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第三章 迷って、迷って、それでも
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「あたしと、付き合ってください」
快晴が続く七月の初週。
梅雨明け前だが雨の日はほぼなくなり、夏らしい高い青空が頭上に広がる高校の体育館横。
期末試験最後の科目が終わって解放感あふれる昼休みに、人気のないそんな場所に呼び出された僕は、あろうことか告白されていた。
「……えと」
自慢ではないが、僕は今までそんな青春イベントに巻き込まれたことはない。つい最近舞への恋心を自覚し、一種の恋煩いに陥ったのも経験の無さが原因のひとつだと思う。まあ、やや性質は違うかもしれないが。
ともかく、過去を振り返ってもそんな出来事が思い当たらない僕にとって、異性から告白されるというのは前代未聞レベルで緊張する場面なわけだ。
しかし、今は緊張よりも疑念や困惑が圧倒的に勝っていた。
目の前で僕に真剣な眼差しを向けてくる相手は、よく見知った顔だったから。
「美春、なんの冗談だ?」
苦笑交じりに僕は尋ねた。一方の美春はにこりともせずに、顔を赤くして言葉を続ける。
「冗談じゃないよ。本気で言ってる」
「……あ、どこかに一緒に付いてきてほしいってことか。いったいどこに――」
「じゃなくて、あたしと恋人関係になってほしいって言ってるの!」
美春はさらに顔を赤くして叫んだ。その声に驚いて、近くの木々から鳥が飛び立つ音がした。
「……あのな、今美春は透馬と付き合ってるんだぞ。いくら喧嘩中とはいえ、そういうことはやっちゃいけないだろ」
「透馬とは別れた」
「その言葉を僕が素直に信じると思う?」
透馬や美春とは十年以上の付き合いだ。二人とも意地っ張りなところがあるせいで、衝突することもそれなりに多かった。その度に僕は仲裁に入ったり愚痴を聞いたりしており、今美春が口にしている言葉が本心から言っているのか、はたまたただ上っ面だけのものなのかはなんとなくわかるのだ。そのことは美春もよくわかっているはずだが、彼女は変わらず僕を正面から見据えたまま口を開く。
「……そこは信じてもらうしかない。あたしはもう、透馬のことなんてなんとも思ってない」
「うそだな」
「うそじゃない!」
また美春は叫んだ。ぎゅっと目を瞑り、固く握られた両方の手は小さく震えている。自分に言い聞かせ、無理やり納得させようとしている時の美春だった。
僕は小さく息を吐いてから、努めて優しく話しかける。
「まあ、とりあえずいったん落ち着こう。いったい透馬と何があったんだ? この前ちさと姉と一緒だった時は、透馬とのことも考えて近くの大学でやりたいことをやるって言ってたじゃないか」
体育館へとつながるコンクリートの階段に腰かけ、美春にも隣を促す。ちょうど日陰になっていたからか、思っていた以上にそこはひんやりとしていた。
「……そうだよ。千里には反対されたけど、やっぱりあたしは透馬とのことも考えて、最初はそうしようと思ってた」
美春は素直に僕の隣に腰を下ろした。
「じゃあどうして」
「そのことを透馬に話したの。そしたら、めちゃくちゃ反対された。これでもかってくらい。理由も説明したけど、わかってもらえなかった。中途半端なことするなって。やりたいことがあるなら妥協せずにやれって。それで足かせになるくらいなら別れるし、もう会わないって」
先ほどと違って、美春の声はひどく落ち着いていた。いやむしろ、冷ややかにすら聞こえた。そこには、諦めの色が含まれているように思えた。
「透馬があたしの将来とかやりたいことを心配して言ってくれてるのはわかる。でも、それと同じくらいあたしは透馬との関係も大切だった。だからあたしなりに考えて、できる限り両方をとろうとしたら、中途半端だって言われた。妥協だって言われた」
冷たい声が微かに震える。
「これって、妥協なのかな。今の関係をできる限り大切にして、手の届く範囲で育んでいきたいって思うのは中途半端なのかな。もしかしたら、透馬にとっては恋愛とかってあんまり大切なことじゃないのかな。……そんなこと考えてたら、あたしは本当に透馬と付き合ったままでいいのか、わかんなくなった」
「……それで、僕に告白してきたと?」
「いや、ごめん。確かにそれは失礼だった。今もこうして、ちゃんとあたしの話を聞いてくれる凌ならきっと、そうした関係も大切にしてくれる人だって思って。寂しさとか悔しさとか悲しさとかがないまぜになって、きっと透馬への当てつけの気持ちとかもあって、勢い余って言っちゃいました。本当に、ごめんなさい」
美春は立ち上がると、地面が頭に付くんじゃないかと思うくらい頭を下げた。
「いや、なんとなくそういう感じなんだろうなって思ってたから、べつに気にしてはないけど」
「えー。さすが幼馴染とは思うけど、あたしってそんなに魅力ない?」
「あ、いや、そういうわけじゃ」
「あははっ、ジョーダンよ」
頭を上げた美春の顔は少しだけスッキリしていた。現状としては上々だろう。けれど、声にはやっぱり元気がないし、表情にも未だ陰がさしている。
これは、いつもの喧嘩じゃない。
僕自身にとっても他人事ではない美春の言葉を思い返しながら、僕は透馬に話を聞きにいこうと心に決めた。
昼休みが終わって美春とわかれ、身の入らない午後の授業を受けた放課後。
僕は、部活に行こうとしていた透馬を呼び止めた。
「珍しいな。いつもは俺が話しかける間もなくさっさと帰るのに」
彼は大仰に驚いてから、そんなことを言って笑った。
見る限りでは、美春とひと悶着以上の大喧嘩をしているようには思えない。今朝も期末試験の愚痴と合わせて美春との喧嘩について話していたが、その内容もこれまでと大差なかった。
どう美春のことを切り出そうか考えつつ、僕は空いていた隣の席に座る。
「まあ、期末試験も終わったから。ちょっと聞きたいことがあったんだけど、今時間いいか?」
「ぜんぜん大丈夫。試験明けで今日は軽く流すだけの自主練習だし」
小さく頷き、透馬は自分の机に寄りかかるようにして腰掛けた。なんとなく、部活や試験についての雑談をして近くのクラスメイトたちが帰るのを待ってから、僕は口火を切った。
「それで、話ってのは美春のことだ。ちょっと聞いたけど、かなり厳しく言ったらしいな」
「ああ、そのことか。確かに、それなりに厳しいことは言ったな」
なんてことないふうに透馬は答える。深刻に思い悩んでいた美春とは対照的な態度に、僕は少しだけ怒りに似た感情を覚えた。
「美春、結構堪えてたみたいだぞ。僕が口出すことじゃないかもしれないけど、恋人としてそれでいいのかよ」
「おお、ほんとに凌っぽくない忠告だな。どうした、恋煩いがようやく解決したのか?」
「茶化すな。そして話を逸らすな」
僕は机に座る透馬を真っ直ぐ見上げた。
透馬の言う通り、普段の僕ならここまで他人の関係に踏み込むことはしない。当事者間の問題だし、僕が入ることで余計にこじれると面倒だから。これまでも、基本は透馬や美春の愚痴を聞いてそれとなく思ったことを伝えるだけで、面と向かって相手の行動に疑問を投げかけることはしなかった。
でも、今回は勝手が違った。
理由のひとつは、幼馴染である透馬と美春の関係が実は危ないとわかったこと。この前のちさと姉も一緒にいたカフェでは大丈夫そうだと思ったが、どうも今は過去一でこじれているらしい。
だけど、それと同じくらい気になることがあった。
「ったく、わぁーったよ。なんだっけ、恋人としてそれでいいのか、だったか。ああ、いいよ。むしろ俺は敢えてあいつを突き放してるんだからな」
「それは知ってる。この前も、恋愛に気をとられてやりたいことを貫けないなんてダメだとか言ってたしな」
「そーいうこと。将来やりたいことがあるなら恋愛なんかよりそっちを優先すべきだ。俺との関係がその足かせになるくらいなら、きれいさっぱり別れたほうが絶対いいに決まって――」
「透馬。お前、本当にそう思ってるのか?」
いやに饒舌な透馬の言葉に被せるようにして僕は訊いた。
「美春のこと、好きなんだろ。結構前から喧嘩しただの別れただのと愚痴言ってたけど、なんだかんだ美春のことを想ってるからこそ出てくる言葉ばっかだったし」
「……だったらなんだよ」
「そんなに好きなら、なるべく一緒にいたいって思うのが普通じゃないのか?」
透馬はほぼ間違いなく美春のことが好きだ。肝試しの時の行動に加え、これまでの愚痴の端々からもそれはにじみ出ていたし、だからこそ僕も適当に聞き流していた。
でももしそうなら、普通は一緒にいたいと思うものじゃないだろうか。
「透馬の言いたいことはわかる。美春が最初に決めた大学がきっと一番美春の将来やりたいことに合っているんだろうし、そこを自分との関係のために諦めてほしくないっていうのも。でも、美春にとっては透馬との関係も同じくらい大切で、両方を上手く叶えられる可能性のある選択肢を見つけてきたなら、それを応援してもいいんじゃないのか?」
最初、美春のその選択を聞いた時、純粋に驚いた。
美春は将来やりたいことも透馬との関係も諦めていなかった。一切の妥協をすることなく調べ上げて、その時の自分が最良と思える選択肢を導いていた。
僕はといえば、将来やりたいことも舞との関係をどうすればいいのかもわからず、ただ足踏みして悩んでいた。べつにそれが無駄だったとは言わないが、美春のお手本のような行動力と芯の強さにただただ脱帽するしかなかった。
けれど透馬は、その選択肢を真っ向から反対したらしい。百歩譲って人生の先輩で従姉のちさと姉が言うならまだわかるが、当人で恋人である透馬が全面的に反対するのは意味がわからなかった。
「一緒にいられて、やりたいこともやれると美春が言ってるなら、せめて少し寄り添うくらいしてもいいんじゃないのか? いい加減、素直になれよ」
ひと息に言って、僕は席を立った。机に座っている透馬を正面から見据える。
説教くさいし、お節介だとは思う。お前に何がわかると言われても仕方ない。けれど、僕はどうしても言わなければならなかった。
言わなければ、僕の気持ちが収まらなかった。
一方の透馬は、黙ったままだった。
ただ静かに僕を見つめていた。
沈黙が流れる。数秒か、数分か。教室にはまだ数人が残っていて何やら談笑しているが、その声はどこか遠くに聞こえた。
「……ほんと、なーにがあったんだか」
「え?」
「いや、なんでも」
しばらくして、透馬は唐突に机から跳び下りた。そして、すぐ近くに置いてあった学校の指定鞄とボストンバッグを肩にかけると教室の出入口へ歩いていく。
「あ、おい」
「凌、お前の言うことにも一理あると思う」
慌てて追いかける僕に、透馬は一度立ち止まり、背中を向けたまま答えた。
「でもな、やっぱり俺は美春に悔いのない選択をしてほしい。そのためにも俺はやっぱり、美春と別れようと思う」
透馬は振り返ることなく、そのまま教室を出て行った。
「はあー……」
「もう、済んだことは仕方ないじゃん。凌は言いたいことは言えたんでしょ」
「そうなんだけど」
学校を出た後、僕は重い足を引きずるようにして銀杏並木の幽霊通りへと来ていた。
美春の言葉を聞き、透馬の態度を見てつい我慢できず、いつもなら踏み込まないようなところまで踏み込んでしまった。ここへ来るまでの道中で冷静になり、自己嫌悪に陥った僕は、いつもと様子が違うことを察せられた舞によって慰められていた。
「それで、その凌の友達は頑なに恋人と別れようとしていると」
「そうなんだよ。確かにあいつは頑固で意地っ張りな一面はあるけど基本優しいやつで、あんなに相手の言い分を聞かず、一方的に決めつけるようなことはしないと思ってたんだけどな」
「なるほどねー」
舞は何やら考えるように、空中に浮いたまま器用に空を見上げた。
僕らが今いるのは、幽霊通りのすぐ隣にある桃坂公園の中だ。公園内は誰もおらず、僕はややみっともないまでに脱力してベンチにもたれかかっている。彼女の動きにつられるようにして空を仰ぐと、僕の心とは対照的な青空が視界に広がった。
「それで、凌はこの後どうしたいの?」
「どうって」
「自分の言ったことを取り消したいとか、謝りたいとか」
舞の言葉に、僕は空を見上げたまま少し考える。答えはすぐ出た。
「いや、言い過ぎたかなとは思うけど、僕は言ったことに後悔してないし、間違ってたとも思わない」
「うんうん」
「だからそうだな、やっぱり二人には仲直りしてほしいかな。それから、今後どうするかについて冷静に話し合ってほしい。そのうえで決めたことなら仕方ないし」
改めて思い出すと、確か透馬と美春の喧嘩は遠距離でのルール決めから始まったと言っていた。そこから進路の話にまで飛び火してこじれ、今みたいな状況に陥っている。
僕は二人の話し合いのところは見ていないが、あの様子からすると喧嘩の勢いや感情に任せて言い合いをしている可能性が高い。もしそうなら話がまとまるはずがないし、お互いの言いたいことも上手く伝わっていないだろう。
「うん、そうだ。二人にはまず仲直りして、冷静になってもらわないとな」
思考がまとまり、僕は放り出していた足を地につけ立ち上がろうとした。
「あ、でも……どうやればいいんだろ」
続いて降ってきた課題に一気に腰が重くなる。二人を引き合わせたところで言い合いになったら元も子もないし、さらに険悪になってそのままそこでサヨナラなんてなったら目も当てられない。作戦は慎重に立てる必要がありそうだった。
「んふふふっ。お客さん、私にとーってもいい考えがあるんですがっ」
頭を抱えていたところへ、いやに芝居がかった声が降ってきた。顔をあげて彼女のほうを見ると、悪戯っぽく口元を吊り上げた顔がすぐそばにあった。
「今ならそうですね~、私のお願いをなんでもひとつきいてくれるだけでとーってもいい考えが聞けちゃいますよ~。どうです? 聞きます? 買います? さあ、今すぐ決めてください!」
「やめとく」
「お買い上げありがとーございまーす!」
「人の話を聞け」
僕のツッコミも虚しく、舞は押し売りした「とーってもいい考え」を話し始めた。
*
数日後の放課後。
茜色の空の下、僕はひとり学校の裏門前に佇んでいた。
裏門のあるところは人通りの少ない住宅街の小道に続いている。駅からも正反対でここを使う生徒は少なく、今も周囲には誰もいない。また裏門の正面は空き地になっており、多少声を荒らげても迷惑はかからないだろう。
つまりここなら、喧嘩っぽくなっても大丈夫だ。
さらに付け加えるなら、幽霊が出てきても不思議はない雰囲気の場所、のはずだ。
「……いや、心霊スポットじゃあるまいしそれはないか」
そもそも心霊スポットでさえ実際に幽霊が出てくることはまずない。舞と一緒にいるせいでどうも感覚が鈍っているが、幽霊が出ること自体、本来は不思議であり恐怖だ。
まあだからこそ、この作戦が成り立つわけだが。
空を見上げる。作戦を考え出した当事者の姿は見えないが、近くにいるか、あるいはこちらに向かっている頃だろう。なんせ、透馬と美春を素直かつ冷静にさせるためのこの作戦において、必要不可欠な存在なのだから。
数日前に舞から聞いた「とーってもいい考え」は、それはそれは至極単純なものだった。
まず僕が透馬と美春を学校の裏門に呼び出す。
時間帯は幽霊が出そうな夕方から夜がいいということだったから、あえて部活のある日に、それぞれに部活が終わったら来てほしいと言っておいた。あの日以来、透馬とも美春ともなんとなく疎遠になっていたが、時間をおいて二人にも思うところができたのか、意外にもあっさり了承してくれた。
そして二人が来たところで話し合いをさせる。そこで解決すれば御の字。解決せず喧嘩になれば、僕の合図で舞が飛び出して二人を怖がらせ、逃げ出すように仕向ける。あとは窮地を脱した後の素直な心で話し合ってもらうだけだ。
そうつまり、喧嘩しているところへ幽霊騒ぎで逃げ出させ、毒気を抜いた素の気持ちで再度話し合ってもらおう作戦、だ。
「初めて私と遭遇した時、あの二人は一目散に逃げ出してた。凌は気づいていなかったと思うけど、あの時二人は手を繋いで逃げてたんだよ。しかも、男の子のほうは女の子を庇うようにしてたの! ピンチの時は素の気持ちが咄嗟の行動として出るらしいし、そのピンチのあとなら素直な話し合いができるはず。だから、この作戦はきっと上手くいくと思うの!」
「んーそう上手くいくかなー」
「きっと、いや、ぜっったいに大丈夫!」
「その羨ましいほどの自信はどこから出てくるんだよ」
そうしてなし崩し的に決まった作戦は、数日間の下見と会議を経て、本日実行に移すこととなった。
ただし、この作戦は最終手段だ。普通の話し合いで解決するならそれに越したことはない。そのためにも、今回二人を呼び出す時には僕なりにひと工夫凝らしていた。
そもそもここまで喧嘩がこじれている原因は、美春が感情的になりやすいというのもさることながら、透馬がなかなか素直に自分の気持ちを言わないという点にある。相手にとって最善だと判断すれば、自分の気持ちにも蓋をしてしまう困ったやつなのだ。
だから、まずは透馬の本心を引き出す必要がある。ただ美春がいると口が重くなりかねないので、僕と二人きりで話をするところから始める。本人がいないところでなら、愚痴と同じように本心も言いやすいだろうから。
まあもっとも、美春には事前にその旨は伝え、裏門の陰に隠れて僕らの会話を聞いていてもらうのだが。すまない、透馬。
頭の中で幼馴染への謝罪と作戦の過程を反芻していると、近くにあった街灯に灯りがついた。遠くで午後六時を知らせる音楽が流れており、もうしばらくすれば透馬が来る時間だ。
「それにしても、舞様様だな」
未だ人っ子ひとり通らない裏門前の小道で小さく独り言ちる。
今回の作戦は、僕は当初あまり気が乗らなかった。なぜなら、舞を見て逃げ出すという嫌われ者のような、舞を傷つけるような作戦だったからだ。
けれど、僕の懸念に舞は、「それこそが幽霊の本分だよ」と笑って取り合ってくれなかった。そればかりか、この仲直りのための作戦はどうしても自分もやりたいと言い張った。これも、自分の未練を解消するのに必要なことなのだと。
あの動物園以来、僕はなるべく舞と一緒に時間を過ごした。試験期間中もなるべく舞のところへ行くようにしたし、試験直前の土日も今までだったら両日引きこもって勉強をしていただろうが、今回は片方を舞との時間にあてた。
舞の未練は、未だにはっきりとはわかっていない。
僕の通う高校の生徒であったこと。進路や桃坂公園に関する内容であること。あとは、なぜかあちこちへ行きたがること。それくらいだ。
一応、僕なりに舞のことを調べようとはしてみた。ただ本名がわからないので高校でも調べようがないし、事故や事件も可能な限りあたってみたが、生徒が亡くなったなどそれらしいものはなかった。
銀杏並木の幽霊通りの噂も透馬が言っていたこと以上のものはなかったし、あの通りにあった死亡事故も調べてみたがそもそもの情報が少なく、完全に手詰まり状態だった。
「どうしたもんかな」
舞とは少しでも一緒にいたい。僕の気持ちを伝えることはしないし、舞が僕をどう思っているのかも訊かない。ただこうして、一緒に過ごす時間を大切にしていきたい。
でも一方で、舞には未練を解消してほしい。
未練とは諦め切れない気持ちだ。幽霊となって成仏できずに彷徨うほどの未練なんて、ずっと残しておくべきじゃない。舞には辛い思いをしてほしくない。だから僕は、なるべく早く彼女の未練を晴らしたい。
少しでも長く一緒にいて、少しでも早くお別れをしたい。
これが今、僕のしたいことだ――。
「よーっす、凌。待たせたな」
思考の外から待ちわびた声が聞こえたのは、茜色の空が紫色に変わった頃だった。
薄暗い住宅街脇の小道で、僕は手元のスマホに目を落とした。
時刻は、十八時十五分。
「早いな、透馬」
「十五分前行動は基本だよ。一応、運動部だからな」
「そんなもんかね」
美春は確か二十分過ぎになると言っていた。本心を聞き出す前の鉢合わせを避けるため、美春には裏門に来たら僕に話しかけることなく近くの物陰に隠れていてほしいと伝えたのだが、どうやら正解だったらしい。
「それで、話ってなんだ?」
「いきなりだな」
「そりゃお前がこんなところに呼び出すくらいだから、よっぽどなんだろ。おおよその察しはついているけどな」
透馬は肩にかけていた大きなボストンバッグを地面に下ろすと、そこからペットボトルを取り出してひと息にあおった。
その間に僕は思考を巡らせる。話をすぐに進めて美春が聞いていないとなる事態はできれば避けたい。どうにかして、少し無駄話をする必要がある。
「にしても最近めっちゃ暑いな。今日の部活も汗ダラダラだったわ」
すると都合よく、透馬の話題が脇に逸れた。よく脱線しがちな透馬の話だが、今だけはありがたい。僕はここぞとばかりに乗る。
「ああ、猛暑を通り越して酷暑らしいからな」
「マジで昔の根性論時代じゃなくて良かったわ。水飲むなとか言われたら軽く死ねる」
「僕ならこの暑さの中スポーツした段階で瀕死だろうけどな」
「お前さ、いくらまだ高校生だからって運動はしたほうがいいぞ。どうせいつも引きこもって勉強ばかりしてんだろ」
「うるさいな。僕だって外出くらいするぞ」
「へえー。あれか、噂の好きな人か?」
「は?」
どうでもいい話を続けていたところへ、思いがけない質問が飛んできた。
「いやな、同じ部活の友達から聞いたんだけど、凌によく似たやつが動物園にいたって聞いてさ。人混みがすごくてよく見えなかったらしいけど、なんか楽しそうに笑って歩いてたからあれは絶対恋人とか好きな人とデートだろって言ってたぞ」
「待て待て。それは誤解だ。僕はべつにデートで動物園に行ったわけじゃ」
「へえ~。動物園には行ったわけだ」
小憎らしい笑みを浮かべて、透馬は僕を見た。
完全に想定外の展開。今すぐにでも話を誤魔化してこの場から立ち去りたい衝動に駆られた。でも、今はそんなことをするわけにはいかない。
「……っ。ああ、行ったよ。行ったけど、それは今僕がしたい話とは関係ない」
「……まっ、そうだろうな。それで、話ってのはこの前のあれだろ、美春とのことだろ?」
「ああ、そうだ」
チラリとスマホを見ると、既に二十分は過ぎていた。もう話を進めても大丈夫だろう。
「まあ、俺もいつかは話さないととは思ってたからな。あれ以来凌ともあんまり話せてないし、そういうギクシャクしたの俺あんまり好きじゃないから、全部言うよ」
「それは、僕もありがたいな」
「ああ。だから、美春を呼んでくれよ。どうせ近くに来てんだろ」
僕は驚きのあまり思わず目を見開く。
「なんで」
「そりゃわかるって。何年幼馴染してると思ってんだ。チラチラとスマホで時間気にしてるし、集合場所にこんな人気のないところを選ぶあたり、俺と美春が喧嘩してもいいようにって配慮だろ。それなのに美春がいないんだから、近くにいて俺たちの話を聞いてるってことくらいわかる」
半ば得意げに、半ば呆れ気味に透馬は説明した。自分に向けられた気持ちには察しが悪いくせに、こういう時だけ異様に鋭いのはどうなんだろうか。
「……ったく、あたしからの気持ちは気づいてくれない朴念仁のくせに、なんでそういうところだけ妙に鋭いのよ」
「美春……」
僕が呼ぶ前に、美春は裏門の陰から姿を現した。不満げに顔をしかめながら、僕が思ったのと同じような感想を言うあたり、長年腐れ縁で結ばれた幼馴染ということなんだろう。
「はっ、やっぱりいたか」
「うるさい。透馬がいつまで経っても自分の本当の気持ちを言ってくれないからじゃない。いつもいつもあたしの進路のことばかりで、透馬が本当はどうしたいのか、あたしのことをどう思ってるのか、全然わからない」
「ああ、だから、それを今から言う」
言い合いになりそうな雰囲気にハラハラしている僕の傍ら、透馬はゆっくりと口を開いた。
「実は、俺の母さんがそれなりに大きな病気を患ってて、ずっと入院してるんだ」
「え?」
「透馬の、お母さんが?」
突然の言葉に僕と美春は面食らう。
透馬のお母さんには小さい頃からよくしてもらった。確か洋菓子店で働いていて、透馬の家に遊びに行った時はよくお店の余りらしいケーキをご馳走してもらった記憶がある。とても優しそうに笑っていた透馬のお母さんが、大きな病気で入院している?
「ああ、ちなみに命に別状はないから安心してほしい。ただ、今後の病状次第じゃ大がかりな手術とかもしないとで、父さんはそのために夜遅くまで仕事をしていて基本家にいない。俺んちは下に二人いて、家事とかは分担してやってる。本当は部活とかしてる場合じゃないんだけど、父さんも母さんもやめるなって言ってくれて、なんとかやってる状態なんだ」
「そんな……」
「まあ、そこまではいい。本題はここからだ」
透馬はそこで、一度深呼吸をした。
「俺は大学に行ったら、部活やサークルはもちろん、ほとんど遊ばずにバイトばかりするつもりだ。子どもの俺に心配かけないためか教えてくれないけど、きっと入院費や治療費はバカにならない。そこに俺の学費とか家族の生活費とか、さすがに俺も何かしないと気が変になる。だから、俺はもう美春とほとんど一緒にいられなくなると思う」
「だったら余計にだよ! あたしも近くにいて、透馬を支え――」
「だからこそだよっ!」
美春のすがるような声を透馬は一蹴した。僕は何も言えずにいた。
「一緒にいられないだけならまだいい。でも美春は、今みたいに俺のことを気にかけて、あまつさえ支えてくれようとする。その気持ちは嬉しい。でもそれは、美春のやりたいことにかける時間も奪いかねない。俺は、それが耐えられない。それなら遠い県外で、一生懸命自分のやりたいことをしてほしい。俺の分まで、頑張ってほしい」
「とう、ま……」
「それに、俺は元々そこまでやりたいことがあったわけじゃない。多分、家のこと抜きで普通に進学してても適当に過ごしただけだと思う。美春とは、釣り合えてないよ」
「そんなこと――」
「あるんだ。そんなこと、ある。俺が嫌なんだ。そんなわけで、俺は美春と別れたい。美春は、俺とのことは過去にして、やりたいことを一心に頑張ってほしい」
透馬はそこで言葉を区切った。辺りはすっかり日が暮れ、どこかで知らない虫が鳴いていた。
想定外だった。透馬が今、そこまでの事情を抱えていたことは驚愕でしかなかった。まったくそんな素振りを見せず、毎日何気なく笑って、いつも通り接していたというのか。何も知らずに言いたいことだけを言った僕の行動が、独りよがりに思えてならなかった。
「なあ透馬、その、この前のことだけど……」
「ああ、べつに謝ったりしなくていいぞ。凌のあの言葉で、俺もしっかり言わないとって思えたんだからな。だから、ありがとな」
透馬らしい快活な笑みを浮かべて、彼はそんなことを言った。こういう優しさのあるやつで、そこは微塵も変わっていなかった。
「ねぇ透馬。もしかして、あちこちであたしの愚痴を言いまくっていたのも、これが理由?」
今度は美春が口を開いた。僕よりも少し離れた位置にいた美春だったが、いつの間にか透馬のそばに立っていた。
「ああ、そうだ。本当は美春に嫌われようとしたんだけど、上手くいかなかった。やっぱこういう策略みたいなのは俺には向かないな。はははっ」
「笑い事じゃない!」
ぴしゃりと美春は言い放つ。
「あたし、すごく不安だった。愚痴はべつにいいんだけど、透馬がどうしてそんなに頑なにあたしの提案に反対してくるのかわからなかったから」
「そうだな、ごめん。こんな理由言ったら、美春は離れてくれないと思ったから」
「なんだ、わかってるじゃん。あたしは離れないよ」
「美春、それは……」
「それにあたし、まだ聞かせてもらってない」
美春が透馬にさらに一歩近づいた。その視線の先は、真っ直ぐ透馬に留められている。
「なにを」
「透馬はあたしとの関係を、本当はどうしたいのか」
「いや何言ってんだ。だからそれは今――」
「違う!」
美春は叫んだ。
「さっきから透馬が言ってるのは、自分の周囲に理由を付けたうえでの気持ちじゃん。あたしの時間を奪うからだとか、あたしとの釣り合いだとか、そんなことはどうだっていい。そういうことを抜きにして、透馬自身はどうしたいの。透馬はあたしのことが、嫌いなの?」
「それは……」
「あたしは将来、食品関係の会社に入りたいと思ってる。そのために、栄養とかデザインとか企画とか経営とかいろいろ勉強したくて大学に行きたいの。でもそれは、そう思うようになったのは……透馬がきっかけなの」
美春は透馬にほとんどしがみつくようにして抱きついた。肩が小さく震えている。
「透馬、昔からサッカーとかバスケとかよく運動してて、お腹減るからお菓子とか結構食べてたよね。目をキラキラさせて選ぶ様子とか、心から美味しそうに食べてる表情とか本当に好きだったし、今だって好き。だからあたしは、食品関係の道に進もうって思ったの」
「美春……」
「でも、こんなふうに別れちゃったら、あたしは頑張れない。だって、あたしはあたしが関わったお菓子を食べて笑う透馬が見たいから。あたしは、透馬が大好きだから。だからやっぱり、離れたくない。別れたくない。あたしは絶対に透馬を支えて、自分の夢も叶えてみせる。それがあたしの決意。だから透馬も、本当の気持ちを……わわっ」
言い切る前に、透馬は美春を抱き寄せた。その拍子に美春の鞄が地面に落ち、小さな物音を立てた。
「ごめん、ごめん美春。確かに俺は、周囲に言い訳を作ってた。それを抜きにして考えたら、答えは決まってるのに」
「うん……」
「でも、いいのか? 間違いなく俺は構ってやれなくなるし、疲れたり落ち込んだりと嫌な一面を見せることも多くなるかもだぞ」
「もう、何を今さら。何年来の付き合いだと思ってるのよ」
すっかりと陽が暮れた暗がりで、淡い街灯の光が二人を照らしていた。もう完全に置いてけぼりだ。まあ最終手段を使わずにいい感じに落ち着いてくれたみたいだし、結果オーライといったところだろう……
「ちょっと、凌」
「え?」
そこへ背後からささやくような声が聞こえた。振り返ると、すぐ近くで舞がふわふわと浮いていた。
「静かに。声を出さない。ほら、こっそり立ち去るよ。いつまで人の恋路を眺めてるの」
「あ、確かに――」
「しーっ」
舞に口をふさがれる。といっても、感触はないのであまり意味はない。
ただ彼女の言うことはもっともなので、僕は気づかれないように足音を忍ばせて一番近くにあった脇道へと入った。
「いやーうまく落ち着いたみたいで良かったね!」
ぽつぽつと街灯があるばかりの脇道に入ってしばらくすると、舞がようやくといった様子で笑いかけてきた。僕もホッと安堵の息をつく。
「ああ。最初はどうなることかと思ったけど」
「あははっ、ほんとだよ~。凌の考えてること、ぜーんぶお見通しだったみたいだし」
「うるさいなー。というか聞いてたのかよ」
姿は見えなかったが、どうやら一通りは見ていたらしい。普段よく一緒にいる僕でさえわからなかったのだから、さすが幽霊というべきか。
「もちろん聞いてたし見てたよー。二人が来る前に、凌が私のことを思い出してたそがれてたところからバッチリ!」
「あーはいはい、最初からいたわけね。仮に作戦通りだったとしても支障がなかったようで何より……」
人がまったくいない小道を舞と並んで歩きつつ、彼女の軽口をいなそうとして、僕ははたと気づいた。
最初から? ということは、まさか透馬とのあのやりとりも……?
「なあ、舞」
「ん? なーに?」
呼びかけると、彼女はふわりと翻り僕の前に回り込んできた。純真無垢な目で見つめてくる舞。どうしようもなく鼓動が早くなる。
「……この作戦の交換条件、舞のお願いをなんでもひとつきく、だったか」
「えっ、きいてくれるの! 私特に何もしてないけど」
「まあ約束だからな」
動物園に関するやりとりについて訊こうとして、やめた。
きっとあの話は舞も聞いていたはずで、からかうのが好きな彼女が口にしないのであれば僕もしない。そこにどんな意味があるのかは……。
「よーっし、じゃあ私のお願いを三つきいてっていう内容で!」
「おい待て、なんだそのセコい内容は」
そこに意味が、あるのだろうか?
目の前でくるくるくると踊りはしゃぐ舞を見ていると、案外べつのことに気をとられてただ聞いていなかったんじゃないかとすら思えてくる。
「まっ、三つきいては冗談として、実は行きたいところがあるんだ」
「行きたいところ?」
僕は首を傾げる。それは、いつもと一緒ではないだろうか。
「そそっ。未練が進路に関することみたいだから、大学に行ってみたいなって。確か、わりと近くにあったよね。それと、あそこにも!」
舞はくるりと空中で方向を変え、近くに立っていた掲示板を指差した。
そこには、夜空に輝く花火のイラストが描かれたポスターが貼られていた。
「花火大会、か?」
「うん。せっかくの夏だし!」
色鮮やかなポスターの前で華麗に一回りする舞を一瞥してから、改めてポスターを見やる。
そのいかにも夏らしいポスターは、毎年冬見町の河川敷で行われる小さな花火大会のものだった。小学生の頃は両親に連れられて、中学生になってからは透馬と美春と行っていた。高校に上がってからは二人が付き合ったこともあって遠慮し、僕は一度も行っていない。
「ね、近くでやるんだし行かないともったいないよ! 一緒に行こっ?」
まるで花火みたいな笑顔を咲かせる舞にドキリとする。今の僕では、この笑顔で頼まれて断れるはずもなく。
「わかった、わかったよ。花火大会と大学ね。どうせいつもあちこち行ってるんだし、それくらいは普通にきいてやるよ」
「わーい、やったーっ!」
夜の住宅街。僕にしか聞こえない大声で騒ぐ舞を見つめる。
「後悔しないように、だしな」
「え?」
「なんでもない。行こう」
花火大会のポスターを横目に、僕らは帰路へとついた。
*
冬見町近辺の大学といえば、電車とバスを乗り継いで一時間ほどいったところに国立の大学がある。この辺りではそこそこ名が通っており、県内大学への進学を目指している生徒の大半が目標としている大学だ。ちなみに、ちさと姉が通っている大学でもある。
そんな、一般開放もされている比較的身近な大学の構内に、僕と舞は訪れていた。
「おお~ここが大学か~!」
舞が感嘆の声を漏らした。
僕自身、受験情報やら学芸祭やらについてはよく耳にはしていたが、実際に来たことはなかった。きょろきょろと視線を移ろわせる彼女につられるように、僕もゆっくりと辺りを見渡す。
大学構内は思った以上に緑に覆われていた。丘を切り開いて建てられており、大学周囲はもちろん、中もちょっとした森みたいになっている。土曜日だからか人は少なく、サークル活動をしていると思しき大学生や、公園代わりに散歩している家族連れがいるばかりだ。
「僕も初めてきたけど、結構広いな」
「ねっ、これはあれだね!」
「あれって?」
「思う存分飛び回れるね!」
「それはお前だけだ」
進路に関わるからと来てみたが、相変わらずのようだった。実に舞らしい。
「それで、どこに行くんだ?」
「んーとねー」
舞は近くに立っている看板の前へふよふよと移動した。僕もその後を追い、彼女と同じように見上げる。
僕の身長の倍ほどもある看板は、大学の構内図だった。随分と古ぼけており、雨風にさらされた影響か所々が錆びている。スマホが普及したこのご時世、見る人もほとんどいないんだろう。
「今私たちがいるのはこの辺だよね」
そう言って舞は赤丸で示された地点を指差した。
「そうだな。この近くにある建物は、サークル棟に体育館、あとは売店か」
「サークル棟に潜り込んでみる?」
「土曜日の昼だぞ。絶対大学生がたくさんいるから嫌だ」
ちさと姉から聞いた話だが、サークル棟には文化系のサークルが集められており、平日はもちろん、特に土日に本格的な活動をしているところが多いらしい。そんなところに男子高校生がひとりで乗り込もうものなら、囲まれていじられるのがオチだ。
「ちぇー。オカルト研究部みたいなのがあったら化けて出ようと思ったのに」
「ちょっとした騒ぎになるからやめろ」
口を尖らせる舞に呆れた視線を送ってから、改めて構内図を眺める。
もう少し奥に行くと、A棟やらB棟やらとアルファベットが振られた棟が並んでいるようだった。きっとこの棟で大学の講義なんかをしているんだろう。あとは図書館やら研究棟やら学部専用棟なんかがあり、図書館は確か受付をすれば誰でも蔵書を読むことができるとちさと姉が言っていた気がする。
大学って、こんなところなんだな。
構内図を見ながら、僕はふと思った。ちさと姉から話を聞いたり、オープンキャンパスに行ったらしい友達から画像を見せてもらったりしたことはあるが、自分で行こうと思ったことはなかったし、実際に行ったこともなかった。
それが今、僕は進路に未練を残した幽霊に連れられ、大学に来ている。なんて皮肉だ。
「よーし! とりあえず適当にぶらつこう!」
「ぶらつくだけなのにそのテンションで言えるのほんとすごいな」
いつものように、僕は舞のあとを追って歩き始めた。
構内図のあった入り口付近から中へ入っていくと、夏らしい蝉時雨に出迎えられた。
石畳で覆われた幅広な道の両脇には背の高い木々が列をなしており、まるでトンネルのようになっている。夏の日差しが所々から漏れており、淡い陽だまりがいくつもできていた。
「夏だね~」
「ああ、ほんと暑いな」
「どう? ここはひとつ、怪談話でも!」
「怪談? 幽霊が? 昼に?」
ツッコミどころしかない。
「もう。そんな細かいことをいちいち気にしてたらモテないよ!」
「細かくないし、それにいいんだよモテなくて」
見当違いな彼女の言葉に、僕は肩をすくめた。モテるなんて面倒だし、どう考えても疲れるだけだ。僕には狭くてそこそこの深さの交友関係で十分すぎる。
けれど、彼女はいつものように引くことはせず、意地の悪い笑みを浮かべた。
「そんなこと言って~。それこそこの前の凌の友達じゃないけど、普通高校生なら恋愛のひとつやふたつしてるもんじゃないの?」
「まあ、そうかもな」
舞の言う通りだ。普通の高校生なら恋愛くらいしているし、かくいう僕も類に漏れない。ただ、想いを向ける相手がちょっと……いや、かなり変わっているだけだ。もちろん、口には出さないけれど。
「まーたそうやって適当に誤魔化す。まあいいけど。そういえば、凌の友達はあの後大丈夫だったの?」
「ああ、まったく問題なし。あんなに喧嘩してたのに、次の日会った時は仲良さそうに手繋いで登校してきたよ」
あの日の翌日に生徒玄関で出くわした時を思い出す。僕が靴を履き替えていると、いやに明るい声が後ろから投げかけられた。何の気はなしに振り返ったら実に幸せそうな表情をした二人組が立っていたのだから、僕の呆れようといったらそれはもう過去最大レベルだった。
「へえー手を繋いでかー。ラブラブだね~」
「ほんと。見てるこっちが胸焼けしそうだ」
ちらっと聞いたところでは、進路についてはまだ答えは出せていないらしい。遠距離恋愛をするか、比較的近い大学にするかはこれからしっかり話し合って決めるのだそうだ。あれだけぶつかり合って仲直りして話し合うのだから、きっと大丈夫だろう。
そんなことも含めて舞に話すと、彼女も満面の笑みを浮かべてくれた。
「ほんとありがとうな、協力してくれて」
「えええ、どうしたの急に」
「いや、僕だけじゃきっとこんなに早く解決できなかっただろうな、って思ってさ。もしかしたら、こじれにこじれて修復不可能なところまで行ってたかもしれないし」
「えーそんなことないと思うけど。協力したいって言ったのは私からだし、気にしすぎないで。それに、凌に素直にお礼言われるとなんか身体のあちこちがくすぐったい!」
舞は本当にくすぐったそうに空中でくねくねと悶えている。いつもなら「幽霊にくすぐったい感覚なんてあるのかよ」と軽口を投げているところだが、今回は勘弁してやることにした。感謝の気持ちに免じて。
……そういえば。
そこでふと、ひとつの疑問が生じた。
「そういやさ、単純な疑問なんだけど、なんで舞は僕の友達の仲直りに協力してくれたんだ?」
「え?」
「いやほら、作戦を考えている時、舞が嫌な役回りをするの止めたけど、舞は絶対譲らなかっただろ。なんでそこまで協力してくれたのかなって思って」
結局実行しなかったが、あの作戦について僕はかなり反対した。けれど舞は頑として譲らず、これも未練解消のためなのだと言ってくれた。
でも、これは僕に気を遣わせないための建前だと思っている。確かに透馬と美春の喧嘩については進路も絡んでいるが、舞の未練とは直接関係がない。そんなことに、わざわざ損な役回りを引き受けてまで協力してくれたのはどうしてだろう。
僕の言葉に、舞はしばらく空を見上げていた。
何かを考えているようだった。
やがて理由が決まったのか、彼女は視線を青い夏空から僕へと移した。
「あのね、大した理由はほんとなくて、ただ私も協力したいって思ったからなんだよね」
「え?」
驚いて、今度は僕が聞き返した。
「もちろん、いつも一緒にいてくれる凌が困ってたからっていうのもあるんだけど、本当に未練解消に必要なことだと思ったんだ。どうしてかは、わからないけど」
「それって――」
「あーっ! みて! なんか野外演奏してるよ!」
僕が最後まで言い切る前に、舞は何か見つけたらしく一目散に駆けていった。どこかそれはわざとらしい感じがして、否が応でも察してしまう。
きっと舞は、だいぶ記憶を取り戻しつつある。
正確には、自分の未練が何なのかをわかり始めている。
僕にそれを言わないのは、未練を解消した時にどうなるかわかっているからだろうか。その結末を、察してしまっているからだろうか。
あるいは、単純にまだ自信がないからだろうか。
……わからない。
ただどちらにしろ、僕らの関係は遠くない未来に変わるんだろう。
「たとえ、それでも……」
僕は舞が駆けていった野外ステージのある広場へと足を向ける。足取りは先ほどよりも重い。当然と言えば当然で、それが僕の心の奥底にある感情だ。
でも。それでも。たとえ別れが近いとしても、僕は最後まで舞の未練解消に協力する。
それが、僕が舞にできる唯一のことだから。
好きだからこそ、僕は舞に――。
「あら、凌くん?」
軽音サークルらしき面々が演奏している広場へ入ろうとして、後ろから声をかけられた。最近も聞いた、よく知った声だ。
「ちさと姉?」
歓声のあがる広場の前で、幼馴染の従姉のお姉さんは大人っぽく微笑んでいた。
「いやーびっくりしちゃった。まさか大学で凌くんと会うなんて」
「僕もまさか土曜日にちさと姉に会うなんて思わなかったよ」
立ち話もなんだからと、僕はちさと姉に促されるまま広場の縁に置かれたベンチに腰を下ろした。
広場の中央にある野外ステージでは既に次の曲が演奏されており、かなりの盛り上がりを見せている。
ちなみに、舞はステージ近くのところで観客に混じって楽しんでいるようだった。演奏中ということもあってか、あるいは見えていないのかはわからないが誰も気にしていないようで、ひとまずホッと胸を撫で下ろした。
「それで、急にどうしたの? 来てくれるなら一言連絡してくれても良かったのに」
視線はステージに留めたまま、ちさと姉は少し不満そうに訊いてきた。
「いや、ちょっと急に気が向いたから。勉強も煮詰まってたし、それに受験生だし、近くの大学の雰囲気くらいは見ておこうと思ってさ」
ちさと姉に出くわしてから席に着くまでに考え出した言い訳を並べる。
「へぇーここ受けるの?」
「いや、まだわかんないけど」
「そっか。受けるってなった時こそは連絡してね。凌くんならいらない気もするけど、一応私が使ってた過去問とかあげるから」
「うん、ありがと」
この大学を受験するかは正直微妙なところだ。地元の大学だし家からも通いやすいが、むしろそれ以外のメリットはない。偏差値的にはそこそこ上だが行きたい学部があるわけでもなく、適当な理由で進路希望調査票に書けば先生から苦い顔をされるだけだろう。
僕が内心でちさと姉の好意に謝っていると、ふいにちさと姉が思い出したような声をあげた。
「そういえば聞いたよ! 美春ちゃんと透馬くんの件、凌くんのおかげで上手く仲直りできたんだって?」
「そんなたいしたことしてないよ。僕はただ二人を裏門に呼び出しただけだし」
きっと美春がちさと姉に伝えたんだろう。僕が事前に仕組んだ聞き耳作戦は透馬に見透かされたし、あの場を設けるきっかけをくれたのは舞だ。本当に僕はたいしたことはしていない。
「いやいや。私の聞いた話では、美春ちゃんの血迷った告白を一蹴して、透馬くんにガツンと一言かましたって」
美春、自分のことまで言ったのか。というかなんだその表現。
「強調しすぎだって。そこまで偉そうなことはしてない」
なんだかこそばゆくて、僕は大仰に首を横に振ってみせた。そんな僕を見て、ちさと姉はおかしそうに笑う。
「あははっ。まあ仮にそうだったとしても、美春ちゃんたちの仲直りは凌くんの行動があってこそだよ」
「どうかな。確かにこじれてたけど、あの二人ならなんだかんだで仲直りできたかもだし」
照れ隠しに、舞に言ったのとは正反対の可能性を口にする。すべては可能性の話で、結局のところはわからない。
「まあそうかもしれないけど、頑固者同士の喧嘩ほど怖いものはないよ」
「その言い方、もしかして実体験?」
「まあねー」
そこで、野外ステージでの演奏がひときわ激しくなった。どうやらクライマックスらしい。
「昔、といっても凌くんや美春ちゃんと同じ高校三年生の時なんだけど」
ギターやキーボードの音が広場に大きく響く。反して、ちさと姉の声は先ほどよりも小さくなった。僕は耳をすませる。
「中学校の頃からの親友と喧嘩してね。お互い主張は引かずで、ずっと平行線。結局、喧嘩別れみたいになっちゃった」
「ということは、今も?」
「うん。謝れてない」
広場の歓声も大きくなる。人はそこまで多くないのに、まるでコンサートみたいな盛り上がりだ。
「まあだから、私としても美春ちゃんと透馬くんには早めに仲直りしてほしかったわけ。それが叶って良かった。だから、ありがとね」
「あ、うん」
僕の返事と同時に演奏は終わり、広場に拍手が満ち溢れた。ちさと姉も拍手を送っている。ほとんど聴いていなかったが、僕も倣って拍手をした。
「じゃあ、私そろそろ行くね。大学見学しっかりね~」
それだけ言うと、ちさと姉はベンチから立ち上がった。どうやらステージ演奏は今のが最後だったようで、広場にいた人も席を立ちまばらに散っていく。
「あ、それと。凌くんも気になる人がいるってこの前言ってたし、頑固と意地は適度に、素直をベースに頑張ってね」
「え、いや、僕はべつに」
「あははっ。それじゃあ、また――」
ひらひらと手を振って立ち去ろうとしていたちさと姉の足が、ふいに止まった。
その目は大きく見開かれており、僕のほうを見ていた。
いや、違う。視線が合わない。
僕じゃなくて、僕の後ろを見ていた。
「え、え……? うそ…………」
振り返ると舞がいた。
しまった、と思った。
僕と透馬、美春以外に見える人がこれまでいなかったため、つい油断していた。
僕は慌てて立ち上がり、弁明しようと口を開く。
「あ、いや。えと、これは――」
「――千里、久しぶり」
背後で涼やかな声がした。
聞き慣れた声。
舞の、声だった。
「ひ、陽奈? え、陽奈が、どうして……」
狼狽するちさと姉。
その顔は真っ青で、驚愕に満ちていた。
「思い出した、私の未練。そっか、無事に、元気にやってるんだ。本当に、良かった。これで、私は――――」
安堵したような声が聞こえて、もう一度振り返ると、そこに舞の姿はなかった。
快晴が続く七月の初週。
梅雨明け前だが雨の日はほぼなくなり、夏らしい高い青空が頭上に広がる高校の体育館横。
期末試験最後の科目が終わって解放感あふれる昼休みに、人気のないそんな場所に呼び出された僕は、あろうことか告白されていた。
「……えと」
自慢ではないが、僕は今までそんな青春イベントに巻き込まれたことはない。つい最近舞への恋心を自覚し、一種の恋煩いに陥ったのも経験の無さが原因のひとつだと思う。まあ、やや性質は違うかもしれないが。
ともかく、過去を振り返ってもそんな出来事が思い当たらない僕にとって、異性から告白されるというのは前代未聞レベルで緊張する場面なわけだ。
しかし、今は緊張よりも疑念や困惑が圧倒的に勝っていた。
目の前で僕に真剣な眼差しを向けてくる相手は、よく見知った顔だったから。
「美春、なんの冗談だ?」
苦笑交じりに僕は尋ねた。一方の美春はにこりともせずに、顔を赤くして言葉を続ける。
「冗談じゃないよ。本気で言ってる」
「……あ、どこかに一緒に付いてきてほしいってことか。いったいどこに――」
「じゃなくて、あたしと恋人関係になってほしいって言ってるの!」
美春はさらに顔を赤くして叫んだ。その声に驚いて、近くの木々から鳥が飛び立つ音がした。
「……あのな、今美春は透馬と付き合ってるんだぞ。いくら喧嘩中とはいえ、そういうことはやっちゃいけないだろ」
「透馬とは別れた」
「その言葉を僕が素直に信じると思う?」
透馬や美春とは十年以上の付き合いだ。二人とも意地っ張りなところがあるせいで、衝突することもそれなりに多かった。その度に僕は仲裁に入ったり愚痴を聞いたりしており、今美春が口にしている言葉が本心から言っているのか、はたまたただ上っ面だけのものなのかはなんとなくわかるのだ。そのことは美春もよくわかっているはずだが、彼女は変わらず僕を正面から見据えたまま口を開く。
「……そこは信じてもらうしかない。あたしはもう、透馬のことなんてなんとも思ってない」
「うそだな」
「うそじゃない!」
また美春は叫んだ。ぎゅっと目を瞑り、固く握られた両方の手は小さく震えている。自分に言い聞かせ、無理やり納得させようとしている時の美春だった。
僕は小さく息を吐いてから、努めて優しく話しかける。
「まあ、とりあえずいったん落ち着こう。いったい透馬と何があったんだ? この前ちさと姉と一緒だった時は、透馬とのことも考えて近くの大学でやりたいことをやるって言ってたじゃないか」
体育館へとつながるコンクリートの階段に腰かけ、美春にも隣を促す。ちょうど日陰になっていたからか、思っていた以上にそこはひんやりとしていた。
「……そうだよ。千里には反対されたけど、やっぱりあたしは透馬とのことも考えて、最初はそうしようと思ってた」
美春は素直に僕の隣に腰を下ろした。
「じゃあどうして」
「そのことを透馬に話したの。そしたら、めちゃくちゃ反対された。これでもかってくらい。理由も説明したけど、わかってもらえなかった。中途半端なことするなって。やりたいことがあるなら妥協せずにやれって。それで足かせになるくらいなら別れるし、もう会わないって」
先ほどと違って、美春の声はひどく落ち着いていた。いやむしろ、冷ややかにすら聞こえた。そこには、諦めの色が含まれているように思えた。
「透馬があたしの将来とかやりたいことを心配して言ってくれてるのはわかる。でも、それと同じくらいあたしは透馬との関係も大切だった。だからあたしなりに考えて、できる限り両方をとろうとしたら、中途半端だって言われた。妥協だって言われた」
冷たい声が微かに震える。
「これって、妥協なのかな。今の関係をできる限り大切にして、手の届く範囲で育んでいきたいって思うのは中途半端なのかな。もしかしたら、透馬にとっては恋愛とかってあんまり大切なことじゃないのかな。……そんなこと考えてたら、あたしは本当に透馬と付き合ったままでいいのか、わかんなくなった」
「……それで、僕に告白してきたと?」
「いや、ごめん。確かにそれは失礼だった。今もこうして、ちゃんとあたしの話を聞いてくれる凌ならきっと、そうした関係も大切にしてくれる人だって思って。寂しさとか悔しさとか悲しさとかがないまぜになって、きっと透馬への当てつけの気持ちとかもあって、勢い余って言っちゃいました。本当に、ごめんなさい」
美春は立ち上がると、地面が頭に付くんじゃないかと思うくらい頭を下げた。
「いや、なんとなくそういう感じなんだろうなって思ってたから、べつに気にしてはないけど」
「えー。さすが幼馴染とは思うけど、あたしってそんなに魅力ない?」
「あ、いや、そういうわけじゃ」
「あははっ、ジョーダンよ」
頭を上げた美春の顔は少しだけスッキリしていた。現状としては上々だろう。けれど、声にはやっぱり元気がないし、表情にも未だ陰がさしている。
これは、いつもの喧嘩じゃない。
僕自身にとっても他人事ではない美春の言葉を思い返しながら、僕は透馬に話を聞きにいこうと心に決めた。
昼休みが終わって美春とわかれ、身の入らない午後の授業を受けた放課後。
僕は、部活に行こうとしていた透馬を呼び止めた。
「珍しいな。いつもは俺が話しかける間もなくさっさと帰るのに」
彼は大仰に驚いてから、そんなことを言って笑った。
見る限りでは、美春とひと悶着以上の大喧嘩をしているようには思えない。今朝も期末試験の愚痴と合わせて美春との喧嘩について話していたが、その内容もこれまでと大差なかった。
どう美春のことを切り出そうか考えつつ、僕は空いていた隣の席に座る。
「まあ、期末試験も終わったから。ちょっと聞きたいことがあったんだけど、今時間いいか?」
「ぜんぜん大丈夫。試験明けで今日は軽く流すだけの自主練習だし」
小さく頷き、透馬は自分の机に寄りかかるようにして腰掛けた。なんとなく、部活や試験についての雑談をして近くのクラスメイトたちが帰るのを待ってから、僕は口火を切った。
「それで、話ってのは美春のことだ。ちょっと聞いたけど、かなり厳しく言ったらしいな」
「ああ、そのことか。確かに、それなりに厳しいことは言ったな」
なんてことないふうに透馬は答える。深刻に思い悩んでいた美春とは対照的な態度に、僕は少しだけ怒りに似た感情を覚えた。
「美春、結構堪えてたみたいだぞ。僕が口出すことじゃないかもしれないけど、恋人としてそれでいいのかよ」
「おお、ほんとに凌っぽくない忠告だな。どうした、恋煩いがようやく解決したのか?」
「茶化すな。そして話を逸らすな」
僕は机に座る透馬を真っ直ぐ見上げた。
透馬の言う通り、普段の僕ならここまで他人の関係に踏み込むことはしない。当事者間の問題だし、僕が入ることで余計にこじれると面倒だから。これまでも、基本は透馬や美春の愚痴を聞いてそれとなく思ったことを伝えるだけで、面と向かって相手の行動に疑問を投げかけることはしなかった。
でも、今回は勝手が違った。
理由のひとつは、幼馴染である透馬と美春の関係が実は危ないとわかったこと。この前のちさと姉も一緒にいたカフェでは大丈夫そうだと思ったが、どうも今は過去一でこじれているらしい。
だけど、それと同じくらい気になることがあった。
「ったく、わぁーったよ。なんだっけ、恋人としてそれでいいのか、だったか。ああ、いいよ。むしろ俺は敢えてあいつを突き放してるんだからな」
「それは知ってる。この前も、恋愛に気をとられてやりたいことを貫けないなんてダメだとか言ってたしな」
「そーいうこと。将来やりたいことがあるなら恋愛なんかよりそっちを優先すべきだ。俺との関係がその足かせになるくらいなら、きれいさっぱり別れたほうが絶対いいに決まって――」
「透馬。お前、本当にそう思ってるのか?」
いやに饒舌な透馬の言葉に被せるようにして僕は訊いた。
「美春のこと、好きなんだろ。結構前から喧嘩しただの別れただのと愚痴言ってたけど、なんだかんだ美春のことを想ってるからこそ出てくる言葉ばっかだったし」
「……だったらなんだよ」
「そんなに好きなら、なるべく一緒にいたいって思うのが普通じゃないのか?」
透馬はほぼ間違いなく美春のことが好きだ。肝試しの時の行動に加え、これまでの愚痴の端々からもそれはにじみ出ていたし、だからこそ僕も適当に聞き流していた。
でももしそうなら、普通は一緒にいたいと思うものじゃないだろうか。
「透馬の言いたいことはわかる。美春が最初に決めた大学がきっと一番美春の将来やりたいことに合っているんだろうし、そこを自分との関係のために諦めてほしくないっていうのも。でも、美春にとっては透馬との関係も同じくらい大切で、両方を上手く叶えられる可能性のある選択肢を見つけてきたなら、それを応援してもいいんじゃないのか?」
最初、美春のその選択を聞いた時、純粋に驚いた。
美春は将来やりたいことも透馬との関係も諦めていなかった。一切の妥協をすることなく調べ上げて、その時の自分が最良と思える選択肢を導いていた。
僕はといえば、将来やりたいことも舞との関係をどうすればいいのかもわからず、ただ足踏みして悩んでいた。べつにそれが無駄だったとは言わないが、美春のお手本のような行動力と芯の強さにただただ脱帽するしかなかった。
けれど透馬は、その選択肢を真っ向から反対したらしい。百歩譲って人生の先輩で従姉のちさと姉が言うならまだわかるが、当人で恋人である透馬が全面的に反対するのは意味がわからなかった。
「一緒にいられて、やりたいこともやれると美春が言ってるなら、せめて少し寄り添うくらいしてもいいんじゃないのか? いい加減、素直になれよ」
ひと息に言って、僕は席を立った。机に座っている透馬を正面から見据える。
説教くさいし、お節介だとは思う。お前に何がわかると言われても仕方ない。けれど、僕はどうしても言わなければならなかった。
言わなければ、僕の気持ちが収まらなかった。
一方の透馬は、黙ったままだった。
ただ静かに僕を見つめていた。
沈黙が流れる。数秒か、数分か。教室にはまだ数人が残っていて何やら談笑しているが、その声はどこか遠くに聞こえた。
「……ほんと、なーにがあったんだか」
「え?」
「いや、なんでも」
しばらくして、透馬は唐突に机から跳び下りた。そして、すぐ近くに置いてあった学校の指定鞄とボストンバッグを肩にかけると教室の出入口へ歩いていく。
「あ、おい」
「凌、お前の言うことにも一理あると思う」
慌てて追いかける僕に、透馬は一度立ち止まり、背中を向けたまま答えた。
「でもな、やっぱり俺は美春に悔いのない選択をしてほしい。そのためにも俺はやっぱり、美春と別れようと思う」
透馬は振り返ることなく、そのまま教室を出て行った。
「はあー……」
「もう、済んだことは仕方ないじゃん。凌は言いたいことは言えたんでしょ」
「そうなんだけど」
学校を出た後、僕は重い足を引きずるようにして銀杏並木の幽霊通りへと来ていた。
美春の言葉を聞き、透馬の態度を見てつい我慢できず、いつもなら踏み込まないようなところまで踏み込んでしまった。ここへ来るまでの道中で冷静になり、自己嫌悪に陥った僕は、いつもと様子が違うことを察せられた舞によって慰められていた。
「それで、その凌の友達は頑なに恋人と別れようとしていると」
「そうなんだよ。確かにあいつは頑固で意地っ張りな一面はあるけど基本優しいやつで、あんなに相手の言い分を聞かず、一方的に決めつけるようなことはしないと思ってたんだけどな」
「なるほどねー」
舞は何やら考えるように、空中に浮いたまま器用に空を見上げた。
僕らが今いるのは、幽霊通りのすぐ隣にある桃坂公園の中だ。公園内は誰もおらず、僕はややみっともないまでに脱力してベンチにもたれかかっている。彼女の動きにつられるようにして空を仰ぐと、僕の心とは対照的な青空が視界に広がった。
「それで、凌はこの後どうしたいの?」
「どうって」
「自分の言ったことを取り消したいとか、謝りたいとか」
舞の言葉に、僕は空を見上げたまま少し考える。答えはすぐ出た。
「いや、言い過ぎたかなとは思うけど、僕は言ったことに後悔してないし、間違ってたとも思わない」
「うんうん」
「だからそうだな、やっぱり二人には仲直りしてほしいかな。それから、今後どうするかについて冷静に話し合ってほしい。そのうえで決めたことなら仕方ないし」
改めて思い出すと、確か透馬と美春の喧嘩は遠距離でのルール決めから始まったと言っていた。そこから進路の話にまで飛び火してこじれ、今みたいな状況に陥っている。
僕は二人の話し合いのところは見ていないが、あの様子からすると喧嘩の勢いや感情に任せて言い合いをしている可能性が高い。もしそうなら話がまとまるはずがないし、お互いの言いたいことも上手く伝わっていないだろう。
「うん、そうだ。二人にはまず仲直りして、冷静になってもらわないとな」
思考がまとまり、僕は放り出していた足を地につけ立ち上がろうとした。
「あ、でも……どうやればいいんだろ」
続いて降ってきた課題に一気に腰が重くなる。二人を引き合わせたところで言い合いになったら元も子もないし、さらに険悪になってそのままそこでサヨナラなんてなったら目も当てられない。作戦は慎重に立てる必要がありそうだった。
「んふふふっ。お客さん、私にとーってもいい考えがあるんですがっ」
頭を抱えていたところへ、いやに芝居がかった声が降ってきた。顔をあげて彼女のほうを見ると、悪戯っぽく口元を吊り上げた顔がすぐそばにあった。
「今ならそうですね~、私のお願いをなんでもひとつきいてくれるだけでとーってもいい考えが聞けちゃいますよ~。どうです? 聞きます? 買います? さあ、今すぐ決めてください!」
「やめとく」
「お買い上げありがとーございまーす!」
「人の話を聞け」
僕のツッコミも虚しく、舞は押し売りした「とーってもいい考え」を話し始めた。
*
数日後の放課後。
茜色の空の下、僕はひとり学校の裏門前に佇んでいた。
裏門のあるところは人通りの少ない住宅街の小道に続いている。駅からも正反対でここを使う生徒は少なく、今も周囲には誰もいない。また裏門の正面は空き地になっており、多少声を荒らげても迷惑はかからないだろう。
つまりここなら、喧嘩っぽくなっても大丈夫だ。
さらに付け加えるなら、幽霊が出てきても不思議はない雰囲気の場所、のはずだ。
「……いや、心霊スポットじゃあるまいしそれはないか」
そもそも心霊スポットでさえ実際に幽霊が出てくることはまずない。舞と一緒にいるせいでどうも感覚が鈍っているが、幽霊が出ること自体、本来は不思議であり恐怖だ。
まあだからこそ、この作戦が成り立つわけだが。
空を見上げる。作戦を考え出した当事者の姿は見えないが、近くにいるか、あるいはこちらに向かっている頃だろう。なんせ、透馬と美春を素直かつ冷静にさせるためのこの作戦において、必要不可欠な存在なのだから。
数日前に舞から聞いた「とーってもいい考え」は、それはそれは至極単純なものだった。
まず僕が透馬と美春を学校の裏門に呼び出す。
時間帯は幽霊が出そうな夕方から夜がいいということだったから、あえて部活のある日に、それぞれに部活が終わったら来てほしいと言っておいた。あの日以来、透馬とも美春ともなんとなく疎遠になっていたが、時間をおいて二人にも思うところができたのか、意外にもあっさり了承してくれた。
そして二人が来たところで話し合いをさせる。そこで解決すれば御の字。解決せず喧嘩になれば、僕の合図で舞が飛び出して二人を怖がらせ、逃げ出すように仕向ける。あとは窮地を脱した後の素直な心で話し合ってもらうだけだ。
そうつまり、喧嘩しているところへ幽霊騒ぎで逃げ出させ、毒気を抜いた素の気持ちで再度話し合ってもらおう作戦、だ。
「初めて私と遭遇した時、あの二人は一目散に逃げ出してた。凌は気づいていなかったと思うけど、あの時二人は手を繋いで逃げてたんだよ。しかも、男の子のほうは女の子を庇うようにしてたの! ピンチの時は素の気持ちが咄嗟の行動として出るらしいし、そのピンチのあとなら素直な話し合いができるはず。だから、この作戦はきっと上手くいくと思うの!」
「んーそう上手くいくかなー」
「きっと、いや、ぜっったいに大丈夫!」
「その羨ましいほどの自信はどこから出てくるんだよ」
そうしてなし崩し的に決まった作戦は、数日間の下見と会議を経て、本日実行に移すこととなった。
ただし、この作戦は最終手段だ。普通の話し合いで解決するならそれに越したことはない。そのためにも、今回二人を呼び出す時には僕なりにひと工夫凝らしていた。
そもそもここまで喧嘩がこじれている原因は、美春が感情的になりやすいというのもさることながら、透馬がなかなか素直に自分の気持ちを言わないという点にある。相手にとって最善だと判断すれば、自分の気持ちにも蓋をしてしまう困ったやつなのだ。
だから、まずは透馬の本心を引き出す必要がある。ただ美春がいると口が重くなりかねないので、僕と二人きりで話をするところから始める。本人がいないところでなら、愚痴と同じように本心も言いやすいだろうから。
まあもっとも、美春には事前にその旨は伝え、裏門の陰に隠れて僕らの会話を聞いていてもらうのだが。すまない、透馬。
頭の中で幼馴染への謝罪と作戦の過程を反芻していると、近くにあった街灯に灯りがついた。遠くで午後六時を知らせる音楽が流れており、もうしばらくすれば透馬が来る時間だ。
「それにしても、舞様様だな」
未だ人っ子ひとり通らない裏門前の小道で小さく独り言ちる。
今回の作戦は、僕は当初あまり気が乗らなかった。なぜなら、舞を見て逃げ出すという嫌われ者のような、舞を傷つけるような作戦だったからだ。
けれど、僕の懸念に舞は、「それこそが幽霊の本分だよ」と笑って取り合ってくれなかった。そればかりか、この仲直りのための作戦はどうしても自分もやりたいと言い張った。これも、自分の未練を解消するのに必要なことなのだと。
あの動物園以来、僕はなるべく舞と一緒に時間を過ごした。試験期間中もなるべく舞のところへ行くようにしたし、試験直前の土日も今までだったら両日引きこもって勉強をしていただろうが、今回は片方を舞との時間にあてた。
舞の未練は、未だにはっきりとはわかっていない。
僕の通う高校の生徒であったこと。進路や桃坂公園に関する内容であること。あとは、なぜかあちこちへ行きたがること。それくらいだ。
一応、僕なりに舞のことを調べようとはしてみた。ただ本名がわからないので高校でも調べようがないし、事故や事件も可能な限りあたってみたが、生徒が亡くなったなどそれらしいものはなかった。
銀杏並木の幽霊通りの噂も透馬が言っていたこと以上のものはなかったし、あの通りにあった死亡事故も調べてみたがそもそもの情報が少なく、完全に手詰まり状態だった。
「どうしたもんかな」
舞とは少しでも一緒にいたい。僕の気持ちを伝えることはしないし、舞が僕をどう思っているのかも訊かない。ただこうして、一緒に過ごす時間を大切にしていきたい。
でも一方で、舞には未練を解消してほしい。
未練とは諦め切れない気持ちだ。幽霊となって成仏できずに彷徨うほどの未練なんて、ずっと残しておくべきじゃない。舞には辛い思いをしてほしくない。だから僕は、なるべく早く彼女の未練を晴らしたい。
少しでも長く一緒にいて、少しでも早くお別れをしたい。
これが今、僕のしたいことだ――。
「よーっす、凌。待たせたな」
思考の外から待ちわびた声が聞こえたのは、茜色の空が紫色に変わった頃だった。
薄暗い住宅街脇の小道で、僕は手元のスマホに目を落とした。
時刻は、十八時十五分。
「早いな、透馬」
「十五分前行動は基本だよ。一応、運動部だからな」
「そんなもんかね」
美春は確か二十分過ぎになると言っていた。本心を聞き出す前の鉢合わせを避けるため、美春には裏門に来たら僕に話しかけることなく近くの物陰に隠れていてほしいと伝えたのだが、どうやら正解だったらしい。
「それで、話ってなんだ?」
「いきなりだな」
「そりゃお前がこんなところに呼び出すくらいだから、よっぽどなんだろ。おおよその察しはついているけどな」
透馬は肩にかけていた大きなボストンバッグを地面に下ろすと、そこからペットボトルを取り出してひと息にあおった。
その間に僕は思考を巡らせる。話をすぐに進めて美春が聞いていないとなる事態はできれば避けたい。どうにかして、少し無駄話をする必要がある。
「にしても最近めっちゃ暑いな。今日の部活も汗ダラダラだったわ」
すると都合よく、透馬の話題が脇に逸れた。よく脱線しがちな透馬の話だが、今だけはありがたい。僕はここぞとばかりに乗る。
「ああ、猛暑を通り越して酷暑らしいからな」
「マジで昔の根性論時代じゃなくて良かったわ。水飲むなとか言われたら軽く死ねる」
「僕ならこの暑さの中スポーツした段階で瀕死だろうけどな」
「お前さ、いくらまだ高校生だからって運動はしたほうがいいぞ。どうせいつも引きこもって勉強ばかりしてんだろ」
「うるさいな。僕だって外出くらいするぞ」
「へえー。あれか、噂の好きな人か?」
「は?」
どうでもいい話を続けていたところへ、思いがけない質問が飛んできた。
「いやな、同じ部活の友達から聞いたんだけど、凌によく似たやつが動物園にいたって聞いてさ。人混みがすごくてよく見えなかったらしいけど、なんか楽しそうに笑って歩いてたからあれは絶対恋人とか好きな人とデートだろって言ってたぞ」
「待て待て。それは誤解だ。僕はべつにデートで動物園に行ったわけじゃ」
「へえ~。動物園には行ったわけだ」
小憎らしい笑みを浮かべて、透馬は僕を見た。
完全に想定外の展開。今すぐにでも話を誤魔化してこの場から立ち去りたい衝動に駆られた。でも、今はそんなことをするわけにはいかない。
「……っ。ああ、行ったよ。行ったけど、それは今僕がしたい話とは関係ない」
「……まっ、そうだろうな。それで、話ってのはこの前のあれだろ、美春とのことだろ?」
「ああ、そうだ」
チラリとスマホを見ると、既に二十分は過ぎていた。もう話を進めても大丈夫だろう。
「まあ、俺もいつかは話さないととは思ってたからな。あれ以来凌ともあんまり話せてないし、そういうギクシャクしたの俺あんまり好きじゃないから、全部言うよ」
「それは、僕もありがたいな」
「ああ。だから、美春を呼んでくれよ。どうせ近くに来てんだろ」
僕は驚きのあまり思わず目を見開く。
「なんで」
「そりゃわかるって。何年幼馴染してると思ってんだ。チラチラとスマホで時間気にしてるし、集合場所にこんな人気のないところを選ぶあたり、俺と美春が喧嘩してもいいようにって配慮だろ。それなのに美春がいないんだから、近くにいて俺たちの話を聞いてるってことくらいわかる」
半ば得意げに、半ば呆れ気味に透馬は説明した。自分に向けられた気持ちには察しが悪いくせに、こういう時だけ異様に鋭いのはどうなんだろうか。
「……ったく、あたしからの気持ちは気づいてくれない朴念仁のくせに、なんでそういうところだけ妙に鋭いのよ」
「美春……」
僕が呼ぶ前に、美春は裏門の陰から姿を現した。不満げに顔をしかめながら、僕が思ったのと同じような感想を言うあたり、長年腐れ縁で結ばれた幼馴染ということなんだろう。
「はっ、やっぱりいたか」
「うるさい。透馬がいつまで経っても自分の本当の気持ちを言ってくれないからじゃない。いつもいつもあたしの進路のことばかりで、透馬が本当はどうしたいのか、あたしのことをどう思ってるのか、全然わからない」
「ああ、だから、それを今から言う」
言い合いになりそうな雰囲気にハラハラしている僕の傍ら、透馬はゆっくりと口を開いた。
「実は、俺の母さんがそれなりに大きな病気を患ってて、ずっと入院してるんだ」
「え?」
「透馬の、お母さんが?」
突然の言葉に僕と美春は面食らう。
透馬のお母さんには小さい頃からよくしてもらった。確か洋菓子店で働いていて、透馬の家に遊びに行った時はよくお店の余りらしいケーキをご馳走してもらった記憶がある。とても優しそうに笑っていた透馬のお母さんが、大きな病気で入院している?
「ああ、ちなみに命に別状はないから安心してほしい。ただ、今後の病状次第じゃ大がかりな手術とかもしないとで、父さんはそのために夜遅くまで仕事をしていて基本家にいない。俺んちは下に二人いて、家事とかは分担してやってる。本当は部活とかしてる場合じゃないんだけど、父さんも母さんもやめるなって言ってくれて、なんとかやってる状態なんだ」
「そんな……」
「まあ、そこまではいい。本題はここからだ」
透馬はそこで、一度深呼吸をした。
「俺は大学に行ったら、部活やサークルはもちろん、ほとんど遊ばずにバイトばかりするつもりだ。子どもの俺に心配かけないためか教えてくれないけど、きっと入院費や治療費はバカにならない。そこに俺の学費とか家族の生活費とか、さすがに俺も何かしないと気が変になる。だから、俺はもう美春とほとんど一緒にいられなくなると思う」
「だったら余計にだよ! あたしも近くにいて、透馬を支え――」
「だからこそだよっ!」
美春のすがるような声を透馬は一蹴した。僕は何も言えずにいた。
「一緒にいられないだけならまだいい。でも美春は、今みたいに俺のことを気にかけて、あまつさえ支えてくれようとする。その気持ちは嬉しい。でもそれは、美春のやりたいことにかける時間も奪いかねない。俺は、それが耐えられない。それなら遠い県外で、一生懸命自分のやりたいことをしてほしい。俺の分まで、頑張ってほしい」
「とう、ま……」
「それに、俺は元々そこまでやりたいことがあったわけじゃない。多分、家のこと抜きで普通に進学してても適当に過ごしただけだと思う。美春とは、釣り合えてないよ」
「そんなこと――」
「あるんだ。そんなこと、ある。俺が嫌なんだ。そんなわけで、俺は美春と別れたい。美春は、俺とのことは過去にして、やりたいことを一心に頑張ってほしい」
透馬はそこで言葉を区切った。辺りはすっかり日が暮れ、どこかで知らない虫が鳴いていた。
想定外だった。透馬が今、そこまでの事情を抱えていたことは驚愕でしかなかった。まったくそんな素振りを見せず、毎日何気なく笑って、いつも通り接していたというのか。何も知らずに言いたいことだけを言った僕の行動が、独りよがりに思えてならなかった。
「なあ透馬、その、この前のことだけど……」
「ああ、べつに謝ったりしなくていいぞ。凌のあの言葉で、俺もしっかり言わないとって思えたんだからな。だから、ありがとな」
透馬らしい快活な笑みを浮かべて、彼はそんなことを言った。こういう優しさのあるやつで、そこは微塵も変わっていなかった。
「ねぇ透馬。もしかして、あちこちであたしの愚痴を言いまくっていたのも、これが理由?」
今度は美春が口を開いた。僕よりも少し離れた位置にいた美春だったが、いつの間にか透馬のそばに立っていた。
「ああ、そうだ。本当は美春に嫌われようとしたんだけど、上手くいかなかった。やっぱこういう策略みたいなのは俺には向かないな。はははっ」
「笑い事じゃない!」
ぴしゃりと美春は言い放つ。
「あたし、すごく不安だった。愚痴はべつにいいんだけど、透馬がどうしてそんなに頑なにあたしの提案に反対してくるのかわからなかったから」
「そうだな、ごめん。こんな理由言ったら、美春は離れてくれないと思ったから」
「なんだ、わかってるじゃん。あたしは離れないよ」
「美春、それは……」
「それにあたし、まだ聞かせてもらってない」
美春が透馬にさらに一歩近づいた。その視線の先は、真っ直ぐ透馬に留められている。
「なにを」
「透馬はあたしとの関係を、本当はどうしたいのか」
「いや何言ってんだ。だからそれは今――」
「違う!」
美春は叫んだ。
「さっきから透馬が言ってるのは、自分の周囲に理由を付けたうえでの気持ちじゃん。あたしの時間を奪うからだとか、あたしとの釣り合いだとか、そんなことはどうだっていい。そういうことを抜きにして、透馬自身はどうしたいの。透馬はあたしのことが、嫌いなの?」
「それは……」
「あたしは将来、食品関係の会社に入りたいと思ってる。そのために、栄養とかデザインとか企画とか経営とかいろいろ勉強したくて大学に行きたいの。でもそれは、そう思うようになったのは……透馬がきっかけなの」
美春は透馬にほとんどしがみつくようにして抱きついた。肩が小さく震えている。
「透馬、昔からサッカーとかバスケとかよく運動してて、お腹減るからお菓子とか結構食べてたよね。目をキラキラさせて選ぶ様子とか、心から美味しそうに食べてる表情とか本当に好きだったし、今だって好き。だからあたしは、食品関係の道に進もうって思ったの」
「美春……」
「でも、こんなふうに別れちゃったら、あたしは頑張れない。だって、あたしはあたしが関わったお菓子を食べて笑う透馬が見たいから。あたしは、透馬が大好きだから。だからやっぱり、離れたくない。別れたくない。あたしは絶対に透馬を支えて、自分の夢も叶えてみせる。それがあたしの決意。だから透馬も、本当の気持ちを……わわっ」
言い切る前に、透馬は美春を抱き寄せた。その拍子に美春の鞄が地面に落ち、小さな物音を立てた。
「ごめん、ごめん美春。確かに俺は、周囲に言い訳を作ってた。それを抜きにして考えたら、答えは決まってるのに」
「うん……」
「でも、いいのか? 間違いなく俺は構ってやれなくなるし、疲れたり落ち込んだりと嫌な一面を見せることも多くなるかもだぞ」
「もう、何を今さら。何年来の付き合いだと思ってるのよ」
すっかりと陽が暮れた暗がりで、淡い街灯の光が二人を照らしていた。もう完全に置いてけぼりだ。まあ最終手段を使わずにいい感じに落ち着いてくれたみたいだし、結果オーライといったところだろう……
「ちょっと、凌」
「え?」
そこへ背後からささやくような声が聞こえた。振り返ると、すぐ近くで舞がふわふわと浮いていた。
「静かに。声を出さない。ほら、こっそり立ち去るよ。いつまで人の恋路を眺めてるの」
「あ、確かに――」
「しーっ」
舞に口をふさがれる。といっても、感触はないのであまり意味はない。
ただ彼女の言うことはもっともなので、僕は気づかれないように足音を忍ばせて一番近くにあった脇道へと入った。
「いやーうまく落ち着いたみたいで良かったね!」
ぽつぽつと街灯があるばかりの脇道に入ってしばらくすると、舞がようやくといった様子で笑いかけてきた。僕もホッと安堵の息をつく。
「ああ。最初はどうなることかと思ったけど」
「あははっ、ほんとだよ~。凌の考えてること、ぜーんぶお見通しだったみたいだし」
「うるさいなー。というか聞いてたのかよ」
姿は見えなかったが、どうやら一通りは見ていたらしい。普段よく一緒にいる僕でさえわからなかったのだから、さすが幽霊というべきか。
「もちろん聞いてたし見てたよー。二人が来る前に、凌が私のことを思い出してたそがれてたところからバッチリ!」
「あーはいはい、最初からいたわけね。仮に作戦通りだったとしても支障がなかったようで何より……」
人がまったくいない小道を舞と並んで歩きつつ、彼女の軽口をいなそうとして、僕ははたと気づいた。
最初から? ということは、まさか透馬とのあのやりとりも……?
「なあ、舞」
「ん? なーに?」
呼びかけると、彼女はふわりと翻り僕の前に回り込んできた。純真無垢な目で見つめてくる舞。どうしようもなく鼓動が早くなる。
「……この作戦の交換条件、舞のお願いをなんでもひとつきく、だったか」
「えっ、きいてくれるの! 私特に何もしてないけど」
「まあ約束だからな」
動物園に関するやりとりについて訊こうとして、やめた。
きっとあの話は舞も聞いていたはずで、からかうのが好きな彼女が口にしないのであれば僕もしない。そこにどんな意味があるのかは……。
「よーっし、じゃあ私のお願いを三つきいてっていう内容で!」
「おい待て、なんだそのセコい内容は」
そこに意味が、あるのだろうか?
目の前でくるくるくると踊りはしゃぐ舞を見ていると、案外べつのことに気をとられてただ聞いていなかったんじゃないかとすら思えてくる。
「まっ、三つきいては冗談として、実は行きたいところがあるんだ」
「行きたいところ?」
僕は首を傾げる。それは、いつもと一緒ではないだろうか。
「そそっ。未練が進路に関することみたいだから、大学に行ってみたいなって。確か、わりと近くにあったよね。それと、あそこにも!」
舞はくるりと空中で方向を変え、近くに立っていた掲示板を指差した。
そこには、夜空に輝く花火のイラストが描かれたポスターが貼られていた。
「花火大会、か?」
「うん。せっかくの夏だし!」
色鮮やかなポスターの前で華麗に一回りする舞を一瞥してから、改めてポスターを見やる。
そのいかにも夏らしいポスターは、毎年冬見町の河川敷で行われる小さな花火大会のものだった。小学生の頃は両親に連れられて、中学生になってからは透馬と美春と行っていた。高校に上がってからは二人が付き合ったこともあって遠慮し、僕は一度も行っていない。
「ね、近くでやるんだし行かないともったいないよ! 一緒に行こっ?」
まるで花火みたいな笑顔を咲かせる舞にドキリとする。今の僕では、この笑顔で頼まれて断れるはずもなく。
「わかった、わかったよ。花火大会と大学ね。どうせいつもあちこち行ってるんだし、それくらいは普通にきいてやるよ」
「わーい、やったーっ!」
夜の住宅街。僕にしか聞こえない大声で騒ぐ舞を見つめる。
「後悔しないように、だしな」
「え?」
「なんでもない。行こう」
花火大会のポスターを横目に、僕らは帰路へとついた。
*
冬見町近辺の大学といえば、電車とバスを乗り継いで一時間ほどいったところに国立の大学がある。この辺りではそこそこ名が通っており、県内大学への進学を目指している生徒の大半が目標としている大学だ。ちなみに、ちさと姉が通っている大学でもある。
そんな、一般開放もされている比較的身近な大学の構内に、僕と舞は訪れていた。
「おお~ここが大学か~!」
舞が感嘆の声を漏らした。
僕自身、受験情報やら学芸祭やらについてはよく耳にはしていたが、実際に来たことはなかった。きょろきょろと視線を移ろわせる彼女につられるように、僕もゆっくりと辺りを見渡す。
大学構内は思った以上に緑に覆われていた。丘を切り開いて建てられており、大学周囲はもちろん、中もちょっとした森みたいになっている。土曜日だからか人は少なく、サークル活動をしていると思しき大学生や、公園代わりに散歩している家族連れがいるばかりだ。
「僕も初めてきたけど、結構広いな」
「ねっ、これはあれだね!」
「あれって?」
「思う存分飛び回れるね!」
「それはお前だけだ」
進路に関わるからと来てみたが、相変わらずのようだった。実に舞らしい。
「それで、どこに行くんだ?」
「んーとねー」
舞は近くに立っている看板の前へふよふよと移動した。僕もその後を追い、彼女と同じように見上げる。
僕の身長の倍ほどもある看板は、大学の構内図だった。随分と古ぼけており、雨風にさらされた影響か所々が錆びている。スマホが普及したこのご時世、見る人もほとんどいないんだろう。
「今私たちがいるのはこの辺だよね」
そう言って舞は赤丸で示された地点を指差した。
「そうだな。この近くにある建物は、サークル棟に体育館、あとは売店か」
「サークル棟に潜り込んでみる?」
「土曜日の昼だぞ。絶対大学生がたくさんいるから嫌だ」
ちさと姉から聞いた話だが、サークル棟には文化系のサークルが集められており、平日はもちろん、特に土日に本格的な活動をしているところが多いらしい。そんなところに男子高校生がひとりで乗り込もうものなら、囲まれていじられるのがオチだ。
「ちぇー。オカルト研究部みたいなのがあったら化けて出ようと思ったのに」
「ちょっとした騒ぎになるからやめろ」
口を尖らせる舞に呆れた視線を送ってから、改めて構内図を眺める。
もう少し奥に行くと、A棟やらB棟やらとアルファベットが振られた棟が並んでいるようだった。きっとこの棟で大学の講義なんかをしているんだろう。あとは図書館やら研究棟やら学部専用棟なんかがあり、図書館は確か受付をすれば誰でも蔵書を読むことができるとちさと姉が言っていた気がする。
大学って、こんなところなんだな。
構内図を見ながら、僕はふと思った。ちさと姉から話を聞いたり、オープンキャンパスに行ったらしい友達から画像を見せてもらったりしたことはあるが、自分で行こうと思ったことはなかったし、実際に行ったこともなかった。
それが今、僕は進路に未練を残した幽霊に連れられ、大学に来ている。なんて皮肉だ。
「よーし! とりあえず適当にぶらつこう!」
「ぶらつくだけなのにそのテンションで言えるのほんとすごいな」
いつものように、僕は舞のあとを追って歩き始めた。
構内図のあった入り口付近から中へ入っていくと、夏らしい蝉時雨に出迎えられた。
石畳で覆われた幅広な道の両脇には背の高い木々が列をなしており、まるでトンネルのようになっている。夏の日差しが所々から漏れており、淡い陽だまりがいくつもできていた。
「夏だね~」
「ああ、ほんと暑いな」
「どう? ここはひとつ、怪談話でも!」
「怪談? 幽霊が? 昼に?」
ツッコミどころしかない。
「もう。そんな細かいことをいちいち気にしてたらモテないよ!」
「細かくないし、それにいいんだよモテなくて」
見当違いな彼女の言葉に、僕は肩をすくめた。モテるなんて面倒だし、どう考えても疲れるだけだ。僕には狭くてそこそこの深さの交友関係で十分すぎる。
けれど、彼女はいつものように引くことはせず、意地の悪い笑みを浮かべた。
「そんなこと言って~。それこそこの前の凌の友達じゃないけど、普通高校生なら恋愛のひとつやふたつしてるもんじゃないの?」
「まあ、そうかもな」
舞の言う通りだ。普通の高校生なら恋愛くらいしているし、かくいう僕も類に漏れない。ただ、想いを向ける相手がちょっと……いや、かなり変わっているだけだ。もちろん、口には出さないけれど。
「まーたそうやって適当に誤魔化す。まあいいけど。そういえば、凌の友達はあの後大丈夫だったの?」
「ああ、まったく問題なし。あんなに喧嘩してたのに、次の日会った時は仲良さそうに手繋いで登校してきたよ」
あの日の翌日に生徒玄関で出くわした時を思い出す。僕が靴を履き替えていると、いやに明るい声が後ろから投げかけられた。何の気はなしに振り返ったら実に幸せそうな表情をした二人組が立っていたのだから、僕の呆れようといったらそれはもう過去最大レベルだった。
「へえー手を繋いでかー。ラブラブだね~」
「ほんと。見てるこっちが胸焼けしそうだ」
ちらっと聞いたところでは、進路についてはまだ答えは出せていないらしい。遠距離恋愛をするか、比較的近い大学にするかはこれからしっかり話し合って決めるのだそうだ。あれだけぶつかり合って仲直りして話し合うのだから、きっと大丈夫だろう。
そんなことも含めて舞に話すと、彼女も満面の笑みを浮かべてくれた。
「ほんとありがとうな、協力してくれて」
「えええ、どうしたの急に」
「いや、僕だけじゃきっとこんなに早く解決できなかっただろうな、って思ってさ。もしかしたら、こじれにこじれて修復不可能なところまで行ってたかもしれないし」
「えーそんなことないと思うけど。協力したいって言ったのは私からだし、気にしすぎないで。それに、凌に素直にお礼言われるとなんか身体のあちこちがくすぐったい!」
舞は本当にくすぐったそうに空中でくねくねと悶えている。いつもなら「幽霊にくすぐったい感覚なんてあるのかよ」と軽口を投げているところだが、今回は勘弁してやることにした。感謝の気持ちに免じて。
……そういえば。
そこでふと、ひとつの疑問が生じた。
「そういやさ、単純な疑問なんだけど、なんで舞は僕の友達の仲直りに協力してくれたんだ?」
「え?」
「いやほら、作戦を考えている時、舞が嫌な役回りをするの止めたけど、舞は絶対譲らなかっただろ。なんでそこまで協力してくれたのかなって思って」
結局実行しなかったが、あの作戦について僕はかなり反対した。けれど舞は頑として譲らず、これも未練解消のためなのだと言ってくれた。
でも、これは僕に気を遣わせないための建前だと思っている。確かに透馬と美春の喧嘩については進路も絡んでいるが、舞の未練とは直接関係がない。そんなことに、わざわざ損な役回りを引き受けてまで協力してくれたのはどうしてだろう。
僕の言葉に、舞はしばらく空を見上げていた。
何かを考えているようだった。
やがて理由が決まったのか、彼女は視線を青い夏空から僕へと移した。
「あのね、大した理由はほんとなくて、ただ私も協力したいって思ったからなんだよね」
「え?」
驚いて、今度は僕が聞き返した。
「もちろん、いつも一緒にいてくれる凌が困ってたからっていうのもあるんだけど、本当に未練解消に必要なことだと思ったんだ。どうしてかは、わからないけど」
「それって――」
「あーっ! みて! なんか野外演奏してるよ!」
僕が最後まで言い切る前に、舞は何か見つけたらしく一目散に駆けていった。どこかそれはわざとらしい感じがして、否が応でも察してしまう。
きっと舞は、だいぶ記憶を取り戻しつつある。
正確には、自分の未練が何なのかをわかり始めている。
僕にそれを言わないのは、未練を解消した時にどうなるかわかっているからだろうか。その結末を、察してしまっているからだろうか。
あるいは、単純にまだ自信がないからだろうか。
……わからない。
ただどちらにしろ、僕らの関係は遠くない未来に変わるんだろう。
「たとえ、それでも……」
僕は舞が駆けていった野外ステージのある広場へと足を向ける。足取りは先ほどよりも重い。当然と言えば当然で、それが僕の心の奥底にある感情だ。
でも。それでも。たとえ別れが近いとしても、僕は最後まで舞の未練解消に協力する。
それが、僕が舞にできる唯一のことだから。
好きだからこそ、僕は舞に――。
「あら、凌くん?」
軽音サークルらしき面々が演奏している広場へ入ろうとして、後ろから声をかけられた。最近も聞いた、よく知った声だ。
「ちさと姉?」
歓声のあがる広場の前で、幼馴染の従姉のお姉さんは大人っぽく微笑んでいた。
「いやーびっくりしちゃった。まさか大学で凌くんと会うなんて」
「僕もまさか土曜日にちさと姉に会うなんて思わなかったよ」
立ち話もなんだからと、僕はちさと姉に促されるまま広場の縁に置かれたベンチに腰を下ろした。
広場の中央にある野外ステージでは既に次の曲が演奏されており、かなりの盛り上がりを見せている。
ちなみに、舞はステージ近くのところで観客に混じって楽しんでいるようだった。演奏中ということもあってか、あるいは見えていないのかはわからないが誰も気にしていないようで、ひとまずホッと胸を撫で下ろした。
「それで、急にどうしたの? 来てくれるなら一言連絡してくれても良かったのに」
視線はステージに留めたまま、ちさと姉は少し不満そうに訊いてきた。
「いや、ちょっと急に気が向いたから。勉強も煮詰まってたし、それに受験生だし、近くの大学の雰囲気くらいは見ておこうと思ってさ」
ちさと姉に出くわしてから席に着くまでに考え出した言い訳を並べる。
「へぇーここ受けるの?」
「いや、まだわかんないけど」
「そっか。受けるってなった時こそは連絡してね。凌くんならいらない気もするけど、一応私が使ってた過去問とかあげるから」
「うん、ありがと」
この大学を受験するかは正直微妙なところだ。地元の大学だし家からも通いやすいが、むしろそれ以外のメリットはない。偏差値的にはそこそこ上だが行きたい学部があるわけでもなく、適当な理由で進路希望調査票に書けば先生から苦い顔をされるだけだろう。
僕が内心でちさと姉の好意に謝っていると、ふいにちさと姉が思い出したような声をあげた。
「そういえば聞いたよ! 美春ちゃんと透馬くんの件、凌くんのおかげで上手く仲直りできたんだって?」
「そんなたいしたことしてないよ。僕はただ二人を裏門に呼び出しただけだし」
きっと美春がちさと姉に伝えたんだろう。僕が事前に仕組んだ聞き耳作戦は透馬に見透かされたし、あの場を設けるきっかけをくれたのは舞だ。本当に僕はたいしたことはしていない。
「いやいや。私の聞いた話では、美春ちゃんの血迷った告白を一蹴して、透馬くんにガツンと一言かましたって」
美春、自分のことまで言ったのか。というかなんだその表現。
「強調しすぎだって。そこまで偉そうなことはしてない」
なんだかこそばゆくて、僕は大仰に首を横に振ってみせた。そんな僕を見て、ちさと姉はおかしそうに笑う。
「あははっ。まあ仮にそうだったとしても、美春ちゃんたちの仲直りは凌くんの行動があってこそだよ」
「どうかな。確かにこじれてたけど、あの二人ならなんだかんだで仲直りできたかもだし」
照れ隠しに、舞に言ったのとは正反対の可能性を口にする。すべては可能性の話で、結局のところはわからない。
「まあそうかもしれないけど、頑固者同士の喧嘩ほど怖いものはないよ」
「その言い方、もしかして実体験?」
「まあねー」
そこで、野外ステージでの演奏がひときわ激しくなった。どうやらクライマックスらしい。
「昔、といっても凌くんや美春ちゃんと同じ高校三年生の時なんだけど」
ギターやキーボードの音が広場に大きく響く。反して、ちさと姉の声は先ほどよりも小さくなった。僕は耳をすませる。
「中学校の頃からの親友と喧嘩してね。お互い主張は引かずで、ずっと平行線。結局、喧嘩別れみたいになっちゃった」
「ということは、今も?」
「うん。謝れてない」
広場の歓声も大きくなる。人はそこまで多くないのに、まるでコンサートみたいな盛り上がりだ。
「まあだから、私としても美春ちゃんと透馬くんには早めに仲直りしてほしかったわけ。それが叶って良かった。だから、ありがとね」
「あ、うん」
僕の返事と同時に演奏は終わり、広場に拍手が満ち溢れた。ちさと姉も拍手を送っている。ほとんど聴いていなかったが、僕も倣って拍手をした。
「じゃあ、私そろそろ行くね。大学見学しっかりね~」
それだけ言うと、ちさと姉はベンチから立ち上がった。どうやらステージ演奏は今のが最後だったようで、広場にいた人も席を立ちまばらに散っていく。
「あ、それと。凌くんも気になる人がいるってこの前言ってたし、頑固と意地は適度に、素直をベースに頑張ってね」
「え、いや、僕はべつに」
「あははっ。それじゃあ、また――」
ひらひらと手を振って立ち去ろうとしていたちさと姉の足が、ふいに止まった。
その目は大きく見開かれており、僕のほうを見ていた。
いや、違う。視線が合わない。
僕じゃなくて、僕の後ろを見ていた。
「え、え……? うそ…………」
振り返ると舞がいた。
しまった、と思った。
僕と透馬、美春以外に見える人がこれまでいなかったため、つい油断していた。
僕は慌てて立ち上がり、弁明しようと口を開く。
「あ、いや。えと、これは――」
「――千里、久しぶり」
背後で涼やかな声がした。
聞き慣れた声。
舞の、声だった。
「ひ、陽奈? え、陽奈が、どうして……」
狼狽するちさと姉。
その顔は真っ青で、驚愕に満ちていた。
「思い出した、私の未練。そっか、無事に、元気にやってるんだ。本当に、良かった。これで、私は――――」
安堵したような声が聞こえて、もう一度振り返ると、そこに舞の姿はなかった。
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あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
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