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第三章
ミドリの日(1)
しおりを挟む翌日、ルチカは朝早く登校した。
誰もいない昇降口は、少し肌寒くて埃っぽい。年季の入った靴箱と傘立てが並べられ、全体的に灰色だ。どことなく、廃墟を連想させる。
ルチカは一年一組の靴箱から、ひとつひとつ上履きを取り出し、そこに書かれた名前を確認していく。十五カ所目で、「米谷」と書かれた上履きを見つけた。米谷がどのクラスなのか知らないため、虱潰しに探していくつもりだったが、早々に見つかりラッキーだ。そこに、あらかじめ用意してきた手紙を入れた。
手紙には、「米谷くんへ おとといはごめんなさい 鈍条崎ルチカ」と書いてある。
昨日、自宅に帰ったあと、ルチカは自分なりに考え、やはり米谷には謝ったほうがいいという気がしてならなくなった。書き込みのこととは関係なく、純粋におととい怒らせてしまったことを正面から謝罪がしたいと思ったのだ。そもそも、あのバス停でのトラブルがなければ、書き込みの犯人として真っさきに米谷を疑うことも、おそらくはなかった。きっかけは、わだかまりを作った自分にあったのだ。自己満足かもしれないが、謝らなければ、気がすまない。
しかし、米谷には、二度と話しかけるなと言われている。そうなると、ルチカの性格上、直接話しかけることもできない。おまけにスマホはウラハにあずけているので、連絡の手段もない。もっとも、スマホがあったところで、米谷のアドレスなど知る由もないのだが。
そこで、靴箱に手紙、という原始的な方法を取ることにした。なんとも不細工なやりかただが、これしか方法が思い浮かばなかったのだから、仕方がない。
許してほしい、というよりも、とにかくひとこと、お詫びがしたい。だから、シンプルな手紙にした。無論、書き込みのことには一切触れてはいない。
ルチカは靴箱のなかの米谷の上履きに一礼すると、教室へと向かった。
今日からは、普通の授業が始まる。
一時間目、数学。二時間目、英語。
そして三時間目は体育。体育の授業は、一年一組と一年二組の合同で行われることになっている。
授業内容は、生徒同士の親睦を深めるという意味を込めた、一組対二組のバスケットボールの試合である。前半五分、後半五分という、授業時間に合わせた独自のルールだ。
体育館には、二面のバスケットコートがある。ルチカは体育館の舞台に近いほうのコート、通称「第一コート」で行われる試合に出場することになった。
ふと、観衆のなかに、米谷を見つけた。クラスメイト数人と、楽しげに話している。
今朝出した手紙は、読んでくれただろうか。
気にしつつ、黄色い9番のゼッケンをつけ、コートに入る。ふいに、影が落ちてきて、知っている声が聞こえた。
「……あれ? ニジゲンじゃん!」
その呼び名に、硬直する。
顔をあげ、声の主を認識して、気が抜けた。
「こ、古賀くん……!」
影と声の持ち主。それは、赤い5番のゼッケンをつけた、古賀京次郎だった。
ルチカよりも十センチ以上背の高い古賀が、こちらを見おろしている。古賀のからだは筋肉質で、ルチカに比べてひとまわりは大きい。目の前に立たれると、それだけで圧迫感があった。
「なんだよ、なんか久しぶりだなあ。おまえ、二組だったのか」
「う、うん」
「そっか。ま、よろしくな。うちが勝つけど」
古賀は大口を開けた屈託のない笑顔で、ルチカの肩をバンバンと叩いた。どうやら、これから始まる試合の対戦相手らしい。
「う、うん。よろしく」
肩に感じた力強さと人懐っこさに、なつかしい思いが込みあげる。
古賀とルチカは、中学二年生のとき同じクラスだった。
当時のルチカも、いまと同じくクラスでは浮いた存在だったが、古賀は彼を疎外することなく接してくれる唯一の存在だった。古賀ももちろん、ルチカが「涙の色が見える」と公言しているのを聞いている。「なんだそりゃ、信じらんねえ」と信じてはくれなかったが、それ以上、からかうこともせず、ルチカを避けることもしなかった。
行動を共にするほど親交は深くなかったが、古賀は毎日、挨拶をしてくれた。同じ班になったときは、なにげなくみんなの輪に入れてくれた。席が隣になったときは、よく話しかけてくれた。
社交的な古賀にとってはあたりまえのことだったのだろうが、孤独な学校生活しか知らないルチカにとっては、それは異例の事態だった。そんな古賀の存在は嬉しくもあったが、自分に対する対応が他者とは違いすぎ、不思議にも感じられたほどだ。
古賀も、ルチカを「ニジゲン」と呼んではいるが、彼はルチカと別の小学校出身だ。あだ名の由来など知らず、みんなに倣って呼んでいるだけである。悪意がないとはいえ、それはそれでよくないことだが、ルチカのなかでは許容の範囲内だった。
なんにせよ、古賀と同じクラスだった一年間は、これまでのルチカの学校生活のなかで、一番、他人との会話が多く、比較的穏やかな、思い出深い年であったのだ。
古賀くんは、あのときと変わっていないな。
そう感じられ、ルチカの胸は温まった。
ウラハと出会えたとはいえ、ルチカはクラスに友達などいない。たとえルチカがいまこの場から消えても、誰も気がつかないかもしれない。しかし、古賀は高校生になったいまも、群衆のなかでルチカを見つけ、自分から声をかけてくれた。
肩に残る古賀の手のひらの感触が、自分がここに存在している証のようで嬉しかった。
「知り合いか? きょーじ」
赤い6番のゼッケンをつけた男子生徒が、親しげに古賀の肩に手をかけた。あまり好意的ではなさそうな眼でルチカを舐めるように見ながら、にやついている。
「おお。同中だったやつ」
古賀が言うと同時に、短くホイッスルが鳴った。
「始めるぞー。整列!」
体育教師が声をかけると、ゼッケンをつけた生徒はセンターラインに整列し、試合が開始された。
試合の前半は、古賀の活躍により一組のワンサイドゲームとなった。
後半が始まっても、古賀の勢いは止まらない。早々にボールを奪い、ディフェンスを鮮やかにかわしていく。ゴール下に切り込むと、いったん後ろにボールを戻し、リターンをもらって軽々とシュートを決めた。
中学時代にバスケ部の主将を務めていた古賀は、持っている技術が、他の生徒と比べて群を抜いている。ボールが、彼に懐いているように見えるほどだ。
ルチカはスポーツのなかではバスケットボールが好きなほうだったが、古賀が相手では到底敵わない。まったくついていけず、コートの真んなかで、ただ立ち尽くすしかできなかった。
得点ボードの横に陣取る女子生徒たちから、「きょーちゃ~ん!」という黄色い声援が飛ぶ。頬を染め、からだをくねらせて絶叫する彼女たちは、古賀と同じクラスらしい。
ただでさえ、古賀は大人びた顔立ちと、均整のとれたたくましいからの持ち主だ。そのくせ、笑顔は子供っぽく、愛くるしい。さらに運動神経抜群とくれば、女子生徒が目を奪われるのも、もはや自然現象と言っても過言ではなかった。
シュートを決め、白い歯を見せて笑う姿に、ルチカも思わずため息を漏らした。
ああ、古賀くんはやっぱりかっこいいな。でも――
無意識に、目を閉じる。
――でも、相変わらず、不思議だ。
中二のとき、僕が涙の色が見えるって話したら、古賀くんは「信じらんねえ」って言ったよね。あのとき、僕は傷ついた。でも、みんなとは違って、古賀くんは僕をバカにはしなかったんだ。信じてないのに、どうしてみんなみたいに僕を避けないのかが、すごく不思議で……それで、「なんで僕に話しかけてくれるの?」って聞いたら、「嫌なのか?」って言われて、「嫌じゃないよ」って答えたら、「じゃあ、いいじゃん。変なこと聞くなよ」って笑われて、聞くなよって言われたから、もうそれ以上はなにも聞けなかった。謎は解けないままだけど、そのときから古賀くんは、ほかのひととはなにか違う感じがしてたんだ。
そして、高校生になったいまも、僕に話しかけてくれた。やっぱり、不思議だ。
それでちょっと思ったんだけど、もし、いま、もう一回涙の色が見えるって話をしたら、古賀くんはなんて言うんだろう。中二だったあのころから、二年弱……いまなら、信じてくれたりしないかな? なにかが違う古賀くんなら、そんな可能性はないだろうか。たぶん古賀くんは、高校でもきっとバスケ部に入るよね。僕もバスケは好きだし、思い切ってバスケ部に入れば、古賀くんとの関係がなにか変わったりするのかな……そういえば、中学のときも一度、バスケ部に入ろうって思ったことがあったなあ。でも、僕のことをバカにするひとがバスケ部にもいたから、結局あのときは入部しなかった。高校のバスケ部は、どんなひとがいるんだろ……。
考えること十数秒。その間、ルチカは完全に目を閉じてしまっていた。
古賀のことを考えるあまり、授業に対して、集中力を欠いていたのだ。
みぞおちに、激痛が走る。
ルチカは自分の身になにが起きたのかもわからず、その場に崩れ落ちた。
「バカ、ぼっとしてんじゃねえ!」
赤の6番の怒号が、体育館に響く。うっすらと目を開けると、ひとの顔が見えた。
「わりい、大丈夫か?!」
声を聞いてようやく、目の前の青ざめた顔が古賀のものだと認識する。古賀はしゃがんで、ルチカの顔をのぞき込んでいた。
さきほど、古賀が鮮やかなシュートを決めたあと、ルチカが上の空だったあいだにも、当然、試合は続いていた。ドリブルでゴールに向かう黄色の6番を、古賀が追いかける。すぐに追つかれ、黄色の6番は黄色の15番にボールをパス。古賀はすぐさまそこへ走り、下からボールを叩きあげる。落下するボールを古賀がキャッチし、そこに黄色の15番が食らいつく。それを避けようと、古賀は腰を落とし、ボールを持ったまま勢いよく腕を横にふった。その腕をふったさきに、ルチカがいたのだ。
目を閉じていたルチカは、避けることもしなかったため、古賀の肘がみぞおちに入った。そして倒れていまにいたる、というのが、ことの顛末だ。
体育教師に保健室にいくかと聞かれたが、ルチカは平気だと答えた。腹部に痛みはあるが、ズキズキと鈍く疼いている程度だ。すぐに、治まりそうな感じがした。
「立てるか?」
心配そうな表情で、古賀が手をさし伸べる。
「う、うん……」
ルチカは古賀の手を握った。大きく、厚みのある手のひらだ。立ちあがろうと腹に力を入れた瞬間、激しい痛みがさし込んだ。古賀に悟られないよう、ぐっとこらえて立ちあがる。
「ごめんな。うしろ見えてなくて」
「ううん。僕のほうこそ、ごめん……」
試合再開の笛が鳴る。古賀がその音に反応してこちらから目を背けた瞬間、ルチカは急いで目のふちを手で拭った。緑色の涙が、ほんの少し手についた。
背後から、舌打ちが聞こえる。
「……てめえが悪いんだろ。泣いてんじゃねえ」
赤の6番が、いつの間にかうしろに立っていた。ルチカは、確かに試合中にほかごとを考えていた自分が悪かったと思ったので、なんの反論もしなかった。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴ると、ルチカは早足で体育館から教室へと向かった。
体育館から本校舎にある一年生の教室までは、東校舎を突っ切れば早い。しかしルチカは、ウラハとの「助手ルール」を守るため、東校舎の外側をまわって、本校舎へと繋がる渡り廊下を目指した。
親睦を深めるための体育でも、特に友達ができなかったルチカは、ひとりぼっちの復路だ。
さきほどの体育の授業の途中、一組の女子生徒が試合中に突き指をするというハプニングがあった。女子生徒は涙を流していたが、ルチカの出る幕などなかった。なぜなら、彼女は「痛い」と大騒ぎをしながら泣いていたからだ。たしかに、緑色の涙を流していた。本人の申告と、涙の色から推測できる泣いた理由が、一致している。こういう場合、ルチカがしゃしゃり出る必要はない。誰から見ても、彼女が泣いている理由が「突き指による痛み」であると、明白だ。心配ではあるが、緑色の涙はたまに自分でも流す見慣れた色であり、ルチカの心をとらえるほどの光景でもない。まわりの生徒たちに心配されながら保健室へと向かう女子生徒を、ルチカは気の毒そうに遠くから見ているだけだった。
涙の色が見える、という特殊な力を持っているとはいえ、実用的にそれを生かせる場面など、そうそう出くわさない。泣いているひとを見かけること自体もあまりないし、たとえ見かけたとしても、友達を作るきっかけになったことはない。心配して話しかけたところで、変人扱いされて、おしまい。それが現実なのだ。
ほかの生徒たちは東校舎を経由して教室に戻るため、校舎の外を歩くルチカのまわりに、同級生の姿はない。ひとり、もくもくと足を進め、ようやく渡り廊下が見えてきたときだった。
「おい、ニジゲン!」
聞こえたあだ名に、硬直する。
あれ? 古賀くん?
と思ったが、そうではない。明らかに、聞こえた声が古賀のものよりも高い。
ルチカは恐る恐る振り返り、息をのむ。
「よっ……」
米谷くん! と言いかけ、両手で口を押えた。
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