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エルの悲劇あるいは
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話はミス・ルナテスラの夜まで遡る。
「いいか、見つけ次第確保だ。奴は身軽だから充分気をつけろ」
どこの犯罪者だ、というような言われようの奴とはあのリュカの次兄だ。
レッドブラウンの髪にリュカより高い身長、同じく木蘭色の瞳。
このリュカの次兄、とんでもない厄介体質らしい。
そして、逃げ足が早い。
今回、新月の晩に行われる闇市の取締りに憲兵に紛れて第一騎士隊も加わることになった。
一番の理由は、リュカの次兄ナルシュの確保だという。
「本音はどうでもいいが一応リュカの兄だしΩだし、なにか事を起こす前に確保してほしい」
とはアイザックの弁だ。
なんだか面白そうだな、と思ったエルドリッジも参加したが予想に反してナルシュは現れなかった。
「おかしいな、あいつの事だから面白がって来そうなものだが」
エルドリッジの兄であり、騎士隊長のリスベルも首を傾げた。
盗品を運び出し、闇市の参加者もほぼ縛に就いたが肝心のナルシュの姿はどこにもなかった。
町外れの廃墟と化した教会の周囲は木が生い茂り、ざわざわと風に葉を揺らしている。
その風に乗ってツンとレモンのような酸っぱい匂いが漂ってきた。
思わず唾液が溢れてきてしまいそうなそれ。
なんだ?どこだ?とエルドリッジはキョロキョロと辺りを見渡すが、明かりのない新月の夜ではよくわからない。
パチパチと篝火の爆ぜる音に紛れてトントンと軽い音がする。
頭上か、とエルドリッジが見上げたのと男が屋根から木に飛び移ったのと同時だった。
それから、エルドリッジはその男に気取られないように追ってきた。
男はひょいひょいと木から木へ飛び移り木々を抜けると、周囲を気にする素振りもなく普通に歩いて街に帰ってきた。
迷うことなく裏路地に入り、場末のパブに入っていく。
「あれが、噂の次兄か?」
エルドリッジも少し時間を置いてパブへ入店すると、男が麦芽酒のジョッキを手に客と笑い声をたてていた。
「ナルちゃん、今日もいい飲みっぷりじゃねえか!」
「毎日酒が美味いって幸せだよねぇ。奢ってくれたらもっと幸せ」
えへへと笑う男に酔った爺共も、飲め飲めと男に酒を勧めた。
上唇についた泡をペロリと舐めとる仕草はなかなかに艶かしい。
エルドリッジはカウンターで粗悪な蒸留酒をちびちび飲みながら観察する。
「マスター、あそこで騒いでる奴って」
「ん?あぁ、ナルちゃんね。明るくって楽しい酒しか飲まないから爺共に好かれてるよ」
ナルシュだからナルちゃんか、とエルドリッジは当たりをつけた。
きっとあれが破天荒な次兄なんだろう。
確かにここまで来る道中も、ここで飲んでる姿も誰が貴族だと思うだろうか。
「よっ、オニーサン誰か待ってんの?」
考え込んでいると件のナルシュが声をかけてきた。
まただ、とエルドリッジは鼻を鳴らした。
レモンのようなライムのような瑞々しくも酸っぱい匂い。
じゅるると唾液が溢れてくる。
「あれ?オニーサン、なんか甘い匂いすんね。んー、これは蜂蜜!」
「・・・わかるのか?」
「わかるわかる!このナルちゃんがズバリ当ててみせよう!」
ゴクリと溢れる唾液を飲み込んでエルドリッジは次の言葉を待った。
まさか、まさか運・・・
「オニーサンはどっかの菓子職人だろ?だから、こんな甘い匂いすんだな」
くんくんとナルシュはエルドリッジの首元に鼻を寄せた。
そしてふにゃりと笑う。
「どこの菓子屋?美味しそうな匂いする」
「菓子屋ではない」
「そうなの?じゃ、菓子作りが趣味?うちの弟と一緒じゃん」
うちのは下っ手くそだけどな、と堪えきれずに笑うナルシュ。
「オニーサン、めっちゃかっこいいのにこんな汚ったない飲み屋なんかにきてどうしたの?表通りなら可愛い女の子がいる店もあるよ」
「ナルちゃん、汚いてなんだ」
顔を顰めるマスターに、ごめんごめんとナルシュは全く悪びれずに謝ってへへへと肩を竦めた。
エルドリッジは同じものをおかわりし、そしてナルシュにも振舞った。
「実はさ・・・」
「わーかった!オニーサン失恋したんだ!だから、こんなとこで一人寂しく飲んでんだな」
「は?いや・・・まぁ」
「話してみ?知らん人に話したら楽になることもあるってもんよ」
お前を確保しに来たんだ、とエルドリッジは言えなかった。
好奇心いっぱいにキラキラと輝く瞳は確かにリュカに似ている。
ワクワクと先を待つナルシュにエルドリッジは観念した。
「──いいなって思う人がいて、そいつはもう結婚しててその相手が俺の友人なんだ」
「あれま、それは辛いね」
「けど出会った順番が違っただけで、もしかしたら俺の方が先に出会ってたらって思うと・・・」
「ふんふん、それで?」
「そう言ったら、先に出会っていてもただすれ違っていただけだろうって」
弄んでいたグラスの酒を一気に呷る。
何を言ってるんだ、と自嘲気味に笑って今度こそお前を確保に来たと口を開きかけたその時。
「俺だったらさぁ、オニーサン良い男だからすれ違った後に振り向いちゃうな」
ニシシと白い歯を零していたずらっ子のように笑うナルシュ。
まぁ飲めよ、とバンバン背中を叩かれる。
そこからじんわりと広がる痛みがなぜだか心地よい。
心地よくてもっとこいつのことが知りたい、そう思っても仕方のないことだと後にエルドリッジは振り返る。
「いいか、見つけ次第確保だ。奴は身軽だから充分気をつけろ」
どこの犯罪者だ、というような言われようの奴とはあのリュカの次兄だ。
レッドブラウンの髪にリュカより高い身長、同じく木蘭色の瞳。
このリュカの次兄、とんでもない厄介体質らしい。
そして、逃げ足が早い。
今回、新月の晩に行われる闇市の取締りに憲兵に紛れて第一騎士隊も加わることになった。
一番の理由は、リュカの次兄ナルシュの確保だという。
「本音はどうでもいいが一応リュカの兄だしΩだし、なにか事を起こす前に確保してほしい」
とはアイザックの弁だ。
なんだか面白そうだな、と思ったエルドリッジも参加したが予想に反してナルシュは現れなかった。
「おかしいな、あいつの事だから面白がって来そうなものだが」
エルドリッジの兄であり、騎士隊長のリスベルも首を傾げた。
盗品を運び出し、闇市の参加者もほぼ縛に就いたが肝心のナルシュの姿はどこにもなかった。
町外れの廃墟と化した教会の周囲は木が生い茂り、ざわざわと風に葉を揺らしている。
その風に乗ってツンとレモンのような酸っぱい匂いが漂ってきた。
思わず唾液が溢れてきてしまいそうなそれ。
なんだ?どこだ?とエルドリッジはキョロキョロと辺りを見渡すが、明かりのない新月の夜ではよくわからない。
パチパチと篝火の爆ぜる音に紛れてトントンと軽い音がする。
頭上か、とエルドリッジが見上げたのと男が屋根から木に飛び移ったのと同時だった。
それから、エルドリッジはその男に気取られないように追ってきた。
男はひょいひょいと木から木へ飛び移り木々を抜けると、周囲を気にする素振りもなく普通に歩いて街に帰ってきた。
迷うことなく裏路地に入り、場末のパブに入っていく。
「あれが、噂の次兄か?」
エルドリッジも少し時間を置いてパブへ入店すると、男が麦芽酒のジョッキを手に客と笑い声をたてていた。
「ナルちゃん、今日もいい飲みっぷりじゃねえか!」
「毎日酒が美味いって幸せだよねぇ。奢ってくれたらもっと幸せ」
えへへと笑う男に酔った爺共も、飲め飲めと男に酒を勧めた。
上唇についた泡をペロリと舐めとる仕草はなかなかに艶かしい。
エルドリッジはカウンターで粗悪な蒸留酒をちびちび飲みながら観察する。
「マスター、あそこで騒いでる奴って」
「ん?あぁ、ナルちゃんね。明るくって楽しい酒しか飲まないから爺共に好かれてるよ」
ナルシュだからナルちゃんか、とエルドリッジは当たりをつけた。
きっとあれが破天荒な次兄なんだろう。
確かにここまで来る道中も、ここで飲んでる姿も誰が貴族だと思うだろうか。
「よっ、オニーサン誰か待ってんの?」
考え込んでいると件のナルシュが声をかけてきた。
まただ、とエルドリッジは鼻を鳴らした。
レモンのようなライムのような瑞々しくも酸っぱい匂い。
じゅるると唾液が溢れてくる。
「あれ?オニーサン、なんか甘い匂いすんね。んー、これは蜂蜜!」
「・・・わかるのか?」
「わかるわかる!このナルちゃんがズバリ当ててみせよう!」
ゴクリと溢れる唾液を飲み込んでエルドリッジは次の言葉を待った。
まさか、まさか運・・・
「オニーサンはどっかの菓子職人だろ?だから、こんな甘い匂いすんだな」
くんくんとナルシュはエルドリッジの首元に鼻を寄せた。
そしてふにゃりと笑う。
「どこの菓子屋?美味しそうな匂いする」
「菓子屋ではない」
「そうなの?じゃ、菓子作りが趣味?うちの弟と一緒じゃん」
うちのは下っ手くそだけどな、と堪えきれずに笑うナルシュ。
「オニーサン、めっちゃかっこいいのにこんな汚ったない飲み屋なんかにきてどうしたの?表通りなら可愛い女の子がいる店もあるよ」
「ナルちゃん、汚いてなんだ」
顔を顰めるマスターに、ごめんごめんとナルシュは全く悪びれずに謝ってへへへと肩を竦めた。
エルドリッジは同じものをおかわりし、そしてナルシュにも振舞った。
「実はさ・・・」
「わーかった!オニーサン失恋したんだ!だから、こんなとこで一人寂しく飲んでんだな」
「は?いや・・・まぁ」
「話してみ?知らん人に話したら楽になることもあるってもんよ」
お前を確保しに来たんだ、とエルドリッジは言えなかった。
好奇心いっぱいにキラキラと輝く瞳は確かにリュカに似ている。
ワクワクと先を待つナルシュにエルドリッジは観念した。
「──いいなって思う人がいて、そいつはもう結婚しててその相手が俺の友人なんだ」
「あれま、それは辛いね」
「けど出会った順番が違っただけで、もしかしたら俺の方が先に出会ってたらって思うと・・・」
「ふんふん、それで?」
「そう言ったら、先に出会っていてもただすれ違っていただけだろうって」
弄んでいたグラスの酒を一気に呷る。
何を言ってるんだ、と自嘲気味に笑って今度こそお前を確保に来たと口を開きかけたその時。
「俺だったらさぁ、オニーサン良い男だからすれ違った後に振り向いちゃうな」
ニシシと白い歯を零していたずらっ子のように笑うナルシュ。
まぁ飲めよ、とバンバン背中を叩かれる。
そこからじんわりと広がる痛みがなぜだか心地よい。
心地よくてもっとこいつのことが知りたい、そう思っても仕方のないことだと後にエルドリッジは振り返る。
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