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凄惨(仮)

第12話

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 俺がミステリを嫌うようになったのは何時頃だったか? 子どもの頃は名探偵に憧れ、貪るように推理小説を読んでいた記憶がある。

 俺がミステリを嫌うようになった理由。それは最大多数の最大幸福が生み出すジレンマだ。
 事件の謎を解き、真実を明らかにしたところで、誰もが幸せになれるわけではない。小説のように名探偵が事件を解決して大団円となるとは限らないのだ。むしろ、事件が解決したことで死人の数が増えることも往々にしてある。

 ――ならば、名探偵とは何の為に存在するのか?

「そこまでだ、綾部あやべ麻衣まいさん」

 深夜零時。
 俺は駅近くにある公園の大きなクヌギの木に向かって、その名前を呼んだ。
 丈夫そうな木の枝にはロープの輪が括り付けられており、外灯がそれを煌々と照らしている。

「来ないで」
 綾部麻衣は今にも踏み台を蹴り飛ばし、首にかけたロープで首吊り自殺を図ろうとしているところだった。

「それ以上近づいたら舌を噛んで死ぬんだから!」

 近づかなくともどうせ首を吊って死ぬつもりだろうにと俺は内心で思うが、勿論口には出さない。
「麻衣さん、馬鹿な真似は止してください」
「馬鹿な真似? 貴方に私の気持ちが分かるっていうの?」

 しんの供述によれば犯行の動機は、黒田くろだ氏を義兄と呼ぶことが堪らなく嫌だったからという他愛もないものだった。早い話がただの嫉妬だ。
 しかし、麻衣の立場からすればそれはどうだろうか? 自分にとって最も大切な二人を、自分の所為で失ったと感じても不思議ではない。

「分かりますよ。だからこうして助けに来ました」
「嘘よ。私がどんなに傷ついたのか、貴方に分かる筈がない!」
 麻衣は千切れるのではないかと不安になるくらい、ぶんぶん首を振っている。

「皆に料理の味をけなされて、私がどんなに傷ついたか!」

 ――え?

「そっち?」
 俺は何だか気が抜けて、その場にへたり込んでしまった。まさかそんな理由で死ぬつもりだったとは。

「何よ、他人がどんな理由で死のうと勝手じゃない!」

 確かに。
 それはそうだが。

「……えーと、ならば麻衣さん、貴女に自殺する理由はありませんよ。だって貴女の料理の腕は本物なのだから」

「え?」
 麻衣は一瞬、初めて会ったときのように目を丸くした。
「……い、今更そんな気休めを言ってももう遅いんだから!」

「気休めなんかじゃありません」
「だったらあのとき、何故あんなことを言ったのよ?」

 俺は麻衣の作ったビーフストロガノフの味を思い出していた。あればかりはお世辞にも美味いとは言い難い。多分、一生忘れられない味だろう。

「トリックですよ」

「トリック?」

「心くんは何も最初から黒田さんを殺害しようとしていたわけではなかった。おそらく、あなたが黒田さんの為に料理を作る度に、味を壊すようなものを一服盛っていたのでしょう。それであなた方二人の関係を引き裂こうと画策かくさくしていたのです。けれど黒田さんはあなたの料理の味に首を捻りつつも、表面上何事もないかのように堪え続け、あなたとの結婚を決して諦めようとはしなかった。今回の悲しい事件の背景にはそういった事情が隠されていたのです」

「でも待ってください、あのときは既に幹彦さんはもう……」
「その点に関しては謝っておかなくてはなりません」

 何故ならあのとき、麻衣の料理の味を破壊したのはうちの小林こばやしに他ならないのだから。

 考えてみれば不自然ではあったのだ。小林は直前まで自分が麻衣の料理を食べると言っておきながら、料理を前にした途端、すぐに俺に食べるよう仕向けた。あれは料理に一服盛る為の行動だったのではないか?
 事件解決の為なら手段を選ばない小林なら、そのくらい充分やりかねないことだった。
 もっとも、今の推理を思いついたのはつい先刻のことなのだが。

「さあ、これであなたが死ぬ理由はなくなりました。何か反論があるようなら伺いますが?」
 俺はそう言うと、小林を真似して意地悪く笑った。 

     〇 〇 〇

 翌日、俺は鏑木かぶらき探偵事務所で小林が学校から帰ってくるのを今か今かと待っていた。無論、昨日小林が行ったことを糾弾きゅうだんする為だ。これであの生意気な小娘にひと泡吹かすことが出来るというものだ。

 しかし、学校から帰ってきた小林は意外な人物を連れて来ていた。
 綾部麻衣である。

「さっきそこで偶然会ったのだ。何でもお前に礼を言いたいらしい」
 小林はつまらなそうにそう説明した。

「その節はありがとうございました。鏑木さんは命の恩人です」
 麻衣は深々と頭を下げて殊勝しゅしょうにそんなことを言うが、俺としては困ってしまうばかりである。俺が命の恩人となる元凶は目の前で仏頂面をしているのだから。

「もし宜しければ暫くここで働かせて貰えないでしょうか? 鏑木さんのお役に立ちたいのです。勿論、お給料は結構ですので」

「いや、あのですね、俺はそんなつもりは……」

「分かっております。鏑木さんは他人に恩を着せるような方ではないのでしょう。しかし、それでは私の方の収まりがつきません」

「ええっと、その……」
 完全に出鼻をくじかれた。
 そしてことの原因を作った小林はというと「まァいいんじゃないか?」などと能天気なことを言っている。

「なんなりとお申し付け下さいませ、御主人様」

「…………」
 それは何か違う気がする。

「……分かりました。ではその、コーヒーを作ってきてくれませんか?」
「はい、すぐに御用意致します」

 麻衣が素直にキッチンの方に消えてくれて、俺は安堵あんどの溜息をつく。これでようやく小林と対決出来るが、最早そういう気分ではなくなっていた。

「小林、昨日の青酸カリの事件、何処で心が犯人だと気付いたんだ?」
 代わりに俺は昨日からずっと気になっていたことを尋ねることにした。

「最初に心を見た瞬間だな。口元からほのかにアーモンド臭がしたのが決定的だった」

 青酸カリの中毒死を見分ける方法の一つに「死体からアーモンド臭がする」というのがある。ミステリなんかでは比較的お馴染みのフレーズなのだが、アーモンド臭といってもアーモンドの香ばしい匂いがするわけではない。実際には青酸カリが胃酸と反応したときの匂いは、甘酸っぱいもの(収穫前のアーモンドの匂い)だ。

「……えーと、俺の記憶が確かなら、小林はそのことを知らず、アーモンドの匂いがしないことを不服そうにしていたと思うのだが」

「あれは犯人を油断させる為の芝居だ。被害者以外の口元からアーモンド臭がし、尚且つそのことを黙っているのだから、犯人は自ずと分かる」

 そう説明されればなるほど、謎はない。小林、恐るべしである。

「もう一つ訊きたいのだが」
 どの段階で、心が麻衣の料理に細工していたことに気付いたのか?

「コーヒー、出来ましたよ」

 俺のその問いは麻衣のその言葉でかき消された。しかし、そんなことは最早どうでもいい。
 温かいコーヒーの香りが不思議とそんな穏やかな気持ちにさせてくれた。

「ありがとうございます」

 俺はカップを受け取り、麻衣のれたコーヒーを口に含んだ。
 次の瞬間。

「う」

 口の中の異変と小林の潔白けっぱくを理解したのは同時だった。

 そして、俺は盛大にコーヒーを噴き出した。
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