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分裂マトリョーシカ
第1話
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第一印象最悪の出会いから次第に恋に落ちていくという展開は、少女漫画の世界では割とベタな部類に入るが、俺にとって達磨軒のラーメンの味は、正にそれであった。
達磨軒のラーメン最大の特徴は、まるでドブ川を流れるヘドロのような秘伝のスープにある。あまりの濃厚さに、丼の中のスープを全て飲み干すと、寿命が一年縮むとも言われている程だ。
俺が初めて達磨軒のラーメンを食べたとき、濃厚過ぎるスープに胸焼けしてしまい、二度と来てやるかと思ったものである。しかしそれから一週間後、気が付いたときには俺は達磨軒の暖簾を然も当然のような顔をして潜っていた。我ながら俄かに信じられないことではあるが、あのドロドロで不健康な味を身体が自然と求めていたのである。
それからは週に一度は達磨軒に足を運ぶようになり、今ではすっかりあの味の虜になってしまっていた。
〇 〇 〇
達磨軒の薄汚れた店内には、屋号にあやかってか、大小様々な達磨が所狭しと飾られている。達磨たちの顔はどれも一つ一つ手書きらしく、皆それぞれ少しずつ違う表情をしていた。
俺がカウンターの隅の席から何時ものようにラーメンと焼餃子を注文すると、達磨大師のように立派な髭を蓄えた禿頭の店主は「うィ~」だか「うェ~」だかといった山羊のような声を発した。余談だが、俺はまだこの店主が人間の言葉を話しているところを見たことがない。
スポーツ新聞を読みながらラーメンがくるのを待っている間、横から不意に粘着質な視線を感じる。恐る恐るスポーツ新聞を折り畳むと、隣の席に白髪交じりの貧相な男の顔があった。年の頃は五十歳前後。黒い学ランのような服を身に纏っている。男は俺の方を見ながらニヤニヤと薄気味悪い笑みを浮かべていた。
俺は全速力で男から視線を逸らした。ヤバイヤバイ。あれは絶対にヤバイ顔だ。あ
んなのとは関わらないに越したことはない。そんなことより餃子はまだだろうか。
「もしもし」
「はい」
話しかけられた。しかも条件反射でつい返事してしまった。こういうときは無視を決め込むか、その場を立ち去るかの二択しかないのに。最悪だ。痛恨のミスである。
「顔色が悪いようですがどうかなさいましたか?」
「いやその、急に腹痛が」
「それはいけませんね。これをどうぞ」
そう言って男が黒い手提げ鞄から取り出したのは、薬の入った小汚い壜である。
「もう治ったんで結構です」
嗚呼、早く帰りたい。俺のそんな思いとは裏腹に、男は黄色い歯を見せて一方的に話し始めた。
「貴方もここのラーメンのファンなんですね。そうですか、そうですか。これは奇遇だ。では、袖触り合うも他生の縁ということで自己紹介させて戴きます。私の名は恵比寿。近くの教会で牧師をやっております。ところで貴方は神を信じますか?」
「はァ、そういうことはよくわかりませんけど……」
思った通りだ。どうせ宗教の勧誘か何かだろう。
「神は常に私たちのことを見守っておいでですよ。という話はまた今度するとして、ここだけの話なんですが実は私、神通力を持つ神の使いなのです」
これは想像以上だった。
「あ、その顔は信じてませんね?」
「いえ、決してそんなことは」
「いーや、絶対に信じてない」
「だからそんなことないですって」
というより、ガキの使いだろうがリュウグウノツカイだろうが、俺の知ったことではない。
「いやいや、別にいいんですよ。別に責めてるわけではありません。いきなり神の使いとか言われて信じるという方がどうかしています」
「はァ」
一応そういう認識はあるらしい。
「そこで相談なのですが、私と勝負して戴けませんか?」
「勝負、ですか?」
「勝負というか、まァほんの遊びみたいなものです。私の神の力を本物だと証明出来れば私の勝ち。もし私の力をインチキだと証明出来れば貴方の勝ち、というのはどうでしょうか? そして負けた方が相手の食事代を払う」
「面白い」
俺は不覚にも笑うのを堪え切れなかった。
「それで恵比寿さん、勝負の方法は?」
「これを使います」
そう言って恵比寿が手にとったのは、親指くらいのサイズの小さな達磨である。
「この店の中には全部で12体の達磨が飾られています。この達磨はその中で一番小さいものです。達磨はこの一番小さいもの以外、全て上下に分割することができ、中は空洞になっています。貴方は一番小さい達磨を店内に飾られている11体の達磨の中のどれか一つに隠す。それを私が当てて見せましょう」
なるほど。恵比寿が小達磨の入った達磨を当てる確率は11分の1。まぐれで当てられない確率とは言えないまでも、圧倒的に俺に有利な条件だ。
「勝負の前に一応俺の方も名乗っておきましょうか。鏑木俊、私立探偵を営んでいます」
「ほゥ、探偵さんでしたか。それは丁度いい。相手にとって不足なしです」
恵比寿は満足そうに頷いた。
恵比寿が探偵に対してどういったイメージを抱いているかは知らないが、俺は殺人事件を華麗に推理するような類の人間では断じてない。俺は探偵物語の工藤ちゃんや濱マイクに憧れて探偵を志したのであって、連続殺人や密室トリックには興味がないのだ。
「それでは始めましょうか。小達磨を隠す制限時間は私が注文したラーメンが来るまで。その間、私はアイマスクで目隠ししているのでご心配なく」
俺は恵比寿から小達磨を受け取ると、店内をぐるりと見渡した。
もし恵比寿が何らかのトリックを使って小達磨の隠した場所を知ることが出来るというなら、まず最初に疑ってかかるべきは今俺の手の中にある、この小達磨だろう。例えば小達磨に磁石が仕込まれていると考えるなら、隠し持ったもう一つの磁石を近付けるだけで容易に隠し場所を探り当てることができる。
但しこのトリックは恵比寿が小達磨の場所を言い当てた後にボディチェックさえすれば、簡単に見破ることができるだろう。
次に警戒すべきは小達磨を隠すときの物音だ。俺が小達磨を隠す間、恵比寿は当然耳を欹てて隠し場所を知る可能性がある。ならば念入りにフェイントを入れておくに越したことはない。
最後に考慮する必要があるのは、アイマスクに隙間がある場合だ。
俺は小達磨の隠し場所に、カウンターに座っている恵比寿から死角の位置にある入口付近の達磨を選んだ。
「隠しました」
「結構です。ふむ、中々いいところに隠しましたね、鏑木さん」
恵比寿はアイマスクを外して割り箸を綺麗に割ると、ズルズルと勢いよくラーメンを啜った。
「まさかもう隠し場所が分かったんですか?」
「ええ、当然です」
恵比寿は余裕の表情で、レンゲに掬ったドロドロスープを飲んでいる。
「ではどこに隠したか当ててみて下さい」
「まァまァ、それより今はラーメンが先決です。ここのラーメンは放って置くと、油でスープの表面が固まってしまいますからね。鏑木さんも急いで食べた方がいい」
「…………」
どうにも胡散臭い。これは偏見かもしれないが、牧師があの学ランみたいな格好でラーメン屋に来ている時点で既に異様だ。その牧師が神通力などという言葉を平気で口にする。
しかも恵比寿は小達磨を隠した位置が分かったと言ったにも拘らず、隠した達磨の方をまだ一度も見ていないのだ。
「では、そろそろいかせて貰いますよ」
恵比寿はそう言うと、丼を抱えて一気にスープを胃に収めた。
「貴方が小達磨を隠したのはあそこです」
「なッ!? 」
恵比寿が指差した先にあるのは、紛れもなく俺が小達磨の隠し場所に選んだ隻眼の達磨だった。
達磨軒のラーメン最大の特徴は、まるでドブ川を流れるヘドロのような秘伝のスープにある。あまりの濃厚さに、丼の中のスープを全て飲み干すと、寿命が一年縮むとも言われている程だ。
俺が初めて達磨軒のラーメンを食べたとき、濃厚過ぎるスープに胸焼けしてしまい、二度と来てやるかと思ったものである。しかしそれから一週間後、気が付いたときには俺は達磨軒の暖簾を然も当然のような顔をして潜っていた。我ながら俄かに信じられないことではあるが、あのドロドロで不健康な味を身体が自然と求めていたのである。
それからは週に一度は達磨軒に足を運ぶようになり、今ではすっかりあの味の虜になってしまっていた。
〇 〇 〇
達磨軒の薄汚れた店内には、屋号にあやかってか、大小様々な達磨が所狭しと飾られている。達磨たちの顔はどれも一つ一つ手書きらしく、皆それぞれ少しずつ違う表情をしていた。
俺がカウンターの隅の席から何時ものようにラーメンと焼餃子を注文すると、達磨大師のように立派な髭を蓄えた禿頭の店主は「うィ~」だか「うェ~」だかといった山羊のような声を発した。余談だが、俺はまだこの店主が人間の言葉を話しているところを見たことがない。
スポーツ新聞を読みながらラーメンがくるのを待っている間、横から不意に粘着質な視線を感じる。恐る恐るスポーツ新聞を折り畳むと、隣の席に白髪交じりの貧相な男の顔があった。年の頃は五十歳前後。黒い学ランのような服を身に纏っている。男は俺の方を見ながらニヤニヤと薄気味悪い笑みを浮かべていた。
俺は全速力で男から視線を逸らした。ヤバイヤバイ。あれは絶対にヤバイ顔だ。あ
んなのとは関わらないに越したことはない。そんなことより餃子はまだだろうか。
「もしもし」
「はい」
話しかけられた。しかも条件反射でつい返事してしまった。こういうときは無視を決め込むか、その場を立ち去るかの二択しかないのに。最悪だ。痛恨のミスである。
「顔色が悪いようですがどうかなさいましたか?」
「いやその、急に腹痛が」
「それはいけませんね。これをどうぞ」
そう言って男が黒い手提げ鞄から取り出したのは、薬の入った小汚い壜である。
「もう治ったんで結構です」
嗚呼、早く帰りたい。俺のそんな思いとは裏腹に、男は黄色い歯を見せて一方的に話し始めた。
「貴方もここのラーメンのファンなんですね。そうですか、そうですか。これは奇遇だ。では、袖触り合うも他生の縁ということで自己紹介させて戴きます。私の名は恵比寿。近くの教会で牧師をやっております。ところで貴方は神を信じますか?」
「はァ、そういうことはよくわかりませんけど……」
思った通りだ。どうせ宗教の勧誘か何かだろう。
「神は常に私たちのことを見守っておいでですよ。という話はまた今度するとして、ここだけの話なんですが実は私、神通力を持つ神の使いなのです」
これは想像以上だった。
「あ、その顔は信じてませんね?」
「いえ、決してそんなことは」
「いーや、絶対に信じてない」
「だからそんなことないですって」
というより、ガキの使いだろうがリュウグウノツカイだろうが、俺の知ったことではない。
「いやいや、別にいいんですよ。別に責めてるわけではありません。いきなり神の使いとか言われて信じるという方がどうかしています」
「はァ」
一応そういう認識はあるらしい。
「そこで相談なのですが、私と勝負して戴けませんか?」
「勝負、ですか?」
「勝負というか、まァほんの遊びみたいなものです。私の神の力を本物だと証明出来れば私の勝ち。もし私の力をインチキだと証明出来れば貴方の勝ち、というのはどうでしょうか? そして負けた方が相手の食事代を払う」
「面白い」
俺は不覚にも笑うのを堪え切れなかった。
「それで恵比寿さん、勝負の方法は?」
「これを使います」
そう言って恵比寿が手にとったのは、親指くらいのサイズの小さな達磨である。
「この店の中には全部で12体の達磨が飾られています。この達磨はその中で一番小さいものです。達磨はこの一番小さいもの以外、全て上下に分割することができ、中は空洞になっています。貴方は一番小さい達磨を店内に飾られている11体の達磨の中のどれか一つに隠す。それを私が当てて見せましょう」
なるほど。恵比寿が小達磨の入った達磨を当てる確率は11分の1。まぐれで当てられない確率とは言えないまでも、圧倒的に俺に有利な条件だ。
「勝負の前に一応俺の方も名乗っておきましょうか。鏑木俊、私立探偵を営んでいます」
「ほゥ、探偵さんでしたか。それは丁度いい。相手にとって不足なしです」
恵比寿は満足そうに頷いた。
恵比寿が探偵に対してどういったイメージを抱いているかは知らないが、俺は殺人事件を華麗に推理するような類の人間では断じてない。俺は探偵物語の工藤ちゃんや濱マイクに憧れて探偵を志したのであって、連続殺人や密室トリックには興味がないのだ。
「それでは始めましょうか。小達磨を隠す制限時間は私が注文したラーメンが来るまで。その間、私はアイマスクで目隠ししているのでご心配なく」
俺は恵比寿から小達磨を受け取ると、店内をぐるりと見渡した。
もし恵比寿が何らかのトリックを使って小達磨の隠した場所を知ることが出来るというなら、まず最初に疑ってかかるべきは今俺の手の中にある、この小達磨だろう。例えば小達磨に磁石が仕込まれていると考えるなら、隠し持ったもう一つの磁石を近付けるだけで容易に隠し場所を探り当てることができる。
但しこのトリックは恵比寿が小達磨の場所を言い当てた後にボディチェックさえすれば、簡単に見破ることができるだろう。
次に警戒すべきは小達磨を隠すときの物音だ。俺が小達磨を隠す間、恵比寿は当然耳を欹てて隠し場所を知る可能性がある。ならば念入りにフェイントを入れておくに越したことはない。
最後に考慮する必要があるのは、アイマスクに隙間がある場合だ。
俺は小達磨の隠し場所に、カウンターに座っている恵比寿から死角の位置にある入口付近の達磨を選んだ。
「隠しました」
「結構です。ふむ、中々いいところに隠しましたね、鏑木さん」
恵比寿はアイマスクを外して割り箸を綺麗に割ると、ズルズルと勢いよくラーメンを啜った。
「まさかもう隠し場所が分かったんですか?」
「ええ、当然です」
恵比寿は余裕の表情で、レンゲに掬ったドロドロスープを飲んでいる。
「ではどこに隠したか当ててみて下さい」
「まァまァ、それより今はラーメンが先決です。ここのラーメンは放って置くと、油でスープの表面が固まってしまいますからね。鏑木さんも急いで食べた方がいい」
「…………」
どうにも胡散臭い。これは偏見かもしれないが、牧師があの学ランみたいな格好でラーメン屋に来ている時点で既に異様だ。その牧師が神通力などという言葉を平気で口にする。
しかも恵比寿は小達磨を隠した位置が分かったと言ったにも拘らず、隠した達磨の方をまだ一度も見ていないのだ。
「では、そろそろいかせて貰いますよ」
恵比寿はそう言うと、丼を抱えて一気にスープを胃に収めた。
「貴方が小達磨を隠したのはあそこです」
「なッ!? 」
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