたのだ。
僕のことを、誰も信じてくれない。
ルチカ本人が幼いころからずっと抱いてきた、そんな悲しみに似ていた。
これまで、「誰も自分のことを信じてくれない」と嘆いてきたけれど、僕だって、米谷くんを疑った。彼の人間性を信じなかったということだ。
僕のことをなにもわかっていないのに、どうしてはじめから疑いの目で見るんだろう。
そう悩んで生きてきた僕が、米谷くんのことをなにも知らずに疑った。
僕がこれまで傷ついてきたのと同じように、米谷くんの心は傷ついたに違いない。
僕が、傷つけた。
痛みを知っているのに、傷つけた。
どうして昨日、僕は彼を疑ったんだろう。
だって、僕は米谷くんを怒らせていたし、ニジゲンっていうあだ名で書き込みがされていたから。
だから、ごく自然に、疑った。当然のように。
米谷くんも、僕を疑ったことはある。
米谷くんは昔、僕のことを「嘘つき」と呼んだ。
僕は、嘘はついていない。でも、いまでも、疑いは晴れないままだ。
あのとき、僕は米谷くんを、心のなかでひどいひとだと思った。
それなのに、いまの僕は、あのときの米谷くんと同じじゃないか。
たとえいま、僕の話を聞いて「嘘つき」と呼ぶひとたちがあらわれても、僕は「なんで信じてくれないの?」などと、責める資格なんてない。
僕も、ひどいひとだ……。
ルチカは、米谷がもう自分と関わりを持ちたくないと言ったのは、当然の報いのような気がした。これまで知らなかった自分の内面の浅ましさを自覚しことが、ルチカにとってはなによりショックだった。
全てを信じることが、正しいことではない。
疑ってかからなければ危険なことも、世の中には多くある。
他人を疑うという能力も、自分の身を守るためには必要不可欠だ。
そんな誰でもわかりそうなことが、ルチカの感覚にはなかった。ずっと他人から疑われてきたぶん、「信じる」ということに対しての思い入れが強いのだ。
そのことが、ルチカを深く悩ませている原因でもあった。
遠くで、声が聞こえる。休み時間になり、生徒たちが動き出したらしい。
ルチカはようやく顔をあげた。木々が、自分を囲んでいる。そういえば、ここは中庭だった。新緑の輝きは、生命力にあふれている。
ここは、ウラハさんとランチを食べたいと思っている場所だ。
彼女の顔が浮かび、目の奥が熱くなる。いっそ、泣けたらすっきりするかもしれない。でも涙は出ない。むしろ、乾きを感じるくらいだ。
乾いた目に、緑がしみる。ルチカにとって、緑は痛みの色だ。緑色の涙は、痛みをあらわす。
悲しいでも、情けないでも、申しわけないでも折り合いがつかない、この感情。はっきり感じるのは、心の痛みだけだ。
いまになって、自分が思っている以上に、ウラハさんは特別な人間なんじゃないかと思える。
ウラハさんは、あっさりと僕を信じた。
バカじゃないから信じられる、と彼女は言った。
それを聞いたとき、彼女の存在は奇跡だと思った。でもいまは、奇跡以上の尊いものを感じる。
ウラハさんは入学式のあったあの日、なんで泣いたのだろうか。
頬に残る白い涙のあとは、可憐な彼女には似合って見えた。
しかし、涙というのは、ネガティブな感情によって引き起こされることが多い。
そうわかっていても、彼女が傷ついて泣いたわけではありませんように、と切に願わずにはいられない。
ウラハさん、僕はバカだから、米谷くんを疑ってしまったのかな。
ルチカはしばらく、東校舎を見あげていた。
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