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空っぽのようなもの
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あの日、食堂へ向かうあの人の会話を聞いてからニコラスは騎士団本部に引きこもりになった。
宿舎と本部の往復で、訓練と事務仕事しかしていない。
騎士団食堂の厨房では、ニコラスの為に『初心者でも作れる料理』という冊子を作ったが肝心の本人は一向に厨房に現れなかった。
食事時には、無表情でサッと食べて出ていってしまう。
「ニコラス、あのな・・・」
「なんですか?」
「あ、いや、なんでもない」
率直に怖い、と思ったリスベルは口を噤んだ。
数日前まではふわふわと浮き足立っていたのが、今は表情もなく黙々と書類仕事をこなしている。
することが無くなれば、資料室へ行って整理したりインクが薄れているものを書き直したりと雑務ばかりしている部下になんと声をかければ良いものか。
直近のリスベルの悩みであったし、ニコラスの変化を見てとった団員たちも心配していた。
そんな折、ニコラスに父から文が届いた。
ニコラスの生家は王都にあるので足を向けようと思えばいつでもそうできた。
けれど長女である姉は既に伴侶を娶り、共に暮らしている。
そんなこともあり自然に足が遠のいた。
ニコラスはふるふると頭を振った。
油断するとすぐに思い出してしまう。
初めてパブで一緒に飲んだ、送ってもらった、心配だからと。
思い出すのはバーベナのすっきりとした香りとほんのり甘いチェリー酒の匂いと夜道に落ちる声。
思いを振り切るように開いた文には、父の達筆な字が並んでいた。
曰く、婚約の打診があったが断るつもりだ。
それで良かっただろう?と。
自分は騎士としての道を歩む、そう家族に宣言していた。
数多あった打診は全て断ってきた。
今回もそれだけの話だ。
「・・・受けようか」
宿舎の自室で独りごちる。
あぁでもこんな気持ちを抱えたままでは相手に失礼か、そう思い直しニコラスはペンをとった。
あれが手に入らないのなら何もいらない。
そうして父に返事を送り、相変わらず悶々と日々を過ごしていく。
きっとこのままここに骨を埋めるのだろう。
騎士団本部の裏庭は、泣きながら食べたあの日からニコラスの隠れ場所になった。
ペタリと地面に座り込んで壁にもたれてぼんやりと空を眺める。
建物の影になったそこはひんやりとしていて、花も咲かずに草だけが生い茂るので誰か来ることも無い。
そう、今までは誰も来なかった。
なのに足音が聞こえてくる、濃くなっていくバーベナの香り。
なんで?と、どうして?がぐるぐると巡る。
ここは誰にも言ってない秘密の場所なのに。
「ニコラス君」
ひょこりと角から顔を出したその人は、忘れたくとも忘れらない人だった。
こんなとこにいたんだねぇ、とのんびりと言ってよいしょと同じように座る。
「なんだか久しぶりだね」
そう言う瞳には影が差していて、少し暗い。
目を合わすことができない。
それに、まだおめでとうという決心がついていない。
言わなきゃ、そう思うのに鉛でも飲み込んだみたいに声が出ない。
「私は、何かしてしまったかな?」
なにか、なにかって誰か他に想う人がいたんでしょう?
弟としか見てなかったんでしょう?
こんなのはただの八つ当たりで、ただ自分が浮かれて自惚れていただけ。
もしかしたら同じ気持ちなんじゃないかと、夢見ていただけ。
遅くきた初恋の熱にうかされていただけ。
日陰の風は冷たい、さわさわと通り過ぎるそれは容赦なく二人にも吹きつける。
くしゅっと思わず出てしまったくしゃみと鼻水に、なんでこんな時にと嫌になる。
「ここは少し冷えるね」
言葉と共に肩にかけられたのは濃紺のジャケットで、ぷんとバーベナの匂いがする。
「話をしたいと思ったんだけど、また今度にするよ」
思わず見上げて見る顔は困惑に満ちていて、けれど精一杯笑おうとするのか口の端が僅かに上がっていた。
じゃあね、とくるりと背を向けて歩きだしてしまう。
「あ、あ、待って」
思わず出てしまった声は自分でもわかるくらいか細くて、こんなんじゃきっと気づいてもらえない。
しかも足に力が入らなくて立てない。
みっともなく地面に手をついてしまった。
むき出しの地面に、小さく丸い濃い影が落ちていく。
「どうしたの?」
脇に差し入れられた手に力強く持ち上げられ、びっくりして涙が引っ込んだ。
パンパンと膝についた泥を払ってくれる。
「・・・どうしてここがわかったのですか?」
払う手がぴたりと止まって、肩からずり落ちたジャケットをかけ直される。
「どこに居ても見つけられるよ。だって、君の匂いがするから」
そんなことを言うのはずるい。
その寂しそうに笑う顔もずるい。
また勘違いしてしまう。
もう、いっそ嫌いになりたい。
早く、こんな不毛な思いから解放してほしい。
宿舎と本部の往復で、訓練と事務仕事しかしていない。
騎士団食堂の厨房では、ニコラスの為に『初心者でも作れる料理』という冊子を作ったが肝心の本人は一向に厨房に現れなかった。
食事時には、無表情でサッと食べて出ていってしまう。
「ニコラス、あのな・・・」
「なんですか?」
「あ、いや、なんでもない」
率直に怖い、と思ったリスベルは口を噤んだ。
数日前まではふわふわと浮き足立っていたのが、今は表情もなく黙々と書類仕事をこなしている。
することが無くなれば、資料室へ行って整理したりインクが薄れているものを書き直したりと雑務ばかりしている部下になんと声をかければ良いものか。
直近のリスベルの悩みであったし、ニコラスの変化を見てとった団員たちも心配していた。
そんな折、ニコラスに父から文が届いた。
ニコラスの生家は王都にあるので足を向けようと思えばいつでもそうできた。
けれど長女である姉は既に伴侶を娶り、共に暮らしている。
そんなこともあり自然に足が遠のいた。
ニコラスはふるふると頭を振った。
油断するとすぐに思い出してしまう。
初めてパブで一緒に飲んだ、送ってもらった、心配だからと。
思い出すのはバーベナのすっきりとした香りとほんのり甘いチェリー酒の匂いと夜道に落ちる声。
思いを振り切るように開いた文には、父の達筆な字が並んでいた。
曰く、婚約の打診があったが断るつもりだ。
それで良かっただろう?と。
自分は騎士としての道を歩む、そう家族に宣言していた。
数多あった打診は全て断ってきた。
今回もそれだけの話だ。
「・・・受けようか」
宿舎の自室で独りごちる。
あぁでもこんな気持ちを抱えたままでは相手に失礼か、そう思い直しニコラスはペンをとった。
あれが手に入らないのなら何もいらない。
そうして父に返事を送り、相変わらず悶々と日々を過ごしていく。
きっとこのままここに骨を埋めるのだろう。
騎士団本部の裏庭は、泣きながら食べたあの日からニコラスの隠れ場所になった。
ペタリと地面に座り込んで壁にもたれてぼんやりと空を眺める。
建物の影になったそこはひんやりとしていて、花も咲かずに草だけが生い茂るので誰か来ることも無い。
そう、今までは誰も来なかった。
なのに足音が聞こえてくる、濃くなっていくバーベナの香り。
なんで?と、どうして?がぐるぐると巡る。
ここは誰にも言ってない秘密の場所なのに。
「ニコラス君」
ひょこりと角から顔を出したその人は、忘れたくとも忘れらない人だった。
こんなとこにいたんだねぇ、とのんびりと言ってよいしょと同じように座る。
「なんだか久しぶりだね」
そう言う瞳には影が差していて、少し暗い。
目を合わすことができない。
それに、まだおめでとうという決心がついていない。
言わなきゃ、そう思うのに鉛でも飲み込んだみたいに声が出ない。
「私は、何かしてしまったかな?」
なにか、なにかって誰か他に想う人がいたんでしょう?
弟としか見てなかったんでしょう?
こんなのはただの八つ当たりで、ただ自分が浮かれて自惚れていただけ。
もしかしたら同じ気持ちなんじゃないかと、夢見ていただけ。
遅くきた初恋の熱にうかされていただけ。
日陰の風は冷たい、さわさわと通り過ぎるそれは容赦なく二人にも吹きつける。
くしゅっと思わず出てしまったくしゃみと鼻水に、なんでこんな時にと嫌になる。
「ここは少し冷えるね」
言葉と共に肩にかけられたのは濃紺のジャケットで、ぷんとバーベナの匂いがする。
「話をしたいと思ったんだけど、また今度にするよ」
思わず見上げて見る顔は困惑に満ちていて、けれど精一杯笑おうとするのか口の端が僅かに上がっていた。
じゃあね、とくるりと背を向けて歩きだしてしまう。
「あ、あ、待って」
思わず出てしまった声は自分でもわかるくらいか細くて、こんなんじゃきっと気づいてもらえない。
しかも足に力が入らなくて立てない。
みっともなく地面に手をついてしまった。
むき出しの地面に、小さく丸い濃い影が落ちていく。
「どうしたの?」
脇に差し入れられた手に力強く持ち上げられ、びっくりして涙が引っ込んだ。
パンパンと膝についた泥を払ってくれる。
「・・・どうしてここがわかったのですか?」
払う手がぴたりと止まって、肩からずり落ちたジャケットをかけ直される。
「どこに居ても見つけられるよ。だって、君の匂いがするから」
そんなことを言うのはずるい。
その寂しそうに笑う顔もずるい。
また勘違いしてしまう。
もう、いっそ嫌いになりたい。
早く、こんな不毛な思いから解放してほしい。
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