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エルの悲劇あるいは、照準

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ナルシュはよく飲み、ケラケラと笑いながら気持ちよく酔っ払っていた。
へえ、ほう、ふぅんとエルドリッジの話を聞き励ますでも説教を垂れるわけでもなくただ一緒に飲んだ。
頬を上気させて、瞳はとろりと溶けて薄く開いた唇から覗く真っ赤な舌は美味そうに見えた。

「ナル、送っていく」
「おう!頼むわ」

なんて大口を開けてまた笑う。
こんなΩは見たことない、とエルドリッジは思う。
危機感もなにもあったもんじゃない。
背中におぶって外に出るとぴゅうと吹く風が火照った体に気持ちがいい。

「公爵家でいいか?」
「やだ!怒られるの嫌い!」

ヤダヤダと暴れるので落っことしそうでヒヤヒヤする。
嫌だ、と駄々を捏ねられてもナルシュの帰る先は公爵家か伯爵家の二択しかない。
どうするよ、とため息をついてエルドリッジはとにかく歩を進めた。

「あ、ここでいい。今日はここに泊まる」

ナルシュが指さしたのは小さなランプがひっそりと灯っている宿、それもどう見ても連れ込み宿だ。

「ここか?」
「うん」

誘われてるのだろうか、と思ったそばから心臓がドクドクと早鐘を打った。
もしかして自分と同じような、なんだかわからないけどこの相手を離したくないというような離れるのが惜しいというような・・・

「あ、金貸して」

前言撤回だ。
こいつは、こいつはきっとなにも考えてない!



密の間という部屋を用意されて、そこのベッドに下ろす。
すかさず大の字で寝転がるのが気に食わない。
襲われてしまうとか考えないのだろうか。

「おい、宿代は払ってやったからな」

ありがとーとわかっているのかわかっていないのか、ふにゃふにゃとナルシュは枕をぎゅうと抱いた。

「オニーサン、誰かを好きになるってさ、それがどんな結末を迎えてもいいもんだと思うよ。だからさ、また誰か好きになれるよ。すれ違った人をさ、オニーサンの方が振り返ってやったら?案外その人も振り向いてるかもよ?」

ひひひと笑う顔に不覚にもエルドリッジは見蕩れてしまった。
決して美しくはないし、むしろ酔っぱらいの下品な笑い方だったがそこには裏も表もなかった。

「こんないい男をやきもきさせるなんて恋ってやつぁ素晴らしい!」

胸の奥底、自分も知らなかった暗い場所。
そこにとぐろを巻いていたものが目を覚ます。
鎌首をもたげたそいつの大きな口がバックリと開いた気がした。
こいつを飲み込んでしまいたい、喰らいたいという欲望の口が。



そして今、エルドリッジはあの場末のパブ『銀の密ヶ丘』で管を巻いていた。
なぜ、なぜ来ないんだ!
今朝はどうしても外せない仕事があった。
陛下直々に帝国の話が聞きたい、とその報告会をすっぽかすわけにはいかなかった。
だから、ちゃんと文を残したのだ。
決してやり捨てでもやり逃げでもない。
確かに不適切な行為であったかもしれないが、お互い同意の上だった。
素性はわかっている、公爵家か伯爵家に出向けば会えるのかもしれない。
けれど、それをするのには勇気がいる。
なにもかもすっ飛ばして体の関係だけ持ちました、などとアイザックにもリュカにも軽蔑されそうな気がして足踏みしてしまったのだ。

「兄ちゃん、ナルちゃん待ってんのか?」
「あぁ?」
「怖いよ、兄ちゃん」

マスターは怯えてエルドリッジの手からグラスを取り上げた。

「ナルちゃんはさ、毎日来るってわけじゃないんだ。そんな会いたいならさ、ハルフォード商会行ってみなよ。なんかの仕分けする仕事してるって」

だからもう帰って、と怯えるマスターに礼を言ってその日は退散した。


ハルフォード商会は本の出版だけでなく、情報誌の発刊もしておりかなり儲かっていると聞いた。
が、その社屋はヒビが入るほど年季の入ったものでとても儲かってる商会のそれではなかった。
いつナルシュの仕事が終わってもいいようにエルドリッジは昼過ぎから商会を張っていた。
柄じゃない、誰かを追いかけて待ち伏せのようなことを自分がするなんてと思う。
思うが、足は商会に向いたし目は商会の玄関口から離せないし、は俺の獲物だと心が叫んでいる。
最初はなんて声をかけようか、それとも向こうから声をかけてくるだろうか。
昨夜パブに顔を出さなかった訳も聞かなければならない。
案外顔を合わすのが恥ずかしかったからとかそういったものかもしれない。
可愛いところもあるじゃないか、とつい顔がにやけてしまう。

「お疲れ様でーす」

古びた扉を開けて出てきたナルシュは、当たり前だが酔ってはいない。
よっと四段程の石階段を飛び降りてすたすたと横切っていく。
横切ってふいと振り向いて、つと首を傾げてまた歩き出す。

「あっ・・・」

何事も無かったように歩いていく後ろ姿を慌てて呼び止めた。
そのまま死角になる場所に誘導して囲い込む。
無かったことにしたいのか?そんなことは許さないし許されない。

「・・・えぇっと、どちらさま?」

見上げる顔には疑問の色しか浮かんでいない。
これは、こいつは一筋縄ではいかないやつだとエルドリッジはその時ようやっと悟ったのだった。







※「ママー、あのお兄ちゃんずっとニヤニヤしてるー」
「見ちゃいけません!」
てなことが確実にあったと思います。

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