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第五章 完全なる推理
襲撃者
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目が覚めると、ベッドの上だった。
あれからどのくらい時間が経過したのか。
酷く喉が渇いている。
「気が付いたか?」
城ケ崎はテーブルに腰かけて、ペットボトルの烏龍茶を飲みながら詰将棋の問題集に視線を落としている。
「……はい」
わたしの口からかすれた声が漏れる。
恐らく、今いるのはわたしか城ケ崎の部屋だろう。
詰将棋。
こんなときでも、城ケ崎九郎なら問題の難易度は変わらないと言うに違いない。
――城ケ崎から聞いた、駒が次々に消えていくあの不可思議な詰将棋。
――あれは、何と言ったか?
「こんなときに何だが、屋上で話したことは忘れてくれ。眉美、色々悪かった」
城ケ崎のその一言で、わたしは気を失う直前の状況をはっきりと思い出した。
「…………」
急に居心地が悪くなって、思わず黙り込んでしまう。心拍数が早まり、顔が赤くなるのが自分でも分かる。
いっそこのままずっと寝たふりをして、やり過ごしてしまいたい気分だった。
否。
今はそれどころではない。
どうしても一つ、城ケ崎に確認しておかなければならないことがある。
「……あの、先生」
「どうした?」
「先生はわたしを襲った犯人の顔を見ましたか?」
わたしはゴクリと唾を飲み込んだ。
「いや、残念だが。お前を殴った奴はガスマスクで顔を隠していた。すぐに追いかけようとも考えたが、お前を放っておくわけにもいかなかったしな」
城ケ崎は詰将棋の問題集を閉じると、冷蔵庫の中からミネラルウォーターを持ってきてくれた。
「飲め」
「それ、嘘ですよね?」
城ケ崎は表情のない顔でじっとわたしを見下ろしていた。
「すまん、よく聞こえなかった」
「わたしを背後から殴って気絶させたのは先生ですよね?」
城ケ崎は無反応だ。
構わずわたしは話を続ける。
「というより、先生以外には考えられないんですよ。あのとき、既に吹雪は止んでいました。わたしが屋上に来た時点で、先生の足跡の他に雪の上には誰の足跡もありませんでした。更に屋上には給水タンクのような、身を隠せそうなものは一切ありません。つまり、あのとき屋上にはわたしたち二人以外に誰もいなかったということです」
「犯人はお前の後に屋上に上がって来た」
「いいえ先生、それはもっとあり得ないことです。屋上の引き戸には地下室から持ってきた剣を立て掛けておきましたから。わたしの後に誰かがドアを開ければ、剣が落ちて必ず音が鳴る筈です。以上の理由から、わたしを殴ることが出来たのは先生しかいないことになります」
「ふん」
一瞬の静寂。
「……だがオレがお前を殴ったとするなら、一つ大きな疑問が残るな。お前が殴られる直前、オレはお前に突き飛ばされた。オレとお前との間には約三メートル程の距離があった筈だ。そのオレに、どうやってお前を背後から襲うことが出来たんだ?」
「ブーメランですよ」
そこで城ケ崎が一瞬だけ笑ったように見えた。
「先生はブーメランを使って、わたしの後頭部を殴ったのです。ブーメランを投げたのは、恐らくわたしが先生を突き飛ばす直前でしょう。先生がわたしに接近したのは、わたしからブーメランを投げる手元を隠す為なんですよね?」
そして城ケ崎が尻餅をつくと同時に、帰ってきたブーメランがわたしの後頭部に直撃する寸法だ。
わたしを屋上に呼んだのも、屋外でなくてはブーメランを使うことが出来なかったからだ。
分かってしまえば子供にでも分かる、簡単なトリックである。
「答えて下さい。先生は一体何の為にこんな回りくどいことをされたのですか? 単にわたしを襲うことが目的なら、わたしを屋上に誘き寄せた時点で決着は付いていた筈です。わたしには名探偵である先生に太刀打ちする術なんてないのですから」
「……少し、思い違いをしているようだな」
城ケ崎は少しもずれていない眼鏡を左手で押さえている。
「お前を襲ったのはお前を殺す為ではない。むしろ助ける為だ。出来れば、お前を襲ったことも犯人の仕業に仕立て上げたかったのだがな。お前はオレの真の目的の為に、どうしても必要な存在なのだから」
「……真の目的?」
「完全なる推理だよ」
そこで表情のない男の顔が、初めてはっきりと歪んだ。唇がだらしなく開き、瞳は爛々と輝いている。
「推理小説に登場する名探偵には、自分が推理した結論が正解であるか否かを判断する術がない。何故なら、名探偵自身には保有しているデータが推理に必要な全てのデータであるかどうかが分からないからだ。真の正解を知り得るのは世界の創造主たる著者と、神の視点を持つ読者だけだ」
「……何の話をしているんです? わたしたちは今、現実に起きている殺人事件に巻き込まれているんですよ」
「ふん」
城ケ崎はそこで緩んだ顔を一度引き締める。
「そんなのはどっちも同じようなものだ。虚構にせよ現実にせよ、完全なる推理などというものは幻想に過ぎないという根幹は変わらない」
「だから、それが今回の事件と何の関係が?」
「その幻想をこれから見せてやろうと言うのさ。オレがこれから行うのは一分の隙も無い、完全なる推理だ。お前はその為にどうしても必要な駒だったのだ。お前に気絶して貰ったのは、それまでにお前に死なれてしまっては全てが台無しになるからだ。お前はこの事件の生き証人となるのだからな」
あれからどのくらい時間が経過したのか。
酷く喉が渇いている。
「気が付いたか?」
城ケ崎はテーブルに腰かけて、ペットボトルの烏龍茶を飲みながら詰将棋の問題集に視線を落としている。
「……はい」
わたしの口からかすれた声が漏れる。
恐らく、今いるのはわたしか城ケ崎の部屋だろう。
詰将棋。
こんなときでも、城ケ崎九郎なら問題の難易度は変わらないと言うに違いない。
――城ケ崎から聞いた、駒が次々に消えていくあの不可思議な詰将棋。
――あれは、何と言ったか?
「こんなときに何だが、屋上で話したことは忘れてくれ。眉美、色々悪かった」
城ケ崎のその一言で、わたしは気を失う直前の状況をはっきりと思い出した。
「…………」
急に居心地が悪くなって、思わず黙り込んでしまう。心拍数が早まり、顔が赤くなるのが自分でも分かる。
いっそこのままずっと寝たふりをして、やり過ごしてしまいたい気分だった。
否。
今はそれどころではない。
どうしても一つ、城ケ崎に確認しておかなければならないことがある。
「……あの、先生」
「どうした?」
「先生はわたしを襲った犯人の顔を見ましたか?」
わたしはゴクリと唾を飲み込んだ。
「いや、残念だが。お前を殴った奴はガスマスクで顔を隠していた。すぐに追いかけようとも考えたが、お前を放っておくわけにもいかなかったしな」
城ケ崎は詰将棋の問題集を閉じると、冷蔵庫の中からミネラルウォーターを持ってきてくれた。
「飲め」
「それ、嘘ですよね?」
城ケ崎は表情のない顔でじっとわたしを見下ろしていた。
「すまん、よく聞こえなかった」
「わたしを背後から殴って気絶させたのは先生ですよね?」
城ケ崎は無反応だ。
構わずわたしは話を続ける。
「というより、先生以外には考えられないんですよ。あのとき、既に吹雪は止んでいました。わたしが屋上に来た時点で、先生の足跡の他に雪の上には誰の足跡もありませんでした。更に屋上には給水タンクのような、身を隠せそうなものは一切ありません。つまり、あのとき屋上にはわたしたち二人以外に誰もいなかったということです」
「犯人はお前の後に屋上に上がって来た」
「いいえ先生、それはもっとあり得ないことです。屋上の引き戸には地下室から持ってきた剣を立て掛けておきましたから。わたしの後に誰かがドアを開ければ、剣が落ちて必ず音が鳴る筈です。以上の理由から、わたしを殴ることが出来たのは先生しかいないことになります」
「ふん」
一瞬の静寂。
「……だがオレがお前を殴ったとするなら、一つ大きな疑問が残るな。お前が殴られる直前、オレはお前に突き飛ばされた。オレとお前との間には約三メートル程の距離があった筈だ。そのオレに、どうやってお前を背後から襲うことが出来たんだ?」
「ブーメランですよ」
そこで城ケ崎が一瞬だけ笑ったように見えた。
「先生はブーメランを使って、わたしの後頭部を殴ったのです。ブーメランを投げたのは、恐らくわたしが先生を突き飛ばす直前でしょう。先生がわたしに接近したのは、わたしからブーメランを投げる手元を隠す為なんですよね?」
そして城ケ崎が尻餅をつくと同時に、帰ってきたブーメランがわたしの後頭部に直撃する寸法だ。
わたしを屋上に呼んだのも、屋外でなくてはブーメランを使うことが出来なかったからだ。
分かってしまえば子供にでも分かる、簡単なトリックである。
「答えて下さい。先生は一体何の為にこんな回りくどいことをされたのですか? 単にわたしを襲うことが目的なら、わたしを屋上に誘き寄せた時点で決着は付いていた筈です。わたしには名探偵である先生に太刀打ちする術なんてないのですから」
「……少し、思い違いをしているようだな」
城ケ崎は少しもずれていない眼鏡を左手で押さえている。
「お前を襲ったのはお前を殺す為ではない。むしろ助ける為だ。出来れば、お前を襲ったことも犯人の仕業に仕立て上げたかったのだがな。お前はオレの真の目的の為に、どうしても必要な存在なのだから」
「……真の目的?」
「完全なる推理だよ」
そこで表情のない男の顔が、初めてはっきりと歪んだ。唇がだらしなく開き、瞳は爛々と輝いている。
「推理小説に登場する名探偵には、自分が推理した結論が正解であるか否かを判断する術がない。何故なら、名探偵自身には保有しているデータが推理に必要な全てのデータであるかどうかが分からないからだ。真の正解を知り得るのは世界の創造主たる著者と、神の視点を持つ読者だけだ」
「……何の話をしているんです? わたしたちは今、現実に起きている殺人事件に巻き込まれているんですよ」
「ふん」
城ケ崎はそこで緩んだ顔を一度引き締める。
「そんなのはどっちも同じようなものだ。虚構にせよ現実にせよ、完全なる推理などというものは幻想に過ぎないという根幹は変わらない」
「だから、それが今回の事件と何の関係が?」
「その幻想をこれから見せてやろうと言うのさ。オレがこれから行うのは一分の隙も無い、完全なる推理だ。お前はその為にどうしても必要な駒だったのだ。お前に気絶して貰ったのは、それまでにお前に死なれてしまっては全てが台無しになるからだ。お前はこの事件の生き証人となるのだからな」
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