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第二幕 移ろう日々と変わりゆく日常
しおりを挟む残暑の気配も、九月を三週間も過ぎればすっかり薄くなっていた。
学校近くの並木にも黄色や赤が目立ち始め、制服越しに伝わってくる気温も随分と涼しい。
この過ごしやすく、何をするにも適している秋という季節が僕は好きだ。夏よりも早く部活が終わるので、さっさと帰って宿題を終わらせれば読書なりゲームなりに長く時間をとることができる。しかも、何もしなくても適温なので集中力も続きやすい。
実に充実した素晴らしい季節だった。去年までは。
「秋と言えば、演技の秋ですね!」
「聞いたことないな」
去年ならとっくに家に帰っている部活後。僕はほぼ連日、結生の居残り練習に付き合わされていた。
「ほら、秋って夏や冬と違ってすごく過ごしやすいじゃないですか。だから、演技をするにしても集中力は桁違いですし、身も心も入りやすいってもんです」
「それは読書にもスポーツにも芸術にも言えることで、むしろそっちの方が世間一般ではメインだろ」
「もう、先輩はそれでも演劇部員ですか」
「驚くべきことにそうらしい」
練習中は演技に集中してくれているからまだいい。むしろその合間や、場合によっては普段の休み時間に出くわした時までも、結生がくだらない話をあれこれとしてくるから疲れるのだ。これも、彼女とした約束のせいゆえなんだろうか。
三週間前。
新学期が始まって僅か三日で、僕の日常はかなり様変わりした。
演技力を高めたいという結生の要望で、僕は彼女に練習用台本として、自身の書いている小説を提供することとなった。頻度は週一回。ある程度書き溜めてからじゃないとしっかりした練習にならないので、僕の執筆速度も加味して結生と話し合って決めた。まさか僕が締切に追われるなんて思ってもみず、毎日隙間時間や土日を利用して書き進めていった。
最初の頃はなかなか思うように書けず、ほかの小説を代わりに、と思いもしたが、結生はどうしても僕の小説でやりたがった。理由は「私が面白いと思ったから」と言い張っていたが、約束をした日に聞いた彼女の背景を考えると納得がいった。
――私、前世の記憶があるんです。十七歳で一度この世を去った、そんな記憶が。
前世の記憶に、短命。これは、今の僕が書いている小説のテーマにもなっている。つまり、今の彼女にとってかなり親近感の持てる内容なんだろう。初めて僕の小説を読まれた時、一番面白かったことに「テーマ」をあげていたし。
そうして四苦八苦して書き上げた小説を見せる審判の日が、毎週の金曜日だ。結生は基本的に楽しんでくれているようだし、仮に面白くなくてもそこまでひどいことは言わないだろうが、それでもガッカリされると心にくるものはある。どうせ読まれるなら、やっぱり面白いと思ってほしい。そんな緊張感や期待で入り混じった朝の時間が数十分ほど過ぎると、彼女は唐突に空気が変わる。
『ほら、早く行こっ! きっと楽しい日になるよ!』
結生の演技は、目覚ましい速さで上達していった。いったいどれほど練習を積んでいるんだろうと思うほどだった。その成長スピードは雪弥や小夜だけでなく、ほかの演劇部員も認めるところで、学藝祭準備の盛り上がりもあって結生はあっという間に演劇部に溶け込んでいた。
そんな期待のホープに自分の拙い小説を演じられるのだから、心臓に悪いことこの上なかった。恥ずかしさもさることながら、演技力向上練習としてやっているので、僕の小説を演じていて調子を崩しては本末転倒だ。彼女の演技を見て思いついた改善点を必死にメモし、どうにか活かして良くしていこうと思うようになっていた。僕の心臓の平穏のためにも。
こんなサイクルを三周ほど繰り返した結果、不本意ながら、結生はすっかり僕の日常の一部になっていた。
「よし。じゃあ純粋な演劇部員の私は、本日練習のラストスパート頑張ります! しっかり撮ってくださいね! 後で見返して参考にするんですから」
「はいはい」
僕は言われるがままスマホのカメラアプリを起動し、結生にレンズを向ける。この演技力向上練習を始めてから、僕は台本提供のほか記録係にもなっていた。演技の練習動画を家で見直し、さらに課題を洗い出すらしい。実に見上げた向上心だ。
舞台全体の見え方を意識して遠近を調整していると、画面越しに結生が笑った。どうやら準備は整ったらしい。
呆れつつ僕が手を振ると、彼女は小さく頷き、ひと呼吸おいてから演技を再開した。
画面の中に見る結生には、先ほどまで無邪気に話していた後輩の面影はほとんどない。演者として前を向き、一心に役を演じている。どこまでも真っ直ぐなその姿勢は、彼女の「全力」を体現しているように思えた。
そしてふと、思い出してしまう。
――私、前世の記憶があるんです。十七歳で一度この世を去った、そんな記憶が。
結生は気にしないでと言っていたが、それは土台無理な話だ。
あの日彼女から聞いた話は、まるで小説の世界のようだった。
当たり前だが、聞いてすぐには到底信じられなかった。言われてすぐ、「僕は笑い飛ばせばいいのか」と尋ねてしまったくらいだ。
前世。言葉として知ってはいても、考える機会はそうあるものじゃない。身近なところだと、占いで前世がバッタだとか武士だとか言われたり、日本史の授業で宗教分野を扱った時にちらりと聞いたりするくらいだ。そしてほとんどの人が、占いで前世がバッタだと言われても本気では信じないし、その場限りの興味で終わる。今の自分の人生には何も関係がないし、影響もないから。
でも、結生は前世で今と同じ人として生き、若くして病気にかかり、そして死んだのだという。「サナトリウムって木造校舎みたいなんですよ」などと彼女はやたらリアルに知っていることを語ってくれた。「まるで見てきたみたいだ」と素直な感想を述べたら、「見てきたんですよ」と真面目に返された。
ただし、前世の記憶といってもそれほど多くのことを覚えているわけではないらしかった。何の代わり映えもしない毎日を退屈に感じつつ、時に悪化する症状と闘いながら、日々を無為に過ごしていったらしい。親の顔や名前、前世の自分のことなど、具体的なことはほとんど覚えておらず、ただ空虚で寂しく辛かった感情と、病気に日々抗っていた記憶だけが物心ついた時から残っているとのことだった。
――だから私は、今度は全力で取り組むんです。人生を精一杯楽しみたいから。
どこか儚げながらも嬉しそうに笑う彼女の顔が浮かぶ。その言葉通り、入部前から誰よりも早く来て朝練をこなし、練習にも初心者ながら必死にくらいつき、今も手を抜くことなく懸命に演劇に取り組み、そして日々上達している。
ちなみに小夜から聞いた話では、日々の勉強やクラスでの行事にも全力かつ直向きで、眩しいくらいらしい。クラスにもあっという間に馴染み、今度の休みには仲の良いグループも交えて遊びに行くとか言っていた。「あたしと違って結生ちゃんは演劇以外にも全力なんだよね。見習わないと」などと小夜が嬉しそうに話していたのが印象的だった。
確かに眩しかった。
今の僕とは正反対の生き方。目の前のことを外から眺めているのではなく、入り込んで関わって、そして傷つきもするし喜びもする生き方だ。今の僕には、できない生き方だ。
そんな彼女の在り方を目の当たりにすると、前世の記憶とやらもあながちうそではないように思えた。
――私の言葉を信じるも信じないも、先輩次第です。結局人は、自分が信じた世界でしか生きていないんですから。
僕の無遠慮な問いかけに、結生はあっけらかんとそう答えていた。なんとも哲学的で、一面的には真理を突いていそうな返しに、僕はそれ以上真偽について追求するのをやめた。理由がどうあれ、彼女が全力で今を生きようとしていることは間違いない。
「まったく、さすがだな」
画面の中で涙を流す結生を見て、僕はつい小さく笑ってしまった。
ちょうどそこで彼女の雰囲気がフッと和らいだ。今日の課題としていた場面の、最後のシーンが終わった。
「せんぱーい! 今のどうでしたか。結構上手くできたと思うんですけど!」
「ああ。涙を流すタイミングもばっちりだったし、セリフもそっちに紛れて聞こえにくくなったりもしなかったから良かったんじゃないか」
「ですよね!」
演技に関してはド素人の僕に、結生は喜色満面で自分の感触を話してくる。細かいところは全く分からないので、適当に相槌を打っておいた。
「あ、そうだ先輩。明日の放課後って空いてますか?」
「明日の放課後?」
明日は部活がオフの日だ。学藝祭に向けた練習のラストスパートが始まる前に、一度喉や身体に休養を入れようということで自主練もNGになっている。
「もちろん練習とかじゃないですよ。ちょっと先輩の小説の参考になりそうなことがありまして、少しだけお時間をいただきたいんです」
「小説の参考、ね」
なんだか嫌な予感がするが、自分のためと言われるとどうにも断りにくい。特にこれといった用事もなかったので、僕は悩みつつも「まあそれなら」と了承した。
「やった! じゃあ明日の放課後、正門前で待っててくださいね。忘れて帰ったらダメですよ」
どこか引っかかる笑顔を振り撒いて、結生は更衣室へと走っていった。
*
「なるほどね。そういうことか」
次の日。毎度毎度退屈な授業を終えて正門前に来てみれば、一瞬で状況を察した。
「先輩、遅いですよ。待ちくたびれちゃいました」
「ねぇ、秀。あたしがお願いしても来てくれなかったのに、結生ちゃんだと来るってどういうことなんでしょーか?」
一年生、もとい学校内でも相当上位に来るであろう整った顔立ちが二つ。
一方はとても嬉しそうに、実にいい笑みを浮かべていて。
もう一方はかなり不機嫌そうに、むすっと頬を膨らませていた。
「僕の教室から正門まではわりと遠いんだよ。それと小夜、そんな怒るな。備品の買い出しだとわかってたら、たとえ結生から言われても同じように断ってたよ」
「ほほーう? 本当にそうなんでしょーか」
「あれ。私、学藝祭の買い出しに付き合ってって言ったような?」
「ほら! ほらー! やっぱり結生ちゃんだから来たんだー!」
「おい結生、適当なこと言うな」
面倒くさいことになった。
昨日の部活で、僕は小夜から養生テープや裁縫道具などの部活備品の買い出しの手伝いをお願いされていた。もちろん、僕は断った。せっかくのオフに面倒だし、そもそも備品管理は雪弥の担当だったからだ。そこで雪弥はどうしたのかと尋ねると、むしろ小夜も雪弥から頼まれたらしい。
「なんか大事な用事があるって言われて、あたしの好きなアイスなんでも五個買ってくれるっていうから引き受けた」
などと小夜は言っていた。あのケチな雪弥がアイスを五個も奢るとはよっぽどだ。
そんなわけで、アイスをひとつ分けてやるからと改めて頼まれたが僕はいち早く逃走した。後ろで小夜が何か叫んでいたが、結生と居残り練習の約束もあったからしょうがなかった。その日、小夜は家の用事で居残り練習に来れないことを知ってやったわけでもないのだ。
そうして幸運にも無事回避できたと思っていた矢先、結生にはめられて今ここにいる。悪いことはするもんじゃない。
「さて。もう荷物持ちでも何でもするからさっさと行くぞ。時間がもったいない」
こうなったらとにかく早く終わらせるしかない。また逃げでもしたらそれこそさすがに怒られそうだし、備品が足りなくなるのは僕だって困る。
「もう! 秀、あんたもアイス奢りだからね!」
「えーやった! 私にも奢ってください!」
「絶対に嫌だ」
ぎゃあぎゃあ言っている二人を尻目に、僕はさっさと駅に向かって歩き出した。
演劇部の備品は、学校の最寄り駅から二駅乗り継いでいったところにあるショッピングモールの大規模雑貨店で買っている。理由は単純に安いから。そう多くない部費を少しでも上手くやりくりしようと雪弥が提案して決まった。ちなみに、雪弥以外が行くとだいたいお菓子がたくさん買われて、むしろ出費は増えている。
「おっ、見て! このクッキーの大袋めっちゃ安いよ! 休憩用にいくつか買っておこう~」
「小夜ちゃん、このチョコも大特価だって!」
「じゃあそれも行っちゃおう!」
「おい、また雪弥に怒られるぞ」
今日も類に漏れない買い物を傍目に、僕はリストにあるものを順調にカゴに入れていった。やや買うものは多かったが、所詮は小さなものばかりなので問題はない。あるとすれば、多種多様で面白そうなものが所狭しと並んでいる店内で、ふらふらと物色して回っている後輩二人のお守りの方だった。気持ちはわからないでもないが、関係ないものを次々とカゴに入れようとするのはやめてほしい。この面子だと間違いなく僕が怒られることになる。
そうして、どうにかこうにか必要なものプラス累々の菓子袋を買ってから、僕らはショッピングモールにあるカフェでひと休みをすることにした。
「いや~どうにか備品が切れる前に買えてよかったね」
名物のチーズタルトを切り分けつつ小夜が言う。
「まったくだな。あいつ、結構買い出し来てなかったみたいだし」
コーヒーを口に含んでから、メッセージアプリにある小夜に転送してもらった買い出しリストを改めて見やる。そこには、かなりの数の備品名が並んでいた。どう考えても一人で買いに行ける量じゃなく、小夜の頼みを断ったのが申し訳なくなるくらいだ。
「でも、雪弥先輩の大事な予定ってなんだろうね」
「あ、そっか。結生ちゃんはまだ知らなかったっけ」
不思議そうに首を傾げている結生に向かって、小夜はどこか楽しそうに言った。
「お兄ちゃんね、響先輩と付き合ってるんだよ。ちょうど去年の秋くらいから」
「え、そうなの⁉」
ストロベリーフレーバーのドリンクを口に運ぼうとしていた結生の手が止まる。
「うん、なんかね、一年の時に同じクラスで隣の席だったらしくて、部活も同じだったから一気に仲良くなったんだって。それで秋ごろに紅葉狩りデートして、そこで告白してオッケーもらったんだってさ~。だから多分、大事な用事ってのは記念日の準備とかだと思う」
「へぇ~! まさに甘酸っぱい青春って感じだね」
「ほんとよ。響先輩は可愛いし、包容力あるしでお兄ちゃんにはもったいないって感じ。あんなお兄ちゃんのどこがいいんだろ」
「もう小夜ちゃん~、大好きなお兄さんとられたからって拗ねないの」
「拗ねてないし!」
キャッキャッと姦しく話題を膨らませていく二人を前に、僕はゆっくりとコーヒーをすすった。全くついていけない。ついていきたいとも思わないけど。
ただ話の内容だけは小説の参考になるかと、転んでもただでは起きない精神で会話内容の端々を聞いていると、不意に結生がこちらを向いた。
「それで? 秀先輩は好きな人とかいないんですか?」
「は?」
雪弥と響の色恋話で盛り上がっている中、いきなりぶっこまれた予想外の質問に僕は呆けた声をあげた。
「とぼけても無駄ですよ。健全な男子高校生なら好きな人の一人や二人、いるんじゃないですか~?」
「いや二人って」
「付き合っている人じゃないですよ? 秀先輩はいないでしょうし」
「おい」
当たっているが微妙に失礼な言い草に僕は思わずツッコむ。しかしそれが良くなかった。結生はここぞとばかりに楽しそうな表情を深めて、ニヤリと笑う。
「あれ、もしかして付き合っている人いたんですか? それは失礼しました~」
「え、そうなの秀?」
「いや、いないけど」
「好きな人はいると」
「言ってないし、いない」
「けど、昔はいたんですよね。はいはい、白状してください~」
「あたしも気になる。秀ってあんまり自分のこと話さないし!」
「二人ともうるさいな」
結生はドリンクを飲みながら、小夜はチーズタルトを食べながら目を輝かせている。
好きな人、と言っていいのかわからないけれど、確かに僕にも気になる人はこれまで何人かいた。ある時は同じクラスの優しい女の子だったり、またある時は実行委員で少し話すようになった大人しい女子だったり、さらにある時は同じ委員会に所属していた活発な子だったりと様々だった。タイプもなにもあったもんじゃない。
そして、特段なにか新しい関係に進展したりといったこともなかった。その時々の関係で僕は満足していたし、変えたいとも思わなかった。両想いになって恋人関係になれば楽しいことも多くなるだろうが、同時に面倒事も多くなる。僕にとって、やっぱり恋愛はするのではなく書くだけで十分だ。
僕が興味なさげにコーヒーを手に取ると、結生はやや不満げにズイッと顔を近づけてきた。
「もう先輩。面白い小説にはこういう話の経験も必要ですよ」
僕だけに聞こえる声で、そっとささやく。ふわりと甘い匂いが漂った。でもそれは一瞬のことで、瞬く間にコーヒーのほろ苦い香りが鼻孔を覆っていく。
「結生、お前な」
「さあ先輩、観念して恋バナに混ざりましょう!」
「もぐもぐ、あたひも気になる! おひえろ!」
「小夜は食べてから話せ」
ショッピングモールを出たのは、それからさらに一時間後だった。
買った備品を学校に持って帰り、仕分けをしていたらあっという間に完全下校時刻になった。
小夜はこの後家族で外食する予定らしく、親が迎えに来るというのでそのまま学校で別れた。別れ際、「お兄ちゃんに三人分の報酬をせがんでおくね!」と言っていたので、くれぐれもよろしくしておいた。でないと本当に割が合わない。
そうして学校を出る頃にはすっかり空は茜色に染まっており、僕と結生は二人で帰途についていた。
「あー楽しかった~!」
駅までの道中にある河原沿い。夕焼けをバックに、結生はご機嫌とばかりにステップを刻む。
「お菓子買いすぎだったけどな」
「いいんですよ。学藝祭も近いんですし」
「ぜんぜん答えになってない」
僕の素っ気ない返答に、結生はあけすけに笑った。何がそんなに面白いんだろうか。
僕が呆れて首を振ると、結生は見事な足取りで近づいてきて、そのまま顔をのぞき込んだ。
「ほら、先輩と一緒に見て回る学藝祭の後の打ち上げとかで食べるんですよ」
しなくてもいいのに、彼女はわざとらしく言葉を強調してまた笑う。対して僕は、より大仰にため息をついた。
「あのな。何度も言うが、同じクラスの友達と回れ。普通、部活の先輩とは回らないぞ」
ショッピングモールで色恋の話をしたあと、話題は学藝祭に移った。学藝祭では、僕らは演劇をすることになっているが、実際にやるのは午後だ。午前はほかの部活がやっている出し物を見たり模擬店を回ったりと、純粋に楽しむことができる。そんな話をしていたら、何を血迷ったのか、結生が僕と一緒に回りたいと言い出したのだ。
「もちろん、友達とも回りますよ。小夜ちゃんとも模擬店に行く約束してますし」
「じゃあそのままみんなで楽しんでこい」
「でも、部活の先輩と文化祭を回るっていうのも青春っぽくていいじゃないですか」
「なら僕じゃなくて、響とか二年生の女子を誘ったらどうだ。みんな喜んで回ってくれると思うぞ」
「明日誘ってみますよ。でも今、私は先輩を誘っているんです。ね、一緒に見て回りましょ。私は欲張りなので、一日しかない学藝祭をいろんな人とめいいっぱい楽しみたいんです」
屈託なく、結生は目を細めて微笑む。そこには僕をからかっているような素振りはなく、純粋にそう思っているようだった。相変わらず妥協はなくて、どこまでも全力だ。
「ほんと真っ直ぐだよな」
「何をいまさら。私は前世で早死にしてるんです。後悔しないように、今の私がやりたいことをやるだけですよ」
結生は僕から距離をとると、また土手道を歩き出した。夕日はいくぶんその位置を沈めていて、空の色もなんとなく紫色になっているような気がする。
「なあ、ちょっと聞きたいんだけど」
「なんですか?」
僕の言葉に、結生は顔だけをこちらに向けてきた。
本当にふと思いついただけの疑問だけに、少しばかり聞くのはためらわれたが、すぐに引っ込めようと思えるほどどうでもいい質問でもなかった。だから僕は、努めて深刻にならないよういつも通りの感じで、口を開いた。
「どうしたら、結生のように全力で生きられるんだ?」
「そうですね。一度死んでみることですかね」
「は?」
返事は即行で返ってきた。自分が実はくだらない質問をしたのではないかと思ってしまうほどに。しかし彼女の顔は至極真面目で、しかもその内容は、すぐに「はいそうですか」と受け入れられるものではなかった。
「えと、悪い。僕は今、どうしたら全力で生きられるかを聞いたよな?」
「はい。それで私は、一度死んでみることをお勧めしました」
「正気か」
どうやら聞き間違いでも言い間違いでもないらしい。
「すこぶる正気ですよ。だって私は、一度十七歳で死んじゃったからこそ、今こうして行動できているんです。前世では行動せずにずるずると時間を過ごして、結局後悔しっぱなしでした。一度目の生だったらそんなもんです。だから、一度死んで生まれ変われば、考えも変わって全力になれるんじゃないんですかね」
「それは……」
僕は言葉を返せなかった。聞く相手を間違えたと思った。彼女は普通の人とは違う。フィクションの世界にあるような、ある種特別な経験を持った人種だ。今流行りの異世界転生ファンタジーで言えば、チート能力にあたるような、そんな類のものだ。そんな人に、あんな質問をすれば答えなんて理解しがたいものになるに決まっている。
それに、僕は次の生で全力になりたいわけじゃない。
僕は、この先こんな質問はもうやめようと思った。
「……とまぁ、たちの悪い冗談はこのくらいで。真面目に答えますね」
「はあ?」
くしゃりと笑ってまた想定外なことを言う結生に、僕は口が半開きになった。
「私の秘密を知ってる秀先輩がそんな質問をするからですよ。少しは反省してください」
「うっ……」
勢いで聞いてしまったが、改めて考えると後悔して亡くなった悲しい記憶を持つ相手にデリカシーがなかったかもしれない。まあ、これまでそんな礼儀を考える機会もなかったわけだが。
「その、ごめん。確かに配慮が足りなかった」
「わかればいいんです」
それでも僕が素直に謝ると、結生は笑顔をそのままに許してくれた。そして再度僕に向き直ると、上目遣いになって見上げてきた。
「それで、全力で生きる方法ですよね。簡単ではないですけど、いくつか考えてみたり想像してみたりするのがいいと思います」
「想像?」
「はい。友達とか家族と話したことないですか。将来はサッカー選手になりたいとか、生まれ変わったら鳥になりたいとか」
「ああ、あるな」
ちなみに僕の小さい頃の夢は医者だった。理由は白衣がかっこいいから。なんとも安直だ。
「それと同じように考えるんです。十年後の自分はどうなっていたいか、でもいいですし、逆に十年後にこんなふうになっているのは嫌だ、でもいいと思います。なるべくリアルに、細かく想像するのがいいですね」
「なんか、怖いな」
僕は今年十七歳だ。十年後といえば二十七歳。立派なアラサーだ。仕事はしていると思うが、おそらく普通のサラリーマンだろう。結婚とかは、おそらくしていないだろうな。
「怖いのがいいんです。そこから逆算して、どんどん今の自分に近づけてみてください。五年後、三年後、一年後……。そうしたら、なんとなく考え方が少しだけ変わりませんか」
「まあ、少しだけ」
「それを毎日繰り返してたら、行動も変わってくるんじゃないですかね。ほかにも、人間いつ死ぬかわからないみたいなのでもいいと思います。ほら、私は現に一度十七歳で死んでますし!」
あはははっと結生は豪快に笑った。なんとも反応に困る冗談に、僕は苦笑いを浮かべる。でも確かに考え方としては一理あると思った。
参考になった、とありきたりな返事で会話を区切ろうとしたところで、彼女が「あ」と何かを思いついたような声をあげた。
「どうした?」
「もうひとつ。こんなふうに考えるのもいいですね」
意地悪そうに口元を薄くし、彼女は言った。
「もし、今の先輩の人生が二度目だったとしたら。十七歳で一度命を落として、その記憶がただないだけの、今の私と同じ二度目の人生だったとしたら、先輩はどんなふうに生きますか?」
彼女の口元は変わらず笑っていた。でもなぜか、目は笑っていないように見えた。
「私は、もっといろんなことをしたかったですよ。友達とカラオケに行ったり、いろんなところに旅行へ行ったり、美味しいものを食べたり」
彼女はまた、僕に一歩近づいた。
「部活に入って楽しく練習したり、買い物をした後にカフェでわいわいお喋りしたり、綺麗な夕焼けの中で学校の先輩と笑って下校したり……したかったですよ。ただそれだけです。何も、難しく考えることはないです」
息がかかるような近さまで結生は近づいてから、ゆっくりと離れた。
「だから先輩。先輩も前世の自分に胸を張れるよう、学藝祭をめいいっぱい一緒に楽しみましょう!」
前のめりになったまま、また結生は嬉しそうに笑顔を浮かべた。
綺麗な夕焼けが、そろそろ終わろうとしていた。
踵を返して歩き始めた結生を追って、僕は小さく了承の返事を口にした。
*
僕らの高校の文化祭、すなわち学藝祭は、一般開放することを前提にしていることもあって土曜日に行われる。僕の所属する演劇部はあまりパッとしないが、美術部や吹奏楽部の実力は折り紙つきだ。毎年その素晴らしい作品や演奏を目当てに多くの人が来校しており、今年も類に漏れず、既に開催三十分にして学校内は大勢の人で賑わっていた。
「今年も盛況だな~! さすがは伝統ある学藝祭だ」
正門前に立ち並ぶ模擬店で買ったジュースを片手に、雪弥は興奮した様子で辺りを見渡した。
「僕的には多すぎだな。もうちょっと人が減ってくれると嬉しい」
同じ模擬店のジュースを喉に流し込んでから、僕は溜め込んだ息を吐く。どうもこう人が多いと息がしにくい。
「去年もそんなこと言ってたな。でも帰ったりするのはなしだぞ」
「しないよ」
そういえば、去年は終始帰りたいとぼやいていた気がする。僕はどうも人混みが苦手で、右も左も人、人、人、といったような場所には極力いたくない。今日だって、先日の約束と舞台設営の人手不足がなければ自室にこもっていた自信がある。
しかしそんな僕の心境もどこ吹く風。隣でステップでも踏みそうな演劇部部長は、軽快にパンフレットをめくった。
「よーし、そうこなくっちゃな。せっかくだし楽しもうぜ! まずはどうする? 映像部のミニ映画もいいし、漫画研究部の展示も今年はすごいらしいぞ!」
「雪弥に任せるよ」
「オッケー、じゃあ行こうぜ。俺も十一時には菜々花と待ち合わせしてるしな」
意味ありげな笑みを浮かべて、雪弥は校舎内へと入っていった。僕は特に言及することなく、近くにあったゴミ入れに空のジュース容器を投げ入れ後に続いた。
それから僕は、彼の気の赴くままに学藝祭を見て回った。
映像部のミニ映画は、ひと夏の恋の後に訪れた秋をテーマに、切なさと寂しさ、そして恋焦がれる想いを描いたミニ恋愛ストーリーだった。短い時間ながらも儚さがひしひしと伝わってくる素晴らしい出来で、小説の参考になる部分も多かった。
漫画研究部の展示は、部員による自作漫画を読めるようにしたもので、前評判通り奇抜で斬新な作品が多かった。というのも、今年のテーマは「野心作」らしく、部員がこれまでのスタイルから一歩脱却した真新しさを追求しているとのことだ。その甲斐あってか、展示作を読むまでに二十分近く待たされるほどの人気ぶりだった。雪弥もその内容にはえらく満足したようで、「俺も久しぶりに帰ったら漫画描いてみようかな~!」などと話していた。
そうしてほかにも美術部の展示やら運動部の模擬店のお菓子やら芸術とは何の関係もない出店やらを楽しんでいたらあっという間に十一時になった。僕らはひとまず、待ち合わせ場所になっている中庭へと移動した。
「じゃあ、俺は昼から準備時間まで菜々花と見て回るから、お前も楽しんでこいよ」
「ああ。午後に影響ない程度にお守りをしてくるわ」
「お守り、ね。お前ら、本当にどんな関係なんだよ」
雪弥は呆れたように眉を下げてから、首をゆっくり横に振った。
「前も言っただろ。たまたま新学期の朝に駅で見かけただけで、それ以外は雪弥と同じただの先輩後輩だって」
「の、ようには見えないんだよなあ。ちなみに秀さ、気はあるのか?」
「まさか。あるわけないだろ」
同じ部活の、しかも後輩に対して異性としての好意があるなんて面倒くさい以外の何物でもない。関係がうまくいっている間は冷やかされまくるだろうし、喧嘩したりうまくいかなくなったりしたらそれこそ毎日が地獄だ。後輩でないにしろ、響とも部員ともうまくやれている雪弥は本当にすごいと思う。記念日もしっかり成功したらしいし。
「まっ、いいけどな。一度しかない青春なんだし、悔いのないようにしないと損だぜ?」
「どこかで聞いたようなセリフだな」
ドヤ顔でクサい言葉を言ってくる雪弥に対し、今度は僕が呆れて首を振った。
そんな至極くだらないやり取りをしていると、遠目に僕らの方へ手を振っている集団が見えた。
「せんぱいがた~!」
透き通るような声で叫んでいるのは、言わずもがな結生だ。心なしか周囲の視線が気になる。あいつには羞恥心というものがないんだろうか。
結生の後ろには、響や小夜、ほかの女子部員たちの姿があった。各々の手には模擬店で売っているお菓子やら展示の配布品やらがあり、どうやら演劇部女子で学藝祭を楽しく見て回っていたようだった。
「十一時ジャストだな」
「当たり前じゃないですか。いつぞやのどこかの先輩さんみたいに、遠いから~なんて言い訳はしません」
「うるさいな」
買い出しの日のことを言っているんだろう。ここ最近、前にも増して結生の僕に対する態度が遠慮ないものになっている気がする。
その後、響や小夜たちとも軽く言葉を交わしてから、それぞれ目的の方向へと散っていった。雪弥と響は二人で吹奏楽部の演奏を聴いてからお昼にするらしく体育館へ、小夜は別の高校に進学した中学の時の友達が来ているようで、その案内のために待ち合わせ場所らしい校門へと歩いて行った。
ほかの部員たちも各々の用事があるらしく、中庭には僕と結生だけが残った。
「それじゃ、僕たちも行くか」
「あ、ちょっと待ってください」
とりあえず校内へと向かおうとした僕を結生は引き留めた。かと思いきや、いきなり隣に並ぶとスマホの画面を高々と掲げる。
「え、なに」
「ほら、撮りますよ~!」
うろたえる僕の質問に対する答えはなく、代わりにパシャパシャパシャッと機械質な音が連続して響いた。やや思考停止に陥っていた僕は、それがスマホのシャッター音だと気づくのに数秒の時を要した。
「あはははっ、秀先輩。さすがにポカンとしすぎですよ!」
連写した写真を次々とスライドして見せながら、結生はゲラゲラと笑った。
「あのな。いきなり撮られると誰だってそうなるだろ」
僕は素っ気なく答えた。確かにどの写真の僕も間の抜けた表情で収まっている。対して、隣の結生は口元にピースサインをつけた眩しい笑顔を浮かべていた。
「大丈夫ですよ。リベンジチャンスは今からいくらでもあります」
「今から?」
嫌な予感がした。
その予感を的中させるがごとく、結生は笑顔の質を眩しいものから意地悪なものへと変えて続ける。
「はい! せっかくなので、先輩の今書いている小説の参考になるようなシチュエーションの写真や動画をいっぱい撮りましょう! ちょうど日常シーンに困っていたようですし!」
「ええぇー……」
早速午後の本番に影響しそうな気配を察し、僕は小さく頭を抱えた。
それは、つい昨日のことだった。
学藝祭前日にもかかわらず、結生は朝練で僕の小説を読み、その演技をしていた。本人曰く、「気分転換も大切!」とのことで、学藝祭の役が崩れないことを条件に僕も小説の続きを見せていた。
そうして、小説の展開としては中盤に差し掛かろうかという頃の日常シーンを迎えていた。主人公と親友、そして二人の想い人を交えたショッピングの場面。三人でわいわい盛り上がりつつも、後半になるにつれて主人公は三人でいることが辛くなり、途中で帰ってしまうというターニングポイントとなるところだったが、ここで問題が起こった。
「先輩。ここのシーン、なんか変です!」
何度か演じた後、結生はオブラートに包むことなく言い放った。やれ主人公のモノローグが堅いだとか、三人のやりとりに違和感があるだとかそれはもう忌憚のない意見を述べてきた。一応、感想や意見は遠慮することなく言ってくれと伝えていたので身構えてはいたが、実はここまでダメ出しをくらったのは初めてで軽く落ち込んだ。
そして話し合ってみたところ、コメディチックな部分に必要以上のシリアス要素が混ざっているようで、それは僕の経験不足が原因だろうということになった。青春小説を書いている人全員が素晴らしい青春を送っているわけではないと思うが、多少なりとも経験していた方が書きやすいのは事実だ。ゆえに、何かしらの対策を考えていたところ、中庭での提案が来たわけである。
先日の買い出しでの色恋話にあまり混ざれなかったことも引き合いに出されては、僕としては断れるはずもなく、渋々納得して彼女の後についていくこととなった、が。
「秀せんぱーい! これこれ! 小夜ちゃんが言っていた今年の模擬店で一番の注目商品のアートドリンク! さっき売り切れてたんですよ今ありますよすぐ買いましょう!」
大行列の最後尾でぴょんぴょん飛び跳ねたり、
「秀せんぱーい! あのお化け屋敷いきましょう! なんでも特殊メイクが趣味の人が部活にいて、例年にないくらいの恐怖度らしいですよ!」
笑い声なのか悲鳴なのかわからない声をあげてお化けと戯れたり、
「秀せんぱーい! お腹すきましたー! あそこのたこ焼き奢ってくださーい!」
なんとも図々しい物言いでねだったりしていた。ただ本人が気ままにはしゃいでいるようにしか見えないこのシチュエーションを、どう小説に使えというのか。
一応、結生の言う通りに写真やら動画も撮った。合間にフォルダを何気なく確認したらすごい量になっていて若干引いた。そんなところをまた見られて勢い任せに文句を言ったら、「このくらいの枚数全然ですよ」と笑われた。一時間で百枚超えは普通なんだろうか。
そうしてあちこち見て回った後、僕は結生に連れられるまま屋上に来ていた。
「いや~学藝祭って楽しいですね~!」
近くのベンチに腰掛け、結生は満足そうに伸びをした。
「僕は既にくたくただよ」
たこ焼きのお礼にと結生が買ってきてくれたお茶を飲んで一息つく。冷えたお茶は、疲れた四肢や喉によく沁みた。
「秀先輩は体力なさすぎですよ。役者じゃなくても運動はしないと」
「僕はインドアなんだよ」
「小説にはアウトドアのキャラもいます。なら運動は必須です」
「作者しんどすぎないか」
書くキャラクターの経験や立場に沿って逐一作者も経験していたんじゃ身がもたない。
「もちろん全部とは言わないですけど、経験して損のあることなんてほとんどありませんよ。運動は健康にとっても大切ですし」
「……なんか、結生ってたまに言ってることがおばちゃんくさくなるよな」
「なんだとー!」
どうでもいい会話が時間を緩やかに流していく。
屋上は、中庭と同じく学藝祭の間は休憩用スペースとして開放されている。いつもは倉庫に仕舞われているベンチやら簡易テーブルやらが置かれ、辺りには喧騒が漂っていた。それは仲の良いグループと思しき男子の悪ふざけだったり、スマホでいろんな写真を撮って騒いでいる女子グループだったり、和やかに笑い合っているカップルのような男女ペアだったりした。そのどれもが青春の色を宿していて、とても充実しているように見えた。
もしかしたらさっきまでの僕たちや今のやり取りさえも、傍からは同じように見えているのかもしれないと思うと、なんだか気恥ずかしくなった。
そんな戸惑いを覚えつつも隣で明るく笑う後輩の話に耳を傾けていると、不意に十三時開始の吹奏楽部の演奏が風に乗って聞こえてきた。
「わ、もうこんな時間!」
「っと、そろそろ行かないとな。設営にメイクもあるし」
僕らは手早く広げていたパンフレットや配布品、お昼のゴミなどを片付けてまとめる。
舞台の本番は十五時だ。大道具などは既に裏へ運び込んでいるが、小道具の確認や役者のメイクなど準備をいくつかしなければならない。
「はあ~~緊張するう~」
「まったくそんなふうに見えないけど」
「我慢してるんです。ちょっと気を抜くと手とか足とかガクブルです」
緊張の震えって我慢できるんだろうか。素朴な疑問が頭をよぎるが、そもそも結生はまだ入部して一ヵ月とちょっとだ。緊張するなという方が難しい。
「まあ初めての本番だしな。緊張もするだろうけど、結生はいつも通りやれば大丈夫だ」
「いつも通り、ですか。じゃあ先輩、後輩の緊張をほぐすために何かしてくれませんか?」
「え?」
思わずパンフレットをそろえる手が止まる。
そして、声のした方へ顔を向けた。そこには、いつも通り意地悪な笑みを浮かべた結生の表情が、なかった。
そこには、不安げに微笑む結生がいた。
唐突に見せた彼女の表情に戸惑う。
演技を除いた今まで、前世の話をした時でさえ、結生がそんな表情をしたことはなかった。
「結生、大丈夫か」
僕の問いかけに、彼女は答えない。表情も変えないまま、僕をただ見つめていた。
緊張をほぐすため。
僕に、何ができるだろうか。
これまでの経験を思い返すも、そういった場面を避けていたこともあって思い当たることがない。さらに遡れば中学受験だろうが、緊張したまま受験した記憶しかない。どうしたものか。
吹奏楽の演奏が進んでいく。有名な曲で、中盤に差し掛かろうとしていた。
時間もあまりない。力強い曲調に押されるように、僕はひとつ息を整え、思考の隅で思いついた方法を実践に移すことにした。
『飾ろうとしないで。お姉ちゃんの、ありのまま姿でいいの』
「……え?」
僕が普段出さない声に、結生は一瞬ポカンと口を開けた。
『久しぶりにお兄ちゃんと会うから緊張するのはわかる。でも大丈夫。お姉ちゃんなら、大丈夫だから』
今日の午後からの舞台。演題は「想い合う気持ち」。急遽後から復活させた、結生が演じる妹役の終盤のセリフを、一心不乱に演じる。
『今までの想いをしっかりぶつけて! 応援してる! だいす……き、ダ、ヨ……』
一心不乱に演じた、つもりだったのだが、最後の最後で羞恥心が勝った。
一応これでも小夜に限らず役者の練習相手として一年以上台本を書き、読んできた。だから演技もどきのものならできる。女言葉も話せるし、好きじゃない相手に告白だってできる。
でも、どうも勝手が違った。やっぱり僕は役者には向いていなかったらしい。
演技中は「自分」に戻ってはいけない。役が抜けてはいけない。なのに、僕は肝心なところで冷静になってしまった。結果……
「ぷっ、あははっ! アハハハハハッ!」
演劇部期待のホープに盛大に笑われるという状況になった。ついでに言えば、周囲で騒いでいた男子や女子のグループも大爆笑している。なんだこの恥さらしは。
「おい、この、笑いすぎだろ!」
「あは、ふふっ、ご、ごめんなさい……! でも、さすがに、驚いちゃって、アハハハ……ッ!」
お腹を抱えて、涙を貯めて笑う後輩から目を逸らす。これ以上見るのは、いろいろな意味で無理そうだった。
「ったく、緊張がほぐれるように何かやれって言うから」
「ふふふっ、うん、そう、緊張、ほぐれました! ははっ、ありがとう、ございます、ふふふ」
「そうかそうか。それは何よりだ。本番はせいぜい期待してるよ」
「んふふふっ、はい! 任せてください!」
元気よく突き出した彼女のピースサインは、まったく震えていなかった。
*
演劇が始まる前は、確かに胸が高揚する。
でもそれは、物語が始まる前の興奮であることが主だ。僕は役者でも演出でも監督でもないので、本番が始まってしまえばできることは少ない。せいぜいが、観客席の後方や上方から記録用の動画を撮っているくらいだ。
今日も今日とて小道具の状態を確認し、役者のみんなにひと声ずつかけた後はずっとこうしてビデオカメラに張り付いている。
『出て行け! 出来損ないのお前はもう我が家には必要ない!』
序幕にあたる父役と兄役のやり取りが体育館に響く。体裁を重んじる家系の父親は、我が子が犯罪に手を染めたことを受け入れられず勘当し、疎遠になっている遠方の親戚のところへと追い出す。これを機に家族はどこか歪になり、疎遠になり、やがては仕事や人間関係にも影響を及ぼしていく。
この発想のもとになっているのは不甲斐ない自分の過去だ。周りの期待を背負い、国内でも最難関の私立中学に進学させてもらったが、あえなく打ちのめされ、耐えることもできずに逃げ出した。さすがに脚本のような酷さはないが、あれから家族はバラバラになり、今もなおその尾を引いてしまっている。
『私、旅に出るから。兄さんを見つけるまで、戻ってこないつもり。姉さん……、あとのことは任せたよ。もし私が帰ってこなかったら、死んだと思って』
序幕のやり取りが終わった後は、いよいよ生き別れた兄を探しに行く主人公の出番だ。
仕立てた衣装に身を包み、照明をあてられた小夜の演技は圧巻の一言だ。夏休みから始まった一ヵ月以上にわたる練習を経て、彼女の演技はより精緻で洗練されたものになっていた。
さらに続く、姉役との涙の掛け合い。一度結生が練習で演じた姉役は、響が演じている。響はメイク担当だが役者も掛け持ちしており、主人公の姉役は落ち着いていておっとりとした彼女の性格とも合っている。結生の時とはまた違った印象で、おおらかかつ包容力のある演技だ。
そしてここからが、彼女の出番だ。
『待って! 私も連れてって!』
舞台脇から走り出してくる少女、主人公の妹だ。主人公は驚き、戸惑う様子を見せるも、優しく微笑んで小さく頷く。ここから、主人公たちの兄探しの旅が始まる。
これが本来の脚本の形だ。ただ残念ながら落ち込み気味の演劇部には部員が少なく、やむなく当初は妹役を無くしてやる予定だった。でも。
僕は、たった一ヶ月とちょっとの間のことを思い出す。彗星のごとく現れた転校生は、あろうことか本来の転校日前日に部活に乗り込み、居残り練で見事な演技を披露した。翌日には部員全員を納得させ、再修正した元の脚本で演じることになった。
そこから一ヵ月。元々輝いていた結生の演技はさらに磨きがかかっていった。
主人公を演じる小夜の周囲で、妹役の結生がはしゃぐ。でもそれは、僅か数時間前に見せていたはしゃぎ方とはまるで違う。随分と幼くて、純真無垢。この世の暗い部分を何も知らない、そんな未熟さを宿した眩しい表情で、くるくると舞台を飛び跳ねている。
きっと彼女は、これからさらにその演技をさらなる高みへと昇華させていくんだろう。今は僕が書いた小説で練習しているが、それもやがてなくなり、自分の実力に適した方法を模索して、小夜たちとハイレベルな掛け合いを披露していく。その過程に携われただけでも引き受けた甲斐があるってもんだ。
舞台は家を出て街を抜け、電車を乗り継ぎ、場所を移していく。中盤は、姉妹同士や行く先々での人々とのやり取りがメインだ。話の端々で、家の状況や兄が妹のためにやむなく犯罪に手を染めたこと、兄を見つけてもその先どうしたらいいかわからないことなど、いろんな悩みや葛藤が明るみになっていく。ともすれば、やや退屈なシーンとも受け取れなくもないが、二人の演技力の前では僕の脚本の未熟さなど霞んでしまう。ころころと表情を変えていく二人のやり取りは時に面白く、時に心を打ち、時に涙をそそる。
また、結生を始めとした部員のアドバイスで、所々変えている部分が多いのもこの中盤だ。伏線として、電車でたまたま乗り合わせたおばさんやカフェのお兄さん、兄の居場所を聞くために話しかけた道端の通行人など、他の人と話すのは基本的に主人公だけだ。最初はあまり気にならないが、徐々に違和感を増やしていき、同行している主人公の妹役の異質性を際立たせていくのがいいだろうということで、最後まで微調整をした部分だ。思えば、こんなにギリギリまで調整したのは入部して初めてかもしれない。
『お兄ちゃん、どうやら叔父さんの家を出て住み込みで働いているみたいだね!』
『うん。別れてから随分経つけど、元気にしてるかな』
どうにか居場所を探し当て、会うための算段を立てる。そしてここで、あのシーンもある。
『飾ろうとしないで。お姉ちゃんの、ありのまま姿でいいの。久しぶりにお兄ちゃんと会うから緊張するのはわかる。でも大丈夫。お姉ちゃんなら、大丈夫だから。今までの想いをしっかりぶつけて! 応援してる! 大好きだよ……!』
久しぶりに兄と会う前に緊張して、どんな自分で会おうかと悩んでいる主人公に声をかけるシーンが。
僕が羞恥ゆえ最後まで言い切れなかったセリフを、僕のおかしな演技を直前に見ているはずの結生は、そんなことなんて微塵も感じさせない演技で言い切る。緊張をほぐすためとはいえ、咄嗟にしてしまったことが影響しないか心配だったが、どうやら杞憂だったらしい。良かった。いつもの僕ならそんな影響を考慮して絶対にやらない。格好悪くても、「いや、結生なら大丈夫だ。自信持てって」なんてありきたりな言葉だけかけて、彼女が許してくれるのを待つだろう。きっと、学藝祭という熱に一時的に当てられただけだ。気を付けねば。
その後もつつがなく物語は進み、終盤へと差し掛かる。失敗らしい失敗もなく、ラストシーンに続く最後の暗転を迎えた。
『兄さん、また一緒に暮らそうよ。兄さんは悪くないんでしょ? 家族のためを想ってやったことなんでしょ……! それなのにひどいこと言われて、追い出されて……あんまりだよ……』
ラストシーン。主人公と兄が互いの気持ちをぶつけ合う場面だ。
『いいんだ。俺は自分の信念の通りに動いただけだから。また家族を失うことにならなくて、良かった』
そして明かされる真実。兄の口から語られる妹殺害の事実と復讐の顛末に、観客が息を呑むのがわかった。シーンの始まりから舞台の端で佇んでいる主人公の妹を見る目が変わる。セリフはなく、手の動きや表情だけで演技をするという難しいものだが、結生はまたしっかりとやり切った。
『お姉ちゃん、お兄ちゃん、みんな……。毎日を、家族を、想いを、どうか大切に』
結生のセリフと小夜の慟哭。そして続くナレーションを最後に、幕が下りる。
体育館全体に拍手が響く。
そこでやっと、僕は自分が息をとめていたのだと自覚し、録画に入らないように気をつけて息を吐いた。いつの間にか鳥肌が立っていて、背中や手には汗をかいていた。
終わった。文化祭にありがちなハプニングもなく、一ヶ月以上に渡る練習を詰め込んだ四十分の幕は引かれた。
そこで僕は気づいた。
微かな充実感と、寂しさを感じてしまっていることに。
去年はこんな気持ちにならなかったのに。なんとも不思議だ。
学藝祭の演劇は終わったけれど、僕らの活動はまだまだ続く。そんな打ち切り漫画の終わりにあるような常套文句が浮かぶが、現実世界では周知の事実だ。当たり前のことだ。
未だに続く拍手の終わり際に、僕も少しだけ混ざらせてもらった。
なんとなく、手を動かしておきたかった。
*
ステージの撤去作業を終え、僅かに残った自由時間をのんびりだらりと過ごし、一般開放の終了時刻が過ぎてから演劇部の担当になっていた正門付近の片づけが終わると、いよいよ学藝祭全体の幕も引かれることとなる。
「わ~終わって欲しくね~! 江波先生、あと一週間くらいやりませんか!」
「そっかー。じゃあ青海だけ打ち上げは一週間後ってことで」
「それは寂しいっ!」
正門の端で繰り広げられるくだらないやり取りの後、月曜日が代休であることや冬練に向けた連絡事項が伝えられ、めでたく解散となった。ようやく人混みから開放されて自室に引きこもれる、と思う間もなく、まだ興奮冷めやらぬ部長の叫び声が聞こえた。
「こーら、秀! まだ帰んなよ! 打ち上げあるんだからなー!」
「はいはい。場所は?」
「一時間後に駅前集合! 俺は準備があるから先に行っとく!」
何の準備だ、と思ったが、問い質す前に雪弥は響を連れて足早に去っていった。なんともせっかちなやつだ。響も大変だろうにと思ったが、その顔はむしろほころんでいた。
至極円満そうなカップルを見送った後、部員たちは荷物の整理やらほかの部の友達との談笑やらをしに散らばっていく。空はすっかり茜色に染まっており、夕暮れ時の物寂しさと相まって、どこかしんみりとした雰囲気がそこには漂っていた。
「や、お疲れ」
気さくな声が背後から聞こえた。振り返ると、爽やかな笑顔を浮かべた小夜が立っていた。
「おう小夜。お疲れ。演技すごかったな」
「あれ。秀から褒めてくれるなんて珍しい」
「あのな。僕だって褒めるときは褒めるぞ」
やや失礼な彼女の物言いに、わざとらしくムッとしてみせる。けれど、小夜は「そんな演技じゃ誰も騙されませんよー」とケタケタ笑った。
「なんだか今日はやけに笑われる日だな」
「ん? 誰かに笑われたの?」
「ああ。結生にな。緊張してるっていうから、励ます演技をして見せたら大爆笑された」
「えーなにそれ。めっちゃ気になるんだけど」
「やらないよ」
あろうことか同じ演技をしろとせがんでくる小夜をいなす。つい話の流れで言ってしまったが、あれはまごうことなき僕の黒歴史だ。もう絶対にやりたくない。
それからしばらくは粘っていた小夜だったが、意外にも早く諦めてくれた。それから話は再び今日の演劇の話になり、あのシーンが上手くできただとか、この場面の表情が良かっただとか、各々の感想を言い合った。さっき小夜も意外そうにしていたが、僕はあまり自分の感想を言わないタイプだ。自分でもそう思う。でも、なぜか今日は感想が次々と口をついて出た。
「ほんとに今日の秀は饒舌だね。人が変わったみたい」
「うるさいな。学藝祭が終わった直後だからだ。明日になれば戻る」
自分でも自覚していることを改めて人に指摘されると、どうしてか少しムカつく。きっと心を見透かされているような気がして落ち着かないからだろう。
僕はそんな気持ちを紛らわす意味でも、努めて素っ気なく小夜に言い放った。でも彼女はまるで動じることなく僕に一歩近づくと、対照的な柔らかい口調で見当違いの言葉を口にした。
「多分だけど、戻らないんじゃないかなー」
「は?」
「だーかーらー、戻らないと思うの。秀は明日も明後日も、今みたいに少し饒舌だと思う」
小夜には珍しい、遠回りな物言いだった。どういう意味だろうか。僕が明日も興奮を引きずっているとでもいうのか。
「雪弥じゃあるまいし、それはない。なんなら今からだって戻れる」
「言葉だけならね。でも、あたしが言ってるのはそういうことじゃなくて、行動って意味」
彼女は一歩下がってから、言葉を選ぶようにゆっくりと息を吐いた。
「秀は、変わってきてるよ。結生ちゃんが入部してから」
「え?」
またよくわからないことを言う小夜に、僕はいよいよ混乱した。
「ううん、正確には戻ってきてるって言い方が正しいかも。今よりも前、中学に入る前の秀に」
「中学に入る前?」
「うん。お兄ちゃんとあれこれ映画とか漫画の感想を言い合ってて、勉強とか好きなゲームとかに熱中してて、その時の感情で結構見切り発車しちゃう癖のあった子どもっぽい秀に、ね」
「……馬鹿にしてるのかよ」
ようやく少し落ち着いてきた思考で、僕はやっとそれだけを言った。あまり認めたくないことだった。ある程度これからの人生を諦念的に俯瞰して見ていると思っていた僕にとって、それはすぐには受け入れられることではなかった。
でも小夜に言われて、改めて自覚せざるを得なかった。
僕がまた少し、少しだけ、自分の人生に何かを期待してしまっていることに。
「あたしは嬉しいよ。またあの頃の秀が戻ってきてくれて。ちょっと妬けちゃうけど、結生ちゃんならまあ、納得だし」
「は? なんの話だ」
「あはは、内緒っ。結生ちゃん、部室に忘れ物取りに行くって。あたしは先に行ってお兄ちゃんの準備手伝ってるから、秀は結生ちゃんが迷わないようにしっかり連れて来てね!」
小夜は早口にそれだけ言うと、制服を翻して走っていった。だから何の準備だ、とツッコむ暇さえなかった。
僕は無言で振り返る。校舎は変わらず、橙色の光で染め上げられていた。
「はあ、仕方ないな」
ひとりで駅に行って怒られるのも面倒なので、僕は足先を校舎の方へと向けた。
校舎内は、まだ学藝祭の面影があちらこちらにあった。片付けの途中なのだろう、廊下には机や椅子が所々に積み上げられており、開いた窓からは談笑する陽気な声がちらほらと聞こえてくる。人数は随分と減っているが、まだそれなりの生徒が残っているみたいだった。
外と同じく夕日の色に照らされた廊下を歩き、階段を昇り、また廊下を歩いていく。部室として使われている空き教室が並ぶところまで来ると、人影はほぼなくなっていた。
なんとなく、結生と歩いたここ一ヶ月あまりの朝が思い出される。彼女と朝練を共にする日は、他の人に見られたくないので必然的にかなり早い時間になる。時には彼女と鉢合わせし、二人でほとんど人のいない早朝の廊下を歩いて部室へと向かっていた。
――秀は、変わってきてるよ。結生ちゃんが入部してから。
小夜に言われた言葉が蘇る。それは、僕自身もなんとなく気づいていたことではあった。
でも、自分で自覚するのと他人から指摘されるのは違う。僕は、傍から見てもわかるほどに、変わってしまったのだろうか。
考える。まず思いつくのは、結生の提案を受け入れたことだ。演技力向上練習の台本として、僕の小説を提供する。まず間違いなく、今までの僕ならやらない。そう、あの時は確か「一緒に最高の物語を創ろう」とか言われて、僕は逃げで小説を書いていたくないと思って、それで……。
軽く頭を振る。少しだけ、クラクラした。
ほかにはどうか。朝練に行く回数が増えたし、小説のことを考える機会も多くなった。後輩との約束のせいだ。普段なら聞かない変なことを聞いてしまったこともある。前世の記憶とか超前向きな生き方とか、それこそ小説の中の登場人物のような後輩が近くにいるからだ。そういえば僕らしくもない演技披露なんかもやってしまった。でもあれは、目の前にいた後輩が緊張をしているから何かしろと言ってきたからで……。
僕はさらに頭を振った。さっきよりもクラクラした。でもおかげで、頭の中に浮かんでいたことのいくつかが空気中へ吹っ飛んでくれたようだった。
先に目を向けると部室が遠目に見えた。廊下は変わらず静まり返っていて、人の気配はないが、ここに来るまで会わなかったのでまだ部室にいるかもしれない。入れ違いになってなければいいんだけど。
――好きだから、だよ。
唐突に、いつかの彼女の声が聞こえた。
慌てて僕は辺りを見渡した。でも、人影は見えない。当たり前だ。だってあれは、一ヶ月前に、ここで彼女がした演技でのセリフだ。
そこでふと、小夜が去り際に言っていたことを思い出した。続けて、雪弥にも聞かれたんだったかと苦笑する。兄妹揃って何をそんなに気にしているのか。
それはありえないと思った。変わったからといって、僕は彼女にそんな感情は抱いていない。あるいは逆に、そんな感情を持ったがゆえに変わったというのもない。ライト文芸にあるような、そんな物語は、ここには生まれていない。
二、三回深く息を吸って吐き、呼吸を整える。その頃には、既に部室の前に到着していた。さすがに彼女に会って取り乱してはまたからかわれてしまうので、今まで考えたことは全て忘れることにした。
「結生ー? いるかー?」
努めて平坦な声で呼びかけながら、僕は部室になっている空き教室のドアを開けた。お菓子を保管していたからか、微かに甘い香りが漂っていた。
そしてやけに静かな教室の中に、彼女はいた。
窓際に置かれた、普通の教室にあるものと同じ机に前のめりに身体を預け、椅子に腰深く座った姿勢で眠っていた。
「ったく、寝てんのかよ」
顔はこちらを向いている。閉じられた瞳は僕を捉えていないのに、口元はほころんでいた。微かに上下している背中を見ても、狸寝入りをしているふうではなかった。つまりは、なんとも幸せな夢を見ているだけらしい。お気楽なやつだと思った。
初めての学藝祭や本番の舞台で疲れたんだろうし、その嬉しそうな顔を見ていると起こすのは忍びないが、さすがに起きるのを待っているわけにもいかない。もうそろそろ学校を出ないと、集合時間に間に合わなくなってしまう。
「おい、結生。起きろ。打ち上げに行くぞ。お前の大好きなお菓子が全部食べられ……」
その時、カシャンと音がした。
見ると、僕がいるのとは反対側の床に、化粧ポーチと化粧品が散乱していた。もしかしたら、忘れ物ついでに化粧直しをしていたのかもしれないと思うと、なんだか見てはいけないものを見てしまったような気がした。
起きる前にさっさと片付けてしまおうと、僕は化粧ポーチを拾い上げた。
「え――」
血の気が引いた。
周囲の景色が急速に遠のいていき、僕の視線は一点に釘付けになる。
――私、前世の記憶があるんです。十七歳で一度この世を去った、そんな記憶が。
また、いつかの結生の声が響いた。
――死因? 病気ですよ。当時の医学じゃ治せない、いわゆる不治の病ってやつです。
内容とは裏腹に、あの時の彼女はなぜか笑顔だった。
――辛かったですね、あの時は。もう重病なんてまっぴらごめんです。
時に苦笑いを浮かべつつも、なんてことないように過去の記憶を話していた。
――だから私は、今度は全力で取り組むんです。人生を精一杯楽しみたいから。
あの日言っていた「今度」の意味。何気なく聞き流していた。それでよかった。わかりたくなかった。わからなくてよかった、のに。
化粧ポーチの底は、見慣れない錠剤とカプセルで埋め尽くされていた。ただの病気ではありえないほどの量の薬。錠剤は種類ごとにまとめられ、朝、昼、夕方などと飲む時間帯とみられるメモが貼られている。そしてカプセルの束には、『辛い時だけ飲む。頑張れ私』と手書きの文字があった。
手汗がにじむ。
息が詰まった。
視界が揺れた。
でも、どうにかこらえた。
彼女が言っていた、前世で患ったという大病。実はあれは前世のことではなく、現在のことを遠回しに言っていたのだろうか。そのために彼女は、毎日を後悔しないように、全力で生きているのだろうか。あるいはただの、持病かなにかの薬なんだろうか。命にかかわるような、そんな病気とは違う、べつの、なにか――
「――あーあ。見つかっちゃった」
突然背後から聞こえた声に、僕は大きく飛びずさった。同時に「ひょえっ」なんて変な声が出て、後ろにいたらしい彼女は小さく噴き出した。
「ふふっ。先輩のそんな声、初めて聞きました。今度また驚かせてみようかな」
「っ、結生……」
机に突っ伏して寝ていたはずの後輩が、困ったように笑っていた。それだけで、これがたちの悪い冗談などではないことを察してしまう。
「まったく、乙女の秘密をこっそり見るなんて。先輩はひどい人ですね」
「いや、えと、これは……」
「言い訳を探すなんてもっとひどい人です。そんなんじゃ将来、好きな人に愛想つかされちゃいますよ?」
結生はおもむろに近づくと、そっと僕の手から化粧ポーチを取り上げた。
「こんな時はまず謝る。自分の言い分はその後です」
「その……ごめん」
「よろしい。それでは、言い分をどうぞ」
彼女の声は妙に落ち着いていた。でもそれが、意図してやっていることだということはすぐにわかった。彼女の普段の演技とは、似ても似つかないほどの、酷いものだったから。
だから僕は、また僕らしくもなく聞いていた。
「その、化粧ポーチのは……なんなんだ?」
「んー? お薬ですよ。私の命を繋いでくれている大切な、ね」
ためらう様子もなく、彼女は世間話をするみたいな気安さで答えた。
対して僕は、冷静なふりをするだけで精一杯だった。
「つまり、前世の記憶っていうのはうそで、本当は今のことだったのか」
「いーえ。病気で早死にした記憶があるのも本当です。私、先輩にうそはつきません」
想定していた答えと違い、戸惑う。どういうことだ。
何も言えずに彼女を見返すと、やや間があってから、彼女はゆっくりと口を開いた。
「私は今、前世と同じく、病気にかかっているんですよ。ついでに言えば、どうやら全く同じ病気みたいです」
彼女は笑っていた。
僕は絶句していた。
返す言葉が見当たらず、僕は視線を彷徨わせるしかなかった。
「ああ、でも安心してください。医学の進歩ってすごいですね。今は不治の病ではないみたいです。二十パーセントくらいの確率で治るって聞きました」
いつの間にか、彼女の笑顔は自然なものになっていた。
「五分の一ですよ、五分の一。すごくないですか。治癒率ゼロパーが二十パーですよ。前世で新薬投与されたり脊髄液とられたりと確かに医療貢献はしましたが、まさか本当に貢献できているとは思ってもみませんでした。驚きですよね」
声も普段通りで、むしろ少しだけ明るいくらいだった。
「前世の自分が、今の自分を救う。なんか物語みたいじゃないですか。小説にしてもいいですよ。先輩なら許可します。ただし、書いたら必ず見せてくださいね。私が演じてみせますから。最高の演技を先輩に披露しますから。だから、だからね……」
彼女の黒くて大きな眼が、僕を捉えた。
「そんな顔しないでください……秀先輩」
僕は慌てて後ろを向き、思わず目元を拭った。
涙は、流れていなかった。
結局、僕と結生は打ち上げに行かないことにした。
衝撃的な事実を目の当たりにして僕は既にそんな気分じゃなかったし、結生に至ってはあまり体調がすぐれないらしい。ちょうど薬を飲んだところで、副作用と疲れゆえに部室で少し眠ってしまったとのことだった。
すぐに親に連絡して迎えに来てもらった方がいいと言ったが、結生は首を横に振った。
「あんまり心配かけたくないんで大丈夫です。薬も飲んで、だいぶ良くなりましたし」
それでも心配だったが、結生が頑なに拒むので次体調が悪くなったら連絡するということで決着した。
打ち上げを欠席して急遽空いた時間で、結生は屋上に行こうと僕を誘った。僕はひとつ頷いて、軽い足取りでさっさと先に行こうとする結生を追った。
屋上に着くと、辺りは暗くなり始めていた。今日一日学藝祭を照らし続けてくれた太陽は地平線の彼方へと沈み、代わりに半分に欠けた月が顔を出していた。紫がかった空にはぽつぽつと星の光が灯り、今にも消え入りそうなか細さで瞬いている。
「んふふふっ、なんだかドキドキしますね!」
結生はあどけない笑みを浮かべて空を見上げた。
「そうだな。僕もさすがにこんな時間に屋上に来たことないし」
「おお、それは光栄ですね~。先輩の初めていただきました~」
「変な意味に聞こえるからやめろ」
あどけない笑顔から小悪魔的な笑顔にその性質を変え、結生は変わらず笑っていた。
「……そういえば、打ち上げ欠席するって雪弥に連絡しとかないとな」
「ああ、さっき小夜ちゃんにしておきました。急用ができたから秀先輩も一緒に休むね、って」
「おい待て。その言い方だとまるで僕たちが一緒にいて、そこで何か用事ができたから休むって意味に聞こえるんだが」
「実際そうなんですから、いいじゃないですか~」
「……週明けどうなっても知らないからな」
「大丈夫ですよ」
そこには、いつもと同じ空気が流れていた。学藝祭後の興奮も、衝撃的な現実への悲観も見えなかった。くだらない冗談を言って、どうでもいい会話を楽しむ、そんな日常があった。
でも、そのまま何もなかったことにはできないと思った。だから僕は一呼吸の後、言葉を選びつつ口を開いた。
「ストーップ! 先輩は何も喋っちゃダメです!」
僕の口から声として言葉が漏れる前に、隣の彼女が小さく叫んだ。
「もう少しだけこのままで。その後に、私から話させてください」
彼女は笑みを浮かべて、空を眺めていた。
だから僕もそれに倣うことにした。
夕暮れ時は過ぎ、黄昏時も終わり、夜の色が濃くなっていく。日の出る時間も随分と短くなった。それは、暑い夏が過ぎ、過ごしやすい秋を経て、寒く厳しい冬の訪れを僕に感じさせた。
僕は秋が好きだが、冬も嫌いではなかった。寒さに弱くはないし、必要以上に外に出なくて済むし、堂々と部屋にこもって読書や趣味に興じられるから。ただどうしてか、僕は今年の冬をあまり好きになれそうにないと思った。
「高校に入ってからです。私が体調に異変を感じたのは」
星の数が目に見えて増えた頃、随分と落ち着いた結生の声が聞こえた。
「最初は風邪かなって思う程度だったんです。でも全然治らなくて。おかしいなって、どこかで聞いたことのある症状だなって考えてたら、気づいてしまいました。この身では覚えがないけど、記憶にはありましたから」
苦笑したのが、彼女の息遣いでわかった。
「そこから先は早かったです。大きな病院で検査して、聞いたことのある耳心地の悪い病名を聞いて、母は取り乱してましたけど、私は思ったより落ち着いていました。何事も二回目は楽だって言葉が、なんとなく思い浮かんでました」
楽なはずがない。思わずそう言葉にしかけ、彼女に止められる。そうだ。僕は今、喋っちゃいけない。
「確かにショックはショックでしたけど、悪いことばかりじゃありませんでしたよ。前世では治る見込みが無いって言われたのに、今回は、初期症状でわかったこともあって治る可能性があるって言われましたし。さっきも言いましたけど、前世での医療貢献が僅かとはいえ報われていることを知って、嬉しくなりました」
星から目を離し、彼女はこちらを向いた。また、笑っていた。
「でも、前世は後悔だらけでした。病気のことを受け入れられなくて、死ぬことが怖くて、何よりとっても悲しくて、動ける間もベッドから出ずに毎日を過ごして、動けなくなってからはずっと泣いていました。残された命で、もっと何かできたかもしれないのにって、死に際に思っちゃいました。だから私は、今回の人生では後悔のないようにって、ずっと全力で生きてきました」
結生は一度目を閉じてから、そのまま視線を空へと戻した。
「病気になる前はもちろん、病気なってからもその考えは変わっていません。治ると治らないとに関わらず、私は残りの命を悔いなく生き抜くんです。病気なんて関係ない。今の私がやりたいことを、ただ全力でやる。それだけです。でも……」
そこで結生は、一度言葉を区切った。小さく長く息を吐いてから、彼女は一歩前へと進み、こちらを振り返った。
「先輩を巻き込むのは、これで最後にします。さすがにこんな厄介な病気を抱えている人と関わるのは嫌でしょうし、小説とかも書きにくいと思うので。あ、でもいきなり部活やめたりすると不自然なので、これから少しずつ距離を離していきましょう。私が先輩に告白したけどフラれて、気まずいがゆえに疎遠になった同じ部活にいる後輩、みたいに接していただけると、嬉しいですね」
結生は、まだ笑っていた。
結生が転入してきてから一ヵ月。何度も何度も見てきた彼女の笑顔。無邪気に笑ったり、悪戯っぽく笑ったり、朗らかに笑ったり、小悪魔みたく笑ったり、柔らかく微笑んだり、お腹を抱えて笑い転げたり……いろんな笑顔を見てきた。僕はそんな笑顔が嫌いではなかった。腹が立つことも、うっとおしく感じることもあったけれど、決して嫌だと思ったことはなかった。
でもこの笑顔は、嫌いだ。
「あのさ――」
数分ぶりに声を発した。が、彼女は人差し指を押し付けて塞いできた。
「何も言わなくていいです。ただ黙って、頷いてくれればそれで」
「……」
「秀先輩、そういうの得意ですよね。会った時からわかってました。達観して周囲や自分を見てて、本当の意味で人とは深く関わらないタイプの人だって。だから私も近づいたんです。万が一知られても大丈夫かなって。結果は大正解でした。きっと小夜ちゃんじゃこうはいかない。他の人も同じです。先輩だから、秀先輩だから、私は全てを話したんです。きっと先輩なら、上手く距離を作って私を遠ざけてくれる。そんな信用がある、秀先輩だから私は――」
「うるさいな。少し黙れ」
僕は自分の口先にあてがわれていた彼女の人差し指を押し返した。
「結生、お前には失望した。最初会った時からなんか変だとは思ってた。勝手に僕のスマホにある小説は読むし、演劇部に入部してからも必要以上に絡んでくるし、小説執筆にかこつけて演技力向上練習とかにも付き合わされるし、なんなんだいったい」
「……」
僕の強い物言いにも、彼女は動じなかった。真っ直ぐ見つめてくる視線には、むしろそれを当然のことと思っているふうにさえ見えた。
「買い出しの時も、今日の学藝祭もそうだ。自分のやりたいことを優先して、あまつさえ僕を巻き込んで、振り回すだけ振り回して、かと思えば今度は『もういいです』だと? ふざけるな。自分勝手にもほどがあるだろ」
だから僕も、遠慮なく続けた。
「巻き込むなら、振り回すなら、最後まで巻き込んで振り回せよ」
「……え?」
彼女の眼が大きく見開かれ、口元に浮かんでいた笑みが消えた。
「確かに僕は自分も周囲も冷めた目で見てたし、見てる。結生には悪いけど、人生なんてくだらないって思ってたし、不仲でいつも疲れてる両親とか見てると世の中にも未来にも期待なんか持てなかった。そんな夢も希望もないところに向かうためにいろいろ頑張るとか、はっきり言って面倒くさすぎるだろ」
誰かが言っていた。僕は変わってきていると。きっと明日も明後日も饒舌だろう、って。
どうやら、その通りみたいだった。
「でも最近は、実はそれだけじゃないんじゃないかって思えてもいる。結生の生き方見てたら、なんかいろいろと冷めた目で見てるのがあほらしくなってきて、諦めた価値観でいるのもなんだか馬鹿みたいに思えてきて、そんな考え方でいるのが嫌になってきて、結生みたく自分本位に人生を楽しむのもいいかもって、少しだけ思えるようになった。お前が変に絡んでくるから、そう思えてきたんだ。だったら最後まで、とことん全力で振り回せよ。なに無責任に途中放棄してんだ、結生らしくもない」
「秀、先輩……」
「僕は……結生に全力で振り回された先に、自分がどうなっているのか見てみたい。馬鹿みたいにまた前のめりに頑張れるのか、やっぱり諦めてなんとなく生きているのか。そのためなら、結生が全力で生きるのに協力するよ」
一息に言い切って、僕は小さく肩で息をした。結生に自分勝手だと言っておきながら、僕のほうもだいぶ自分勝手だなと思った。
でもこれでいい。
僕は、ずっと目を背けていた。自覚はしていたけれど、認めたくはなかった。なんだか癪だったから。もしかしたら、見栄を張りたかったのかもしれない。厭世的な自分に酔っていただけなのかもしれない。
でももはや、そんな意地を張ることの方がくだらない。だったら、言えることは言ってしまえと思った。
それに。
例え嫌われようとも、言っておかなければならないと思った。
さっきの結生の顔は、きっと――。
「……ふ、ふふっ、あははははっ!」
突然、大きな笑い声が屋上に響き渡った。
言わずもがな、隣にいる結生だった。
「なんでまた笑う?」
「だ、だって……クサすぎるでしょ、あははっ!」
結生は目尻に涙を溜め、お腹を抱えて震えていた。この場所といい、その姿勢といい、なんだか強烈な既視感があった。どうもこいつは雰囲気クラッシャーらしい。
「ぐっ……というか! さっき部室じゃ自分のことを小説にして見せてくれーとか言ってなかったか? あれ、もしかして物忘れ? ボケるには早すぎるんじゃないのかー?」
「なっ! あ、あれは先輩が泣きそうな顔してたから!」
「は、はあ? そんな顔してないし、見間違いだろ。言いがかりは止めろ」
「言いがかりじゃありませんー! 先輩こそ記憶どうなってるんですかー!」
「う、うるさいな!」
それからしばらく、完全下校時刻を知らせる予鈴が鳴るまで僕らは騒いだ。
屋上の施錠に来た先生に追い立てられるようにして学校を出てからもそれは続いた。
明日も明後日も。そしてきっと来週もこんな調子なんだろうな、と思えた。
でもそれも悪くないと思っている自分に、僕はまた、目の前の彼女と同じように笑うほかなかった。
*
学藝祭が終わった翌日、僕は朝から最寄りの駅前で眠い目をこすっていた。
「ふぁ……ねむ」
今日は学校も部活も休みだ。つまりは、一日中自室で好きなことができる貴重な日だ。
最近は父も母も仕事が忙しいらしく、二人ともそろって家を空けていることが多かった。静かで落ち着いた我が家は居心地がよく、つい昨日の夜までは引きこもる予定だった。が、今日の早朝になってスマホが震え、急遽丸つぶれになったのだ。理由は、言わずもがな手を振って近づいてくる彼女だ。
「秀せんぱーい! 今日も眠そうだね~!」
「誰かさんのせいでな」
こういう時の第一声は普通、「待った?」とかじゃないだろうか、などと思いつつ、僕はスマホで時間を確認する。朝の八時。一方的に提示された集合時間ジャスト。ついでに言うと、いつもの休日ならまだ寝ている時間だ。
「昨日振り回していいって言ったじゃん。だったらもうとことん遠慮するのは止めにして、巻き込み倒そうって思って!」
「巻き込み倒す?」
物騒な言葉が聞こえて、僕は一歩身を引いた。
「うん! もしくは、ぶん回す?」
「どんどん危険な方向にいってるからやめろ」
「んふふふっ。はーい!」
結生は元気よく返事をすると僕の服の袖を掴み、足取り軽やかに駅構内へと引っ張っていった。口調も初めて会った時のように敬語がとれてるし、本当に遠慮をやめたらしい。
それから彼女に促されるまま改札をくぐり、いつもとは逆方向のホームに立った。電車が来るまではまだ時間があるらしく、ひとまず僕は直近の問題のひとつと向き合うことにした。
「それで、いきなり呼びつけてどこに行くんだ?」
「聖地巡礼だよ!」
僕の問いに彼女は満面の笑みで答えた。
はっきり聞こえた。でも僕はいまいち意味がわからず、聞き間違いかともう一度聞き返した。
「すまん、もう一回言ってくれ」
「聖地巡礼に行くの。私が一番よく観た大好きな映画の舞台を巡るの!」
「好きな映画の、聖地巡礼」
結生の言葉を反芻する。聞き間違いじゃなかった。どうやら本気で彼女の遊びに付き合わされるだけらしい。
僕が呆然としている間も、彼女は映画について語っていた。そのタイトルはそれなりに有名なアニメーション青春映画で、一応僕も雪弥に誘われて観たことがあった。だから全く楽しめないわけじゃないし、昨日振り回していいと言ったからまんざらではないのだが、普通に考えれば友達と行った方がいいだろうに。ますます意味がわからない。
「ちなみに聞くけど、なんで僕と聖地巡礼に?」
「なんでって、ただ行きたいから?」
「じゃなくて、それは僕じゃないとダメなのか? 部活の先輩よりも、それこそ小夜とかクラスの友達とかのほうが楽しいだろ」
「ああ!」
僕の意をようやくくみ取ったのか、納得したように結生は頷いた。
「そんなの当然、私の病気のことを知ってるからだよ」
「え?」
ここでその言葉が出るとは思わず、また僕は聞き返した。
「私ね、何の制限もないように見えるけど、実はいくつか言われてることがあるんだ。その中のひとつに、ひとりで遠出はしないっていうのがあって。やっぱり何があるかわからないし、それに何回も薬を飲んでるところとか友達にあまり見せられないし、これまで行けなくてさ。だから、私の病気を知ってる先輩が、遠慮なく全力で腕が引きちぎれそうになるほど振り回してほしいって言ってくれたおかげで、こうして念願叶って行くことができるの」
「ちょっと待て。そこまでは言ってない」
「あははっ。似たようなもんでしょ。それに演技もしたいし、先輩の小説の参考にもなるかもだし!」
結生はさらに楽しそうに笑った。
無理をしている様子はない。でも、その笑顔の後ろにはきっと多くの葛藤や悩みがあるんだろう。それが少しでも紛れるなら、この小旅行に同行するのもいいかなと思った。
それからしばらくくだんの映画について話していると、僕らが乗る予定の電車がホームに入ってきた。
初めて会った日は呆然と見送るだけだったが、今日は僕も結生の後に続いて乗り込む。さすがに日曜の朝ともなれば座席は選び放題で、僕らはボックス席に向かい合うようにして座った。
程なくして電車が発車すると、結生は背負っていたリュックの中からパンを取り出して頬張り始めた。一口サイズのパンが五個入ったもので、種類は口元に付いているカスタードクリームから簡単に察することができた。
そんな幸せそうな朝食の合間に聞くところによると、どうやら今日はかなりの長旅になりそうだった。
目的の駅までは電車を四度乗り換えして行くこと約二時間。そこからモデルとなった場所を十カ所近く回るらしいので、どう考えても帰るのは夜になる。某有名小説みたく、いきなり一泊二日の泊りがけ旅行へと拉致されないだけまだマシだが、それでも僕の貴重な休日がこれで終わることはまず間違いない。
「やっぱり勢いでいろいろ言うもんじゃないな」
「んぐんぐっ……ん? なにかいっひゃ?」
「言ってない。あと食べてから話せ」
最後の一個を食べ終わり、朝食後の薬を飲んでもまだ口元にはクリームが残っていたので、僕はお返しにスマホで写真を撮って送ってあげた。すると、さらにお返しとばかりに脛の辺りをつま先で小突かれた。地味に痛かった。
彼女をにらみつつ脛をさすっていると、電車は田園を抜け、山間へと入り込んでいた。
「わぁ、見て見て! 紅葉だよ!」
「おお、ほんとだ」
結生が興奮気味に指差す方角を見ると、深まる秋の色に衣替えした山々が連なっており、なかなかの風景だった。
「きれい~! 今から行くとこのひとつも紅葉の名所だから、きっとすごいよ~!」
「へえ、そうなのか。というか、具体的にはどこに行くんだ?」
何気なく聞くと、彼女は驚いたように僕を見た。
「え! この映画の聖地、テレビのニュースとかにもなってたのに知らないの?」
「いや知らない」
公開されたのは半年ほど前だったと思うが、そんなニュースが流れていた記憶はない。そもそもそこまでテレビやネットニュースを見るタイプではないので、よほどじゃないと僕の眼には触れないのだが。
「よーし。じゃあ私が教えてあげる!」
喜色満面の笑顔を浮かべると、結生は両手でガッツポーズを作った。そのやる気というかスイッチの入りように危ういものを感じたのも束の間。案の定、僕は目的の駅に着くまで終始、今日訪れる予定の場所についての講義を聞く羽目になった。
そうして彼女の講義が八つ目の場所の内容に差し掛かった頃、僕らが駅から乗り換えたバスの車内アナウンスが目的のバス停名を告げた。
「ささっ、降りるよ! ようやく最初の聖地とご対面だ~」
彼女のテンションは既に僕のMAXを超えている。ご対面する前でこうなのだから、現地に着いたら卒倒するんじゃないだろうか。そんな僕の心配はよそに、結生はバスを飛び降りるとずんずん前を歩いて行った。辺りは点在する家のほか畑や田んぼが広がっているばかりで、僕らが普段住んでいる街よりもかなり田舎のようだった。
そして足を動かしながら雀に挨拶し、猫に手を振り、虫に驚く結生の背を眺めること十分。不意に彼女はくるりと振り返った。
「じゃーん! ここが、かの有名な『分かれ道の自販機』だよ!」
弾んだ声で両手を前方へ広げる。その手の先には、二股に分かれたY字路と、その突き当たりにポツンと佇む自動販売機があるだけだが、確かにその風景には見覚えがあった。
「おお。序盤から何度か出てきたな、この場所。下校のシーンとかだったっけ?」
「そう! 帰り道の別れ際にここの自販機で飲み物を買っていろんな話をするの! あと少しだけ、もうちょっとだけでいいから話をしていたい……そんな想いが伝わってくる切なくて素敵なシーンなんだ~!」
興奮した口調であれやこれやと印象的な部分を語ってくる様は、好きな映画や漫画のシーンを力説する時の雪弥みたいだった。僕は苦笑を浮かべつつ相槌を打ち、何か僕も話せることはなかったかと映画の内容を思い出す。
「僕はあそこ、中盤のところとか印象に残ってるな。ほら、進路が分かれる時に交わしてた会話で……確か、『これまでは立ち止まってたんだよな、俺たち……』っていうとこ」
「あー、進路選択で就職組と進学組に分かれちゃうところね! 正しくは、『今まではここで足踏みしてたんだな、俺たち……』だけど!」
結生は楽しそうにうんうんと頷くと、待ってましたとばかりに演技を披露した。自販機の前に立ち、スカートのポケットに手を突っ込んで振り返る姿は、まさに薄く脳内に残っていたシーンそのものだった。もっとも、その主人公の男子が履いていたのはスカートではなかったが。
「あれ、そんなセリフだったか」
「そうだよ! そしてヒロインが答えるの。『足踏みも楽しかったけど、私たちもそろそろ進まないとだね……』って! それから頷き合って無言で別れるの! あー切なーーいっ!」
「お、おう……そうだな」
どうやら火がついたらしい。表情がころころと忙しなく入れ替わっている。しかし、テンション高く叫びながらも演じるところはしっかり演じるあたり、さすがは演劇部期待のホープだ。
それから僕らは自販機でペットボトルのお茶とミネラルウォーターを買い、映画のように二股へ別れる、ことはなく、並んで右側の道を歩いていく。ペットボトルが半分になる頃には次の目的地、ナントカベンチに到着した。
「ここが『お昼寝ベンチ』か~!」
「そうそう。そんな名前……」
「今名前忘れてたでしょ?」
「いや、そんなことは」
「じゃあ、ここはどんなシーンの場所でしょーか?」
破顔した表情を浮かべて目の前の木製ベンチを観察する結生を尻目に、僕はどうにか該当のシーンを思い出そうとする。が、電車で何度も聞いたベンチの名前を思い出せない時点でそれはかなり無謀だった。
「……どんなシーンだったっけ?」
「もう~仕方ないな~」
早々にギブアップした僕の問いに彼女はなぜかご機嫌になって、そのままごろんとベンチに横になった。
「え、おい」
僕は軽く慌てた。ここは市街地にある公園で、少し離れたところには元気に遊ぶ子どもやそれを見守る大人の姿もある。つまりは人目があるのだ。そんなところで堂々と寝転ぶなんて、僕にはとてもできない。しかもあろうことか、彼女はそのまますうすうと規則正しい寝息を立て始めたのだ。
「おい、結生」
軽くゆするが、起きる様子はない。一瞬病気のことがちらついたが、やけに幸せそうな寝顔なのでおそらく違う。お昼時の陽の光を浴びて眠る彼女の様子は、季節外れの春の陽気を感じさせるようで……
「あ」
そこで、思い出した。これは、映画の中で主人公とヒロインが初めて出会うシーンだ。とするなら、僕に求められている行動はひとつ。恥ずかしさもあったが、昨日自分が口にした言葉や、旅の恥は搔き捨てということわざにも推され、僕はコホンと咳払いをして応える。
『なんだ? ネコみたいなやつがいるな』
下手ながらも努めてクールに、見下すように言う。
すると、目の前の少女は大きなあくびと伸びをひとつして目を覚ました。
『ん~? だれ? 君も寝たいの?』
トロンとした瞳は、本当に眠そうに見えた。
『そうだな。せっかくだし、俺も寝させてもらうか』
『どうぞどうぞ~』
のんびりとした口調とともに譲られたベンチに、僕も寝転んで目を閉じ……
「――って、冷たっ!」
「あ。私のミネラルウォーター」
「おいーっ!」
やや確信めいた笑みを浮かべる結生に、僕は人目もはばからず全力で吠えた。
コントみたいなやり取りを繰り広げつつ、僕らはさらに街中へと入っていった。
映画の中で主人公とヒロインが登下校で歩いていたと思しき住宅街の道を歩き、交差点を渡って、コンビニを過ぎる。なんてことないただの通り道でも、結生は元気にはしゃぎ、演技をして、無邪気に笑っていた。
そうこうして半分ほど聖地を巡ると、ちょうどお昼をせがむ腹の音が聞こえたので、赤面する結生に連れられ僕らは近くにあった小さなカフェへ立ち寄ることにした。
そこはとてもこじんまりとした落ち着いた雰囲気のお店だった。外観からしてそこまで新しい印象は受けなかったが、店内は清掃が行き届いていて清潔そのものだった。木目調の壁に、天井で回るファンやシックなランプは実にお洒落で、カウンターの奥にある棚にはワインボトルや名前の知らないお酒のビンが所狭しと並んでいる。
「ここって、もしかしてバー?」
「お昼はカフェで、夜がバーのお店だよ。実はここも聖地だったり」
にへらと相好を崩す結生に、どこまでも彼女の手のひらの上なんだなと僕は苦笑した。
店内を見渡すと、たまたまなのかメインは夜なのか、僕らの他にお客さんはいなかった。カウンターの中にいるバーテンダーっぽい服装のお姉さんに、「お好きな席にどうぞー」と促される。
「ねっ、せっかくだしカウンターに座ろ!」
言うが早いか、テーブル席には目もくれず結生はカウンターに並べられた脚の長い椅子に腰かけた。嬉しそうに手招きする様子は、まるで招き猫みたいだった。その手の動きに誘われたわけでは決してないが、結果的に僕は彼女の隣の椅子に座った。
「お水失礼しますねー」
ちょうどそこへ、店員のお姉さんが水とメニューを持ってきてくれた。注文を聞かれ、結生も僕もランチプレートとドリンクを頼んだ。そして料理が来るまでの間、次に行くところの話や学校の話などでお昼の時間をゆったり過ごす……なんてことはなく。
「ねねねっ、お姉さん! ここって夜はバーだよね。やっぱりお洒落なカクテルとか出してるの?」
結生は、僕にはとても真似のできないコミュ力の高い質問を店員のお姉さんに投げかけた。僕が驚いて止めようする傍ら、カウンターの中にいたお姉さんは動じることなく微笑んでから返事をしてくれた。
「ええ、出してるわよ」
「おお! じゃあお姉さんもあの、シャカシャカシャカってやつできる?」
「シェイクね。もちろん」
「おおお! ねねねっ、一回だけでいいから、お姉さんがそのシェイクするところ見てみたいなあーーなんて!」
「ちょっと結生」
さすがに頭が痛くなってきたところで、僕は制止にかかった。おそらく映画のどこかのシーンにあったんだろうが、いくらなんでも迷惑過ぎる注文だ。注意しつつ店員のお姉さんに謝ろうとしたところで、クスリと小さく笑う声が聞こえた。
「素直なお客さんね。いいわよ。他にお客さんもいないし、特別に二人にノンアルコールのカクテル作ってあげる」
「えっ」
「わーい! やったーー!」
僕の驚愕の声と結生の喜びの声が重なった。完全に予想外の反応だった。
「いや、でも、悪いですよ」
「ちょっと秀先輩。こういう時はご厚意に甘えるのがいいんだよ」
「お前が言うか」
「ふふふっ、仲がいいのね。まあでも、私としても甘えてくれると嬉しいかな」
店員のお姉さんは、また短く微笑んでから手際よく配膳やドリンクの準備を再開した。
作ってほしいカクテルを聞かれたが、説明を聞いても正直どれがいいのか全くわからなかったのでお任せすることにした。片や結生は、迷うことなくシンデレラというカクテルを注文していた。理由を聞いたら、ただ単に柑橘系が好きなんだと笑っていた。そうして結生が大興奮のシェイクタイムが過ぎ、初めて飲んだノンアルコールカクテルはちょっとだけ甘かったけど、スッキリもしていた。これが大人の飲む味なのか、と僕はまだ子どもながらに思ったりした。
その後は、運ばれてきたランチプレートに舌鼓を打ちつつ、結生とお姉さんが重ねる雑談に耳を傾けていた。その中で、お姉さんの名前が上谷里穂さんということ、このお店でそれなりに長く働いていて、やっぱりメインは夜のバー営業だということなどがわかった。僕は隣でカクテルや水をちびちびと飲み、たまに振られる話題に無難に答えた。
「そういえばさっき、先輩って呼ばれてたけど、二人は部活か何かに入ってるの?」
「はい。演劇部に入ってます」
「へえ! じゃあいろんな役を演じたりするんだ」
「僕は脚本担当なので練習相手くらいですが、こっちの結生は役者なのでそうですね」
チラリと横に視線をやると、生ハムサラダで口をいっぱいにした結生がこくこくと頷く。
「そっかそっか。あ、じゃあ私からもリクエストで、何か演じてみてくれない?」
「え」
「ごくん……はいっ! 喜んで!」
また僕と結生の声が被った。どうやらコミュ力の高い人は、こうして少しわがままを言い合いながら仲を深めていくらしい。とても僕にはできそうにない。
でも、一応僕もノンアルコールカクテルをいただいたので何かした方がいいかと思い、結生に再び視線を向ける。
「おい結生、いったい何を演じるつもりなんだ?」
「もちろん、ここに来たからにはあれっきゃないでしょ」
やっぱりあの映画か。でもそうなると、ひとつ問題があった。
「でも僕、ここのカフェのシーン覚えてないぞ」
「大丈夫大丈夫! 先輩はカウンターに座ったままで、最初に私が入り口に立ったら、私の方を向いて『よう。もう話すことはないぞ』って素っ気なく言ってくれれば。あとはそのまま手元のコップを見てるだけでいいから」
幸いにも、僕の役割はそこまで難しいものではなさそうだった。けれど、結生のシーンの説明を聞いてもいまいちピンとこない。そんなシーンあっただろうか。僕がやや意識を思考の渦に沈めかけたところで、結生はトンッと少し勢いをつけて椅子を下りた。
「じゃあ、よろしくねっ」
「あ、ああ」
心なしか上擦った声を残して、結生は入り口の方へ歩いていく。そして位置に着いたところで、彼女は準備完了とばかりに頷いてみせた。
ここで僕はいくつかミスを犯した。
ひとつは彼女の顔が微かに赤らんでいたのを見逃したこと。
あるいは、自分の心の準備を疎かにしたこと。
『よう。もう話すことはないぞ』
僕は入り口の方を向き、努めて素っ気なく言い放った。その言葉を受けて、入り口に立つ彼女は小さく微笑み、ゆっくりと近づいてくる。僕は結生に指示された通り、視線を手元のコップへと移した。
コツコツと靴音が店内に響く。
その音は徐々に大きくなり、やがて僕の背後で止まった。……背後?
『私は、あるよ』
柔らかくて温かな感触が背中を包み込む。僕よりもいくぶん細い手が視界の端に映り、そのまま僕のお腹辺りに回された。そこまでいってようやく、僕は彼女に後ろから抱きしめられたのだと気づいた。心臓らへんが、急に大きく跳ねた。
『もっと早く、素直になっておけば良かった。そうしたら、もっと長く、一緒にいられたのに』
思考が停止して固まる僕に構わず、結生は演技を続ける。
『ごめん、ごめんね……』
コツンと彼女は額を僕の首筋に乗せてきた。もっともこの姿勢では確認しようがないので、おそらく乗せた、という表現が正しい。ていうかそれどころじゃない。結生に抱きしめられたという事実に混乱し、急に襲ってきた密着感に困惑して、僕の脳がバグったのか甘い匂いまで漂ってきた。
しばし沈黙が降りる。
その間もドキドキと僕の心臓は情けない音を立てていた。まさか演技で本当に緊張していることが知られたら、また彼女は意地の悪い笑みを浮かべてからかってくるだろう。その意味でも、彼女の手が腹部に回されていることは不幸中の幸いだった。
五秒、十秒、二十秒と時間が過ぎる。
この後の動きは特に指示されていないので、僕は固まっていることしかできない。だが、もしこの演技の中で僕が映画のシーンを思い出すことを期待していたとしたら、さすがに理不尽極まりないが……
「――って、結生?」
それは、ちょっとした違和感だった。
ほんの少し、彼女の手が震えていたから、僕は彼女の体勢が崩れた時にいち早く反応できた。
「結生!」
「ちょ、ちょっと大丈夫⁉」
傾いた結生の身体を慌てて抱きとめる。見ると、結生の顔はほんのりと赤い。それは照れなどではなく、どちらかといえば病的な赤さだった。
「ごめ……カプセルの、薬……とって……」
彼女が指差す先には、さっきまで彼女が背負っていたリュック。僕は急いでその中から化粧ポーチを取り出し、奥底から薬を引っ張り出す。
「これか?」
僕の問いに、彼女はこくりと力なく頷いた。
それは、『辛い時だけ飲む。頑張れ私』とメモが書かれた、あのカプセルだった。
カプセルを飲ませ、店の奥にあるテーブル席のソファを借りて横に寝かせると、しばらくして規則正しい吐息が聞こえてきた。昨日の帰り道に聞いた話では、カプセルの副作用として眠気があるようで、服用してから数分程度眠ってしまうらしい。僕は落ち着いた表情の結生を見て安堵しつつ、里穂さんに頭を下げた。
「本当にすみません、ご迷惑をかけて。ソファまで貸していただいて……」
「いいのよ。困ったときはお互い様でしょ」
里穂さんは小さく笑って首を横に振った。
「それにしても、持病の発作、か。本当に大丈夫なのよね? 救急車とか呼ばなくて」
「ええ、大丈夫です。薬が効いて落ち着いていますし、副作用の眠気も少しの間だけなので」
僕は心配させまいと努めて平静を装って笑う。救急車は僕の脳裏にも一瞬過ぎったが、昨日結生は親に連絡されるのを全力で拒否していたし、さっき寝かせる時にも「親とか学校に連絡しないで」と釘を刺されたので、呼ばないことにした。容体は安定しているようだし、救急車を呼べば間違いなく親や学校に連絡せざるを得なくなるだろうから。
「そう。まあ、大丈夫っていうなら呼ばないけど、無理はしないようにね」
里穂さんはまだ心配そうにしていたが、それ以上の追求は止めてくれたようだった。僕はしっかりと頷きつつ、空気を変えようと何か別の話題を探す。けれど、僕が話題を見つける前に里穂さんが口を開いた。
「そういえば言いそびれちゃったけど、さっきの演技はほんとに素晴らしかった。まさかこのお店がモデルになった映画のシーンを演じてくれるなんてね。びっくりしちゃった」
「え、あ、ありがとうございます」
さすがに長年勤めているだけあって、モデルになったことも映画のことも知っているらしい。僕はおまけ程度の演技だったが、恐縮しつつ頭を下げた。
「君は役者じゃないって言ってたけど良かったよ。特に、後ろから抱きしめられた時の戸惑いっぷりとか。アワアワと態度に出して慌てるんじゃなくて、表情で驚きとか緊張とか困惑とかを語るの、すごかった」
「……どうも」
まさかの演技だと思われていたらしい。さすがに演技じゃなくて本気で戸惑ってましたとは言えず、僕はやや間をおいてお礼を言った。
「あと彼女……結生ちゃんだっけ? 結生ちゃんも、すごかった。さすがは役者さんだね。表情とか仕草とかセリフとか間とか、全部が洗練されてた。まるで本物の女優さんかと思っちゃった」
「ははは、ありがとうございます。結生はうちの部の期待のホープでして。それは是非、結生が目を覚ましたら直接言っていただけると」
結生のことも褒められて、なぜか自分のことのように嬉しくなる。
「ふふふっ、わかった。でも本当に驚いたわよ。まさか絶版になった二十年以上前の映画を演じてくれるなんて」
「はは…………え?」
里穂さんの思いがけない言葉に、自分の笑顔が凍ったのがわかった。僕の表情の変化に気づいたのか、里穂さんが小首を傾げる。
「ん? どうかした?」
「いや、この映画、結構最近放映されたと思うんですけど……」
僕は表情を戻して、どうにか疑問を口にする。でも、さっきほど上手く笑えない。
「ああ。リメイクされたアニメーション映画の方ね。でもリメイク版はここのカフェのシーンはなかったでしょ? セリフは似たようなのあったけど、確か通学路のシーンに変更されてたし」
学生時代を思い出して懐かしかったな~、などと語る里穂さんの言葉は、それ以上頭に入ってこなかった。
適当に相槌を返しつつ、僕はそっと結生の顔を見やった。彼女は静かに寝息を立てていた。
――聖地巡礼に行くの。私が一番よく観た大好きな映画の舞台を巡るの!
行きがけに彼女はそう言っていた。
道中、ところどころ僕の記憶と齟齬があったけれど、それはただの記憶違いだと思っていた。
でもどうやら、それだけではないらしかった。
――私、前世の記憶があるんです。十七歳で一度この世を去った、そんな記憶が。
随分昔に聞いた言葉の重さが、またひとつ、変わった気がした。
しばらくすると結生が目を覚まし、僕らは改めて里穂さんに深々と頭を下げた。
また別の日にお礼しに来ると伝えたら、里穂さんは小さく首を振り、
「じゃあその代わりに二度。結生ちゃんの病気が良くなった時と、大人になった時に、また私が作ったカクテルを飲みに来て」
と笑ってくれた。
僕らは一瞬顔を見合わせてから、しっかりと頷き約束した。
そう、約束。
それは決して叶えられないわけじゃない。医学の進歩ゆえに、二十パーセントの確率で叶えられる、破りたくない約束だった。
里穂さんと別れ、お店を後にした僕たちは、さすがに帰路についていた。訪れる予定だった聖地はまだ半分ほど残っていたが、体調を崩した状態で回るわけにはいかない。それは頑固な結生も承知していたようで、特に反対意見もなく僕らは元来た道を歩いていた。
「あーあ、残念だなー。残りも見たかったのに」
もっとも、文句はたらたらと流れているが。
「しょうがないだろ。また今度来ればいい」
「また今度、か」
斜め前を歩く結生は何か言いたげに口先を尖らせた。それからしばらく「んー……」とうなっていたが、やがて諦めたように「そだね」と小さくつぶやいた。
外はまだ明るい。夕方にすらなっていない。もう一、二時間もすれば空も茜色に染まるんだろうけど、こんな時間に家に帰るというのが、なんだか無性にもったいなく感じられた。
でもさすがに新しいところは見に行けない。それで万が一何かあれば、里穂さんの親切心を無駄にしてしまうから。だから、僕はせめてもの抗いとして結生に提案をした。
「なあ。どうせ通り道だし、もう一度午前中に回ったところ寄っていこう。そして、演技でも撮りながら帰らないか」
それは、本当に小さな抗い。後輩が楽しみにしていた聖地巡礼を、病気に邪魔されたことへの、ささやかな抵抗のつもりだった。
結生は僕の言葉に驚いていたようだったけど、いつものように朗らかな笑みを浮かべてから「いいよ!」と小さく叫んだ。
それから僕たちは、もう一度聖地を巡った。
午前中と同じようにコンビニの前でジュースを飲む結生を撮った。それはただ空を見上げているだけの、彼女の横顔だった。
交差点を渡り、人気の少ない住宅街を歩く結生の後ろ姿を撮った。打ち合わせ通り電柱のあたりでくるりと振り返って笑う彼女は、朝とぜんぜん変わっていなかった。
子どもたちに代わって鳩が集会を開いていた公園では、気持ちよさそうにベンチに横になる結生を撮った。やっぱり猫みたいに眠そうだった。
三叉路の自動販売機の前で、足踏みしている結生を撮った。これは違うと怒られた。だからもう一度スマホを構えて、今度はしっかり寂しそうに頷く結生を撮った。なぜか朝よりもとても寂しく感じられた。
そうして駅に着く頃には、空はすっかり茜色になっていた。
「あー楽しかったね!」
電車待ちのホームで、結生は大きく伸びをする。そこに体調不良の影などどこにもない。まさに健康そのものという感じがした。
「そうだな。意外と楽しめた」
「後半ノリノリで動画撮ってたもんね~」
「僕のあの態度がノリノリに見えたなら、結生の目は節穴以外の何物でもないな」
彼女のからかい口調に僕は軽口で応じる。すると結生は学校の時のようにムキになって言い返してきたので、僕は内心安心していた。そこには頬の赤みも手の震えもない。帰り道でも駅に着いてからも、結生の体調は至っていつも通りだった。
けれど、そんな僕の心境を敏感に察したのか、結生は困ったような表情になって言った。
「ねぇ、秀先輩。私、本当に遠慮しなくていいの?」
その声は、彼女にしては珍しく落ち着いていた。
僕は質問の意図がわからず首を傾げた。
「どういう意味だ?」
「そのままの意味だよ」
結生はこちらに向き直ると、僕を真っ直ぐ見据えた。
「私は今日、遠慮ゼロで先輩と聖地巡礼をした。すごく、すっごく楽しかった。久しぶりに心の底から楽しめたし、また行きたいなって思った。でもね……」
彼女はためらいつつ、そっと目を伏せた。
「早速、先輩に迷惑かけちゃった。昨日なったし、二日続けてってあんまりないから大丈夫だと思ってたけど、やっぱり最近は調子悪いのか、こういう時に限って……なるんですよね。ほんと、空気の読めない病気で。……だけど、ある意味では良かったかもって思うんです。きっとこの先、遠慮せずに先輩を振り回し続けてたら、同じようなことが起こってたと思うから。秘密を知っているだけにとどまらなくて、迷惑をかけ続けることになると思うから」
彼女はまた顔を上げて、今度は真面目な表情を作った。
「だから、もう一度聞きます。私は、本当に遠慮しなくていいんですか?」
いやに丁寧で耳馴染みのない言葉だった。それは、彼女が心の底から知りたいことであるがゆえだということはわかった。
また雰囲気が重くなりかける。
でも、そういうのが嫌で、僕はほとんど間を置かずに言った。
「いいよ、しなくて」
目を合わせたのは一瞬。それからは、ずっと僕は向かい側のホームを見ていた。誰もいなかった。
何もない線路の上を風が吹き抜ける。視界の端に、ちらりと髪の毛が映り込んだ。
「そっか」
しばらくして、歌うように彼女はつぶやいた。
「そっかそっか、そっかあ……」
けれど、不意に言葉が途切れた。その理由は明確にはわからなかったけれど、なんとなく聞いてはいけないことのような気がした。
風の音ばかりが耳に届く。
やっぱり、彼女には似合わないと思った。だから僕は、また柄にもないことをしようとスマホを取り出した。
「……っ、はぁっ……! ねぇ、秀先輩! 小説見せて!」
「え?」
先に彼女から言われて、僕は思わず彼女の方を見てしまった。
「三日前に見せてもらったいびつな日常パートに駅のシーンあったよね。ちょうどいいし、気分転換に演じてみる!」
「いびつ言うな。あと修正中だ」
「なおいいじゃん。ぜひぜひ参考にしてってね」
それから結生は僕の小説を演じた。
最初は忠実に。確かにいびつだった。
次は修正途中を参考に。学藝祭の経験が功を奏したのか、多少良くなったけどまだ違和感があった。
その後は彼女が思いつくままに数パターン。どれも元気が良すぎて騒がしいから却下だった。
結局、納得のいくシーンに仕上がったのは、電車で彼女の寝顔を見ながらぼんやりと午前中の演技を振り返っていた時に思いついた内容だった。電車から降りた後にそのことを話したら、結生は寝顔を見られたことを恥ずかしがっていた。そこじゃないと、僕は苦笑した。
最後までグダグダと締まらないまま、僕らは朝集合した駅前で解散した。
翌日の月曜日は学藝祭の代休で、結生もさすがに疲れたのか呼び出されることはなかった。僕は念願叶って一日中自室にこもり、本を読んだり小説を書いたりして過ごしていた。振り返ってみれば、まあまあな一日だったなと思った。
さらに翌日の火曜日は学校で部活もあったけれど、結生には会わなかった。小夜に聞くところによると、風邪で休みとのことだった。一応メッセージアプリで呼びかけてみたが、寝ているのか返信はなかった。
そのさらに翌日の水曜日も、彼女は休みだった。変わらずスマホは沈黙していた。
木曜日になって、ようやく僕は結生と話した。
画面越しの彼女の背景には、見慣れない白いカーテンと、白い壁が映っていた。
入院してるの、と彼女は笑っていた。
*
幸運にも、僕はこれまでほとんど病院に行ったことはなかった。
この身に巣食う大病もなければ、親戚や身近な人が入院したこともない。せいぜい風邪やインフルエンザで地元の内科に行くくらいだった。だからまさか、僕が全国でも指折りの大病院に足を運ぶことになるなんて思ってもみなかった。
「やっほー秀先輩っ!」
病室に入ると、結生はベッドの上で上半身だけを起こして何やら書き物をしていた。そのわきには教科書らしきものが広げられていたので、休んでいる間の宿題か何かだろうと察する。
「思ったより元気そうだな。宿題してるのか?」
「うん、さすがに暇だからね~」
結生は手際よく教科書やプリント類を片付けると、傍に合った丸椅子をポンポンとたたいた。勧めに応じて僕は丸椅子に座り、お見舞いにといくつか買ってきたフルーツゼリーを袋ごと手渡す。
「やった、ゼリーだ! 私、みかん好きなんだよね~」
「それは良かった。何持ってきていいかわからなくて、無難なの選んだんだけど」
「病院食は味気ないから、なんでもウェルカムだよ。一緒に食べよ!」
それから僕たちは雑談をしながらフルーツゼリーを頬張った。その辺りのスーパーに売っている普通のゼリーなのだが、結生はまるで高級ゼリーを食べているかのようなオーバーリアクションをしていた。病院食の味気なさというのが恐ろしくなってくるとともに、結生が思った以上に元気で僕は内心ホッと胸をなでおろした。
「ほんとに元気だな」
「え~? なに、私が瀕死の状態で横たわっていると思ったの?」
二つ目のゼリーを幸せそうに口に含みつつ、結生はこちらに目を向けた。
「少なくとも今日持ってきたゼリーを一個食べきれず、半分程度残すくらいには弱ってると思ってた」
「あちゃーそれは大外れだ、残念。多分今日の夜にはすっからかんだよ」
僕が持ってきたゼリーは残り三個。これをあと数時間足らずで?
「食べ過ぎだろ」
「大丈夫大丈夫! 私あんまし太らない体質だから!」
「いや、そういう問題じゃないんだけど」
僕が呆れて肩をすくめると、結生は心底可笑しそうに笑った。
「まあでも、ほんとに心配しなくて大丈夫だよ。ただの検査入院だから。定期的にいろんな数値測ったりしないといけなくて、そのために一週間くらい入院するだけ。検査が全部終わったらまた学校行くから」
「それ、昨日も言ってたな」
僕がここに来た理由。それは、昨日の夜に結生から突然ビデオ通話があり、検査のため入院したことを知らされたからだ。病衣姿でどこか疲れた様子の結生は、明らかにいつもの元気な結生ではなかった。だから僕は、差し入れを持っていくことを条件に入院している病院と病室を聞き出し、放課後すぐに向かった。まあ、疲れていたのは検査が終わった直後だったからで、一晩寝たらすっかり回復したそうだが。
「そそ。というわけで、来週はきちんと学校行くから大丈夫! あ、先輩以外には季節早めのインフルエンザってことにしてあるから、ちゃんと口裏は合わせてね」
空になったゼリーのカップを、結生は勢いよくゴミ箱へ放り投げた。外すような距離ではないので、カップはカコンッと音を立てて中に吸い込まれていった。
「なあ、結生」
大仰に喜んでいるその横顔に向かって、僕は彼女の名前を呼んだ。
「ん~? なに?」
おもむろに彼女はこちらを向いた。その顔にはいつもと変わらない笑顔が浮かんでいる。
だから僕は、とりあえず聞いてみることにした。
「まだ、何か隠してるだろ?」
僕が結生とここまでずっと一緒にいて得られたものはいろいろとあるが、それとは別に付随的に身に付いた能力もあった。演技の特徴を見抜く能力だったり、彼女の気分を察知する能力だったり。
あとは、本物の笑顔かそうでないかを見分ける能力だったり。
「もちろん無理にとは言わないけど、いつも小説の参考にさせてもらってるお礼として、話くらいは聞くからな。それに、その、遠慮とかもしなくていいから」
後半の言葉はなんだか僕らしくないセリフに思えてしまって、目を逸らしてから素っ気なく言った。少しだけ、顔が熱い。
対して結生は、からかうそぶりもなく平坦な調子で返事をしてきた。
「……ふふっ。秀先輩、小説の参考って、むしろ私が演技力を向上させるために提供してもらってる側だよ? お礼も何もないって」
「それでも、だ。別にいらないっていうならそれでいい。ただ、遠慮はしなくていいってだけ。それに、結生ご所望の『前世の自分が今の自分を救う物語』の参考にもなるしな。それだけだ」
なんだか無性に恥ずかしくなってきて、僕は席を立った。足元に置いていた鞄を肩にかけ、「それじゃあまた学校でな」と早口に言い残し、病室の出入口へと向かう。
扉の取っ手に手をかけ、そのまま僕は一度だけ振り返った。
窓の外からは、夕焼けがこちらを見つめていた。逆光ではっきりとは見えないが、彼女は窓の外に目を向けているようだった。
僕は今度こそ、結生の病室を後にした。
『――秀先輩、ありがとね』
スマホが震えたのは、僕が最寄り駅に着いた頃だった。改札を抜けようとしていた足を止め、僕は急いで隅の方へと場所を移した。
「どうした?」
努めていつも通りに話しかけると、結生は渇いた声で笑った。
『ううん、なんでもない。なんでもないんだけど、ただ先輩の言う通りだなって思って』
彼女の声色は落ち着いていた。
『あのね。私、春に手術するんだ。結構大きな、難しい手術。もし成功したら、治る確率がグンと上がるみたい。この検査入院もそのために必要なことなの』
日常会話をするみたいに、彼女はサラリとそんなことを言ってのけた。
『それでまあ、なんと言いますか、私もそれなりに緊張してまして。だから、もし良かったら、それまでに先輩の小説、エンディングまで読んで、演じたいなって思ってるの。そうしたら、私、手術頑張れる気がするから。だから先輩、素敵な物語を書いてね』
今度はこわばった声で、彼女はお願いしてきた。なんとも責任重大なお願いに、僕は苦笑するしかなかった。
「そうしたら手術、頑張れるんだな?」
『うん。頑張れるし、頑張りたいし、めっちゃ頑張る!』
やたらと大きな声に僕はもう一度苦笑して、「わかった」と返事をした。
そして今度こそ、僕らは「また学校で」と言葉を交わして、会話を終えた。
十月の夕空には、群青色が広がっていた。
* *
病室には、薄く弱々しい光だけが窓から差し込んでいた。
「それじゃあ、また学校でな」
「うん、また学校で」
最後の言葉を交わして、私は通話を終える。
通話終了の文字が画面に表示されているのを見て、私は小さく息を吐いた。
「演じ切れた……かな」
安心感からか、足に力が入らなかった。
ベッドの上にへたり込んだまま、私はもう一度窓の外へ目を向ける。
うそは言っていない。手術も、緊張しているのも、小説を最後まで演じ切ったら頑張れるのも、全部本当のことだ。
ただ私は、全てを話していないだけだ。
全てを見せていないだけだ。
だって現実は、どこまでも厳しくて、残酷だから。
「秀先輩……。私、わたし……やっぱり、怖いよ……」
本心からのつぶやきは、薄暗い静寂の中に溶けていった。
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