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第二章
青い春(1)
しおりを挟む高校生活、二日目。
午前六時二十分、ルチカは学校に着いた。ウラハの決めた待ち合わせ場所、裏門にあるというウサギの像を探す。
裏門は駐車場の出入り口になっており、本校舎の影におおわれていて、薄暗い。敷地を囲むようにフェンスが設置され、それに沿うように、点々と広葉樹が植えられている。ルチカがここへきたのははじめてだったが、探し物はすぐに見つかった。
像があったのは、裏門から少し離れた桜の木の横だ。ブロンズ製で、ルチカが想像していたよりもはるかに大きく、高さが二メートルはある。細長いウサギが後ろ足で立ちあがり、両前足を広げたデザインだ。土台につけられたプレートには、「タイトル 背中のかゆみに耐えるウサギの像 作 ミヒャエル・ジェララールン」と書かれている。
作者のミヒャエル・ジェララールンという人物は、美術界では知る人ぞ知る個性派アーティストなのだが、芸術に疎いルチカは、作品を見ても「背中が自分でかけないなんて、ウサギも大変だなあ」と感じただけだった。
ウサギの裏側をのぞいてみる。まだウラハさんはいないな……と思ったとき、ひとの気配がした。 振り向くと、そこには眠そうな顔をした愛しきひとの姿があった。
「あ、おはようございます!」
幸福感が胸にあふれる。
約束どおり、ウラハさんが待ち合わせにきてくれた。
なにげない挨拶をできることが、嬉しくてたまらない。ルチカはにこにこしながらウラハからの挨拶を待ったが、ウラハは目を擦りながら頷いただけだった。
「……いくよ、こっち」
気怠そうなウラハに連れられ、誰もいない校庭を横切る。校庭の端まで歩き、辿り着いたのは使われてない小さなテニスコートの前だった。
去年、光釘高校は学校外に新しく広いテニスコートを作ったため、ここは用済みとなり放置されているらしい。コートを囲む金網でできた高いフェンスの入り口のドアには、鍵がかけられている。フェンスのなかは、そこらじゅうに草が生い茂り、現役だったころの面影はない。かろうじて、所々に白っぽいラインが見えるくらいだ。
ウラハは力任せに鍵を引きちぎると、入り口のドアを開けた。金属製のちゃちな鍵は、錆びて壊れていたようだ。
「ここで作ることにしたから、草抜いて。全部ね」
そう言うと、ウラハは大きなあくびをした。
「……ここで作品を作るんですか?」
「そうよ。助手の分際で、なんか文句ある?」
「い、いえ。勝手になかに入ってもいいのかな、と思って」
「いいんじゃない。立ち入り禁止って書いてないし、あんたはこの学校の生徒だもん。学校のものは、生徒のものでしょ。ほら、早く入れ!」
「は、はあ」
ルチカはドアの外にバッグを置き、フェンスのなかに入る。ひざの丈ほどに成長した雑草に囲まれ、若干背中がぞわりとした。あまり居心地のよくない空間だ。
気を引きしめ、二、三歩進むと、ドアに背を向けるようにしゃがみ込み、足もとの雑草を抜き始める。ブレザーの袖が手にかかって邪魔だ。いったん手を止めてブレザーの袖を折り返し、再び除草作業に取りかかった。
ウラハはテニスコートには入らず、ドアの横のフェンスにもたれかかっている。
「……あ!」
草を二本抜いたところで、ルチカは手を止め、立ちあがった。そのままフェンスの外に出ると、バッグのなかに手を入れ、なにかを探し始める。
「……おい、なにサボってる」
ウラハはからだは動かさず、視線だけをルチカに向けた。
ルチカはバッグから一冊のノートを取り出すと、ウラハにそれをさし出す。
「これ、よかったらもらってください」
「……なんだよ」
ウラハの視線が、ノートに動く。ノートの表紙には、「僕を信じてくれたあなたへ」と中字の黒い油性ペンで書いてあった。
「僕が涙の色が見えるってことを信じてくれるひとがあらわれたら、渡そうと思って書いたノートです。僕のことをもっと知ってもらうために、いろいろ書いてあるんです」
「……なによ、それ。押しつけがましいわね」
ウラハは半分閉じた目でノートをひったくり、無造作にぽいっと投げ捨てた。ノートは空中で広がり、そのまま地面に落ちていく。
「ああっ……!」
すぐさま、ルチカは捨てられたノートを拾い、砂を払う。うつむき、さみしそうにノートを見つめる。
「なにも捨てなくても……この日のために、小学生のときから書き始めて、何冊も書き直した涙の色の研究の結果なのに……」
「涙の色の研究……?」
ウラハの目が見開いた。
「はい……。どんな感情のときに、なに色の涙が流れるか、まとめてあるんです。自分の経験とか、親に協力してもらったりとか、テレビで泣いてるひとを見たりとか、街で泣いてる赤ちゃんとかたまに大人のひとを見たりとかして書きました。これを読んでもらえれば、話がはずむかなって……あ、でも、まだ白い涙の部分はまだ書いてないんです。だから、そこはウラハさんが自分で書いてくれればいいなって、思ってたんですけど……」
ウラハはフェンスにもたれていたからだを起こした。ルチカの正面に立ち、両足を肩幅に開いて腕を組む。
「……そんなの、小学生のときから書いてたの? あたしに会う前ずっとから?」
「はい。いつか、僕を信じてくれる特別なひとに渡せる日がきたらいいなって思って書いてました」
「……一生、自分を信じてくれるひとがあらわれなかったら、どうするつもりだったの?」
「それは……考えてなかったので、わかりません」
どんなに他人から嘘つきと呼ばれても、ルチカは希望だけは持っていた。
いつかきっと、僕を信じてくれるひとがあらわれる。そう信じることが、心の支えだった。涙の色についての情報をまとめる作業自体も純粋に楽しかったが、一番の楽しみは、ノートを受け取ってくれる、まだ見ぬ誰かに思いをはせることだったのだ。
「……あげるあてもないのに書き続けてたなんて、憐れな人生だったのね」
ウラハはため息交じりでそう言うと、ルチカが両手で大切そうに持っているノートに手をかけた。 ルチカははっとして、手に力を込める。「お願い、もう捨てないで」、そんな思いを込めて。
「渡しなさいよ。あたし、色がすきなの。だから見てあげてもいいわ」
思いもしなかった言葉に意表をつかれ、ルチカの両手は抵抗をやめた。ノートがウラハの手に渡る。
彼女がしっかりとノートを持つ姿を見た瞬間、ルチカの口もとはほころびた。
「……もらってくれるんですか? あ、ありがとうございます!」
「ばーか、別にあんたのためじゃないわよ。わかったら、さっさと仕事にもどれ!」
ウラハはふくれっ面でそっぽを向く。気のせいか、頬に赤みがさしているように見えた。
雑草天国に戻ったルチカは、再び草むしりを開始する。今度は、ウラハの姿が見えるように、出入り口のほうを向いてしゃがんだ。草を抜く手は、軽やかだ。
嬉しさが隠せず、笑いが込みあげる。
からだの奥から湧いてくる活力を、手近に生えるホウレンソウに似た雑草にぶつけてみることにした。濃いグリーンの大きな葉をつかんで引き抜くと、手のひらの中央が赤くなり、痛んだ。しかし、いまの浮かれたルチカには、そんなことは苦ではない。一時的に手が痛くなった程度では、緩んだ顔はもどらなかった。
「……ねえ」
ふいに、ウラハが問いかける。
「いろんな感情が混ざってるときは、どうなるの?」
ルチカが顔をあげると、ウラハはさっそくノートを読んでいた。
あのノートを、ちゃんと読んでくれているひとがいる。こんな日がくるなんて。
ルチカは両手と口を開いて身をふるわせた。興奮で息がつまり、声が出ない。
ウラハの視線は、同じ部分を何度か往復している。見ているページには、感情と涙の色との関係が、ずらりと羅列されていた。
怒っているとき……赤色の涙(カーマインに近い)
さみしいとき……青色の涙(セルリアンブルーに近い)
悲しいとき……紫色の涙(江戸紫に近い)
嬉しいとき……黄金色の涙(ゴ-ルドに近い)
痛いとき……緑色の涙(若干、青みがかっている)
同情しているとき……紺色の涙(ネイビーブルーよりも暗い)
あくびをしたとき……無色の涙(透明)
このような文章が、ノートには延々と書かれている。
「これ、ひとつの色につき、ひとつの感情しか書いてないじゃない。でも人間って、ただ悲しいとか、怒ってるとか、そんな単純明快な理由だけで落涙するわけじゃないでしょ。たとえば旦那に浮気されて腹立って悲しい主婦は、赤と紫が混ざって赤紫の涙を流すの? 絵の具みたいに色が混ざるの?」
ルチカは無理やり息を吸い、一度咳払いをすると、立ちあがり、嬉々として答えた。
「は、はい! あの、複数の感情を持って泣いたとしても、涙の色は混ざりません。涙のなかに、すべての感情と同じ数の色が混ざらずに見えるんです。ちなみに、涙が乾いて泣いたあとだけが残っても、色は混ざりません」
「複数の色が混ざらずに、涙として流れてくるの?」
「はい。たとえば、さっきウラハさんが言ったように、怒っていて悲しいときは、赤と紫が共存する……そうですね、迷彩柄のような涙が流れるんです。ちょっとわかりにくいですけど……あ、でも嘘泣きのときだけは、たとえどんなことを思い出して泣いたとしても、一律で橙、オレンジ色の単色となります。本人が嘘泣きだと意識していれば、必ず橙色になるみたいで……詳しくは、四ページ目に特集を組んでありますので、よかったらぜひ」
「ふーん……あっそう。混ざらないんだ、パステルみたいね……」
ウラハはひとり言のように小声でつぶやいた。依然として、視線はノートに向いたままだ。
ルチカは口をうっすら開けたまま、胸に手をあて、うっとりとウラハを見つめた。
ああ、なんて素敵な会話なんだろう。
ノートを書いたかいがあった。
楽しく、心躍るこの時間が、永遠に続けばいいのに。
もっともっと、話がしたい。
ルチカのなかで、これまで押さえつけてきた欲求がうずきだした。
小走りで再びフェンスの外へ出て、ウラハの横に立つ。
「あの、僕の思ったこと、聞いてもらってもいいですか?」
「っ?!」
フェンスのなかにいたはずのルチカが、いつの間にか目の前にあらわれたことに驚き、ウラハは半歩、からだをうしろに引いた。
ルチカはウラハの返事を待たず、勝手に話し始める。
「昨日、家に帰って考えたんです。白って、どちらかといえば黄金色に近いかなって。だから、ウラハさんが泣いてたのは、なんとなくいい理由なんじゃないかって気がしてきたんです。白って、一般的に言われている色の持つ印象でも、清潔感とか、純粋さとか、いいイメージが多いですよね。僕に見える涙の色が示す感情は、一般的なカラーイメージとはそんなに一致しないんですけど、今回はあたるといいなって思ってます」
「……は?」
「あっ、それと、保育士さんってどう思いますか? これまで僕、涙の色が見えることを、生活のなかで活かせたことがなかったんです。でも、泣いている赤ちゃんが相手なら、役に立てるんじゃないかって、あるとき気がついたんですよ。だけど僕は弟や妹もいないし、子供のいる親戚も近くにいないから、実践はできてなくて……街で知らない親子に声をかけたことは何回かあるんですけど、役に立つどころか不審に思われてばっかりだったので、保育士さんになったらいいのかなって思ったんです。あ、でも、保育士さんなれなくても、僕が結婚して、もし自分の子供が生まれたら、とってもいいなっていうのも思ってて……」
ウラハの手が、さきほどまでもたれかかっていたフェンスに伸びる。金網を掴んだ手に、徐々に力を込めていく。
「あ、そうだ! そういえば、すごい話があるんですよ! 去年の夏休み、コンビニの駐車場で青い風船を持ったおばあちゃんが泣いてたんです。黄金色の涙だったんですけど、あまりにすごい勢いで泣いてるので、僕はなにかあったんですかって声をかけたんです。そしたら、実はなんとそのおばあちゃんは二十五年前の……」
「黙れ!!」
怒鳴ると同時にウラハの左足がフェンスを蹴り、ガシャン、と大きな音が鳴った。
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