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第二章
青い春(3)
しおりを挟むウラハと別れ、ルチカが一年二組の教室に入ると、そこにはすでにたくさんのクラスメイトがいた。
いたるところで小規模の集団ができており、おのおの談笑している。ルチカを除き、ここにいる誰もが昨日出会ったばかりのもの同士だが、早くもみな、ある程度の関係を築いているようだ。
黒板の横に貼られた座席表を見て、ルチカは自分に割りあてられた右から三列目の一番後ろの席に着いた。着くやいなや、ルチカのもとに、二人組の少年たちが近づいてくる。
「よお」
ルチカはあたりを見まわし、その挨拶が自分に向けられたものだとわかると、微笑んだ。
「お……おはよう」
「なあ、昨日なんで休んだの? いなかっただろ?」
少年たちは、いちクラスメイトとして、ひとりだけ入学式を欠席したルチカに興味を持ったらしい。
高校に入学して、まだ二日。ある程度の関係を築いたとはいえ、みな、特に誰が自分と気が合う人物なのか、さぐりさぐりの段階だ。ルチカに話しかけてきた彼らも、青春時代の貴重な時間を共有する仲間候補を探している最中なのである。
少年たちにとっては、会話のきっかけとしての質問にすぎなかったのだが、ルチカは喜んだ。自分の存在を気にかけてもらえたのだと、顔いっぱいの笑みになる。
「う、うん。あの、昨日は、白い涙を流す僕にとって特別なひとと出会って、探して、追いかけて、助手になって、川に飛び込んだら服が濡れちゃって……それで、入学式にいけなかったんだ」
「……は?」
ふたりの少年の四つの瞳が、そろって丸くなる。
実はこのとき、この少年たちだけではなく、教室中が凍りついていた。ただひとり、一日遅れて登場したルチカの答えを、密かに耳をそばだて、ここにいる全クラスメイトが注目していたのだ。
「……なんか変わってんな、おまえ……」
後ずさりをするように、少年たちはルチカのもとから去った。そしてそれ以上、このクラスでルチカに話しかけるものは誰ひとりいなかった。
今日はまだ通常の授業がないため、始業式と帰りのホームルームが終われば、生徒は午前中のうちに下校となる。午後には教師の会合が行われるらしく、部活動もない。ルチカは一刻も早くウラハとの待ち合わせ場所に向かいたかったのだが、職員室内にある応接場で、始末書を書くことになってしまった。
原因は、昨日の入学式を無断欠席しためである。
昨日、入学式終了後すぐ、担任の小平という中年の男性教師から、ルチカの自宅に出欠確認の電話があった。
その際、ルチカの母親の麗奈は外出中で、電話に出たのは父親のキヨタだった。
キヨタはフリーでライターの仕事をしており、自宅の一室を仕事部屋としている。
キヨタと小平との電話のやりとりは、こうだった。
「ルチカは学校にいきましたよ」
「いえ、きてないんです」
「あー、じゃあ、あれですね。通学中に泣いてる女の子でも見つけて、ついていっちゃったんだと思います。あの子、たまにそういうことするんですよ」
ははは、と、キヨタは明るく笑って話したのだが、電話の向こうの小平は呆れかえっていた。
父親の呑気さもさることながら、父の語る息子像が軽薄すぎる。このたった数分間の電話で、鈍条崎親子が担任教師小平の反感を買ったのは言うまでもない。
キヨタの言うとおり、ルチカは通学中に発見した泣いている他人に関わって、学校を遅刻することがたまにあった。その件で担任から電話がかかってくると、これまではいつも母の麗奈が対応にあたっていた。
「ご心配をおかけしてすみません。うちの子は、泣いているひとをほうっておけない性格なんです」
それが、麗奈のお決まりのセリフである。子供のことで、嘘はつきたくない。しかし、本当のことを言っても、教師は納得しない。そこで、涙の色が見える、という詳しい説明は省き、教師にもわかる短い言葉のみを使って、なんとか場を収めてきたのだ。
しかし、今回電話に出たのは、麗奈ではなく父のキヨタである。キヨタは陽気かつ奔放で、バカ正直な性格だ。残念ながら、うまい配慮などできる人間ではなかった。
職員室の応接場には、テーブルを挟んで向かい合うように、ひとりがけのソファがふたつずつ置かれていた。ドアから見て、奥にある右側のソファにルチカが座らされ、となりのソファには、一年二組の副担任である「相原麻乃花」という若い新任の女教師が座っている。麻乃花は小柄な身体を余計に縮こまらせ、電源の入っているノート型パソコンをテーブルに置いた。さらにその横に、メモのようなものを置く。
「ごめんね。ちょっと学校のホームページに問題が起きちゃって、どうしてもすぐ対処しなくちゃいけなくて……」
麻乃花はルチカとの面談中に別の仕事をすることを申し訳なさそうにしているが、そもそも、ルチカに始末書を書くよう命じたのは、担任の小平である。しかし、当の小平は「始末書に、昨日無断で入学式を欠席した理由と、反省の念を書かせるように」と麻乃花に言い残し、さっさとどこかにいってしまった。昨日の電話でルチカおよびその父親に不快感を持ったせいか、問題児の実質的な面倒を、麻乃花に押しつけたのだ。
麻乃花は、ふわりとしたパーマをかけた濃い茶色のミディアム丈の髪に、淡いピンクのトップスに白いスカート、といったガ―リーなスタイルの女性だが、見た目に似合わぬ怪力の持ち主である。帰りのホームルームが終わり、帰ろうとするルチカを、彼女は引きずるようにして、無理やり職員室まで連れてきたのであった。
ルチカは手早く始末書を書きあげると、麻乃花に手渡した。ルチカの書いた一文を見た麻乃花は、眉をひそめる。
「……ひ、ひどいわ、鈍条崎くん。わたしのこと、新米教師だと思ってバカにしてるのね」
「え? してませんけど……」
「じゃあ、なんでこんなこと書くの?」
ふるえる両手で、ルチカに向けて始末書を突き出す。ルチカは自分の書いた反省の念を、改めて読んでみた。
白い涙を流す特別なひとと話がしたかったので、入学式にいけませんでした。無断欠席してすみません。
おかしい部分など、特にない。
「どうしてって……僕は本当のことを書いただけです」
麻乃花はからだをうしろに引くと、う、と小さく声を漏らした。ルチカの持つ特殊能力を一切知らない彼女にとっては、始末書に書かれた文章は奇怪だ。自分をからかっているようにしか思えない。
「もう帰っていいですか?」
「えっ?! ダ、ダメ。お願いだから、書き直して。これじゃ、鈍条崎くんもわたしも小平先生に怒られちゃうでしょ……?」
「そんなこと言われても……それ以外に理由がないので、書き直せません。あの、僕用があるので帰りますね。失礼します」
「えっ……ま、待って!!」
頭をさげ、席を立つルチカの腕を、麻乃花は強引につかんだ。ルチカはバランスを崩し、うしろ向きに倒れ込むように、再びソファに座る。
ルチカの腕を強く握ったまま、麻乃花は深刻な顔で、声をひそめた。
「待って! もうひとつ、重大な話があるの……!!」
「な……なんですか? 僕、早く帰りたいんですけど……」
「すぐ、すぐすむからお願い。わ、わたしね、ほんとにパソコンが……ってゆうか、もう機械全般が苦手なの。なのに、いきなりうちの高校のホームページの管理担当になっちゃって、わけがわからなくて困ってるのよ。でも、前任の先生はもう帰っちゃったし、年配の先生がたは【パソコンは若い人の仕事】って話も聞いてくれなくて……いま、早急に対応しなくちゃいけないことがあるんだけど、使ったことがない学校のパソコンで、ひとりで作業するのがもう、怖くて怖くて……お願い、助けてくれない……?」
麻乃花はルチカの腕にしがみつき、力強くしめつけた。ルチカは逃れようともがいたが、まったく歯がたたない。
「は、離してください。僕も、パソコンとか詳しくないですよ」
「大丈夫、誰だってわたしよりはマシだわ。わたしなんて、高校時代に学校のミシンとコピー機とシュレッダーと空調とパソコン壊して、クラッシャー麻乃花っていうあだ名がついて、映像研究会にアニメ化までされちゃって……ああっ、ダメ。暗黒の過去がよみがえっちゃう……!」
麻乃花はいっそう、ルチカをつかんだ手に力を込めた。その瞳は、潤んでいる。
涙が眼球の表面をおおっている時点では、ルチカにもまだ透明に見える。色づいて見えるのは、涙がまぶたという枠から少しでも外へ出た瞬間からだ。
あっという間に、麻乃花の瞳からピンクの涙がほほに流れ落ちた。
ピンクは、恐怖の色だ。
どうやら、よほどパソコンに恐怖心があるらしい。
よく見ると、涙には紫色も混じっている。ごく微量だが、赤い色も含んで見えたのは気のせいか。
ルチカは困惑した。
早くウラハに会いたい気持ちと、麻乃花を助けたい気持ちが交錯する。
気持ちを察知していながら、自分を頼ってくれるひとを放っておくのは心苦しい。
妙なあだ名をつけられたという麻乃花の過去が、自分と重なっても見える。
それに、どのみち、協力しない限り、麻乃花は腕を離してくれそうもない。
ルチカは小さく息を吐くと、姿勢を正して座り直した。
「……ほんとに、すぐすみますか?」
「う、うん。すぐ、すぐ終わるから! わたしがやることを、合ってるかどうか確認してくれるだけでいいの。あのね、とりあえず、この書き込みを削除したいんだけど……」
麻乃花は片手でルチカをつかんだまま、もう片方の手で急いで涙を拭き、パソコンの画面をルチカのほうへ向けた。
画面には、光釘高校のホームページが映し出されている。淡い色調の背景に、「質問コーナー」というタイトルが奇抜なオレンジ色で大きく書かれている。麻乃花が指さしたのは、閲覧者からの書き込みのひとつだ。それを見たルチカは、自分の目を疑った。
死ね死ね死ね死ねニジゲン!
おまえなんて学校に来るな!!
この世から消えうせろ!!!
目に飛び込んできたのは、自分への悪口である。いや、悪口などという常用物のレベルではない。
突きつけられたのは、自分の生命の終わりを願っているものがいる、という証明である。
あまりに突然のことに、なにが起こっているのか理解ができない。ルチカは画面を凝視したまま硬直した。フリーズしているルチカを見て、麻乃花はため息を吐く。
「……このコーナーね、本来は閲覧者からうちの学校に対する質問を募集する掲示板……? 情報交換の場? みたいなものらしいんだけど、昔からたまにこういう類のよくない書き込みがあるみたいなの。でも、投稿者は匿名だし、犯人が自分の持ちものを使ってこんな書き込みしないだろうし、脅迫でもなければ事件が起きたわけでもないし、削除するしか対処法がないって前任の先生が言ってたわ。ほら、今回だって、書かれてるニジゲンっていうのもなんのことなのか、わたしたちにはわからないでしょ? 生徒のことなのか、教師のことなのか、それとも全く関係のないひとなのか……誰のことだとしても、なんか気が滅入っちゃうよね……このコーナー、わたしはなくしたほうがいいと思ってるけど、なくしただけでいいと思う? この学校、ちゃんといじめの対策とかしてるのかなって、不安にもなっちゃうわよね……気合十分で教師になったのに、さっそくこんな現実にぶちあたるなんて、もうめげちゃいそう……はっ! ……ご、ごめんね、つい本音が……いまの話、誰にも内緒にしてね。お願い、ね?」
かたわらで麻乃花が話している声は聞こえていたが、その内容はルチカの頭には入ってこなかった。
ニジゲン。
それは他ならぬ、鈍条崎ルチカのあだ名である。
そう呼ばれるきっかけとなったのは、ルチカが小学三年生になったある日のことだった。
教室で机に向かっていたルチカは、クラスメイトの男の子に、持っていたノートを取りあげられた。そのノートの表紙には「なみだノート」と書かれており、なかにはルチカに見える涙の色に関することがらがまとめてあった。ウラハに渡した「僕を信じてくれたあなたへ」というノートの前身である。
謎めいたノートを見て騒ぎ出したクラスメイトたちに、ルチカは自分には涙の色が流す感情ごとに違って見えると改めて説明した。しかし、それを聞いたみんなから、嘘つきと罵られてしまう。多感な成長期をむかえつつあったクラスメイトたちは、ファンタスティックなルチカの話を誰も信じなかったのだ。
そのうえ、受け流すこともしなかった。誰かの「鈍条崎、二次元在住なんじゃねえの?」というひとことで教室に笑いが起こり、そこからルチカは「ニジゲン」と呼ばれ始めたのである。
もちろん、ルチカは「ニジゲン」、と呼ばれることに抵抗を感じ、クラスメイトにやめてくれるように訴えた。しかし、狡猾なクラスメイトは、「別に、ニジゲンって悪い意味で言ってるんじゃないよ。てゆか、ニジゲンが嫌なら嘘つき、って呼ぶけど、いいの?」と残酷な脅しを言った。
ルチカは結局丸め込まれてしまい、それ以来、ニジゲンというあだ名を嫌だと思いつつも拒まなくなってしまったのだ。
ちなみに、米谷朋樹はちょうどそのころルチカと同じクラスであり、ルチカを嘘つきと罵ったうちのひとりだった。
これはルチカにとって、悪しき革命の記憶である。
ニジゲンと名づけられるずっと前から、ルチカは自分の特殊な能力を臆せず口にしていた。しかし幼いころは、同世代には「ルチカくん変なのー」ですまされ、大人には「おもしろいことを言うのねー」と流されてきたのだ。
それが、小三のこのときはじめて、明確に自分を否定されたのである。
この革命を機に、それ以来ルチカは同級生のなかで明らかに疎外されるようになった。
変人、嘘つき、頭がおかしい……などなど。
過去に他人から受けた、悪口めいた言葉は数々ある。
しかし、「死ね」という生死にかかわる言葉は今回がはじめてだ。言葉自体は世の中に氾濫しているありふれたものであるのに、それが自分に向けられたとたん、とてつもなく恐ろしい凶器を突きつけられた気分になる。
ルチカは画面を見つめたまま、自分の心がじわじわと冷たく真っ黒な闇にむしばまれていくのを感じた。
「……これを選択して、それで……えっと、ここをクリック……? したら、削除できるってことでいいのよね? あっ、削除って書いてある。書いてあるから、ここでいいのよね? ホームページ丸ごと削除、とか、爆発して学校ごと削除、みたいなことになったりしないよね?」
右手にマウスを握りしめ、麻乃花はひとつひとつメモを見ながら確認をし、作業を進めていく。よっぽど自信がないらしく、ルチカの顔とパソコンの画面を交互にちらちらと見ている。
ルチカはおもむろに麻乃花からマウスを奪うと、無言で書き込みを削除した。
「……あ、消えた! 消えたの? 消えたのよね……? これで、もう大丈夫なの?」
麻乃花の質問には答えず、ルチカは小さく深呼吸をする。
どうして?
こんなこと、一体、誰が?
ニジゲン。
僕をそのあだ名で呼ぶのは、同じ小、中学出身の同級生だけだ。
ということは、そのなかの誰かが書き込んだということだろうか。
学校にくるな、という文面からして、光釘高校の関係者と考えてもいいように思える。
同じ中学から光釘高校に入学したのは、僕を除けば、古賀くんと米谷くんのふたりだけだ。
彼らとは、特に深い親交はない。それに、恨まれる覚えも……。
「……あ!」
ルチカは青ざめ、立ちあがった。
米谷朋樹。彼に恨まれる覚えは……ある。
昨日の朝の出来事だ。ルチカは米谷とまりあのふたりを怒らせてしまった。
まさか、あれが原因……?!
ルチカはもつれる足で、職員室のドアに向かって歩き出した。
「あ……ありがとう。本当にどうもありがとう。このことはくれぐれも、ひ、秘密にしてね……!」
麻乃花は、安堵の表情を浮かべている。始末書の一件は、すっかり忘れてしまっているようだ。
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