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ミュウの世界
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物心ついた時から小さな違和感を感じていた。一番古い記憶は父に抱き上げられていた時のことだ。
「とと、ちゅの、ある」
「ミュウは角を触りたいんか?」
触りたいか?と聞かれて幼子は首を傾げた、触りたいのではなくなぜ犬に角があるのかと疑問に思っただけなのだ。それなのに父は一本角の生えた犬もどきを呼んだ。
「ナッツ、おいで」
ナッツと呼ばれた犬もどきは、わふっと小さく鳴いてほてほてと歩いて来た。
しゃがんだ父に尚も抱かれながら、間近にはナッツが頭を差し出してくる。角は垂れた耳と耳の間にちょこんと生えていて象牙色で、恐る恐る手を伸ばすとつるりとしていて触り心地が大層良かった。
「ミュウのお友達」
父はミュウの幼く丸い頬を突きながら優しくそう言った。小さな手で撫でているとナッツは今度は、わほっと鳴いた。
風にそよぐナッツの茶毛が、暖かい日差しが、父の広い胸が、広大な庭に咲く色とりどりの花が、木々の囁きがミュウにとっての一番古い記憶だ。
そんなミュウは今、高台にある巨木に登りそこから眼下に広がる水面を見つめていた。水分を含んだ風は冷たく頬を撫でて、ミュウの銀色に輝く髪をさらっていく。
一目で視界に納めることできない大きな湖は、風が流れる度に白い漣をたててそこかしこでキラリと銀色に光った。
ぽつぽつとある小さな島の真ん中に一際大きな島があって、遠目で見ると淡い桃色に覆われている。それは今の季節だけ見れる光景だ。
「―…めっちゃ、きもちぃー」
大振りの枝に胡座をかいたミュウは呟いて、ぐいっと伸びをした。下からはわほっわほっと鳴き声が聞こえて、ちらと見るとナッツが蝶を追いかけていた。
ちょこんと生えていた角は今や立派に伸びて一角獣のようだ。この犬もどきはイヌゥという、おいおいと突っ込んだのは言うまでもない。
ミュウの成長と共にナッツも成長し、今はミュウを背中に乗せてわっほわっほと駆けることができる。
その背中に乗ってミュウはこの高台までやってきた。
ミューロヒア・モーリブス、大きな湖と共に生きる民を祖とした辺境伯家の嫡男である。ミュウにはここではないどこかで生きた記憶がある、それはこの国の未来なのか過去なのか、はたまたまったく違う世界のものなのか。
ここよりも高い建物が建ち並び、見上げた空はいつだってちっぽけで唸るくらいの人の群れの中で生きた記憶。夜でも明るく、人々は忙しなく動き、ここよりもうんと文明の発達した世界。
その世界でミュウがどう生きたのかわからない、断片的な記憶が折々に蘇るだけだ。これは前と違うな、これは前よりもいいな、とふとした瞬間に思うのだ。
困ったことはない、どこにいたって自分は自分なのだから。
その本質を見誤らなければ生きていける、とミュウは思っている。
「ミーー坊ーーっ!!頭領が呼んどるぞー!」
麓から大きな声が聞こえてきた、その人はナッツと同じくらいの大きさのイヌウに乗ってぶんぶんと手を振っていた。
それに手を振り返してミュウは枝から一息に飛び降りた。くるりと一回転して柔らかい草の上に着地する。それと同時に蝶を追いかけていたナッツも足元へ侍ってきた。伏せの体勢はいつでもミュウを乗せることができる。
「ジェジェ、あれがバレたん?」
「あれ?…あぁ、ミー坊が『恋人映し』に行ったことかいな」
「はっきり言うなや、恥ずかしいやろが」
「んなもん、とっくにバレてますがな。そんなんちゃうくてなんや大事ぃーな話があるとか」
なんやろ、とミュウはナッツの背の上で考える。
ジェジェのイヌゥはナッツの両親の兄弟で、ナッツにはない貫禄があるが名はミンティという愛らしいものだ。
ナッツの茶毛とは違いミンティの毛は真白でとても美しい、反対にそれに乗るジェジェは剃髪した筋骨隆々の強面のおっさんだ。
「なんやムスゥって怒っとったで」
ますますもってなんだろうか、なんかしたかなぁと思いながら片手は手綱から離れ艶々の象牙色を撫でていた。
モーリブス辺境伯家の邸は湖畔に建っていて、小さくはないが大きくもない平屋建てだ。周囲をぐるりと生垣があり、門なんて大層なものはなく木戸があるだけだ。
その木戸だっていつも開け放たれていて、近隣の人々が気軽に訪れることができる。今も色とりどりの花を摘みに近所に住む奥さま方がやってきていた。
隣国との境にある辺境の地、けれどここには立派な砦も要塞もない。あるのは豊富な水を湛えた湖だけ、それが鉄壁の防御になりそれを後押しするのが湖を囲むように形成されている隠し森だ。
そこは無遠慮に入った人を惑わせる厄介な森なのだ。
「坊ちゃん、おかえり!」
「ただいまー!」
「坊ちゃん、りんごを持ってきたからね!」
「いつもありがとー!」
奥さま方に手を振って、短くないアプローチをミュウはナッツと共に駆け抜けて玄関口でひらりと飛び降りた。
「お父ちゃん、帰ったでー」
邸に入ると甘酸っぱいりんごの匂いがした、おやつはフルーツピザだなと当たりをつけてふんふんと鼻を鳴らすミュウの足取りは軽い。
居間のソファには父がどっしりと構えていてその横には母がちょこんと座っていた。おかえりミュウちゃん、と笑顔を見せる母はいくら歳を重ねても可愛らしい。
ただいま、とミュウも笑顔を見せて対面に腰を下ろした途端に父が絞り出すような声音を出した。
「…ミュウ」
「なに?」
「お前に縁談がきた」
「へぇ、水の統率者おったん?」
水の統率者とはこの地では水の能力を持つ者のことを指す、その能力がないと湖の民の頭領にはなれない。
───ミュウにはその能力が無かった。
「とと、ちゅの、ある」
「ミュウは角を触りたいんか?」
触りたいか?と聞かれて幼子は首を傾げた、触りたいのではなくなぜ犬に角があるのかと疑問に思っただけなのだ。それなのに父は一本角の生えた犬もどきを呼んだ。
「ナッツ、おいで」
ナッツと呼ばれた犬もどきは、わふっと小さく鳴いてほてほてと歩いて来た。
しゃがんだ父に尚も抱かれながら、間近にはナッツが頭を差し出してくる。角は垂れた耳と耳の間にちょこんと生えていて象牙色で、恐る恐る手を伸ばすとつるりとしていて触り心地が大層良かった。
「ミュウのお友達」
父はミュウの幼く丸い頬を突きながら優しくそう言った。小さな手で撫でているとナッツは今度は、わほっと鳴いた。
風にそよぐナッツの茶毛が、暖かい日差しが、父の広い胸が、広大な庭に咲く色とりどりの花が、木々の囁きがミュウにとっての一番古い記憶だ。
そんなミュウは今、高台にある巨木に登りそこから眼下に広がる水面を見つめていた。水分を含んだ風は冷たく頬を撫でて、ミュウの銀色に輝く髪をさらっていく。
一目で視界に納めることできない大きな湖は、風が流れる度に白い漣をたててそこかしこでキラリと銀色に光った。
ぽつぽつとある小さな島の真ん中に一際大きな島があって、遠目で見ると淡い桃色に覆われている。それは今の季節だけ見れる光景だ。
「―…めっちゃ、きもちぃー」
大振りの枝に胡座をかいたミュウは呟いて、ぐいっと伸びをした。下からはわほっわほっと鳴き声が聞こえて、ちらと見るとナッツが蝶を追いかけていた。
ちょこんと生えていた角は今や立派に伸びて一角獣のようだ。この犬もどきはイヌゥという、おいおいと突っ込んだのは言うまでもない。
ミュウの成長と共にナッツも成長し、今はミュウを背中に乗せてわっほわっほと駆けることができる。
その背中に乗ってミュウはこの高台までやってきた。
ミューロヒア・モーリブス、大きな湖と共に生きる民を祖とした辺境伯家の嫡男である。ミュウにはここではないどこかで生きた記憶がある、それはこの国の未来なのか過去なのか、はたまたまったく違う世界のものなのか。
ここよりも高い建物が建ち並び、見上げた空はいつだってちっぽけで唸るくらいの人の群れの中で生きた記憶。夜でも明るく、人々は忙しなく動き、ここよりもうんと文明の発達した世界。
その世界でミュウがどう生きたのかわからない、断片的な記憶が折々に蘇るだけだ。これは前と違うな、これは前よりもいいな、とふとした瞬間に思うのだ。
困ったことはない、どこにいたって自分は自分なのだから。
その本質を見誤らなければ生きていける、とミュウは思っている。
「ミーー坊ーーっ!!頭領が呼んどるぞー!」
麓から大きな声が聞こえてきた、その人はナッツと同じくらいの大きさのイヌウに乗ってぶんぶんと手を振っていた。
それに手を振り返してミュウは枝から一息に飛び降りた。くるりと一回転して柔らかい草の上に着地する。それと同時に蝶を追いかけていたナッツも足元へ侍ってきた。伏せの体勢はいつでもミュウを乗せることができる。
「ジェジェ、あれがバレたん?」
「あれ?…あぁ、ミー坊が『恋人映し』に行ったことかいな」
「はっきり言うなや、恥ずかしいやろが」
「んなもん、とっくにバレてますがな。そんなんちゃうくてなんや大事ぃーな話があるとか」
なんやろ、とミュウはナッツの背の上で考える。
ジェジェのイヌゥはナッツの両親の兄弟で、ナッツにはない貫禄があるが名はミンティという愛らしいものだ。
ナッツの茶毛とは違いミンティの毛は真白でとても美しい、反対にそれに乗るジェジェは剃髪した筋骨隆々の強面のおっさんだ。
「なんやムスゥって怒っとったで」
ますますもってなんだろうか、なんかしたかなぁと思いながら片手は手綱から離れ艶々の象牙色を撫でていた。
モーリブス辺境伯家の邸は湖畔に建っていて、小さくはないが大きくもない平屋建てだ。周囲をぐるりと生垣があり、門なんて大層なものはなく木戸があるだけだ。
その木戸だっていつも開け放たれていて、近隣の人々が気軽に訪れることができる。今も色とりどりの花を摘みに近所に住む奥さま方がやってきていた。
隣国との境にある辺境の地、けれどここには立派な砦も要塞もない。あるのは豊富な水を湛えた湖だけ、それが鉄壁の防御になりそれを後押しするのが湖を囲むように形成されている隠し森だ。
そこは無遠慮に入った人を惑わせる厄介な森なのだ。
「坊ちゃん、おかえり!」
「ただいまー!」
「坊ちゃん、りんごを持ってきたからね!」
「いつもありがとー!」
奥さま方に手を振って、短くないアプローチをミュウはナッツと共に駆け抜けて玄関口でひらりと飛び降りた。
「お父ちゃん、帰ったでー」
邸に入ると甘酸っぱいりんごの匂いがした、おやつはフルーツピザだなと当たりをつけてふんふんと鼻を鳴らすミュウの足取りは軽い。
居間のソファには父がどっしりと構えていてその横には母がちょこんと座っていた。おかえりミュウちゃん、と笑顔を見せる母はいくら歳を重ねても可愛らしい。
ただいま、とミュウも笑顔を見せて対面に腰を下ろした途端に父が絞り出すような声音を出した。
「…ミュウ」
「なに?」
「お前に縁談がきた」
「へぇ、水の統率者おったん?」
水の統率者とはこの地では水の能力を持つ者のことを指す、その能力がないと湖の民の頭領にはなれない。
───ミュウにはその能力が無かった。
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