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第1章 初めては涙雨に濡れて

アラサー男とキラキラJK

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「――ん、あぁ? 眠ってたのか、俺」

 傍らに聞こえた軽い物音で、住谷俊平は目を覚ます。
 どうやら知らぬうちに寝入っていたらしい。座椅子にもたれた身体は凝り固まり、軽く伸びをするとギシギシと軋みを上げた。
 あるいはそのせいだろうか。妙な夢を見ていたようだ。
 内容は既におぼろげになっている。誰かと言葉を交わしたようではあるが、その相手のことは思い出せそうになかった。

「それにしてもまだ来ねえのか、アイツは」

 床に取り落とした文庫本をパタリと閉じ、俊平は独りごちる。
 今日は七月最後の月曜日。梅雨明け以来の酷暑と相まって憂鬱な週明けである。
 ホームセンター勤めの彼は、しかし、仕事柄シフト通りの休日だった。そうでなければ、平日の昼日中からこうして安穏とした午後のひとときを過ごせてはいない。
 あえて出かけようともしないのは、夏の日差しが鬱陶しいのも理由のひとつだが、なにより人と会う約束をしていたためだ。
 ただ問題なのは、その約束相手が時間になっても影すら見せないこと。
 連絡を試みても、メッセージアプリに既読は一向につかず。さりとて電話をかけてみれば、そもそも電源が入っていないことが先ほど判明したばかり。
 仕方なく彼は座椅子にぐったりと身を預け、この貴重な時間の浪費を決め込んだ。待ちぼうけに日ごろの疲れも重なり、うつらうつらと舟をこいでいたというわけである。
 もう一度、駄目元で連絡してみようか?
 そんなことをぼんやりと考える。
 と、そのときだった。

「――頼もぉー! 師匠狩りの時間だぁ!」

 弾けるようにドアが開き、部屋に飛び込んでくる制服姿の少女がひとり。
 明るいブラウンカラーのショートヘアが、彼女の芝居がかった口上にあわせてふわりと揺れる。
 それを指先でかき上げて覗いたのは、人目を惹く灰青色の瞳と、南欧系の血をうかがわせるクッキリとした目鼻立ち。色素の薄い地肌によく映える面立ちだけれども、丸みを帯びた頬の輪郭のためか、美人というよりも可愛らしい印象を与えてくる。
 白ブラウスにストライプ入りの赤ネクタイ、紺のプリーツスカートという夏制服は、地元の公立高校指定のもの。地味というわけではないけれど、今どきの女子受けするようなデザインからは微妙にズレている。
 けれど彼女の場合、すらりと伸びた白い手足とルーズな着こなしが妙にマッチして不思議と野暮ったさを感じない。日本人離れした容貌も相まって、最近ショート動画でバズっているJKだと紹介して信じる者が居そうなほどだ。
 アラサーに乗っかった冴えない男の一人住まいにおよそ現れるはずもない、いわゆる『一軍女子』。
 それが彼女、梓澤美亜。俊平の待ち人であった。

「あぁー、ココめっちゃ涼し~いっ! 生き返る~!」
「おい、美亜」
「シュン君知ってた? 外、ホントやばいんだから! 暑すぎて死んじゃうよー、みたいな?」
「……コホンッ! まずは座ろうか、アズサワさん?」
「あっ……、ハイ。その、失礼します」

 そんな彼女のテンション高めな登場を大げさな咳払いで制し、俊平は淡々と手招きする。
 ノリと勢いで遅刻を誤魔化そうという魂胆などお見通しなのだ。
 美亜も彼の声音にこもる多少の怒気を感じ取ってか、コロリと態度を改め、間延びした口調を引っ込める。そして、足早に俊平のいるローテーブルまで歩み寄ってくると、その対面に静々と腰を下ろした。

「先に何か言うことは?」
「あー、ええとですね。……師匠と約束してたのに、遅れてごめん、ネ?」

 詰問され、ようやく出てくる謝罪の言葉。その口調はやはり気安げで、両手を合わせて小首をかしげてみせる。自分の武器をよく分かっているからこそできる、実にあざとい仕草だ。
 そんなもので俊平の心が揺らぐはずはない。……ということはなくもないのだが、それを悟られないようにわざとらしく声を低める。

「可愛い子ぶるな。どうせ道場だったんだろうけど、遅れるなら連絡してくれ。こっちも心配する」
「ホントにゴメンって。でも、メッセージは返したよ? それまでは集中したくてスマホの電源切ってたけど」
「……嘘言ってねえだろうな」

 と言いつつ確認してみると、たしかに十五分ほど前にメッセージが入っていた。かなり慌てて打ったらしく、『今から道場出ます』が『居間から同情出ます』と見事に誤字っている。
 スマートフォンの画面から視線を上げると、こちらを窺うような美亜の上目遣いとかち合った。
 炎天下のもと、自転車をかっ飛ばしてきたのだろう。
 不安げな彼女の頬は鮮やかに紅潮し、汗に濡れた乱れ髪が張り付いている。
 いつもならば純白の首筋もほのかに上気し、シトラスが香る肌には汗の玉が滴り落ちた。
 雫はそのまま鎖骨の縁をたどり、ボタン二つ外しの胸元へ。緩んだ襟元から覗く谷間へと消えていく。
 疾走の余韻か、未だに大きく上下する胸の膨らみは、特別豊かというわけではない。それなのに、双丘がブラウスを何度も押し上げる様からは、知らず知らずのうちに目が離せなくなっていた。
 そして、汗に濡れたブラウスの薄い生地は、当然に下着の青い縁取りを透かし出していて――。
 そこで俊平はハッとして、その場から弾けるように立ち上がった。

「あ、あの。シュン君?」

 ものも言わずに席を立ったものだから不安を覚えたのだろう。恐る恐るといった感じで美亜が見上げてくる。

「……とりあえず冷たい茶でも入れてやるから、先に駒並べといてくれるか」

 内心の動揺を気取られないようにあえて不機嫌を装い、俊平はすぐに背を向ける。
 間を置かず「うん!」と美亜の明るい返事。続けて彼女が準備に取り掛かる物音を、キッチンに向かう背中に聞く。
 そのてらいのなさに、ホッと安堵の吐息が漏れる。と同時に、頭の片隅で燻る若干のうしろめたさ。
 先ほどまでの何か文句を言ってやろうという気など、いつの間にか削がれてしまっていた。

「喉乾いてるだろうし、多めがいいか?」

 いつになく早足で辿り着いたキッチン。わざとらしい独り言で先ほどの光景をかき消しつつ、手早く飲物の準備をする。
 両手の平に心地よく感じる冷たさに落ち着きを取り戻しながら帰ってくると、既にローテーブルの上には道具が揃っていた。
 折り畳み式の木製盤に、同じく木製の書き駒。安手作りの、しかし手になじんだ俊平の私物達である。
 それと、青いプラスチックボディのチェスクロック。これだけは美亜が持ち込んだものだ。裏側の剥がれかけたラベルには『富永将棋道場』と印字されているので借りてきたのだろう。
 俊平が近づいてきても、美亜は一顧だにせず黙々と駒を並べ続ける。
 四〇枚の駒は既にその半分以上が定位置についている。そのいずれも、些かの歪みなく敵陣を睨んでいた。

(……それにしても)

 いつしか見慣れたこの光景を前に、今さらながらに俊平は内心苦笑する。
 若い男女が男の部屋で二人きりで会う約束。
 文章にしてみれば何か蠱惑的な単語の羅列。色っぽいイベントの一つや二つ、起きそうなシチュエーションではある。
 しかし、そんな甘酸っぱい幻想は、卓上に据えられた八一マスの木製盤が全て台無しにする。
 つまるところ俊平と美亜との約束とは――、”将棋コレ”に他ならないわけで。

(普通に考えたら、どう見たって似合わないもんな)

 一見すると、美亜は実に今どきの女子高生らしい見た目の少女だ。暇さえあればSNS映えを求めて東奔西走しているような、青春真っただ中のまばゆい女の子。
 そんな彼女が親父くささの象徴のような将棋と向き合う、この構図である。
 彼女に将棋を教えた張本人たる俊平でさえ、時折このギャップには猛烈な違和感を覚えることがある。ましてや彼女のことをよく知らず、外見だけに惹かれて近づいてきた人間であれば驚かない者などいないだろう。
 どうして将棋? と。
 けれども、見る人が見たならば気づくはずだ。
 彼女のピンと背筋の伸びた正座姿。
 盤上に注がれる鋭い視線。
 駒を並べる流れるような所作。
 年若いが、とても素人ではないだろう、と。

「一息ついてから始めるか?」
「大丈夫。だいぶ汗引いてきたし、時間も押しちゃってるから」
「わかった。……じゃあ、振り駒お願いします」
「はい」

 駒を並べ終え、美亜がお茶でのどを潤したのを見計らい、俊平が声をかける。
 先手後手を決める振り駒は格上の対局者の権利だ。年齢差など、将棋の実力の前にはまるで関係ない。
 美亜が五枚の歩を摘まみ、重ねた両手の中で振り混ぜる。やがて軽い音とともにバラまかれた駒は、きれいに盤上付近で収まった。
 “歩”が四枚に、”と”が一枚。美亜の先手だ。
 俊平はそれを確認し、対局時計を自分の右手側に置く。
 姿勢を正したところで、二人の視線が交わった。吸い込まれそうに深い灰青の瞳に射すくめられ、俊平の背筋に思わず鳥肌が立つ。
 彼女との本気の対局の時はいつもそうだ。まるで自分が獲物として狙われているかのような、空恐ろしい心地。

「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」

 互いに頭を下げ、俊平がチェスクロックのボタンを軽く押す。ピッという無機質な音が対局開始を告げる。
 数秒ばかりの静寂ののち、美亜の指先がスッと盤面に伸びた。
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