上 下
93 / 190

幕間 ニコラスの恋

しおりを挟む
ニコラス・ペンブルック、彼はΩである。
背は少し低いが、手足も長くしなやかな筋肉から繰り広げられる剣技は紛うことなき騎士である。
ニコラスは伯爵家の次男としてその生を受けた。
ここコラソンでは長子相続制がとられているため、次男のニコラスは己の力で生計の道を切り開かねばならなかった。
そこで、食いっぱぐれのなさそうな騎士になろうとニコラスは決めた。
しかし、何の因果か十歳でΩと判明した時は絶望した。
騎士の道が絶たれてしまう、と。
しかしニコラスは、騎士になれずとも騎士団の事務官にはなれるのでないか?と己を奮い立たせた。
それからニコラスは鍛錬に勉学にと励んだ。
なぜか鍛えれば鍛えるほど、ニコラスの筋肉はそれに応えた。
それはニコラスにとって至上の喜びだった。
通常Ωには筋肉が付きにくいという。
より良い容姿はより良いαを惹きつける。
そんなことよりニコラスは自分の努力が実を結ぶことの方が嬉しかった。
子ども特有の可愛らしさから抜けだしたニコラスは美しく成長した。
降るような縁談は全て一蹴した。
夢を叶えたい、理由はそれだけだ。

剣技の腕前に加えて事務官志望でもあったニコラスは、書類仕事も難なくこなすので騎士団でも重宝され第二騎士隊の副隊長に上り詰めた。
Ωだと知るのは団長と騎士隊長だけだ。
ニコラスの発情は薬が効かないくらいに重いものだが、その分終わるのは早い。
通常三日から七日とされる発情期は、一日半もあれば終わってしまう。
誰もニコラスがΩとは気づかなかったそんなある日、財務部に提出した予算案が差し戻されてきた。
初めてのことにニコラスは鼻息荒く財務に乗り込んだ。

「どういうことですか?前年度とほぼ変わりありません」
「はい。そうですね」

財務部の男はのんびりとそう言った。
そして、遠征費の項目を指さした。

「今年度から詳しい内訳を添付していただく事になったんですよ」
「え?」
「通達ミスかもしれませんね。申し訳ありません」

男は頭を下げて締切を五日伸ばしてくれた。
騎士団に戻り自分の執務机を見るとごちゃごちゃと本や書類であふれていた。
もしかして、と片付けると案の定通達事項の書類が見つかった。
下げなくて良い頭を下げさせてしまったことに胸が痛んだ。

二日後、大急ぎで予算案をまとめたニコラスは自ら財務部へ赴いた。
いつもなら部下に任せていたところである。

「はい。受け取りました」

前回と変わらぬのんびりとした口調の男。
焦げ茶の髪と木蘭色の瞳、薄い唇に顎には小さな黒子。
ともすれば眠くなりそうな落ち着いた声音。
ふわりと香る香水はなんだろうか。
朝露をたっぷり含んだバーベナのような鼻にスっと抜ける香り。

「あ、あの!」
「はい」
「あ、その、ま、また来てもいいですか?」
「ん?」

謝罪しようと思って開いた口から自分でも思わぬ言葉がついて出た。
首を傾げる顔は訝しげで、ニコラスはいたたまれなくてその場から走って逃げた。

失敗した、失敗した、失敗した──
ただ謝りたかっただけなのに。
もう財務部へはいけない、そう思ったニコラスだった。

それから、それとなく財務部の男について探りをいれれば彼は有名人だった。
普段、騎士団にこもりきりのニコラスは知らなかった。

「宰相補佐様の義兄?」
「知らなかったの?有名じゃん」

ニコラスは走った、背後で同期がおーいと呼んでいたが振り切って走った。
まさか次期宰相の義兄だったなんて、やっぱりきちんと謝罪せねばと頭の中はそれでいっぱいだった。
あの角を曲がれば財務部だ、勢いよく曲がれば出会い頭に誰かにぶつかった。
ぶつかった相手はころりと尻もちをついて呆然としている。

「あ、あ、あぁジェラール様、すみません、すみません」
「あ、あぁ」

動かないのか、動けないのかジェラールは呆然としていた。
その前でニコラスは膝をついて頭を下げた。

「予算案の件も、通達ミスなんかではありませんでした。私がずぼらで書類を見落としてただけだったんです!本当に申し訳ありません!」
「えっと、誰かになにか聞いたのかな?偉いのは義弟で私は偉くないから」
「いえ、違、いや違わな、あの、謝りたかったのは本当なんです」

謝る目尻に涙が溜まるのを見て、わかったよとジェラールは笑った。
ほっと胸を撫で下ろしたニコラスは立ち上がったが、ジェラールはそのまま座り込んでいた。

「ジェラール様?」
「えっと、情けないんだがね?腰が抜けてしまったようだ」
「医務室へ運びます!」

ニコラスはジェラールを横抱きに抱いて医務室へ走った。
うわぁぁとジェラールの悲鳴と、ギュッとしがみついてくる体にニコラスは恋に落ちた。
この時の自分の気持ちは今でもよくわからない。
走り抜ける中庭に咲き誇るバーベナがふと目にとまったことだけは覚えている。
その時なぜかこの人は自分が守らねばならない、そのために騎士になったのだとそう強く思ったのだ。
しおりを挟む
感想 184

あなたにおすすめの小説

もう人気者とは付き合っていられません

花果唯
BL
僕の恋人は頭も良くて、顔も良くておまけに優しい。 モテるのは当然だ。でも――。 『たまには二人だけで過ごしたい』 そう願うのは、贅沢なのだろうか。 いや、そんな人を好きになった僕の方が間違っていたのだ。 「好きなのは君だ」なんて言葉に縋って耐えてきたけど、それが間違いだったってことに、ようやく気がついた。さようなら。 ちょうど生徒会の補佐をしないかと誘われたし、そっちの方に専念します。 生徒会長が格好いいから見ていて癒やされるし、一石二鳥です。 ※ライトBL学園モノ ※2024再公開・改稿中

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

元ベータ後天性オメガ

桜 晴樹
BL
懲りずにオメガバースです。 ベータだった主人公がある日を境にオメガになってしまう。 主人公(受) 17歳男子高校生。黒髪平凡顔。身長170cm。 ベータからオメガに。後天性の性(バース)転換。 藤宮春樹(ふじみやはるき) 友人兼ライバル(攻) 金髪イケメン身長182cm ベータを偽っているアルファ 名前決まりました(1月26日) 決まるまではナナシくん‥。 大上礼央(おおかみれお) 名前の由来、狼とライオン(レオ)から‥ ⭐︎コメント受付中 前作の"番なんて要らない"は、編集作業につき、更新停滞中です。 宜しければ其方も読んで頂ければ喜びます。

嫁側男子になんかなりたくない! 絶対に女性のお嫁さんを貰ってみせる!!

棚から現ナマ
BL
リュールが転生した世界は女性が少なく男性同士の結婚が当たりまえ。そのうえ全ての人間には魔力があり、魔力量が少ないと嫁側男子にされてしまう。10歳の誕生日に魔力検査をすると魔力量はレベル3。滅茶苦茶少ない! このままでは嫁側男子にされてしまう。家出してでも嫁側男子になんかなりたくない。それなのにリュールは公爵家の息子だから第2王子のお茶会に婚約者候補として呼ばれてしまう……どうする俺! 魔力量が少ないけど女性と結婚したいと頑張るリュールと、リュールが好きすぎて自分の婚約者にどうしてもしたい第1王子と第2王子のお話。頑張って長編予定。他にも投稿しています。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

孕めないオメガでもいいですか?

月夜野レオン
BL
病院で子供を孕めない体といきなり診断された俺は、どうして良いのか判らず大好きな幼馴染の前から消える選択をした。不完全なオメガはお前に相応しくないから…… オメガバース作品です。

目覚めたそこはBLゲームの中だった。

BL
ーーパッパー!! キキーッ! …ドンッ!! 鳴り響くトラックのクラクションと闇夜を一点だけ照らすヘッドライト‥ 身体が曲線を描いて宙に浮く… 全ての景色がスローモーションで… 全身を襲う痛みと共に訪れた闇は変に心地よくて、目を開けたらそこは――‥ 『ぇ゙ッ・・・ ここ、どこ!?』 異世界だった。 否、 腐女子だった姉ちゃんが愛用していた『ファンタジア王国と精霊の愛し子』とかいう… なんとも最悪なことに乙女ゲームは乙女ゲームでも… BLゲームの世界だった。

【完結・ルート分岐あり】オメガ皇后の死に戻り〜二度と思い通りにはなりません〜

ivy
BL
魔術師の家門に生まれながら能力の発現が遅く家族から虐げられて暮らしていたオメガのアリス。 そんな彼を国王陛下であるルドルフが妻にと望み生活は一変する。 幸せになれると思っていたのに生まれた子供共々ルドルフに殺されたアリスは目が覚めると子供の頃に戻っていた。 もう二度と同じ轍は踏まない。 そう決心したアリスの戦いが始まる。

処理中です...