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湯を沸かして水にする

第5話

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 その日は珍しく鏑木かぶらき探偵事務所のソファに依頼人が腰掛けていた。

 高級そうなスーツを着た、丸々と太った中年男性だ。男は少しも汗をかいてもいないのに、しきりにハンカチで額を拭っている。

「私、マンション経営をしております、田原たはら伝助でんすけと申します」
 田原はそう言って俺に名刺を差し出す。

「……マンションの経営者?」
「ええ」

 もしかしたら、これは太客かもしれない。
 俺は居住まいを正した。

「先日、マンションの一室が事故物件になってしまいまして」
「まさか、殺人ですか?」
 俺は反射的にそう尋ねた。

 俺は殺人事件が大の苦手である。そこに「密室」や「連続」などの言葉か付くと、蕁麻疹じんましんができる程だ。そんなことを言うと知り合いの十人中十人が「探偵の癖に」と言って笑うのだが、そんなのは俺の勝手である。

 しかし、そんな俺の心配は杞憂きゆうだった。

「いやいや、ただの自殺ですよ。首吊り自殺。亡くなった方は半年前からうつ状態が続いていたそうでして、警察は事件性はないと発表しました」
「……そうですか」

 自分でも気付かないうちに緊張していたらしい。自然と安堵の溜息が出る。

「でしたら本日はどういった御用件で?」
「問題のその事故物件なんですがね、どうも出るらしいんですよ」
 田原は大きな体を縮こまらせてぶるぶる震わせる。

「……で、出るって?」
 そんなの決まっている。
 事故物件の部屋に出るものなんて、一つしか考えられない。

「これではこの部屋に借り手がつきません。そこで鏑木さんに調査を依頼したいのです。部屋の中を調べて貰って、可能なら霊をはらって戴きたい」

「…………」

 俺は依頼を引き受けるべきか否かを暫し逡巡しゅんじゅんする。殺人の絡まない仕事の依頼は望むところであるが、かといって俺に拝み屋や霊能力者の真似事が務まるとも思えない。

「……田原さん、折角のお話ですが」
「引き受けて戴けるなら、調査費用に三十万円お出しします。霊が祓えたなら追加料金としてプラス二十万円ではどうでしょう?」

 ――事故物件の部屋を見に行くだけで三十万円。
 ――迷うまでもない。破格の条件だ。

「やらせて戴きます」

     〇 〇 〇

「……それで引き受けたのか?」

 俺は学校から帰ってきた小林こばやしこえに仕事の内容を話す。小林は俺が雇ったアルバイトのようなものだ。

「ああ。断る理由がないだろ」
 事故物件のマンションの一室を調べるだけで三十万円の仕事だ。引き受けない手はない。

「幾ら何でも話が旨すぎる。何か裏があるとしか思えないな」
「裏って何だよ?」
「それはまだ分からないが……」
「何だ、分からないんじゃないか」
「だがどうにも怪しい。鏑木、この依頼は断るべきだ。お前の手に負える仕事じゃない」
 この発言には流石の俺でもカチンとくる。

「今日はやけに突っかかってくるじゃないかよ小林。さてはお前、依頼内容に事件性がないからってねてるのか?」

 小林声は三度の飯より事件と謎を愛する女子高生である(背が低いのと髪が短い所為で、小学生の男の子のような外見だが)。
 これまでにも幾つもの事件を解決しており、俺は正直この生意気な探偵助手に頭が上がらない。
 そして喜ばしいことに、ここ数日は小林に出番が回ってくることはなかった。

「それは逆だな。既に相当キナ臭い話だぞ、これは」
「そうまで言うならお前も一緒に来ればいいだろ?」

「……残念だがそれは出来ない」
 小林は深刻な顔で俯いてしまう。

 いよいよ様子がおかしい。
 普段の小林なら、怪しげな話には率先して首を突っ込んで来るのだ。それなのに今は怯えたように目を伏せている。

「……小林、まさかとは思うんだが」
「……何だ?」

「お前、死体が平気な癖にお化けが怖かったりする?」

 小林がキッと俺を睨みつける。
「仕方ないだろう。幽霊なんて存在しないことは頭では理解している。でも怖いものは怖いのだ。こればかりは理屈ではないのだ」

「…………」

 ――名探偵の意外過ぎる弱点。

「って、おいこら鏑木! 何が可笑しい!」
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