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第四章 いつか君と笑えるように
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病院に着いた時は、既に夕方だった。
昼間あれだけ晴れていたのに外は曇っていて、何度か舞と見た茜色の空は鳴りを潜めていた。どんよりとした厚い雲が夏空を覆い、今にも雨が降り出しそうだった。
「こっち」
ちさと姉に続いてだだっ広いエントランスを抜け、エレベーターホールへと向かう。三基あるうちの一番右のエレベーターがちょうどよくきて、僕とちさと姉はそのエレベーターに乗り込んだ。僕ら以外に人はおらず、エレベーターは途中で止まることなく目的の八階まで運んでくれた。その間、僕とちさと姉の間に会話はなかった。
正直、何を話したらいいのかわからなかった。
頭が混乱していた。
ぐちゃぐちゃとこんがらがっている思考の狭間で、僕はぼんやりと消える直前の舞のことを考えていた。
一瞬しか見ていないが、あの時の舞は晴れやかな顔をしていた。
後ろから聞こえた声は落ち着いていて、いやに大人っぽく聞こえた。そして、いつものように弾んではいなかったけれど、嬉しそうで、明るい声だった。
まるで、全てを悟り、自らの未練を自覚し、そしてそれが解消されたことへの幸せをかみしめるように。
いや、事実そうだったんだろう。
だからきっと、舞は消えた。
もうこの世に留まる必要がないから。
呆気なく、僕に一言も残さず、唐突に彼女は姿を消した。
そう、思っていた。
「ここよ」
エレベーターを降りて角を曲がり、いくつもの病室が並ぶ廊下の一番奥で、ちさと姉は立ち止まった。
小綺麗で白が目を引く病室の扉。面会謝絶の札がかかっている。そしてその隣にあるネームプレートには、一人の名前が書かれていた。
「朝本、陽奈……」
「私の、一番の親友が眠る病室よ」
つぶやくように言うと、ちさと姉は扉をノックし名前を名乗った。中から穏やかな女性の声が聞こえ、扉が開く。
「いらっしゃい、千里ちゃん。さっきは電話ありがとうね。いつも来てくれて嬉しいわ。それと、あなたが陽奈のお友達っていう男の子ね」
病室から出てきた女性は四十代半ばくらいの綺麗な人だった。二重で垂れた大きな瞳が、どことなく舞に似ていた。
「はい。天坂凌、と言います」
僕は軽くお辞儀をする。それに応じて、女性も深々と頭を下げた。
「はじめまして。陽奈の母の朝本早苗です。よろしくね」
入り口でのあいさつもそこそこに、僕とちさと姉は中へ通された。
内装は、まるでビジネスホテルの一室のようだった。清潔な白を基調とした壁に、リノリウムの床。ツンと鼻につく消毒液の匂い。
そんな病室への感想が一瞬脳内を駆けるも、ベッドに横たわる「彼女」を見た瞬間に全てが吹き飛んだ。
「あ、あ……」
言葉にならない声が漏れる。上手く息が吸えない。心臓を鷲掴みにされたみたいに胸が苦しく、手や背中に一気に汗が噴き出した。
そこには、舞と瓜二つな女性が眠っていた。
「ほら、陽奈。今日はお友達が二人も来てくれたわよ」
急速に脈打つ僕の心臓とは裏腹に、早苗さんはのんびりとした口調で彼女に話しかける。もちろん返事はなく、側にあるモニターが微かな電子音を鳴らしているばかりだった。
「あ、そうだ。来てくれたばかりで申し訳ないんだけど、少しだけ陽奈のこと見ててくれる? この子の着替えとかを取りに一度家に戻りたくて」
「はい、大丈夫ですよ」
何も言えない僕の代わりに、ちさと姉が落ち着いた口調で返事をした。妙に慣れている感じだった。
「ありがとう。これがナースコールだから、もし何かあったら遠慮なく押してね。じゃあちょっとだけ、お願いね」
早苗さんも慣れたようにちさと姉に後のことを頼むと、立ち尽くす僕の横をすり抜けてそそくさと病室を出ていった。あとには、僕とちさと姉と、舞とそっくりな女性だけが残された。
「凌くん。ほら、こっち」
「あ……」
ちさと姉の言葉でハッと我に返る。ちさと姉はベッドの脇にある丸椅子に腰かけ、もうひとつの椅子を僕に勧めてきた。
「そんなところに立ってないで、近くに来てもっとしっかり陽奈のことを見て」
真っ直ぐな眼差しで見つめられ、僕は仕方なくベッド脇まで近づいた。眠る女性の顔が、よく見えた。
大きな眼に、長いまつ毛。
艶やかな黒髪に、すっきりとした鼻筋。
異様なほど白い肌や、真一文字に結ばれた口元、少し大人びた寝顔は、ここ最近よく見てきた彼女のものとは似ても似つかない。けれど。
「どう?」
「……間違い、ない」
ふっと身体から力が抜け、僕は丸椅子に座り込んだ。
なぜか、確信があった。
ベッドで眠っている女性は、疑いようもなく舞だった。
なぜ?
どうして舞が病院に?
いつから?
そもそも舞は、幽霊じゃない?
じゃあ舞って、なんだ?
未練って、なんなんだ……?
疑問が次々と頭に浮かぶ。真っ白だった頭の中は、瞬時にぐちゃぐちゃにかき乱された。
「間違いない、か……。じゃあ何があったのか、話さないとだね」
頭を抱える僕の隣で、ちさと姉が小さく息を吐いたのがわかった。
微かな雨音とともに、彼女は舞――陽奈さんを見つめながら話し始めた。
その日は、今日みたいな天気だったらしい。
冬を越えて春が来る少し前の季節。昼過ぎまで雲一つない快晴で、どこまでも深くて広い青空が続いていた。
「ちさと~! 早く早く! カラオケの朝割終わっちゃうよ!」
「もう~陽奈~。ギリギリになったのはあんたのお寝坊のせいでしょーが!」
ちさと姉と親友の陽奈さんは、朝から昼過ぎまで駅前のカラオケボックスで思い思いの歌を歌い、カフェで昼ご飯を食べながら他愛のない会話に花を咲かせ、いつもと変わらない休日を過ごしていた。
高校三年生で受験も終え、解放感に満ち溢れた休日。けれど午後からは天気がぐずつく模様で、雨が降り出す前に解散することになった。
ちさと姉は冬見町内の住宅街に家があったが、陽奈さんは隣町に住んでおり、桃坂公園前のバス停まで見送ることになった。
「あーあ。もうちょっと歌いたかったな~」
「まあ、また行けばいいじゃない。どうせ大学からもそんなに遠くないんだし」
大学受験の合否は前々日にあり、ちさと姉も陽奈さんも合格していた。前々から二人で地元の国立大学を目指して頑張っており、晴れて二人で同じ大学に通うことが叶った。
その日は、そんな合格祝いも兼ねた楽しい一日、のはずだった。
「あのね、千里。私、千里に謝らないといけないことがあるの」
「え?」
「実は私、県外にあるべつの私立に行くことにしたんだ」
バス停に着くや、陽奈さんは唐突にそう切り出した。
ちさと姉にとっては寝耳に水で、すぐには言葉が出なかった。その間も、陽奈さんは先を続けた。
「本当にごめん。私も千里と同じ大学に行って、これまで通り楽しく遊んだり、一緒のサークルに入ったり、一緒に講義を受けたりしたかった。でも私ね、前々から服飾デザインに興味があって。その、すっごく迷ったけど、やっぱり私はデザインが学べる大学に行きたいんだ」
「ちょ、ちょっと待って。だって私たち、これまで一緒に……」
「うん……だから、本当に……ごめんなさい」
陽奈さんは心から謝ってくれたが、ちさと姉は納得できなかった。
高校一年生の時から同じ大学に行こうねと話し、テストも模試も切磋琢磨して頑張ってきた。それは高校三年生になっても変わらず、陽奈さんの口から服飾系のデザインが学べる私立大学に行きたいなどという話は一度も聞いたことがなかった。だから、ちさと姉も親友と同じ大学に行けることを信じて疑わなかった。
二人が合格したことでそれは確たる未来になった、はずだった。
ところが、それは一瞬のうちに崩れ去った。
そこから先は喧嘩、もといちさと姉が陽奈さんを一方的に責めた。
どうしてもっと前に言ってくれなかったのか。
なんで一言くらい相談してくれなかったのか。
私たちは親友じゃなかったのか。
突然目の前に降ってわいた現実を受け入れられず、ちさと姉は心無い言葉をいくつも吐いた。その度に陽奈さんは頷き、受け止め、ただひたすらに謝った。
「陽奈のことなんて大っ嫌い! もう顔も見たくない! さっさと帰ってよ! 早くっ!」
雨がぽつぽつと降り始め、何度か見逃したバスが来たタイミングで、ちさと姉は言い放った。
陽奈さんは無言で頷き、バスに乗り込んだ。
それが、最後だった。
陽奈さんが乗ったバスは峠でスリップを起こし、崖下に転落した。
それから、約三年。
幸いにも一命はとりとめたが、陽奈さんが目を覚ますことは一度としてなかった。
「そん、な……」
ちさと姉の話を聞き終え、僕は言葉を失った。
なんて言えばいいのかわからなかった。
ただそれと同時に、妙に腑に落ちている自分もいた。
桃坂公園。高校三年生。進路。友達との仲直り。
舞の未練につながる断片が、繋がっていくのがわかった。
「私は、ずっと後悔と罪悪感を覚えてる。その時の感情に任せて、陽奈をたくさん傷つけたこと。陽奈の決断を応援しなかったこと。私があのタイミングで陽奈に帰るよう言ったせいで事故に遭ったこと。私だけが普通に生きて、大学生活を送っていること……」
ちさと姉は悲しげに顔をゆがめて、ベッドで眠る陽奈さんを見つめる。
「今も、どうしたら罪滅ぼしになるのかわからない。ただこうして陽奈が目を覚ますのを待って、陽奈から責められるのを期待するしかない。何を言われても甘んじて受け入れる覚悟はできているし、陽奈のためならなんだってする。そのために、私は今生きている。……なのに」
安らかな寝顔に向けられていた視線が、今度は僕を捉えた。
「大学で見た、消えた女の子は、間違いなく陽奈だった。高校三年生の時の、最後に私が見たままの陽奈だった。私を見て、怒ることも罵ることもせず、ただ安心したように……無事に、元気に、やっていて……よかった……って…………」
黒い瞳から一滴の涙が零れた。ちさと姉は、慌てて目元を拭った。
「……グスッ、ごめん。まだ、泣いちゃいけない。ちゃんと聞かないと……。ねえ、凌くん。大学でもちょっとだけ聞いたけど、改めて教えて。陽奈と……陽奈の幽霊と、どんなことをしてきたのかを」
目元に涙を溜めつつ、彼女は真っ直ぐな声でそう訊いてきた。意思のこもった眼だった。
小さく頷いてから、今度は僕がちさと姉にこれまでのことを話した。
透馬に連れられて肝試しに行き、そこで迷子の幽霊に出会ったこと。
名前を付けてと言われて「舞」と名付けたこと。
未練解消の手助けをすることになったこと。
駅前にあるカフェで談笑したこと。
丘陵公園を散歩し、一緒に四つ葉のクローバーを探したこと。
バンジージャンプをしたこと。
舞との思い出を語るたび、彼女の眩しい笑顔がちらついた。
僕の部屋でのしょうもない掛け合いも、高校の教室で感じた胸の高鳴りも、動物園での楽しいひと時も、すべて昨日のことのように思い出せた。
いつも、舞は笑っていた。
いつしか、僕も笑うようになっていた。
いつの間にか、僕は彼女に恋をしていた。
吐き出すように、僕はちさと姉にすべてを語った。
ちさと姉は何も言わず、ただ黙って聞いてくれた。
話し終えた時、彼女の眼からは涙が溢れていた。
「そっ、か……。陽奈は、ずっと彷徨って……それを、凌くんが助けてくれていたんだ……」
ちさと姉はベッドの上で眠る陽奈さんに向き直り、そのまま倒れ込むように泣き伏した。
「ごめん、ごめんね……陽奈。本当に……ごめん、なさい…………ううっ、あああああ……」
シーツに顔を埋めて、ちさと姉は震えていた。嗚咽が外に漏れないように、必死にこらえているようだった。
僕はどうしたらいいのかわからなくて、呆然としていた。
親友の泣き声でも起きない陽奈さんの寝顔を、なんとなく見つめた。
安らかな寝顔だった。
考えてみれば、僕は彼女の寝顔を見るのは初めてだった。
だからだろうか。その顔は、肌の白さや大人っぽさを差し引いても、僕の知っている舞の表情からは遠いもののように思えた。
窓ガラスをたたく雨の音は、いつの間にか強くなっていた。
*
翌日の昼過ぎ。
昨日に続き降り頻る雨の中、僕はひとりで陽奈さんが眠る病室を訪れた。
「あら、いらっしゃい。昨日はお構いもせずにごめんなさいね」
連日のお見舞いにもかかわらず、早苗さんは快く迎え入れてくれた。
陽奈さんが好きだったという紅茶とお菓子をご馳走になり、彼女がまだ元気だったころの話を聞かせてもらった。
「この子ね、ほんと昔から落ち着きがなくて、よくあちこち走り回っていたわ。ちょっと目を離すとすぐどこかへ行っちゃうものだから、危なっかしくてね。お花が好きで、高校生になっても公園に咲いているアジサイとかを見るとすぐ駆け寄ってた」
「あーなんか、わかります」
「でしょ~。この子の誕生日にショッピングモールに行った時なんかね――」
小さく笑いながら、早苗さんはいくつものエピソードを話してくれた。そのエピソードはどれも「彼女らしい」ことばかりで、僕もつられて笑っていた。
ちなみに僕は、ちさと姉を通じて知り合った陽奈さんの友達、ということになっている。三歳離れているため高校の後輩というには無理があり、住んでいるところも遠いのでほとんど必然的にそういう説明をするほかなかった。怪しまれるかと思ったが、思いのほかすんなりと受け入れてくれた。
「陽奈は誰とでもすぐ打ち解ける子だからね~」
そんなふうに、早苗さんは笑っていた。確かにそうだなと僕も思った。
それから僕も、幽霊であることは隠して彼女との思い出を語った。そのたびに陽奈さんのお母さんは深く頷き、時には笑い、時には何かを思い出したように目元を拭い、嬉しそうに話を聞いてくれた。違和感は、まったくなさそうだった。
小一時間ほど話していると看護師さんが病室に来て、何やら話があると早苗さんを呼びに来た。
昨日と同じように陽奈さんのことをお願いされ、僕は彼女と二人きりになった。
「本当に、君は舞なんだな」
眠っている陽奈さん――舞に向かって、僕は言葉を投げかけた。当然、返事はない。
正直、僕はまだ心のどこかでそのことを疑っていた。
陽奈さんと舞は別人で、実は舞はまだどこかで能天気に浮かんでいるんじゃないかと。
けれど、もちろんそんなはずはなくて、午前中に桃坂公園にも行ったが舞はいなかった。スカートを翻して意地悪そうに降りてくる彼女の姿は、どこにもなかった。
「いつまで、眠ってるんだよ」
何を言えばいいのかわからなくて、思ったことを口にする。返事はない。
陽奈さんと舞が同一人物、もとい舞が陽奈さんの魂や生霊のようなものなら、舞は生きているということになる。何年も眠っている間に不安の種だったちさと姉のことを想って魂を飛ばし、その心の引っ掛かりがなくなって魂が消えた……いや、元の身体に戻ったということに。今もこうして生きているのが、何よりの証拠だ。
それは、僕にとっては嬉しい出来事のはずだった。
死んだ人の霊だと思っていた舞が、実は生きていた。
意識はなく、眠ったままではあるけれど命は尽きていない。いつかきっと目覚める日が来る。
「今度は僕が待つ番だな」
ずっと待つつもりでいる。
何年でも、何十年でも。
そして目が覚めた時に、僕に一言もなく消えたことに文句を言ってやる。
あとは、出会ってから散々振り回された分、今度は僕が振り回すのだ。
元気になったら、カフェや散歩や動物園だけでなくバンジージャンプにも連行してやる。あの生身の身体で飛び降りる恐怖を味わうといい。もっとも、それでも君はただ笑っているだけのような気もするけど。
――思い出した、私の未練。
消える間際の、彼女の声がふと蘇る。
――そっか、無事に、元気にやってるんだ。
心の底から安堵した、安心した声だった。
――本当に、良かった。これで、私は――――。
「…………」
眼を閉じ、首を横に振る。そして改めて、眠る彼女を見やる。
「待ってるからな。だから絶対、目を覚ませよっ!」
心の奥底に巣食う不安を振り払うべく、僕は強く言い放った。
しばらくして、早苗さんと看護師さんが帰ってきてから僕は病室を後にした。
高校はもうすぐ夏休みに入る。
今週には、一緒に行くはずだった花火大会もある。
いくつかの楽しみがなくなったことは残念だが、その分ちさと姉と一緒にお見舞いに来ようと思っている。楽しい話を笑って聞かせたら、もしかしたら我慢できずに目を覚ましてくれるかもしれない。
ビニール傘を強かに打つ雨音を聞き流しつつ、僕はそんなことを考えていた。
陽奈さんの容体が急変したと電話があったのは、翌日のことだった。
*
カランカラン、と扉の開閉に応じて小さくベルが鳴った。
セミの鳴き声が遠ざかっていくのを後ろに聞きながら、僕は行きつけのカフェの店内を見渡す。夕方前の見慣れた風景だが、今日はいつもより人が少なかった。おかげで、待ち合わせ相手はすぐ見つかった。
「ちさと姉、早いね」
「まあね。凌くんも学校お疲れさま」
軽い挨拶だけを交わし、僕は向かいの席に腰を下ろす。
会うのは四日ぶり。それなのに彼女――ちさと姉の顔は、四日前とは比べ物にならないほど憔悴していて、目の下にも薄いクマができていた。
「……大丈夫?」
思わずそう声をかけると、ちさと姉は小さく笑みを浮かべた。
「凌くんこそ、ちゃんと寝てるの?」
彼女の言葉に、僕もつられて苦笑する。
目の下のクマに、光を失った眼。肌は荒れ、髪は乱れ、顔色も悪い。
学校もあったので多少誤魔化してはいるが、それは紛れもなく今朝鏡の中で見た僕の顔そのものだった。
「まあ、最低限は寝るようにしてる。僕が倒れて、それこそ幽霊にでもなったらこっぴどく怒られそうだし」
「ふふっ、確かに。陽奈なら、魂を飛ばして殴ってくるかもね」
軽口を交わすも、お互いの声に覇気はない。
そしてそのまま、会話は止まった。
いつの間にか頼んでいたアイスコーヒーが運ばれてきて、僕はひとくち口に含んだ。ほんのりとした苦みを味わってから喉へ滑らせる。こんな味だったっけと思いつつ、僕はもうひとくち飲んだ。やっぱり、いつもよりどこか苦い。豆を変えたのか、それとも、心境のせいか。考えるまでもない。間違いなく後者だ。僕は、アイスコーヒーを一気に飲み干した。
「……陽奈だけど、まだ予断を許さない状況みたい」
カラン、と氷がグラスの底に落ちる音とともに、ちさと姉の絞り出すような声が聞こえた。僕はグラスを握り締めたまま、視線だけを彼女に移す。
「でも、峠は越えたんだよな」
昨日、ちさと姉は電話でそう言っていた。一昨日の夕方に容体が急変したという連絡を受け、その日の夜は一睡もできなかった。気合いで学校には行き、透馬や美春に心配されながらも乗り切り、どうにか家に帰ってきたところで電話があったのだ。あの時の、いやに感情を押し殺したちさと姉の声は、今も耳に残っている。
「うん。陽奈のお母さんから聞いてる限りだけど、以前に比べて心拍とか血圧とかが安定してないらしくて、それに、他の数値も良くないとかで……まだ、どうなるかわからない状態だって……」
「そ、っか……」
ある程度、覚悟はしていた。けれど、やっぱり聞きたくない言葉だった。
今日、ちさと姉と待ち合わせをしていたのは、陽奈さんのその後の状態を聞くことと、確かめたいことがあったからだ。
僕は早苗さんの連絡先を知らないので、陽奈さんの容体についてはちさと姉から聞いていた。峠は越え、様々な投薬治療をしていることや、落ち着くまで面会はできないといった表面的な話はしてくれたが、詳細については話してくれなかった。
気にしなくていい、大丈夫だから。
まるで自分に言い聞かせるように、ちさと姉は電話越しで繰り返していた。
だから僕は気分転換も兼ねて、ちさと姉に直接話がしたいと伝えた。
そして今、こうして向かい合っているわけだが、話してくれなかっただけあって案の定いい内容ではなかった。
「でも、きっと良くなるって私は信じてる。陽奈だもん、このまま私たちを置いていったりしないよ」
「うん。ただ……」
今日、確かめたかったこと。
やはり、どうしても気になってしまう。
僕は、ためらいがちに口を開いた。
「こういうことってさ、これまでもあったりした?」
陽奈さんの容体が悪化したタイミング。それは、「舞」という陽奈さんの魂が消えてからわずか二日後のことだ。しかも、消えた理由は彼女の心にずっと引っかかっていた未練を解消したから。
――思い出した、私の未練。そっか、無事に、元気にやってるんだ。
あの時の舞の声は、本当にほっとしていた。
今まで聞いたことがないくらい、柔らかなものだった。嬉しそうだった。
やはり、彼女にとって未練はそれほど大きな心のしこりだったのだ。
そして……。
――本当に、良かった。これで、私は――――。
……あの時、何を言いかけたのか。どんな言葉を続けようとしたのか。
無意識のうちに考えていた。
漠然とした不安が、ずっとまとわりついていた。
舞が消え、病院に連れてこられ、陽奈さんを見た日から。
舞が、昏睡状態の陽奈さんの魂だとわかった時から。
そしてその不安は、容体悪化の連絡でより色濃くなってしまった。
彼女は、ただ自分の不安を取り除きたかったわけじゃなくて。
もしかしたら舞は、陽奈さんは……この世で生きること諦め、後悔なく死ぬために、一番のしがらみを解消したかったんじゃないか。
病状の悪化は彼女自身の意思によるもので、まさに今、この世での一番の心配事がなくなって彼女は満足し、そのままあの世に行こうとしているのではないか。
そう考えると、いろいろと合点がいってしまうのだ。
そして僕は、これまで舞の未練解消を手伝ってきた。
舞が、既に亡くなってしまった人の幽霊だと思っていたから。
未練に縛られ、成仏できないのだと思っていたから。
けれど、蓋を開けてみれば舞は生きている人の幽霊、魂だという。
そして今にもこの世での生を終えて、あの世に旅立とうとしているのだとしたら、僕は、その手助けをしてしまったというのか。
きっと舞自身は、自分がどちらかわかっていなかったんだろう。ただ素直に、未練を解消したかった。純粋に、それだけだったんだろう。だから詐欺だとか言うつもりもないし、だまされたわけでもない。誰かが悪いわけでもない。
ただ真実が、より残酷だったというだけだ。
でも、それでも、僕は……――。
僕の考えを見通してか、ちさと姉はすぐには答えてくれなかった。
しばらく、僕の顔を見つめていた。
だから僕も、黙って見つめ返した。
ここだけは、はっきりさせておきたかった。
やがて、ちさと姉は諦めたように息を吐いてから、おもむろに答えてくれた。
「ここまでの悪化はなかったけど、そもそも最近、陽奈の体調はあまり良くなかったの。熱が出たり、呼吸が浅くなったり、脳波が弱くなった時もあって……。だから、考えたくはなかったけど、こういう日が来るかもしれないとは思っていた」
「その体調が良くなかったのって、いつから?」
「……今年の六月くらいから、だって聞いてる」
「……やっぱり、そうか」
六月は、僕と舞が出会った月。舞の未練解消の手伝いをし始めた月だ。
これではっきりした。間違いなくこれまで行動が、陽奈さんの容体に影響を与えている。
そして今、舞は、陽奈さんは、おそらく死に向かっている。
満たされた気持ちで。
未練を解消した晴れやかな心持ちで。
僕が望んだとおり、きっと幸せを感じながら――。
僕は、僕は……これからどうしたらいいんだろう。
*
「おーい、凌」
昼休み。僕が机で突っ伏していると、のんびりした声とともにポスンと何かが頭の上に乗せられた。声の主と髪の毛越しの感触からして、透馬がまた僕の頭に手を乗せているんだろう。
顔を持ち上げる気力もない僕は、どうにか口だけを動かす。
「……なに?」
「お前、ここ最近ずっと眠そうだよな」
「……ちょっとな」
「もうすぐ期末試験だからな。夜遅くまで勉強か?」
「……ああ、まあ、そんなところ」
「うそつけ。期末試験とっくに終わっただろ」
透馬のツッコミに、確かになと思う。そういえば、期末試験前にも似たようなやり取りをしたんだっけか。
「……ああ、いや。悪い、適当に返事してた」
「んなことは知ってる。火曜日からずっと変だぞ。何かあったのか?」
透馬の声色は、いつになく真面目なトーンだった。本気で心配してくれてるのがわかった。
「いや、まあ……ちょっとな。でも、大丈夫」
せめてもと僕は顔を上げて、驚いた。
「やーっと起きた。おはよ、凌」
「え、美春?」
ぽかんとする僕の頭を、美春は手を乗せたまま右に左に揺り動かす。僕は為すがままになっていた。
「凌、お前かなり重症だな。帰ったほうがいいぞ」
「いや、大丈夫」
「そんなわけないでしょ。目の下のクマひどくなってるし、ぜんぜん寝てないんじゃないの?」
「ああ、えと、勉強のしすぎで……」
苦しい言い訳が口をついて出る。案の定、二人は訝し気な視線を僕に向けた。
「あのさ、これでも俺たちはお前の幼馴染なんだぞ。最近は散々心配も迷惑もかけたし、頼りないかもしれないけど、もし何か悩んでるなら相談に乗らせてくれよ」
「そうだよ。あたしたちにできることなら喜んで協力させてもらうから」
二人の視線が、ふっと柔らかくなった。
ここまで心配をかけていることが申し訳なくなる。
二人の関係について、ついこの間まで僕が心配させられていたのに、今や立場が逆だ。
でも……。
「……ありがとう、二人とも。でも、これは僕自身の問題だから、本当に大丈夫だ」
二人には、透馬と美春には、相談できない。
相談したとして解決する問題ではないし、そもそもなんて言えばいいのかわからない。
迷子の幽霊と出会って、
その幽霊の未練を晴らして、
消えたと思ったら実は生きていて、
でも今にも生を終えようとしていて、
けれどきっと彼女は、幸せで、
それが僕の望んでいたことのはずで、やりたかったことのはずで――。
「……悪い、ちょっとトイレ行ってくる」
居心地が悪くて僕は席を立った。
言葉が、まとまらない。
ちさと姉と話して数日立つが、まったく整理できていない。
頭の中は依然としてぐちゃぐちゃで、僕自身どうしたらいいのか、何がしたいのかわからない。
こうしている間にも彼女は、きっと少しずつ死に向かっている。
そんな現実が受け入れられなかった。
当初の決意と何も変わらないはずなのに。
舞が未練を解消し、幸せな気持ちで解放される。
もう彷徨うことも、迷子になることもない。
それでいい。
その、はずなのに――。
「おい、凌!」
トイレに入ろうとしたところで、怒号とともに肩を掴まれた。寝不足で力の入っていない僕の身体は、容易にすぐ横の壁に押さえつけられる。
呆然とする僕のすぐ目の前には、怒りに満ちた透馬の顔があった。
「お前な、俺に言った言葉忘れてんじゃねーよ!」
「え?」
「お前言っただろ! いい加減素直になれって! 本当にそう思ってるのかって! 何があったか知らねーけど、今の凌の顔は何かを必死に我慢して、自分に言い聞かせようとしてる顔だよ!」
透馬が吼え、廊下に満ちていた談笑の声が静まり返る。本当ならこんな目立つような真似はしたくないのだが、透馬の一方的な言葉にイラっときていた。僕は、掴まれていた手を振り払った。
「なに適当なこと言ってんだよ。僕はべつに我慢なんかしてないし、言い聞かせようともしてない」
「だったら、僕自身の問題ってなんだよ。僕自身の、いったい何の問題なんだよ!」
「それは……」
考えるまでもない。
僕自身の、心の問題だ。
舞が未練を解消して消えるという現実を、僕がただ受け入れられていないだけ。
舞がそう望むのであれば、舞がそれで幸せになれるのなら、それでいい。
僕がやってきた未練解消の手伝いは間違っていなくて、それが僕のやりたかったことで。
「――お前さ、本当にそう思ってるのかよ?」
まるで見透かしたようなタイミングで、透馬が言った。
本当にそう思っているのか。
僕は、舞が未練を解消して、幸せな気持ちで消えていいと、本当に思っているのだろうか。
「いい加減さ、素直になれよ」
素直?
素直って、なんだ?
僕は、どうしたい?
僕は、彼女に、どうしてほしい……?
「周囲に理由を作っても、いいことないよ。凌」
気づけば、美春も近くに来ていた。
いつか透馬に言っていた言葉が、今度は僕に投げかけられる。
「もう一度言うぞ、凌。お前かなり重症だから、もう帰れ。先生には適当に言っておいてやる」
「教科書とかの荷物はあとで届けてあげるし、ノートとかも見せてあげるから、行ってきて」
「……っ、ああ!」
堪らず、僕は駆け出した。
*
「はあ、はあ、はあ……」
僕は走っていた。柄にもなく全速力で。帰宅部で運動する習慣もないから、すぐに息はあがるし、足や腕は鉛のように重い。照り付ける日差しも容赦はなく、もはや拭うことを諦めた汗があごの先から滴り落ちている。
それでも、足は止めない。
「なんだよあいつ……いつもいつも勝手なことばかり」
悪態が荒れた息とともに口をついて出る。
ずっと、舞の未練解消の手伝いをしてきた。
最初は気分転換にでもなればくらいに思っていた。でも、いつもそばで無邪気にはしゃぎ、僕の引っ張り回し、楽しそうに笑う舞に僕は惚れてしまっていた。
ずっと一緒にいたい気持ちと、舞にこれ以上未練を抱えて彷徨ってほしくない気持ちの板挟みに悩んだこともあったが、僕は舞の幸せを願って未練解消の手伝いを完遂する決意をした。
そして僕の願い通り、舞は未練を解消し、安心したような声とともに消えた。病室で見た陽奈さんの表情も、とても安らかな表情をしていた。
彼女は、舞は、陽奈さんは、きっと幸せで、満たされたんだろう。
そう、僕の願い通りなのだ。
……けれど、僕はまったく嬉しくなかった。
あれほどやりたいことがあって、未来にも希望を持っていた舞に、生きることを諦めてほしくなかった。例え、今が満ち足りた気持ちであっても、そんな諦念を抱えてほしくなかった。
もっと、やりたいことがあったんじゃないのか。
大学に行きたかったんじゃないのか。
服飾系のデザインを学びたかったんじゃないのか。
友達やサークルの仲間と、楽しい毎日を過ごしたかったんじゃないのか。
ちさと姉と、まだたくさん遊びたかったんじゃないのか。
ほかにももっと、もっと、もっとたくさん……――。
駅前通りを横切り、住宅街を通って、町の外れへと急ぐ。人通りの少ない小道を何本か抜けると、途端に視界が開けた。まだ色づき始めてすらいない新緑の銀杏が、風をはらんで舞っている。
「舞! いるかー!?」
酸素の足りない肺に鞭を打って叫ぶ。左右に伸びる道路を見回し、注意深く銀杏並木の陰や細く伸びる青空にまで目を凝らす。
けれど、見当たらない。明るい声も聞こえない。
桃坂公園までやってきたが、耳に聞こえるのは相変わらず自分の荒れた息遣いだけだ。
念のため公園の中や周囲もくまなく探してみたが、やはり影も形もなかった。
「はあ、はあ……いないか」
そばにあったベンチに手をつき、息を整える。
ここにいないとすれば、もうひとつの公園だろうか。あるいは一緒に散歩した道のどこか。入院している病院の近く、直前に行った大学の構内。さすがにカフェやショッピングモールとかはないだろうし……。
考える。
きっと、舞はまだどこかにいるはずだ。
喧嘩別れした親友が元気で過ごしているか、という大きな未練を解消したことで、陽奈さんの容体は過去最悪の状態になっている。けれど、持ちこたえているということは、おそらく彼女の中で何かまだ気がかりがあるのだ。そしてそれは、舞の性格を考えると、唐突に消えてから一度も話せていない僕にかかわることじゃないだろうか。自惚れじみているが、彼女がこのまま僕に何も話さず逝くというのは考えにくい。
希望にも近い考えを脳内で反芻し、僕は再び気持ちを奮い立たせる。
最後の未練を解消するなら、きっと彼女はまだ幽霊としてどこかにいるはずだ。可能性として一番高かったのはこの桃坂公園だったが、もしかしたらまた迷子になっているのかもしれない。もしそうなら、見つけるのは僕の役目だ。
ある程度息が整ったところで、僕はひとまず舞と行った丘陵公園へ向かうことにした。途中で買ったペットボトルのお茶を飲み干し、近くにあったゴミ箱に投げ入れる。
「あ……」
そこでふと、ゴミ箱のそばに立つ掲示板に目が留まった。
冬見町のあちこちにある掲示板。町内のイベントやら何かの募集案内のチラシと一緒に、それは貼られていた。
「花火大会の、ポスター……」
彩り鮮やかな花火がいくつも描かれ、右下には大きく今日の日にちが書かれている。陽奈さんの容体が急変したことですっかり忘れていたが、約束の日は今日だった。
僕はまた、走り出した。
冬見町の花火大会はそれほど大きなものではない。都会では一万発以上上がる花火大会があるらしいが、冬見町の花火大会はせいぜい二千発程度。開始から三十分もしないうちに全ての花火が打ち上がり終わってしまう、なんともあっけない花火大会だ。
けれど、この辺りではそもそも花火大会自体があまりないため、例年多くの人で賑わっていた。会場である河川敷付近の道沿いには屋台が立ち並び、浴衣に身を包んだ家族連れやら学生やらが陽気にはしゃいでいた。
そしてそれは今年も類に漏れず同じようで、僕が息も絶え絶えに河川敷に着いた頃には陽はとっくに落ち、会場は活気あふれる喧騒に包まれていた。
「舞……どこだ? どこにいる?」
この河川敷付近に舞はいるはず。
カラカラに渇いた喉から絞り出すように彼女の名前を呼び、周囲に視線を向けた。
人の波の隙間を縫い、ぶつかりそうになりながら舞を探す。怪訝そうに僕を見る人が何人かいたが、構っている余裕はなかった。
以前、この河川敷には舞と来たことがあった。あの時はピクニックをしたいという彼女の要望に応えて、普段は人があまりいない河川敷を選んだ。家から持ってきたレジャーシートを敷くと、舞が無邪気な声をあげながらダイブしていたことを思い出す。
あの時、僕は悩んでいた。
一緒に学校に行って、これまで感じたことのない、感じてはいけないはずの感情に戸惑っていた。
その感情が本当に「そう」なのか確かめたくて、僕は舞とこの場所に来ていた。
水切りが見たいと言われ、僕は不得手ながら石を水面へと放った。せいぜいが三回程度だったけど、舞はえらく感動していた。興奮した彼女はどんどん平らな石を見つけ、そのたびにせがまれて僕は石を投げた。
腕が疲れてからは、レジャーシートの上で寝転がった。舞も寝転がっていた。いや、正確には寝転がるようにして浮いていた。やけに僕に近づいてきてからかうものだから、まったく休憩になっていなかった。照れて慌てる僕を見て、舞は楽しそうに笑っていた。
すべてが楽しかった。
僕の心に生まれた感情は本物で、紛れもない事実で、認めるほかなかった。
その感情を自覚してからは悩んだけれど、結局僕は舞のために未練解消の手伝いを最後まですることに決めた。
好きな人の幸せを願って、少しでも笑っていてほしかったから。
それが最善なのだと、舞が望んでいて舞の幸せに繋がるのだと、思っていた。
でも実際は、彼女の死を後押ししていた。
もしかしたら、彼女は心からそれを望んでいるのかもしれない。生きることを諦め、心置きなく死ぬために、生に対する未練をひとつ残らず解消したくて幽霊になったのかもしれない。
好きな人の幸せを願って、好きな人がやりたいことを手伝うという趣旨では、僕がしてきたことは間違っていない。
けれどそれは、僕がしたいことじゃない。
生きることを諦め、しがらみなく幸せに死ぬためのやりたいことなんて、僕は手伝いたくなかった。
僕は彼女に、生きていてほしい。
舞に、陽奈さんに、生きていてほしい。
無邪気に笑って、楽しい日々を過ごして、また夢を追いかけてほしい。
身勝手でわがままかもしれないけれど、そんな「幸せ」を掴んでほしい。
そのためなら僕は、なんだって手伝うし、協力もしたい。
だって僕は――。
その時、真っ暗だった夜空が唐突に輝いた。やや遅れて、大気を振動させる轟音が鼓膜を震わせる。
「始まったか……」
光と音のしたほうを見ると、そこには大輪の花が咲いていた。さらに続けざまに二発。光の花が夜空に咲くたびに、方々から歓声があがる。
――ね、近くでやるんだし行かないともったいないよ! 一緒に行こっ?
いつかの嬉しそうな声が脳裏によみがえった。
舞と一緒に観るはずだった、真夏の花火だった。
「舞……」
ふいに花火がぼやけて、僕は慌てて目元を拭う。
もう、会えないんだろうか。
そんな考えがよぎってしまった。一度考えてしまうと、不安や悲しみは波のように押し寄せてきて心を覆っていく。
そんなはずはない。舞がこのままいなくなるはずがない。きっとまだ、どこかに……。
そう自分の心を叱咤するも、不安は紛れてくれない。
そもそも一度消えたのに本当にいるのか。
自分の妄想ではないのか。
仮にいたとしても、この人混みの中からどうやって見つけるのか。
嫌な考えばかりが浮かび、僕は急いで頭を振って掻き消す。
必ず見つける。舞のことだから、きっと来ているはずだ。この人混みの中か、あるいはもう少し離れたところ……。
「あっ……」
そこでふと思い出し、僕はもう一度空を見上げる。
夏の夜空。大きくて色鮮やかな花火の数々が咲き誇る方向、だけではない。
動物園に行った時にも使った、人混みの中で舞を見つける方法、もとい僕らの取り決め。
川の上流に、下流の方向の空。
屋台が立ち並ぶ前方の道に、僕が今しがた人混みをかき分けてきた後方の道の上空。
あとは、花火とは正反対の真っ暗な夜空――。
「――こーら。スカートだから見ちゃダメって言ったのに」
聞き慣れた愛しい声が、すぐ近くの上方から聞こえた。
僕はさらに、泣きそうになった。
*
花火の音ばかりが響いていた。
周囲にいる誰もが夜空に咲く光の花に目をやり、ほとんど会話もせずに眺めている。
ある意味で、そこは静かだった。これだけ多くの人がいるのに視線は一点に集まり、大した声も発さずにぼんやりと空を見上げていた。
けれど、僕らだけはべつだった。
「振り向いちゃダメ、だからね。約束通り、一緒に花火を観ようよ」
耳元でささやかれる。息遣いなどの感触はなく、くすぐったさも感じなかった。
「……わかった。じゃあ、このまま話そう」
「話すの? せっかくの花火なのに」
「話すよ。じゃないと、花火が終わったと同時に、君は消えてしまいそうだから」
「……」
彼女から返事はなかった。その意味するところを察して、やはりと僕は思う。
彼女は、舞は、陽奈さんは、僕と最後に花火を観て終わりたかったんだろう。これ以上なくきれいで切ないお別れをして、そのまま本当に消えてしまうつもりだったに違いない。
でも僕は、そんなことを望んでいない。振り回されてなんか、やらない。
「ぜんぶ、ちさと姉から聞いたよ。事故のことも、ちさと姉との喧嘩別れのことも、進路のことも、ぜんぶ」
「そっか」
「それで君は、君の身体は、三年間も眠り続けている。いつ目覚めるのかわからない。だから、生きることを諦めて、未練を解消しようとしたの?」
「そうだねー。半分正解、かな?」
僕の問いかけに、彼女はクスリと短く笑った。
「凌の言う通り、最初は生きることを諦めて、未練を解消して消えたいって思ってた。毎日毎日、暗くて深い海の底みたいなところで、ずっと漂っている感覚なんだもん。起きたくても起きられない。力が入らないし、何もできない。いつもまでもこんな状態かもしれないって考えると怖くて怖くて、もう消えてしまいたいって思った」
内容に反して、彼女の声は穏やかだった。周囲では花火の破裂音が幾度となく響いているが、それに紛れないほどよく通る声だった。
「でも、私には心残りが二つあった。一つは、千里との喧嘩のこと。私が眠りについてから長い月日が経っているのはなんとなくわかってたから、すごく心配だった。消える前に、なんとしても千里には一度会いたかった」
そこで一度言葉は途切れた。夜空には、柳の花火が幾重にも重なって輝いていた。
「もうひとつはね、幸せな気持ちで消えたかったんだ」
暗い夏の空に、ひときわ大きな花火が打ち上げられた。
「怖さとか、寂しさとか、悲しさを抱えて消えるなんて嫌だった。私は、後悔のない人生を送りたかった。だから、千里と喧嘩になることを承知で大学も自分の行きたいところを選んだの。自分のやりたいことにうそをつきたくなかったから。そしてそれは昏睡状態になってからも同じで……私は、消える最期の一瞬まで幸せな気持ちで過ごしたかった」
ひとつふたつ、とクライマックスに向かう大きな花火が夜空を彩っていく。
「私は確かに生きることを諦めた。でも、同時に最後の最後までしっかり生き抜こうと強く想った。そうして気づいたら、私はすべての記憶を失くしてあの公園に立っていた」
視界いっぱいに広がっていたはずの光の花が、ふいに薄くなった。
舞がいた。
舞が、すぐそばに浮いていた。
長い黒髪も、垂れた二重の瞳も、白いニットに暗い緑のスカートという服装も変わっていない。
けれど、決定的に彼女の姿はこれまでと違っていた。
彼女は、舞は、それと見てわかるほどに透けていた。
「……っ、舞!」
思わず発した僕の叫びは、花火の音にかき消される。
聞こえたのか、聞こえていないのか。
彼女は、儚げに笑った。
「それから、ずっと公園の付近を彷徨ってた。私には何かしないといけないことがあるのはわかるのに、それが何かはわからない。自分が誰かもわからないし、見覚えがあるけどここがどこかもわからない。今だから言うけど、すごく寂しかった。心細かった。通りがかる人に話しかけても気づいてもらえないし、大きな声を出しても誰も見向きもしてくれない。それは、公園から離れて町に出ても同じ。たくさん人がいるところでも、誰も私には気づいてくれない。私を通り抜けて、みんな自分が行きたい場所へ歩いていくの。本当に、悲しかった」
舞の背後で、小さな花火が無数に咲いた。すべてが淡く、きれいに視界を覆った。
「でも、そんな私に気づいてくれる人が現れた。上からぼんやりと見下ろしてたら、気づいてくれた。二人は走って行っちゃったけど、一人は残ってお話ししてくれた。まあ実際は逃げ遅れただけだったみたいだけど、それでも私は嬉しかった。嬉しくて嬉しくて、変なテンションで喋ってた。強がって、明るく振舞ってたけど、本当は泣きそうなくらい嬉しかったんだ」
「舞……」
いつかの記憶が脳裏に浮かんだ。その記憶の彼女はどれも、笑っているように見えた。
「それからの日々は、これまでの悲しさがうそみたいに楽しかった。
あんなに寂しかった散歩が楽しくなった。
もっともっと話したくなって、二度と行かないって決めたカフェに行きたくなった。
心の奥底にしまっていた遊びたいって気持ちに正直になれた。
バンジージャンプも、動物園も、ピクニックも、ぜんぶ楽しかった。
それだけじゃない。未練の解消にも、前向きになれた。
正直に言うとね、ちょっとだけ怖かったんだ。未練を解消したら、きっと私は消える。消えちゃったら私自身はどうなるんだろう、どこへ行くんだろうって不安だったから。それに、この楽しい日々が終わっちゃうのも嫌だった。
でも、未練の解消が私と君を繋ぐ意味だったし、君といると不安も薄れてきて、きっと悪いことにはならないだろうって思えるようになった。君と一緒に楽しい時間を過ごして、その先に未練を解消して消えるなら、きっと幸せだろうなって思えたの。そしてそれは、間違いでも勘違いでもなかった。
私は今、とっても幸せだよ」
「……っ!」
舞は笑っていた。
記憶のどれとも違う笑顔だった。
その笑顔は異様なほどきれいで、僕の心をいともたやすく震わせた。
僕は舞の笑顔を、初めて嫌いだと思った。
「私は、もう充分。こんなに満たされて、幸せな気持ちを感じながら眠れるなんて思わなかった。凌のおかげだよ。今までたくさん振り回してごめんね。そして、ありがとう。たった二ヶ月程度だったけど、凌との思い出は私の一生の中でも最高の――」
「――勝手に終わらせてんじゃねーよっ!」
堪えきれずに僕は叫んだ。
「お前はいつもそうだ! 人の気持ちも都合も考えずに、一方的に自分の気持ちだけ押し付けて……ほんとなんなんだよ!」
花火の音に紛れないほどの声量に、周囲がざわついた気がした。けれど、構わない。
「最初に会った時も、僕が驚いて戸惑ってたのわかってただろ。なのに、名前をつけてとか、未練解消の手伝いをしてとか、自分のことばっかでさ。その後も、カフェとか人の多いところ行きたがるし、丘陵公園じゃあちこち走り回るし、バンジージャンプとかわけのわからない遊びに誘ってくるし、家にも勝手に付いてくるし、高校に行きたいとか言い出した時はすっごい悩んで考えたんだからな」
一度気持ちが溢れると、もう止まらなかった。
止まって、くれなかった。
「ほんと好奇心旺盛で、
いつも僕を振り回してきて、
自分勝手で、意地悪で、わがままで、
すぐいじってくるし、
からかってくるし、
飽きっぽいし、
すぐころころ態度変わってさ、
怒ってたかと思えば笑うし、
そんな笑顔にまた振り回されるし、
面倒くさかったはずなのに僕も楽しくなってきて、
舞ともっと一緒にいたいって思えてきて、
でも舞は幽霊で、未練を解消しないといつまでも迷子のままで、
悩んで、悩んで、悩んで、
舞との日々を思い出して、ようやく決意できたのに、
前向きに考えて、ようやく進めると思ったのに、
舞は勝手に消えて、勝手に現れて、また勝手に消えようとしていて、
僕の気持ちも、ちさと姉の気持ちも、行き場が無くて、
ほんとに、なんなんだよ……っ!」
「りょ、う……」
か細い声が聞こえたほうへ目を向ける。相変わらず花火は咲き続けているのに、その声ははっきりと聞こえた。
一方で、視界は滲んではっきりと見えない。
気配も感じられない。
花火の光が眩しすぎるからか、夏夜が暗すぎるからか、舞の姿もはっきりとは見えない。
でも彼女は確かにそこにいて、僕を見ていた。
だから僕は、ずっとしまっていた気持ちを声に乗せる。
「舞、僕は君が大好きだ」
もう遠慮とか、気遣いとか、どうでもよかった。
「僕は舞と、陽奈と、ずっと一緒にいたい。何気ない日々をもっと一緒に過ごしたい。
僕は君と、カフェで喋りたかった。一緒に飲んで、食べて、美味しいなって感想を言い合って、どうでもいい話をしたかった。
一緒に公園を散歩したかった。手を繋いで、君の感触を肌で感じたかった。
一緒にバンジージャンプがしたかった。宙づりになった君と、バカみたいに笑いたかった。
一緒に部屋で勉強とかしてみたかったし、ボウリングもカラオケもピクニックも一緒に隣ではしゃぎたかった。
一緒に動物園や水族館に行って、写真を撮って、お揃いのお土産とかを買って、思い出を共有したかった。
一緒に大学の構内を散策して、変なサークルに驚いたり、野外ステージに向かって叫んだりしたかった。
一緒に花火大会に来て、一緒に花火を観て、一緒に帰り道を歩きたかった」
「凌……もう、やめて」
「いやだ、やめない。振り回された分、今度は僕がわがままを言う。
僕は君に生きていてほしい。ずっと笑っていてほしい。
いつ目覚めるかわからないのだとしても、僕は君が目覚めるまで待ってる。あまりにも遅かったら、僕が医者になって君を叩き起こしに行く。
僕は君のことが大好きだから。
だから、君には生きて幸せになってほしい。
生きて、やりたいことを思う存分やってほしい。
そのためならなんだって協力するし、振り回されてもいい。
僕は君に……生きて、ずっとそばで、笑っていてほしいんだ」
「やめてっ!」
花火のフィナーレが夜空に広がる中、舞のひときわ大きな声が耳を衝いた。
ほとんど消えかかっていた彼女の姿が、すぐそこにあった。
僕の記憶では笑顔ばかりだったその顔には、涙が伝っていた。
「やめて、やめてよ……ひどいよ。私、ずっと我慢してたのに。ずっと頑張って耐えて、最後まで笑ってお別れしようって決めてたのに……どうして、そんなこと……」
「自分の気持ちに正直になるって決めたから。舞のおかげで、ね」
「ほんと、ひどすぎるよ……」
淡く透明な彼女の身体を包み込むようにして、僕は抱きしめる。
感触はない。あるはずの温もりも、息遣いも、匂いも、何もない。
けれど、確かに舞は僕の腕の中にいた。
「私は言わないよ、自分の気持ち。やりたかったことも、言わない。自分勝手で意地悪でわがままだから。だから、凌はずっと悩んで、いつか嫌になって、さっさと忘れてくれていいよ」
震える声で、舞は憎まれ口をこぼす。僕は笑ってやった。
「上等だ。ずっと悩んで、嫌になっても、絶対に忘れない。舞の、陽奈の気持ちは直接聞く。そして抱きしめてくれても、平手打ちでも、どんとこいだ」
「……また、私がすべてを忘れてるかもしれないよ?」
「その時は、またゼロから関係を築く。大丈夫だ。陽奈の魂である舞の性格はすべてわかってるから、絶対好きにさせてみせる。なんせ、僕が初めて舞を見つけたんだからな」
「あは、あははっ……こんなに強引だったかなあ、凌って。ほんと、バカだなあ。でも、そんな凌だからこそ、私は――」
その先の声は、聞こえなかった。
豪快な破裂音がひとつと、昼間のような明るさが会場を包み込むのと同時に、僕の腕の中にいた彼女が消えたのがわかった。
僕は黙って、流れ落ちていく光の筋を眺めていた。
きっと彼女は、陽奈は目を覚ます。
その時までに、僕がやれることはすべてやるつもりでいた。
それが僕のやりたいことで、僕の進みたい未来だから。
花火が消えた夏の夜空には、残滓の煙と明るい月だけが浮かんでいた。
昼間あれだけ晴れていたのに外は曇っていて、何度か舞と見た茜色の空は鳴りを潜めていた。どんよりとした厚い雲が夏空を覆い、今にも雨が降り出しそうだった。
「こっち」
ちさと姉に続いてだだっ広いエントランスを抜け、エレベーターホールへと向かう。三基あるうちの一番右のエレベーターがちょうどよくきて、僕とちさと姉はそのエレベーターに乗り込んだ。僕ら以外に人はおらず、エレベーターは途中で止まることなく目的の八階まで運んでくれた。その間、僕とちさと姉の間に会話はなかった。
正直、何を話したらいいのかわからなかった。
頭が混乱していた。
ぐちゃぐちゃとこんがらがっている思考の狭間で、僕はぼんやりと消える直前の舞のことを考えていた。
一瞬しか見ていないが、あの時の舞は晴れやかな顔をしていた。
後ろから聞こえた声は落ち着いていて、いやに大人っぽく聞こえた。そして、いつものように弾んではいなかったけれど、嬉しそうで、明るい声だった。
まるで、全てを悟り、自らの未練を自覚し、そしてそれが解消されたことへの幸せをかみしめるように。
いや、事実そうだったんだろう。
だからきっと、舞は消えた。
もうこの世に留まる必要がないから。
呆気なく、僕に一言も残さず、唐突に彼女は姿を消した。
そう、思っていた。
「ここよ」
エレベーターを降りて角を曲がり、いくつもの病室が並ぶ廊下の一番奥で、ちさと姉は立ち止まった。
小綺麗で白が目を引く病室の扉。面会謝絶の札がかかっている。そしてその隣にあるネームプレートには、一人の名前が書かれていた。
「朝本、陽奈……」
「私の、一番の親友が眠る病室よ」
つぶやくように言うと、ちさと姉は扉をノックし名前を名乗った。中から穏やかな女性の声が聞こえ、扉が開く。
「いらっしゃい、千里ちゃん。さっきは電話ありがとうね。いつも来てくれて嬉しいわ。それと、あなたが陽奈のお友達っていう男の子ね」
病室から出てきた女性は四十代半ばくらいの綺麗な人だった。二重で垂れた大きな瞳が、どことなく舞に似ていた。
「はい。天坂凌、と言います」
僕は軽くお辞儀をする。それに応じて、女性も深々と頭を下げた。
「はじめまして。陽奈の母の朝本早苗です。よろしくね」
入り口でのあいさつもそこそこに、僕とちさと姉は中へ通された。
内装は、まるでビジネスホテルの一室のようだった。清潔な白を基調とした壁に、リノリウムの床。ツンと鼻につく消毒液の匂い。
そんな病室への感想が一瞬脳内を駆けるも、ベッドに横たわる「彼女」を見た瞬間に全てが吹き飛んだ。
「あ、あ……」
言葉にならない声が漏れる。上手く息が吸えない。心臓を鷲掴みにされたみたいに胸が苦しく、手や背中に一気に汗が噴き出した。
そこには、舞と瓜二つな女性が眠っていた。
「ほら、陽奈。今日はお友達が二人も来てくれたわよ」
急速に脈打つ僕の心臓とは裏腹に、早苗さんはのんびりとした口調で彼女に話しかける。もちろん返事はなく、側にあるモニターが微かな電子音を鳴らしているばかりだった。
「あ、そうだ。来てくれたばかりで申し訳ないんだけど、少しだけ陽奈のこと見ててくれる? この子の着替えとかを取りに一度家に戻りたくて」
「はい、大丈夫ですよ」
何も言えない僕の代わりに、ちさと姉が落ち着いた口調で返事をした。妙に慣れている感じだった。
「ありがとう。これがナースコールだから、もし何かあったら遠慮なく押してね。じゃあちょっとだけ、お願いね」
早苗さんも慣れたようにちさと姉に後のことを頼むと、立ち尽くす僕の横をすり抜けてそそくさと病室を出ていった。あとには、僕とちさと姉と、舞とそっくりな女性だけが残された。
「凌くん。ほら、こっち」
「あ……」
ちさと姉の言葉でハッと我に返る。ちさと姉はベッドの脇にある丸椅子に腰かけ、もうひとつの椅子を僕に勧めてきた。
「そんなところに立ってないで、近くに来てもっとしっかり陽奈のことを見て」
真っ直ぐな眼差しで見つめられ、僕は仕方なくベッド脇まで近づいた。眠る女性の顔が、よく見えた。
大きな眼に、長いまつ毛。
艶やかな黒髪に、すっきりとした鼻筋。
異様なほど白い肌や、真一文字に結ばれた口元、少し大人びた寝顔は、ここ最近よく見てきた彼女のものとは似ても似つかない。けれど。
「どう?」
「……間違い、ない」
ふっと身体から力が抜け、僕は丸椅子に座り込んだ。
なぜか、確信があった。
ベッドで眠っている女性は、疑いようもなく舞だった。
なぜ?
どうして舞が病院に?
いつから?
そもそも舞は、幽霊じゃない?
じゃあ舞って、なんだ?
未練って、なんなんだ……?
疑問が次々と頭に浮かぶ。真っ白だった頭の中は、瞬時にぐちゃぐちゃにかき乱された。
「間違いない、か……。じゃあ何があったのか、話さないとだね」
頭を抱える僕の隣で、ちさと姉が小さく息を吐いたのがわかった。
微かな雨音とともに、彼女は舞――陽奈さんを見つめながら話し始めた。
その日は、今日みたいな天気だったらしい。
冬を越えて春が来る少し前の季節。昼過ぎまで雲一つない快晴で、どこまでも深くて広い青空が続いていた。
「ちさと~! 早く早く! カラオケの朝割終わっちゃうよ!」
「もう~陽奈~。ギリギリになったのはあんたのお寝坊のせいでしょーが!」
ちさと姉と親友の陽奈さんは、朝から昼過ぎまで駅前のカラオケボックスで思い思いの歌を歌い、カフェで昼ご飯を食べながら他愛のない会話に花を咲かせ、いつもと変わらない休日を過ごしていた。
高校三年生で受験も終え、解放感に満ち溢れた休日。けれど午後からは天気がぐずつく模様で、雨が降り出す前に解散することになった。
ちさと姉は冬見町内の住宅街に家があったが、陽奈さんは隣町に住んでおり、桃坂公園前のバス停まで見送ることになった。
「あーあ。もうちょっと歌いたかったな~」
「まあ、また行けばいいじゃない。どうせ大学からもそんなに遠くないんだし」
大学受験の合否は前々日にあり、ちさと姉も陽奈さんも合格していた。前々から二人で地元の国立大学を目指して頑張っており、晴れて二人で同じ大学に通うことが叶った。
その日は、そんな合格祝いも兼ねた楽しい一日、のはずだった。
「あのね、千里。私、千里に謝らないといけないことがあるの」
「え?」
「実は私、県外にあるべつの私立に行くことにしたんだ」
バス停に着くや、陽奈さんは唐突にそう切り出した。
ちさと姉にとっては寝耳に水で、すぐには言葉が出なかった。その間も、陽奈さんは先を続けた。
「本当にごめん。私も千里と同じ大学に行って、これまで通り楽しく遊んだり、一緒のサークルに入ったり、一緒に講義を受けたりしたかった。でも私ね、前々から服飾デザインに興味があって。その、すっごく迷ったけど、やっぱり私はデザインが学べる大学に行きたいんだ」
「ちょ、ちょっと待って。だって私たち、これまで一緒に……」
「うん……だから、本当に……ごめんなさい」
陽奈さんは心から謝ってくれたが、ちさと姉は納得できなかった。
高校一年生の時から同じ大学に行こうねと話し、テストも模試も切磋琢磨して頑張ってきた。それは高校三年生になっても変わらず、陽奈さんの口から服飾系のデザインが学べる私立大学に行きたいなどという話は一度も聞いたことがなかった。だから、ちさと姉も親友と同じ大学に行けることを信じて疑わなかった。
二人が合格したことでそれは確たる未来になった、はずだった。
ところが、それは一瞬のうちに崩れ去った。
そこから先は喧嘩、もといちさと姉が陽奈さんを一方的に責めた。
どうしてもっと前に言ってくれなかったのか。
なんで一言くらい相談してくれなかったのか。
私たちは親友じゃなかったのか。
突然目の前に降ってわいた現実を受け入れられず、ちさと姉は心無い言葉をいくつも吐いた。その度に陽奈さんは頷き、受け止め、ただひたすらに謝った。
「陽奈のことなんて大っ嫌い! もう顔も見たくない! さっさと帰ってよ! 早くっ!」
雨がぽつぽつと降り始め、何度か見逃したバスが来たタイミングで、ちさと姉は言い放った。
陽奈さんは無言で頷き、バスに乗り込んだ。
それが、最後だった。
陽奈さんが乗ったバスは峠でスリップを起こし、崖下に転落した。
それから、約三年。
幸いにも一命はとりとめたが、陽奈さんが目を覚ますことは一度としてなかった。
「そん、な……」
ちさと姉の話を聞き終え、僕は言葉を失った。
なんて言えばいいのかわからなかった。
ただそれと同時に、妙に腑に落ちている自分もいた。
桃坂公園。高校三年生。進路。友達との仲直り。
舞の未練につながる断片が、繋がっていくのがわかった。
「私は、ずっと後悔と罪悪感を覚えてる。その時の感情に任せて、陽奈をたくさん傷つけたこと。陽奈の決断を応援しなかったこと。私があのタイミングで陽奈に帰るよう言ったせいで事故に遭ったこと。私だけが普通に生きて、大学生活を送っていること……」
ちさと姉は悲しげに顔をゆがめて、ベッドで眠る陽奈さんを見つめる。
「今も、どうしたら罪滅ぼしになるのかわからない。ただこうして陽奈が目を覚ますのを待って、陽奈から責められるのを期待するしかない。何を言われても甘んじて受け入れる覚悟はできているし、陽奈のためならなんだってする。そのために、私は今生きている。……なのに」
安らかな寝顔に向けられていた視線が、今度は僕を捉えた。
「大学で見た、消えた女の子は、間違いなく陽奈だった。高校三年生の時の、最後に私が見たままの陽奈だった。私を見て、怒ることも罵ることもせず、ただ安心したように……無事に、元気に、やっていて……よかった……って…………」
黒い瞳から一滴の涙が零れた。ちさと姉は、慌てて目元を拭った。
「……グスッ、ごめん。まだ、泣いちゃいけない。ちゃんと聞かないと……。ねえ、凌くん。大学でもちょっとだけ聞いたけど、改めて教えて。陽奈と……陽奈の幽霊と、どんなことをしてきたのかを」
目元に涙を溜めつつ、彼女は真っ直ぐな声でそう訊いてきた。意思のこもった眼だった。
小さく頷いてから、今度は僕がちさと姉にこれまでのことを話した。
透馬に連れられて肝試しに行き、そこで迷子の幽霊に出会ったこと。
名前を付けてと言われて「舞」と名付けたこと。
未練解消の手助けをすることになったこと。
駅前にあるカフェで談笑したこと。
丘陵公園を散歩し、一緒に四つ葉のクローバーを探したこと。
バンジージャンプをしたこと。
舞との思い出を語るたび、彼女の眩しい笑顔がちらついた。
僕の部屋でのしょうもない掛け合いも、高校の教室で感じた胸の高鳴りも、動物園での楽しいひと時も、すべて昨日のことのように思い出せた。
いつも、舞は笑っていた。
いつしか、僕も笑うようになっていた。
いつの間にか、僕は彼女に恋をしていた。
吐き出すように、僕はちさと姉にすべてを語った。
ちさと姉は何も言わず、ただ黙って聞いてくれた。
話し終えた時、彼女の眼からは涙が溢れていた。
「そっ、か……。陽奈は、ずっと彷徨って……それを、凌くんが助けてくれていたんだ……」
ちさと姉はベッドの上で眠る陽奈さんに向き直り、そのまま倒れ込むように泣き伏した。
「ごめん、ごめんね……陽奈。本当に……ごめん、なさい…………ううっ、あああああ……」
シーツに顔を埋めて、ちさと姉は震えていた。嗚咽が外に漏れないように、必死にこらえているようだった。
僕はどうしたらいいのかわからなくて、呆然としていた。
親友の泣き声でも起きない陽奈さんの寝顔を、なんとなく見つめた。
安らかな寝顔だった。
考えてみれば、僕は彼女の寝顔を見るのは初めてだった。
だからだろうか。その顔は、肌の白さや大人っぽさを差し引いても、僕の知っている舞の表情からは遠いもののように思えた。
窓ガラスをたたく雨の音は、いつの間にか強くなっていた。
*
翌日の昼過ぎ。
昨日に続き降り頻る雨の中、僕はひとりで陽奈さんが眠る病室を訪れた。
「あら、いらっしゃい。昨日はお構いもせずにごめんなさいね」
連日のお見舞いにもかかわらず、早苗さんは快く迎え入れてくれた。
陽奈さんが好きだったという紅茶とお菓子をご馳走になり、彼女がまだ元気だったころの話を聞かせてもらった。
「この子ね、ほんと昔から落ち着きがなくて、よくあちこち走り回っていたわ。ちょっと目を離すとすぐどこかへ行っちゃうものだから、危なっかしくてね。お花が好きで、高校生になっても公園に咲いているアジサイとかを見るとすぐ駆け寄ってた」
「あーなんか、わかります」
「でしょ~。この子の誕生日にショッピングモールに行った時なんかね――」
小さく笑いながら、早苗さんはいくつものエピソードを話してくれた。そのエピソードはどれも「彼女らしい」ことばかりで、僕もつられて笑っていた。
ちなみに僕は、ちさと姉を通じて知り合った陽奈さんの友達、ということになっている。三歳離れているため高校の後輩というには無理があり、住んでいるところも遠いのでほとんど必然的にそういう説明をするほかなかった。怪しまれるかと思ったが、思いのほかすんなりと受け入れてくれた。
「陽奈は誰とでもすぐ打ち解ける子だからね~」
そんなふうに、早苗さんは笑っていた。確かにそうだなと僕も思った。
それから僕も、幽霊であることは隠して彼女との思い出を語った。そのたびに陽奈さんのお母さんは深く頷き、時には笑い、時には何かを思い出したように目元を拭い、嬉しそうに話を聞いてくれた。違和感は、まったくなさそうだった。
小一時間ほど話していると看護師さんが病室に来て、何やら話があると早苗さんを呼びに来た。
昨日と同じように陽奈さんのことをお願いされ、僕は彼女と二人きりになった。
「本当に、君は舞なんだな」
眠っている陽奈さん――舞に向かって、僕は言葉を投げかけた。当然、返事はない。
正直、僕はまだ心のどこかでそのことを疑っていた。
陽奈さんと舞は別人で、実は舞はまだどこかで能天気に浮かんでいるんじゃないかと。
けれど、もちろんそんなはずはなくて、午前中に桃坂公園にも行ったが舞はいなかった。スカートを翻して意地悪そうに降りてくる彼女の姿は、どこにもなかった。
「いつまで、眠ってるんだよ」
何を言えばいいのかわからなくて、思ったことを口にする。返事はない。
陽奈さんと舞が同一人物、もとい舞が陽奈さんの魂や生霊のようなものなら、舞は生きているということになる。何年も眠っている間に不安の種だったちさと姉のことを想って魂を飛ばし、その心の引っ掛かりがなくなって魂が消えた……いや、元の身体に戻ったということに。今もこうして生きているのが、何よりの証拠だ。
それは、僕にとっては嬉しい出来事のはずだった。
死んだ人の霊だと思っていた舞が、実は生きていた。
意識はなく、眠ったままではあるけれど命は尽きていない。いつかきっと目覚める日が来る。
「今度は僕が待つ番だな」
ずっと待つつもりでいる。
何年でも、何十年でも。
そして目が覚めた時に、僕に一言もなく消えたことに文句を言ってやる。
あとは、出会ってから散々振り回された分、今度は僕が振り回すのだ。
元気になったら、カフェや散歩や動物園だけでなくバンジージャンプにも連行してやる。あの生身の身体で飛び降りる恐怖を味わうといい。もっとも、それでも君はただ笑っているだけのような気もするけど。
――思い出した、私の未練。
消える間際の、彼女の声がふと蘇る。
――そっか、無事に、元気にやってるんだ。
心の底から安堵した、安心した声だった。
――本当に、良かった。これで、私は――――。
「…………」
眼を閉じ、首を横に振る。そして改めて、眠る彼女を見やる。
「待ってるからな。だから絶対、目を覚ませよっ!」
心の奥底に巣食う不安を振り払うべく、僕は強く言い放った。
しばらくして、早苗さんと看護師さんが帰ってきてから僕は病室を後にした。
高校はもうすぐ夏休みに入る。
今週には、一緒に行くはずだった花火大会もある。
いくつかの楽しみがなくなったことは残念だが、その分ちさと姉と一緒にお見舞いに来ようと思っている。楽しい話を笑って聞かせたら、もしかしたら我慢できずに目を覚ましてくれるかもしれない。
ビニール傘を強かに打つ雨音を聞き流しつつ、僕はそんなことを考えていた。
陽奈さんの容体が急変したと電話があったのは、翌日のことだった。
*
カランカラン、と扉の開閉に応じて小さくベルが鳴った。
セミの鳴き声が遠ざかっていくのを後ろに聞きながら、僕は行きつけのカフェの店内を見渡す。夕方前の見慣れた風景だが、今日はいつもより人が少なかった。おかげで、待ち合わせ相手はすぐ見つかった。
「ちさと姉、早いね」
「まあね。凌くんも学校お疲れさま」
軽い挨拶だけを交わし、僕は向かいの席に腰を下ろす。
会うのは四日ぶり。それなのに彼女――ちさと姉の顔は、四日前とは比べ物にならないほど憔悴していて、目の下にも薄いクマができていた。
「……大丈夫?」
思わずそう声をかけると、ちさと姉は小さく笑みを浮かべた。
「凌くんこそ、ちゃんと寝てるの?」
彼女の言葉に、僕もつられて苦笑する。
目の下のクマに、光を失った眼。肌は荒れ、髪は乱れ、顔色も悪い。
学校もあったので多少誤魔化してはいるが、それは紛れもなく今朝鏡の中で見た僕の顔そのものだった。
「まあ、最低限は寝るようにしてる。僕が倒れて、それこそ幽霊にでもなったらこっぴどく怒られそうだし」
「ふふっ、確かに。陽奈なら、魂を飛ばして殴ってくるかもね」
軽口を交わすも、お互いの声に覇気はない。
そしてそのまま、会話は止まった。
いつの間にか頼んでいたアイスコーヒーが運ばれてきて、僕はひとくち口に含んだ。ほんのりとした苦みを味わってから喉へ滑らせる。こんな味だったっけと思いつつ、僕はもうひとくち飲んだ。やっぱり、いつもよりどこか苦い。豆を変えたのか、それとも、心境のせいか。考えるまでもない。間違いなく後者だ。僕は、アイスコーヒーを一気に飲み干した。
「……陽奈だけど、まだ予断を許さない状況みたい」
カラン、と氷がグラスの底に落ちる音とともに、ちさと姉の絞り出すような声が聞こえた。僕はグラスを握り締めたまま、視線だけを彼女に移す。
「でも、峠は越えたんだよな」
昨日、ちさと姉は電話でそう言っていた。一昨日の夕方に容体が急変したという連絡を受け、その日の夜は一睡もできなかった。気合いで学校には行き、透馬や美春に心配されながらも乗り切り、どうにか家に帰ってきたところで電話があったのだ。あの時の、いやに感情を押し殺したちさと姉の声は、今も耳に残っている。
「うん。陽奈のお母さんから聞いてる限りだけど、以前に比べて心拍とか血圧とかが安定してないらしくて、それに、他の数値も良くないとかで……まだ、どうなるかわからない状態だって……」
「そ、っか……」
ある程度、覚悟はしていた。けれど、やっぱり聞きたくない言葉だった。
今日、ちさと姉と待ち合わせをしていたのは、陽奈さんのその後の状態を聞くことと、確かめたいことがあったからだ。
僕は早苗さんの連絡先を知らないので、陽奈さんの容体についてはちさと姉から聞いていた。峠は越え、様々な投薬治療をしていることや、落ち着くまで面会はできないといった表面的な話はしてくれたが、詳細については話してくれなかった。
気にしなくていい、大丈夫だから。
まるで自分に言い聞かせるように、ちさと姉は電話越しで繰り返していた。
だから僕は気分転換も兼ねて、ちさと姉に直接話がしたいと伝えた。
そして今、こうして向かい合っているわけだが、話してくれなかっただけあって案の定いい内容ではなかった。
「でも、きっと良くなるって私は信じてる。陽奈だもん、このまま私たちを置いていったりしないよ」
「うん。ただ……」
今日、確かめたかったこと。
やはり、どうしても気になってしまう。
僕は、ためらいがちに口を開いた。
「こういうことってさ、これまでもあったりした?」
陽奈さんの容体が悪化したタイミング。それは、「舞」という陽奈さんの魂が消えてからわずか二日後のことだ。しかも、消えた理由は彼女の心にずっと引っかかっていた未練を解消したから。
――思い出した、私の未練。そっか、無事に、元気にやってるんだ。
あの時の舞の声は、本当にほっとしていた。
今まで聞いたことがないくらい、柔らかなものだった。嬉しそうだった。
やはり、彼女にとって未練はそれほど大きな心のしこりだったのだ。
そして……。
――本当に、良かった。これで、私は――――。
……あの時、何を言いかけたのか。どんな言葉を続けようとしたのか。
無意識のうちに考えていた。
漠然とした不安が、ずっとまとわりついていた。
舞が消え、病院に連れてこられ、陽奈さんを見た日から。
舞が、昏睡状態の陽奈さんの魂だとわかった時から。
そしてその不安は、容体悪化の連絡でより色濃くなってしまった。
彼女は、ただ自分の不安を取り除きたかったわけじゃなくて。
もしかしたら舞は、陽奈さんは……この世で生きること諦め、後悔なく死ぬために、一番のしがらみを解消したかったんじゃないか。
病状の悪化は彼女自身の意思によるもので、まさに今、この世での一番の心配事がなくなって彼女は満足し、そのままあの世に行こうとしているのではないか。
そう考えると、いろいろと合点がいってしまうのだ。
そして僕は、これまで舞の未練解消を手伝ってきた。
舞が、既に亡くなってしまった人の幽霊だと思っていたから。
未練に縛られ、成仏できないのだと思っていたから。
けれど、蓋を開けてみれば舞は生きている人の幽霊、魂だという。
そして今にもこの世での生を終えて、あの世に旅立とうとしているのだとしたら、僕は、その手助けをしてしまったというのか。
きっと舞自身は、自分がどちらかわかっていなかったんだろう。ただ素直に、未練を解消したかった。純粋に、それだけだったんだろう。だから詐欺だとか言うつもりもないし、だまされたわけでもない。誰かが悪いわけでもない。
ただ真実が、より残酷だったというだけだ。
でも、それでも、僕は……――。
僕の考えを見通してか、ちさと姉はすぐには答えてくれなかった。
しばらく、僕の顔を見つめていた。
だから僕も、黙って見つめ返した。
ここだけは、はっきりさせておきたかった。
やがて、ちさと姉は諦めたように息を吐いてから、おもむろに答えてくれた。
「ここまでの悪化はなかったけど、そもそも最近、陽奈の体調はあまり良くなかったの。熱が出たり、呼吸が浅くなったり、脳波が弱くなった時もあって……。だから、考えたくはなかったけど、こういう日が来るかもしれないとは思っていた」
「その体調が良くなかったのって、いつから?」
「……今年の六月くらいから、だって聞いてる」
「……やっぱり、そうか」
六月は、僕と舞が出会った月。舞の未練解消の手伝いをし始めた月だ。
これではっきりした。間違いなくこれまで行動が、陽奈さんの容体に影響を与えている。
そして今、舞は、陽奈さんは、おそらく死に向かっている。
満たされた気持ちで。
未練を解消した晴れやかな心持ちで。
僕が望んだとおり、きっと幸せを感じながら――。
僕は、僕は……これからどうしたらいいんだろう。
*
「おーい、凌」
昼休み。僕が机で突っ伏していると、のんびりした声とともにポスンと何かが頭の上に乗せられた。声の主と髪の毛越しの感触からして、透馬がまた僕の頭に手を乗せているんだろう。
顔を持ち上げる気力もない僕は、どうにか口だけを動かす。
「……なに?」
「お前、ここ最近ずっと眠そうだよな」
「……ちょっとな」
「もうすぐ期末試験だからな。夜遅くまで勉強か?」
「……ああ、まあ、そんなところ」
「うそつけ。期末試験とっくに終わっただろ」
透馬のツッコミに、確かになと思う。そういえば、期末試験前にも似たようなやり取りをしたんだっけか。
「……ああ、いや。悪い、適当に返事してた」
「んなことは知ってる。火曜日からずっと変だぞ。何かあったのか?」
透馬の声色は、いつになく真面目なトーンだった。本気で心配してくれてるのがわかった。
「いや、まあ……ちょっとな。でも、大丈夫」
せめてもと僕は顔を上げて、驚いた。
「やーっと起きた。おはよ、凌」
「え、美春?」
ぽかんとする僕の頭を、美春は手を乗せたまま右に左に揺り動かす。僕は為すがままになっていた。
「凌、お前かなり重症だな。帰ったほうがいいぞ」
「いや、大丈夫」
「そんなわけないでしょ。目の下のクマひどくなってるし、ぜんぜん寝てないんじゃないの?」
「ああ、えと、勉強のしすぎで……」
苦しい言い訳が口をついて出る。案の定、二人は訝し気な視線を僕に向けた。
「あのさ、これでも俺たちはお前の幼馴染なんだぞ。最近は散々心配も迷惑もかけたし、頼りないかもしれないけど、もし何か悩んでるなら相談に乗らせてくれよ」
「そうだよ。あたしたちにできることなら喜んで協力させてもらうから」
二人の視線が、ふっと柔らかくなった。
ここまで心配をかけていることが申し訳なくなる。
二人の関係について、ついこの間まで僕が心配させられていたのに、今や立場が逆だ。
でも……。
「……ありがとう、二人とも。でも、これは僕自身の問題だから、本当に大丈夫だ」
二人には、透馬と美春には、相談できない。
相談したとして解決する問題ではないし、そもそもなんて言えばいいのかわからない。
迷子の幽霊と出会って、
その幽霊の未練を晴らして、
消えたと思ったら実は生きていて、
でも今にも生を終えようとしていて、
けれどきっと彼女は、幸せで、
それが僕の望んでいたことのはずで、やりたかったことのはずで――。
「……悪い、ちょっとトイレ行ってくる」
居心地が悪くて僕は席を立った。
言葉が、まとまらない。
ちさと姉と話して数日立つが、まったく整理できていない。
頭の中は依然としてぐちゃぐちゃで、僕自身どうしたらいいのか、何がしたいのかわからない。
こうしている間にも彼女は、きっと少しずつ死に向かっている。
そんな現実が受け入れられなかった。
当初の決意と何も変わらないはずなのに。
舞が未練を解消し、幸せな気持ちで解放される。
もう彷徨うことも、迷子になることもない。
それでいい。
その、はずなのに――。
「おい、凌!」
トイレに入ろうとしたところで、怒号とともに肩を掴まれた。寝不足で力の入っていない僕の身体は、容易にすぐ横の壁に押さえつけられる。
呆然とする僕のすぐ目の前には、怒りに満ちた透馬の顔があった。
「お前な、俺に言った言葉忘れてんじゃねーよ!」
「え?」
「お前言っただろ! いい加減素直になれって! 本当にそう思ってるのかって! 何があったか知らねーけど、今の凌の顔は何かを必死に我慢して、自分に言い聞かせようとしてる顔だよ!」
透馬が吼え、廊下に満ちていた談笑の声が静まり返る。本当ならこんな目立つような真似はしたくないのだが、透馬の一方的な言葉にイラっときていた。僕は、掴まれていた手を振り払った。
「なに適当なこと言ってんだよ。僕はべつに我慢なんかしてないし、言い聞かせようともしてない」
「だったら、僕自身の問題ってなんだよ。僕自身の、いったい何の問題なんだよ!」
「それは……」
考えるまでもない。
僕自身の、心の問題だ。
舞が未練を解消して消えるという現実を、僕がただ受け入れられていないだけ。
舞がそう望むのであれば、舞がそれで幸せになれるのなら、それでいい。
僕がやってきた未練解消の手伝いは間違っていなくて、それが僕のやりたかったことで。
「――お前さ、本当にそう思ってるのかよ?」
まるで見透かしたようなタイミングで、透馬が言った。
本当にそう思っているのか。
僕は、舞が未練を解消して、幸せな気持ちで消えていいと、本当に思っているのだろうか。
「いい加減さ、素直になれよ」
素直?
素直って、なんだ?
僕は、どうしたい?
僕は、彼女に、どうしてほしい……?
「周囲に理由を作っても、いいことないよ。凌」
気づけば、美春も近くに来ていた。
いつか透馬に言っていた言葉が、今度は僕に投げかけられる。
「もう一度言うぞ、凌。お前かなり重症だから、もう帰れ。先生には適当に言っておいてやる」
「教科書とかの荷物はあとで届けてあげるし、ノートとかも見せてあげるから、行ってきて」
「……っ、ああ!」
堪らず、僕は駆け出した。
*
「はあ、はあ、はあ……」
僕は走っていた。柄にもなく全速力で。帰宅部で運動する習慣もないから、すぐに息はあがるし、足や腕は鉛のように重い。照り付ける日差しも容赦はなく、もはや拭うことを諦めた汗があごの先から滴り落ちている。
それでも、足は止めない。
「なんだよあいつ……いつもいつも勝手なことばかり」
悪態が荒れた息とともに口をついて出る。
ずっと、舞の未練解消の手伝いをしてきた。
最初は気分転換にでもなればくらいに思っていた。でも、いつもそばで無邪気にはしゃぎ、僕の引っ張り回し、楽しそうに笑う舞に僕は惚れてしまっていた。
ずっと一緒にいたい気持ちと、舞にこれ以上未練を抱えて彷徨ってほしくない気持ちの板挟みに悩んだこともあったが、僕は舞の幸せを願って未練解消の手伝いを完遂する決意をした。
そして僕の願い通り、舞は未練を解消し、安心したような声とともに消えた。病室で見た陽奈さんの表情も、とても安らかな表情をしていた。
彼女は、舞は、陽奈さんは、きっと幸せで、満たされたんだろう。
そう、僕の願い通りなのだ。
……けれど、僕はまったく嬉しくなかった。
あれほどやりたいことがあって、未来にも希望を持っていた舞に、生きることを諦めてほしくなかった。例え、今が満ち足りた気持ちであっても、そんな諦念を抱えてほしくなかった。
もっと、やりたいことがあったんじゃないのか。
大学に行きたかったんじゃないのか。
服飾系のデザインを学びたかったんじゃないのか。
友達やサークルの仲間と、楽しい毎日を過ごしたかったんじゃないのか。
ちさと姉と、まだたくさん遊びたかったんじゃないのか。
ほかにももっと、もっと、もっとたくさん……――。
駅前通りを横切り、住宅街を通って、町の外れへと急ぐ。人通りの少ない小道を何本か抜けると、途端に視界が開けた。まだ色づき始めてすらいない新緑の銀杏が、風をはらんで舞っている。
「舞! いるかー!?」
酸素の足りない肺に鞭を打って叫ぶ。左右に伸びる道路を見回し、注意深く銀杏並木の陰や細く伸びる青空にまで目を凝らす。
けれど、見当たらない。明るい声も聞こえない。
桃坂公園までやってきたが、耳に聞こえるのは相変わらず自分の荒れた息遣いだけだ。
念のため公園の中や周囲もくまなく探してみたが、やはり影も形もなかった。
「はあ、はあ……いないか」
そばにあったベンチに手をつき、息を整える。
ここにいないとすれば、もうひとつの公園だろうか。あるいは一緒に散歩した道のどこか。入院している病院の近く、直前に行った大学の構内。さすがにカフェやショッピングモールとかはないだろうし……。
考える。
きっと、舞はまだどこかにいるはずだ。
喧嘩別れした親友が元気で過ごしているか、という大きな未練を解消したことで、陽奈さんの容体は過去最悪の状態になっている。けれど、持ちこたえているということは、おそらく彼女の中で何かまだ気がかりがあるのだ。そしてそれは、舞の性格を考えると、唐突に消えてから一度も話せていない僕にかかわることじゃないだろうか。自惚れじみているが、彼女がこのまま僕に何も話さず逝くというのは考えにくい。
希望にも近い考えを脳内で反芻し、僕は再び気持ちを奮い立たせる。
最後の未練を解消するなら、きっと彼女はまだ幽霊としてどこかにいるはずだ。可能性として一番高かったのはこの桃坂公園だったが、もしかしたらまた迷子になっているのかもしれない。もしそうなら、見つけるのは僕の役目だ。
ある程度息が整ったところで、僕はひとまず舞と行った丘陵公園へ向かうことにした。途中で買ったペットボトルのお茶を飲み干し、近くにあったゴミ箱に投げ入れる。
「あ……」
そこでふと、ゴミ箱のそばに立つ掲示板に目が留まった。
冬見町のあちこちにある掲示板。町内のイベントやら何かの募集案内のチラシと一緒に、それは貼られていた。
「花火大会の、ポスター……」
彩り鮮やかな花火がいくつも描かれ、右下には大きく今日の日にちが書かれている。陽奈さんの容体が急変したことですっかり忘れていたが、約束の日は今日だった。
僕はまた、走り出した。
冬見町の花火大会はそれほど大きなものではない。都会では一万発以上上がる花火大会があるらしいが、冬見町の花火大会はせいぜい二千発程度。開始から三十分もしないうちに全ての花火が打ち上がり終わってしまう、なんともあっけない花火大会だ。
けれど、この辺りではそもそも花火大会自体があまりないため、例年多くの人で賑わっていた。会場である河川敷付近の道沿いには屋台が立ち並び、浴衣に身を包んだ家族連れやら学生やらが陽気にはしゃいでいた。
そしてそれは今年も類に漏れず同じようで、僕が息も絶え絶えに河川敷に着いた頃には陽はとっくに落ち、会場は活気あふれる喧騒に包まれていた。
「舞……どこだ? どこにいる?」
この河川敷付近に舞はいるはず。
カラカラに渇いた喉から絞り出すように彼女の名前を呼び、周囲に視線を向けた。
人の波の隙間を縫い、ぶつかりそうになりながら舞を探す。怪訝そうに僕を見る人が何人かいたが、構っている余裕はなかった。
以前、この河川敷には舞と来たことがあった。あの時はピクニックをしたいという彼女の要望に応えて、普段は人があまりいない河川敷を選んだ。家から持ってきたレジャーシートを敷くと、舞が無邪気な声をあげながらダイブしていたことを思い出す。
あの時、僕は悩んでいた。
一緒に学校に行って、これまで感じたことのない、感じてはいけないはずの感情に戸惑っていた。
その感情が本当に「そう」なのか確かめたくて、僕は舞とこの場所に来ていた。
水切りが見たいと言われ、僕は不得手ながら石を水面へと放った。せいぜいが三回程度だったけど、舞はえらく感動していた。興奮した彼女はどんどん平らな石を見つけ、そのたびにせがまれて僕は石を投げた。
腕が疲れてからは、レジャーシートの上で寝転がった。舞も寝転がっていた。いや、正確には寝転がるようにして浮いていた。やけに僕に近づいてきてからかうものだから、まったく休憩になっていなかった。照れて慌てる僕を見て、舞は楽しそうに笑っていた。
すべてが楽しかった。
僕の心に生まれた感情は本物で、紛れもない事実で、認めるほかなかった。
その感情を自覚してからは悩んだけれど、結局僕は舞のために未練解消の手伝いを最後まですることに決めた。
好きな人の幸せを願って、少しでも笑っていてほしかったから。
それが最善なのだと、舞が望んでいて舞の幸せに繋がるのだと、思っていた。
でも実際は、彼女の死を後押ししていた。
もしかしたら、彼女は心からそれを望んでいるのかもしれない。生きることを諦め、心置きなく死ぬために、生に対する未練をひとつ残らず解消したくて幽霊になったのかもしれない。
好きな人の幸せを願って、好きな人がやりたいことを手伝うという趣旨では、僕がしてきたことは間違っていない。
けれどそれは、僕がしたいことじゃない。
生きることを諦め、しがらみなく幸せに死ぬためのやりたいことなんて、僕は手伝いたくなかった。
僕は彼女に、生きていてほしい。
舞に、陽奈さんに、生きていてほしい。
無邪気に笑って、楽しい日々を過ごして、また夢を追いかけてほしい。
身勝手でわがままかもしれないけれど、そんな「幸せ」を掴んでほしい。
そのためなら僕は、なんだって手伝うし、協力もしたい。
だって僕は――。
その時、真っ暗だった夜空が唐突に輝いた。やや遅れて、大気を振動させる轟音が鼓膜を震わせる。
「始まったか……」
光と音のしたほうを見ると、そこには大輪の花が咲いていた。さらに続けざまに二発。光の花が夜空に咲くたびに、方々から歓声があがる。
――ね、近くでやるんだし行かないともったいないよ! 一緒に行こっ?
いつかの嬉しそうな声が脳裏によみがえった。
舞と一緒に観るはずだった、真夏の花火だった。
「舞……」
ふいに花火がぼやけて、僕は慌てて目元を拭う。
もう、会えないんだろうか。
そんな考えがよぎってしまった。一度考えてしまうと、不安や悲しみは波のように押し寄せてきて心を覆っていく。
そんなはずはない。舞がこのままいなくなるはずがない。きっとまだ、どこかに……。
そう自分の心を叱咤するも、不安は紛れてくれない。
そもそも一度消えたのに本当にいるのか。
自分の妄想ではないのか。
仮にいたとしても、この人混みの中からどうやって見つけるのか。
嫌な考えばかりが浮かび、僕は急いで頭を振って掻き消す。
必ず見つける。舞のことだから、きっと来ているはずだ。この人混みの中か、あるいはもう少し離れたところ……。
「あっ……」
そこでふと思い出し、僕はもう一度空を見上げる。
夏の夜空。大きくて色鮮やかな花火の数々が咲き誇る方向、だけではない。
動物園に行った時にも使った、人混みの中で舞を見つける方法、もとい僕らの取り決め。
川の上流に、下流の方向の空。
屋台が立ち並ぶ前方の道に、僕が今しがた人混みをかき分けてきた後方の道の上空。
あとは、花火とは正反対の真っ暗な夜空――。
「――こーら。スカートだから見ちゃダメって言ったのに」
聞き慣れた愛しい声が、すぐ近くの上方から聞こえた。
僕はさらに、泣きそうになった。
*
花火の音ばかりが響いていた。
周囲にいる誰もが夜空に咲く光の花に目をやり、ほとんど会話もせずに眺めている。
ある意味で、そこは静かだった。これだけ多くの人がいるのに視線は一点に集まり、大した声も発さずにぼんやりと空を見上げていた。
けれど、僕らだけはべつだった。
「振り向いちゃダメ、だからね。約束通り、一緒に花火を観ようよ」
耳元でささやかれる。息遣いなどの感触はなく、くすぐったさも感じなかった。
「……わかった。じゃあ、このまま話そう」
「話すの? せっかくの花火なのに」
「話すよ。じゃないと、花火が終わったと同時に、君は消えてしまいそうだから」
「……」
彼女から返事はなかった。その意味するところを察して、やはりと僕は思う。
彼女は、舞は、陽奈さんは、僕と最後に花火を観て終わりたかったんだろう。これ以上なくきれいで切ないお別れをして、そのまま本当に消えてしまうつもりだったに違いない。
でも僕は、そんなことを望んでいない。振り回されてなんか、やらない。
「ぜんぶ、ちさと姉から聞いたよ。事故のことも、ちさと姉との喧嘩別れのことも、進路のことも、ぜんぶ」
「そっか」
「それで君は、君の身体は、三年間も眠り続けている。いつ目覚めるのかわからない。だから、生きることを諦めて、未練を解消しようとしたの?」
「そうだねー。半分正解、かな?」
僕の問いかけに、彼女はクスリと短く笑った。
「凌の言う通り、最初は生きることを諦めて、未練を解消して消えたいって思ってた。毎日毎日、暗くて深い海の底みたいなところで、ずっと漂っている感覚なんだもん。起きたくても起きられない。力が入らないし、何もできない。いつもまでもこんな状態かもしれないって考えると怖くて怖くて、もう消えてしまいたいって思った」
内容に反して、彼女の声は穏やかだった。周囲では花火の破裂音が幾度となく響いているが、それに紛れないほどよく通る声だった。
「でも、私には心残りが二つあった。一つは、千里との喧嘩のこと。私が眠りについてから長い月日が経っているのはなんとなくわかってたから、すごく心配だった。消える前に、なんとしても千里には一度会いたかった」
そこで一度言葉は途切れた。夜空には、柳の花火が幾重にも重なって輝いていた。
「もうひとつはね、幸せな気持ちで消えたかったんだ」
暗い夏の空に、ひときわ大きな花火が打ち上げられた。
「怖さとか、寂しさとか、悲しさを抱えて消えるなんて嫌だった。私は、後悔のない人生を送りたかった。だから、千里と喧嘩になることを承知で大学も自分の行きたいところを選んだの。自分のやりたいことにうそをつきたくなかったから。そしてそれは昏睡状態になってからも同じで……私は、消える最期の一瞬まで幸せな気持ちで過ごしたかった」
ひとつふたつ、とクライマックスに向かう大きな花火が夜空を彩っていく。
「私は確かに生きることを諦めた。でも、同時に最後の最後までしっかり生き抜こうと強く想った。そうして気づいたら、私はすべての記憶を失くしてあの公園に立っていた」
視界いっぱいに広がっていたはずの光の花が、ふいに薄くなった。
舞がいた。
舞が、すぐそばに浮いていた。
長い黒髪も、垂れた二重の瞳も、白いニットに暗い緑のスカートという服装も変わっていない。
けれど、決定的に彼女の姿はこれまでと違っていた。
彼女は、舞は、それと見てわかるほどに透けていた。
「……っ、舞!」
思わず発した僕の叫びは、花火の音にかき消される。
聞こえたのか、聞こえていないのか。
彼女は、儚げに笑った。
「それから、ずっと公園の付近を彷徨ってた。私には何かしないといけないことがあるのはわかるのに、それが何かはわからない。自分が誰かもわからないし、見覚えがあるけどここがどこかもわからない。今だから言うけど、すごく寂しかった。心細かった。通りがかる人に話しかけても気づいてもらえないし、大きな声を出しても誰も見向きもしてくれない。それは、公園から離れて町に出ても同じ。たくさん人がいるところでも、誰も私には気づいてくれない。私を通り抜けて、みんな自分が行きたい場所へ歩いていくの。本当に、悲しかった」
舞の背後で、小さな花火が無数に咲いた。すべてが淡く、きれいに視界を覆った。
「でも、そんな私に気づいてくれる人が現れた。上からぼんやりと見下ろしてたら、気づいてくれた。二人は走って行っちゃったけど、一人は残ってお話ししてくれた。まあ実際は逃げ遅れただけだったみたいだけど、それでも私は嬉しかった。嬉しくて嬉しくて、変なテンションで喋ってた。強がって、明るく振舞ってたけど、本当は泣きそうなくらい嬉しかったんだ」
「舞……」
いつかの記憶が脳裏に浮かんだ。その記憶の彼女はどれも、笑っているように見えた。
「それからの日々は、これまでの悲しさがうそみたいに楽しかった。
あんなに寂しかった散歩が楽しくなった。
もっともっと話したくなって、二度と行かないって決めたカフェに行きたくなった。
心の奥底にしまっていた遊びたいって気持ちに正直になれた。
バンジージャンプも、動物園も、ピクニックも、ぜんぶ楽しかった。
それだけじゃない。未練の解消にも、前向きになれた。
正直に言うとね、ちょっとだけ怖かったんだ。未練を解消したら、きっと私は消える。消えちゃったら私自身はどうなるんだろう、どこへ行くんだろうって不安だったから。それに、この楽しい日々が終わっちゃうのも嫌だった。
でも、未練の解消が私と君を繋ぐ意味だったし、君といると不安も薄れてきて、きっと悪いことにはならないだろうって思えるようになった。君と一緒に楽しい時間を過ごして、その先に未練を解消して消えるなら、きっと幸せだろうなって思えたの。そしてそれは、間違いでも勘違いでもなかった。
私は今、とっても幸せだよ」
「……っ!」
舞は笑っていた。
記憶のどれとも違う笑顔だった。
その笑顔は異様なほどきれいで、僕の心をいともたやすく震わせた。
僕は舞の笑顔を、初めて嫌いだと思った。
「私は、もう充分。こんなに満たされて、幸せな気持ちを感じながら眠れるなんて思わなかった。凌のおかげだよ。今までたくさん振り回してごめんね。そして、ありがとう。たった二ヶ月程度だったけど、凌との思い出は私の一生の中でも最高の――」
「――勝手に終わらせてんじゃねーよっ!」
堪えきれずに僕は叫んだ。
「お前はいつもそうだ! 人の気持ちも都合も考えずに、一方的に自分の気持ちだけ押し付けて……ほんとなんなんだよ!」
花火の音に紛れないほどの声量に、周囲がざわついた気がした。けれど、構わない。
「最初に会った時も、僕が驚いて戸惑ってたのわかってただろ。なのに、名前をつけてとか、未練解消の手伝いをしてとか、自分のことばっかでさ。その後も、カフェとか人の多いところ行きたがるし、丘陵公園じゃあちこち走り回るし、バンジージャンプとかわけのわからない遊びに誘ってくるし、家にも勝手に付いてくるし、高校に行きたいとか言い出した時はすっごい悩んで考えたんだからな」
一度気持ちが溢れると、もう止まらなかった。
止まって、くれなかった。
「ほんと好奇心旺盛で、
いつも僕を振り回してきて、
自分勝手で、意地悪で、わがままで、
すぐいじってくるし、
からかってくるし、
飽きっぽいし、
すぐころころ態度変わってさ、
怒ってたかと思えば笑うし、
そんな笑顔にまた振り回されるし、
面倒くさかったはずなのに僕も楽しくなってきて、
舞ともっと一緒にいたいって思えてきて、
でも舞は幽霊で、未練を解消しないといつまでも迷子のままで、
悩んで、悩んで、悩んで、
舞との日々を思い出して、ようやく決意できたのに、
前向きに考えて、ようやく進めると思ったのに、
舞は勝手に消えて、勝手に現れて、また勝手に消えようとしていて、
僕の気持ちも、ちさと姉の気持ちも、行き場が無くて、
ほんとに、なんなんだよ……っ!」
「りょ、う……」
か細い声が聞こえたほうへ目を向ける。相変わらず花火は咲き続けているのに、その声ははっきりと聞こえた。
一方で、視界は滲んではっきりと見えない。
気配も感じられない。
花火の光が眩しすぎるからか、夏夜が暗すぎるからか、舞の姿もはっきりとは見えない。
でも彼女は確かにそこにいて、僕を見ていた。
だから僕は、ずっとしまっていた気持ちを声に乗せる。
「舞、僕は君が大好きだ」
もう遠慮とか、気遣いとか、どうでもよかった。
「僕は舞と、陽奈と、ずっと一緒にいたい。何気ない日々をもっと一緒に過ごしたい。
僕は君と、カフェで喋りたかった。一緒に飲んで、食べて、美味しいなって感想を言い合って、どうでもいい話をしたかった。
一緒に公園を散歩したかった。手を繋いで、君の感触を肌で感じたかった。
一緒にバンジージャンプがしたかった。宙づりになった君と、バカみたいに笑いたかった。
一緒に部屋で勉強とかしてみたかったし、ボウリングもカラオケもピクニックも一緒に隣ではしゃぎたかった。
一緒に動物園や水族館に行って、写真を撮って、お揃いのお土産とかを買って、思い出を共有したかった。
一緒に大学の構内を散策して、変なサークルに驚いたり、野外ステージに向かって叫んだりしたかった。
一緒に花火大会に来て、一緒に花火を観て、一緒に帰り道を歩きたかった」
「凌……もう、やめて」
「いやだ、やめない。振り回された分、今度は僕がわがままを言う。
僕は君に生きていてほしい。ずっと笑っていてほしい。
いつ目覚めるかわからないのだとしても、僕は君が目覚めるまで待ってる。あまりにも遅かったら、僕が医者になって君を叩き起こしに行く。
僕は君のことが大好きだから。
だから、君には生きて幸せになってほしい。
生きて、やりたいことを思う存分やってほしい。
そのためならなんだって協力するし、振り回されてもいい。
僕は君に……生きて、ずっとそばで、笑っていてほしいんだ」
「やめてっ!」
花火のフィナーレが夜空に広がる中、舞のひときわ大きな声が耳を衝いた。
ほとんど消えかかっていた彼女の姿が、すぐそこにあった。
僕の記憶では笑顔ばかりだったその顔には、涙が伝っていた。
「やめて、やめてよ……ひどいよ。私、ずっと我慢してたのに。ずっと頑張って耐えて、最後まで笑ってお別れしようって決めてたのに……どうして、そんなこと……」
「自分の気持ちに正直になるって決めたから。舞のおかげで、ね」
「ほんと、ひどすぎるよ……」
淡く透明な彼女の身体を包み込むようにして、僕は抱きしめる。
感触はない。あるはずの温もりも、息遣いも、匂いも、何もない。
けれど、確かに舞は僕の腕の中にいた。
「私は言わないよ、自分の気持ち。やりたかったことも、言わない。自分勝手で意地悪でわがままだから。だから、凌はずっと悩んで、いつか嫌になって、さっさと忘れてくれていいよ」
震える声で、舞は憎まれ口をこぼす。僕は笑ってやった。
「上等だ。ずっと悩んで、嫌になっても、絶対に忘れない。舞の、陽奈の気持ちは直接聞く。そして抱きしめてくれても、平手打ちでも、どんとこいだ」
「……また、私がすべてを忘れてるかもしれないよ?」
「その時は、またゼロから関係を築く。大丈夫だ。陽奈の魂である舞の性格はすべてわかってるから、絶対好きにさせてみせる。なんせ、僕が初めて舞を見つけたんだからな」
「あは、あははっ……こんなに強引だったかなあ、凌って。ほんと、バカだなあ。でも、そんな凌だからこそ、私は――」
その先の声は、聞こえなかった。
豪快な破裂音がひとつと、昼間のような明るさが会場を包み込むのと同時に、僕の腕の中にいた彼女が消えたのがわかった。
僕は黙って、流れ落ちていく光の筋を眺めていた。
きっと彼女は、陽奈は目を覚ます。
その時までに、僕がやれることはすべてやるつもりでいた。
それが僕のやりたいことで、僕の進みたい未来だから。
花火が消えた夏の夜空には、残滓の煙と明るい月だけが浮かんでいた。
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