不香の花の行く道は

谷絵 ちぐり

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高二 夏

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──ねぇ、いいものあげるよ。付いておいで。

夏の陽射しが降り注ぐ児童公園、ブランコは微動だにせず、砂場には誰かが置き忘れた赤い小さなバケツが転がっていた。
シャワシャワと大きな蝉の鳴き声を背後にその人は手を伸ばした。
太陽で逆光になった顔は見えず、伸ばされた手はカサカサで吐く息が臭かった。

『いいものってなあに?』
『チョコでも飴でも、クッキーでもいいし…そうだなぁパフェでも食べようか?』
『パフェ!!』

パフェの一言で幼い純の顔が輝いて、手に持ったスコップが砂場に落ちた。

『…ジュンちゃん、ダメだよ。知らない人にはついて行ったらダメって先生が言ってたでしょ?』
『おじさんはね、──といいます。ほら、もう知ってる人になったよ?』
『ユキちゃん!──さんだって!パフェ食べようよ』
『ジュンちゃん、ダメだってば!』

なんで?と首を傾げる純の手を雪成は強く引っ張った。
目の前の男の目だけが逆光の中でギラギラと輝いて見えて、暑くてたまらないのに背中に悪寒が走る。

『ジュンちゃん?おじさんと行こうか』

『ダメーーッ!!』

伸ばされた手の、その手首に雪成は噛み付いた。
プツリと皮膚の弾ける音がしたかと思ったら、途端に口の中に錆臭い味が広がった。
鉄棒で遊んだ後の手の匂い、それが口から鼻を抜けていく。
五月蝿いくらいに鳴いていた蝉の声が耳から遠ざかっていって、次第に聞こえなくなった。



「──…ちゃん、ユキちゃん!」

重い瞼を開けると純の黒く丸い瞳があった。
ざわざわと五月蝿いのはここが教室だからで、確かさっきまでホームルームが行われていて担任の長い話を聞いていて…と雪成の意識がどんどん覚醒していく。

「…ごめん、寝てた」
「夜更かしした?」
「ん、課題やってて…」
「ねぇ、そんなだったらバイトを」

「ジューン、おーい行くぞー」

担任と入れ替わりに教室に入ってきたのは背の高い二人組で、勝手知ったるという風情で歩いてくる。
別クラスにも関わらず何の遠慮も気まずさもなく堂々とした二人に雪成はそっと目を伏せた。

「ジュン、早く行くぞ」
「あ、うん。そうだ、ユキちゃん今度の日曜日空いてる?」
「日曜はバイト」
「また?あのね、試合があるんだ。ヒロもアキラもレギュラーなんだよ。ね、見に来られない?ヒロ、すっごくかっこいいから」
「ごめんね」
「じゃ、じゃあ、夏祭りは絶対に一緒に行こうね!去年みたいにバイト入れちゃダメだよ?約束だよ!」

ずいと出された小指、それに雪成も自分のそれを絡めた。
指切りげんまん、と小指を振る純の頭に晃が肘をずんと乗せる。

「ユキちゃん、俺も行くからね。楽しみだねー」
「こら、重いって!チビ扱いやめろよ」

バタバタと暴れる純に晃は目を細め、広樹は半ば強引にそれを引き剥がした。
三人で連れ立って教室を出ていく後ろ姿を見ながら、長い溜息を吐く。
まるで最初から三人組だったような気安さ、そこに雪成の居場所はない、その事にどこまでも安堵していた。



「ユーキーちゃーーん!!」
「…なんであんたが来るの?」
「ジュンちゃん達は着付け?にまだ少しかかるんだってさ。ユキちゃんは浴衣着ないの?」
「着ない」

そりゃ残念、と晃は肩を竦めて頬に笑窪を作り、雪成は玄関の鍵を閉めた。

「なんで浴衣着ないの?」
「去年、おばあちゃんが死んだから」
「へぇ、そりゃ残念だな」

思いのほか真っ直ぐに見つめられて、雪成の心臓がドキリと跳ねた。
Tシャツにハーフパンツ、コンクリートのブロック塀は熱くて背を付けることもできない。
言葉を交わすことも無く待つ二人の伸びていく影に、カナカナともの悲しい鳴き声が吸い込まれていった。


「ユキちゃんも母さんに着付けてもらえば良かったのに」
「どこにしまったか忘れちゃったんだよ」
「ヒロだってユキちゃんの浴衣見たかったよねぇ?」

夏祭りは住宅街を抜けて、商店街から屋台が並び始めて途中にある中学校のグラウンドにも屋台がひしめき合っていた。
そこを抜けると河川敷に出て花火はそこで上がる。
地域で一番大きな祭りだ。

「まぁまぁ、俺はジュンちゃんの浴衣姿が見れて嬉しいよ」
「アキラには言ってないから…って止めてよ!」

な?と純の肩を強引に抱き寄せる晃、それを見つめる広樹の目は優しくない。

「ヒロ、ごめん」
「いや、俺の方こそジュンを止められなくて悪い」
「…うん」

もう子どもじゃないのに、ジュンだけがあの夏の日の砂場から一歩も動けないでいる。

「あ!ユキちゃん金魚すくいやろう」
「いいよ」
「子どもの時さ、ユキちゃん金魚の浴衣着てたよね」
「そうだっけ?」
「そうだよ、すっごく似合ってて可愛いかった」

天真爛漫な笑顔、この笑顔を壊してはならないと思うのに一方で窮屈な思いも抱えていて、それと同時にこの均衡が壊れることも望んでいる。
金魚は純が三匹、雪成は一匹もすくえなかった。
同じように一匹もすくえない広樹と一匹だけすくえた晃、晃はその一匹を雪成の手に持たせた。

手の中にある赤く細い紐、時折たぷんと揺れる小さなビニール袋の中の金魚。
花火が上がる時間が近づくにつれ人は多くなり、河川敷への歩行者天国は混みあっていく。
藍色とクリーム色の浴衣の背を見ながら雪成はひっそりと脇道に逸れた。
金魚を持ったまま祭りの喧騒を背に迷いなく住宅街へ歩きだす。

「ユキちゃん」

振り返った先の彼は薄ぼんやりとした提灯の灯りを背に、その酷薄そうな唇を持ちあげていた。
結局そのまま晃は雪成の一歩後ろを何を言うでも、問いかけるでもなく付いてきて───

「ユキちゃん、喉が渇いたな」

雪成の自宅前でそう言ってまた笑うのだった。



丸く年季の入った飴色の卓袱台、その上に麦茶で満たされたグラスがひとつ置かれている。

「飲んだら帰って」

それだけ言うと雪成はまた台所へと消えていった。
どんぐりのようなそろばんのような玉がいくつも連なった暖簾は揺れるとジャラジャラと鳴る。
その音を鳴らして次に雪成が現れた時には手に大きな丼を持っていた。
水で満たされたそれに泳ぐ真っ赤な金魚、首を振る扇風機にチリンと縁側で風鈴が鳴った。

「ユキちゃん、セックスしない?」

喉が渇いたな、それと同じくらいの気軽さで晃は言った。
奇しくもそれは卓袱台に金魚入り丼を置いた瞬間で、揺れる手元に反応して水飛沫が上がった時には雪成の唇は晃に塞がれていた。


擦り切れた畳の上、い草の匂いはとっくに無くなっているのに草いきれの匂いがした。
鼻の奥を刺激するのは蒸し暑い午後の夏草の匂い、あの日の夏の匂い。
毛穴という毛穴から不純物が溢れ出して、ぽかりと空いたそこに新たな不純物が入り込む。
合わせた肌は汗みどろでそこを扇風機の風が撫でていって、嫌で嫌で堪らなかったあの蒸し暑い草いきれが遠ざかっていく。

──…寂しいね、ユキ

初めてのセックスは若さに身を任せた激しく溺れるような、忘れられないそんなセックスだった。



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