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ミシェルの羨望
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貴族学院、その講義はミシェルにとって苦痛でしかなかった。
この国の歴史も礼儀作法もなにもかもが自分からは遠い所にあった。
はぁと嘆息して盗み見るのは窓際の席で背筋を伸ばしているリディアルだ。
鈍色の髪はどこまでもまっすぐで窓から差し込む光に淡く輝いている。
憂いのある横顔、つんと高い鼻、けぶるような睫毛に縁取られた淡い緑の瞳、完璧で人形のような人。
自分とは正反対のなにもかもを持って産まれた人。
ハワード伯爵領、領主館のお膝元の街でミシェルは産まれた。
領主の妾の子として産まれたが、母は大人しい性質だったのでそのまま市井に留まりミシェルを育てた。
その風向きが変わったのはハワード伯爵の奥方が儚くなってからだった。
「王都?」
「そう、お父様に呼ばれているのよ」
「なんで?」
「奥様が亡くなったの」
男爵家の傍系の血筋の母は、その縁で伯爵家で侍女として仕えていた時に父に見初められた。
奥方は華やかな王都を好み、田舎の領地に来ることはなかった。
王都の正妻と領地の妾、冬だけ訪れる父、歪な家族関係だった。
「母さんだけ行けば?」
ミシェルはこの田舎の地が好きだった。
侍女を辞めた母は、街で一番の宿屋で働いていた。
ミシェルもその宿屋の厨房で雑用として働いていて、もうそろそろ包丁を持ってもいいかもしれないと言われていたのだ。
来る日も来る日も野菜の土を落とし、皿を洗い、小型ナイフで芋の皮むきをする日々。
「包丁持てるって言われてるんだ」
「奥様には御子が出来なかったのよ。ミシェル、わかるでしょう?」
ふるふると首を振りながら言う母は涙ぐんでいた。
母だって今更なのだろう。
ずっとずっと市井で暮らしてきた、それが貴族の仲間入りをするという。
上手くやっていける自信なんて欠片もない。
けれど、涙を流す母に逆らうことなんてこともできない。
たった一人の家族なのだから。
遠く去っていく領主街を御者台からいつまでもミシェルは見つめていた。
亡失の思いで見つめた同じ瞳で、今は憧憬の眼差しをかの人に送っている。
入学式典の朝、キラキラと輝く黄金の髪に見たことのない美しい紫の瞳をもつ人に出会った。
洗練された所作に優しげに微笑まれて思わず息を飲んだ。
無知で間抜けな自分を嘲ることなく接してくれた。
この国の第二王子だと知った時は血の気が引いたが、学院は貴賎なしだからとまたあの優しい笑みを浮かべた。
世の中にこんなにも素敵な人がいるのか、と思った。
「ミシェル、リディアルは私の婚約者だ」
「そうなんですね」
式典が終わったあとの校内見学にリディアルは来なかった。
それにフレデリックが気落ちしていることに、なんと声をかければいいのかわからない。
窓枠がミシミシと音を立てるくらい力の入った手、食い入るように見つめるその先を見てもなんと声をかければいいのかわからない。
どうしてその笑みをフレデリックに見せてやらないのか、婚約者なのにとミシェルは思う。
そして、その理由がわかった。
入学してから儚げな雰囲気だったのが、いよいよ危なげな雰囲気になったリディアルが体調不良を訴えたのだ。
講義室を後にするリディアルの表情は切羽詰まったような、見たことのない顔だった。
救護室へはフレデリックと共に向かったが、そこにリディアルはいなかった。
必死に探しまわるフレデリックを見て、リディアルが羨ましいと思った。
地位も美貌もなにもかもを持って産まれてきて、素敵な人にこんなにも想われている。
「兄上!」
騎士科の演習場というだだっ広い広場のようなところにもリディアルはいなかった。
額に汗してこんなにも一生懸命探し回っているのに、リディアルはフレデリックではない男に抱かれていた。
「・・・自治会長?」
ギュッとシャツを握るリディアルが飛び込んできた。
「兄上、ありがとうございました。この先は私ひとりで大丈夫ですので」
フレデリックの腕に抱かれたリディアルの腕はだらりと垂れた。
皺が寄るまで握られたシャツと力無く投げ捨てられた腕。
あぁそうか、と腑に落ちた。
目を細めてじっと去っていくフレデリックを見る自治会長の瞳には悔しさが滲んでいた。
「あの、自治会長ですよね?」
「・・・君は?」
「あ、ミシェルといいます。ハワード伯爵家の」
「そうか」
目が合った自治会長の瞳はさっきまでの悔しさなど無く、フレデリックによく似た優しい瞳をしていた。
「リディアルさまは・・・」
「あぁ、大丈夫だよ。フレッドがついてるから。君も講義室に戻りなさい」
自治会長はそれだけ言うと第二学舎の方へと行ってしまった。
伸びた背筋がなにを語っているのかまではわからない。
「リディアルさまはずるい」
ぽつりと落ちた言葉は、思いがけずミシェルの心に染み渡った。
いらないならちょうだいよ。
なにもかも持ってるんだ、ひとつくらいなにもない自分にくれたっていいじゃない。
この国の歴史も礼儀作法もなにもかもが自分からは遠い所にあった。
はぁと嘆息して盗み見るのは窓際の席で背筋を伸ばしているリディアルだ。
鈍色の髪はどこまでもまっすぐで窓から差し込む光に淡く輝いている。
憂いのある横顔、つんと高い鼻、けぶるような睫毛に縁取られた淡い緑の瞳、完璧で人形のような人。
自分とは正反対のなにもかもを持って産まれた人。
ハワード伯爵領、領主館のお膝元の街でミシェルは産まれた。
領主の妾の子として産まれたが、母は大人しい性質だったのでそのまま市井に留まりミシェルを育てた。
その風向きが変わったのはハワード伯爵の奥方が儚くなってからだった。
「王都?」
「そう、お父様に呼ばれているのよ」
「なんで?」
「奥様が亡くなったの」
男爵家の傍系の血筋の母は、その縁で伯爵家で侍女として仕えていた時に父に見初められた。
奥方は華やかな王都を好み、田舎の領地に来ることはなかった。
王都の正妻と領地の妾、冬だけ訪れる父、歪な家族関係だった。
「母さんだけ行けば?」
ミシェルはこの田舎の地が好きだった。
侍女を辞めた母は、街で一番の宿屋で働いていた。
ミシェルもその宿屋の厨房で雑用として働いていて、もうそろそろ包丁を持ってもいいかもしれないと言われていたのだ。
来る日も来る日も野菜の土を落とし、皿を洗い、小型ナイフで芋の皮むきをする日々。
「包丁持てるって言われてるんだ」
「奥様には御子が出来なかったのよ。ミシェル、わかるでしょう?」
ふるふると首を振りながら言う母は涙ぐんでいた。
母だって今更なのだろう。
ずっとずっと市井で暮らしてきた、それが貴族の仲間入りをするという。
上手くやっていける自信なんて欠片もない。
けれど、涙を流す母に逆らうことなんてこともできない。
たった一人の家族なのだから。
遠く去っていく領主街を御者台からいつまでもミシェルは見つめていた。
亡失の思いで見つめた同じ瞳で、今は憧憬の眼差しをかの人に送っている。
入学式典の朝、キラキラと輝く黄金の髪に見たことのない美しい紫の瞳をもつ人に出会った。
洗練された所作に優しげに微笑まれて思わず息を飲んだ。
無知で間抜けな自分を嘲ることなく接してくれた。
この国の第二王子だと知った時は血の気が引いたが、学院は貴賎なしだからとまたあの優しい笑みを浮かべた。
世の中にこんなにも素敵な人がいるのか、と思った。
「ミシェル、リディアルは私の婚約者だ」
「そうなんですね」
式典が終わったあとの校内見学にリディアルは来なかった。
それにフレデリックが気落ちしていることに、なんと声をかければいいのかわからない。
窓枠がミシミシと音を立てるくらい力の入った手、食い入るように見つめるその先を見てもなんと声をかければいいのかわからない。
どうしてその笑みをフレデリックに見せてやらないのか、婚約者なのにとミシェルは思う。
そして、その理由がわかった。
入学してから儚げな雰囲気だったのが、いよいよ危なげな雰囲気になったリディアルが体調不良を訴えたのだ。
講義室を後にするリディアルの表情は切羽詰まったような、見たことのない顔だった。
救護室へはフレデリックと共に向かったが、そこにリディアルはいなかった。
必死に探しまわるフレデリックを見て、リディアルが羨ましいと思った。
地位も美貌もなにもかもを持って産まれてきて、素敵な人にこんなにも想われている。
「兄上!」
騎士科の演習場というだだっ広い広場のようなところにもリディアルはいなかった。
額に汗してこんなにも一生懸命探し回っているのに、リディアルはフレデリックではない男に抱かれていた。
「・・・自治会長?」
ギュッとシャツを握るリディアルが飛び込んできた。
「兄上、ありがとうございました。この先は私ひとりで大丈夫ですので」
フレデリックの腕に抱かれたリディアルの腕はだらりと垂れた。
皺が寄るまで握られたシャツと力無く投げ捨てられた腕。
あぁそうか、と腑に落ちた。
目を細めてじっと去っていくフレデリックを見る自治会長の瞳には悔しさが滲んでいた。
「あの、自治会長ですよね?」
「・・・君は?」
「あ、ミシェルといいます。ハワード伯爵家の」
「そうか」
目が合った自治会長の瞳はさっきまでの悔しさなど無く、フレデリックによく似た優しい瞳をしていた。
「リディアルさまは・・・」
「あぁ、大丈夫だよ。フレッドがついてるから。君も講義室に戻りなさい」
自治会長はそれだけ言うと第二学舎の方へと行ってしまった。
伸びた背筋がなにを語っているのかまではわからない。
「リディアルさまはずるい」
ぽつりと落ちた言葉は、思いがけずミシェルの心に染み渡った。
いらないならちょうだいよ。
なにもかも持ってるんだ、ひとつくらいなにもない自分にくれたっていいじゃない。
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