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第1章 初めては涙雨に濡れて

そして、いつもの彼女

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「おーい、生きてるか?」

 先に呼吸が落ち着いた俊平が背中をぺちぺちとしながら声をかけると、

「頭、おかしくなるかと思ったぁ。今のヤバすぎ……」

 美亜が呻くようにそう答える。
 まだ収まらない息遣いのまま身体を起こそうとしているが、見るからに気だるげだ。

「俺も。というか、中でイったみたいだな」
「……今のがそう、だったんだ。うわぁ、今日初めてだったのに中でイっちゃうとか」

 乱れた髪を払い、コテンと頭を俊平の胸板に預ける美亜。
 赤く火照った面持ちは、後引く余韻にまだ酔っているようだ。甘えるように向けられる蕩け眼が妙に胸をかきむしる。

「こんなはずじゃなかったのになぁ。本当に体の相性抜群だった、とか?」
「もしかしたら、そうかもな」
「えぇ、マジかぁ」
「何だ、イヤなのかよ」
「イヤって言うか、その、これからが怖いなぁって」
「癖になりそう?」
「……うん、ヤバいかも」

 と、美亜は肩をすくめて見せる。
 彼女が浮かべた冗談めいた薄い笑みにつられ、疲労困憊な俊平も力ない笑みで応える。
 けれど、癖になりそうなのは自分も同じだと、内心ではほとんど確信していた。

「ねえ、もう少しこのままでいさせて」
「ああ、俺もしばらく動けねえ。なんなら、ずっとこうしてても俺はいいしな」
「あ~、もうすっかり彼氏面じゃん。このぉ、調子乗んなっ」

 今更ドギマギする俊平に期待していたのか、少し不服そうに美亜は軽い握りこぶしでもって可愛らしく抗議する。
 けれど、その声音はどこか嬉しそうで。未だ醒めない余韻の中、まんざらでもなさそうに頭をこすりつけてくる恋人につい口元が緩む俊平だった。

 ***

 俊平が閉めきっていた窓を開け放つと、部屋はたちまちムワッとした夏の空気に浸された。クーラーの冷気に慣らされた身体が反射的に汗ばむ。まるで一時の夢から醒めたように、全身を気だるい疲労感が襲う。
 いつしか雨はすっかり上がり、空は夕焼け色に染まっていた。

「はあぁ~、サッパリしたぁ」

 シャワーを浴びに行かせた美亜が部屋に戻ってくる。
 トタトタとした足取りには多少違和感があり、いささか危なっかしい。初体験の痛みのためだろう。
 それでも俊平に心配させないためか、それを顔に出さないのがいかにも彼女らしい。

「菓子パンくらいしかないけど、先に摘まんどいてくれ。俺もシャワー浴びてくるから」
「うん、ありがと。そろそろお母さんも心配するし、これだけ頂いたら帰るよ」
「送っていくから待っててくれるか。自転車も車に載せたままだしな」

 思い返せば、合意があったとはいっても、処女の美亜にはかなり無理をさせてしまった。
 自宅までは比較的近いとはいえ、自転車では何かと辛いはずだ。
 そう案じての提案だったが、早速菓子パンに手を伸ばしている少女は首を横に振る。

「別にいいって。というか、あたしがヤダ」
「どうして?」
「一緒だったら、お母さんにバレちゃうじゃん。あたしたちのこと」
「そんなわけないだろ、何も今日のこと話すわけじゃないんだから」
「シュン君、甘い! 女の勘って鋭いんだよ。直前まで一緒だと雰囲気とか頬の緩みとか、絶対やばいから」

 何か確信をもってそう言いきる美亜の圧に押され、女性とはそんなもんなのかと妙に納得させられてしまう。
 それはともかく、こうしておちおちしていては本当に彼女一人で帰ってしまいかねないだろう。着替えを抱え、まずは身を清めに浴室へ向かうことにする。
 と、ふと振り返ると、ミニアンパンを頬張った少女が本棚の前で不審な動きを見せているのが目に留まった。

「どうかしたか?」
「んー、ちょっと探し物をね。……あ、これかな」

 と一冊の本を取り出す美亜。
 見ればそれは、美亜が好きなプロ棋士が最近出した棋書だった。

「この前来た時にも気づいてたんだけど、大会前だったしさ。流石に手は出しづらくて。ねえ、コレ、借りていっていい?」

 そう言いながらも美亜は既に棋書を開き、視線をページに走らせ始めている。

「おーい、帰るんじゃなかったのか」
「うん、帰るよ~」

 そう呼び掛けて返ってきた反応は、ごく薄い。
 見れば案の定、本を支える右手の指先がぴくぴくと動いている。脳内の駒を繰っているのだ。
 先ほどまで見せていた女の貌ではなく、真剣そのものな彼女の横顔。俊平の口元に半分呆れた笑みが浮かぶ。
 けれども、もう半分は嬉しさであることも確かだった。
 それは手痛い挫折の経験も、彼女が既に乗り越えつつあることが見て取れたから。
 ひどい負け方をする度に泣いて、それでケロリとしてしまう。
 成長したように見えて、そんなところは子どものころから変わっていない。

(まったく、コイツときたら……)

 十代後半の彼女は、これから急速に大人になっていく。きっと、もっと強く、美しくなるはずだ。
 そして、いつしか独り立ちしていく時季が来る。互いに望まずとも離れ離れになる、そんな日がやって来るのかもしれない。
 たとえ想いを通わせ、いくら身体を重ねたのだとしても、その不安が全く消えてしまうことはないだろう。
 けれど少なくとも、もうしばらくは彼女のそばに立っていられる。
 今までの関係とは一歩進んだ、恋人としての立場で。
 そのことだけはきっと確かで、だからこそ大切にしたいと、俊平はそう思うのだった。
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