KARMA

紺坂紫乃

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第四部 血染めの十字架篇

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【第四部】 『血染めの十字架』


 一、

 パリの冬は寒い。日本の最北端である稚内わっかないよりも緯度が高いのだから、当然とも言える。プラタナスの葉も落ち、代わりに地面には栗のいがに似たマロニエの実が地面に転がる。これはクリスマスリースの飾りとしても使われるパリの名物だ。
 花は真っ赤なゼラニウムがそこかしこのベランダから街を彩っていた。
空にはあいにくの鈍色の雲だ。今夜は残念ながら月が拝めない。

「もう冬の装いか」

 時刻はまだ六時を過ぎてもいない。刹那は白いかすりの中に毛織の長襦袢ながじゅばんを着てきたことを幸いに思いながら、ぶるりと身を震わせた。

 今日はモンマルトルに新しくオープンする「ムーランルージュ」と名付けられたキャバレーの人足として駆り出されていた。
 古い馴染みのオーナーには「荷運びなら左文字の方が適任であろう」と言ったのだが、うまいこと逃げられたのだという。仕方なく、刹那が代役として右へ左へとコマネズミのように走り回らされた。
 まるでパリに来たばかりの頃を想起させる。あの頃は言葉も何も解らず、ただ力仕事だの喧嘩の仲裁、地元のマフィアとの諍いと日銭を稼ぐことに奔走していた。
 
 月のない道を街灯だけを頼りに歩いていると、脚にマロニエの実が当たった。しゃがみこんで、手に取り、まじまじと見たがまだリースを作るには早すぎるかと薄笑いを浮かべて立ち上がろうとした時だ。

「笠木刹那さん?」

 がに股でしゃがみ込んでいた刹那の行く手を阻んだのは一振りの日本刀だった。街灯の明かりを受けて青白く輝くそれを辿って、持ち手の顔を見れば左文字よりも小さな少年剣士が立っていた。

「如何にも。笠木刹那は私だが、貴殿は?」

 刹那の名を聞いて、少年は「ああ、良かった」と刃を刹那に向けたまま、月の代わりのようにぱあっと笑った。

 江戸の時代からそのまま抜け出てきたような剣士だった。髪こそ頭頂部で一纏めにしただけの長い馬の尾、まだ変声期を迎えていない高い声、袖にだけ青海波が白抜きされた藍の着物と憲法黒の道場袴、若木のように精悍な――というよりは、中性的な印象を受ける青年だった。

「私は高科たかしなあおいと申す者。笠木さん、貴方の暗殺命令をとある方から命じられて参りました」

「それはまた物騒なことだ。さて、命を狙われることに恐怖はないが、貴殿のような子供が刺客とは……また酔狂な御仁だ」

 よっこいしょと立ちあがった刹那に、青年は笑みを絶やさず緩やかな殺気を放ち続けていた。相当の使い手なのは確かだと刹那は不可視となっている腰の物に手を添える。

 最初に仕掛けたのは高科だった。

 刹那の目に向かって突きを一閃。

 刹那は身を逸らして、突きを回避し、高科が振るう逆袈裟、横薙ぎ、下段の払いを体捌きだけで避ける。

「抜かないんですか?」
「抜かせて見せよう、という気概が感じられたら抜くやもしれぬなあ」

 にっこりと笑い返す刹那に、青年の両の目がギラリと光った。まだ空振りとは言え、これだけ剣を振るっても息を乱すようすもなく、剣先が鈍る様子も無い。それどころか、振るうほどにその鋭さと正確さは増して行く。
 異能者かとも思ったが、どうやらそうではないらしい。未だに刹那が抜刀の気配がないことにも動じず、アンリのような純粋さで首を傾げる。

「ふうん……やはり御一新を生きぬいた方は違うなあ。故国ならもう屍になっているだろうに」

 冷静に現状を把握しつつ、ふう、と一度嘆息すると高科は刀を鞘に納めた。だが、眼の光が鈍っていないので、刹那は「居合か」と身構える。

 ――途端、刹那に身震いさせるような気を放ったかと思うと、鋼のぶつかる音が夜のしじまに余韻を残しながら響いた。

「あは、抜きましたね」

 さも嬉しそうに高科は微笑む。刹那も「恐ろしい剣速ゆえ」と眉尻を下げた。

「ふむ、してやられた。私への刺客として人選されただけのことはある、が――」

 刹那は刃を交わらせたまま、高科に突進し、火花すら見えた。そして右手は刀を交わらせたまま、鞘を押さえていた左手拳で腹に拳打を打ち込む。

「ぐっ!!」

 鳩尾みぞおちに強烈な一撃を受けた高科は眼の前が明滅する。

「本物の殺し合いは初めてと見た。敵前逃亡は好まぬのだが、今日のところは許せ――さらば」
「な!! ま、て……!! くそっ!!」

 痛む鳩尾を押さえている間に刹那はひらりと身を返して闇の中に走り去ってしまった。



 追手の気配がないことを確認して、刹那は隠れ家に入ろうとするが、そこでもまた違和感を覚えた。
 静かすぎるのだ。ドアの向こうにも生き物の気配が感じられない。それを不審に思いながらも、ドアノブに手を掛けると、天井から一匹の黒い蛇が姿を現した。

「ZEROの『黒蛇神ノワール』ではないか。皆はどこへ行った?」

 『黒蛇神ノワール』というこの蛇はZEROが使う異能と呪術の集大成である能力『白蛇神ブランシュ』の派生形である。主に空間同士を繫げる際に用いられるので、ルィアンの突然の登場はおおむねこの『黒蛇神ノワール』が使用されている。

「ボスの命令により総員緊急避難なされた。貴方も帰宅され次第、お連れせよと仰せつかっております」
「そうか。ルィアン殿の命ならば信じよう。頼む」

 刹那は真っ赤な口を大きく開けた蛇の口の中に入った。二、三歩だけ歩くと不思議なことに、口から入ったのに、更に口から吐き出された。

「刹那!!」

 モンマルトルの隠れ家によく似た内装のその部屋を見回すと、ルィアンを最奥に『KARMA』のメンバーが集っていた。

「遅かったな」
「帰り道に辻斬りにあってな。ルィアン殿、待たせて申し訳ない。事態の説明を願う」

 左文字の質問に、端的に返答して刹那は最奥で玉座にでも腰掛けているようなルィアン現在地の説明と、緊急事態とやらの説明を乞うた。
 ルィアンは『黒蛇神ノワール』を労うと、刹那達に向き直り、黒いステッキをついて重い口を開いた。

「ここは十六区にある『インフィニ』の所有物件の一つだ。ブローニュの森とセーヌ河のちょうど中間にあたる」
「それはまた……随分な大移動だ。して、緊急事態とは? 先刻、私の暗殺命令がどこぞから発せられたと刺客である『高科葵』という日本人剣士は申した」

 「日本人剣士、高科葵か。ZERO、至急身元を調べさせろ。おそらく偽名だろうがな」とルィアンは後ろに控えていたZEROに命じると「厄介事ばかりだ」と珍しく疲れた表情を見せた。

「日本人剣士の一人が動こうが、意にも介さぬのだが……此度ばかりは慎重にならざるを得ない――ヴァチカンが動いたのだよ」

 射貫くような眼でルィアンは双頭の蛇を象った瞳孔の碧い隻眼を刹那に向けた。刹那も顔をしかめる。

「ヴァチカン? あそこは今、イタリア政府と対立の真っ最中ではござらぬか。『クルセイダーズ』のクライスト絡みしか思い当たる節が見当たらぬ」

「第一の問題はクライストだな」と、ルィアンは刹那に返した。

「イタリア政府との対立の渦中に国際テロ組織の首領が枢機卿候補であったとは醜聞もいいところだ。揉み消しにかかりたいところに『夢幻泡影』の解体。裏から『クルセイダーズ』の残党を殲滅したかったが、君達により葬られてしまった。『クルセイダーズ』、『夢幻泡影』と地下組織の武闘派でも二強と称せる組織を倒したのは何者かとなった。そこに君達の名が挙がった」

 汚点を取り除く為の頼みの綱が消えてしまった。ゆえにヴァチカンが血眼ちまなこで刹那達を探すのは理解できるが、それでは高科葵の存在は本末転倒だ。刹那が口を開きかけると、先に意を察したルィアンが「第二に」と刹那の言葉を遮った。

「第三カルマ『マグダラのマリア』の『カルマ』を負うルイーズ嬢の存在だ。おそらく『クルセイダーズ』の残党から名が流れたのだろう。カトリックの総本山であるヴァチカンは『マグダラのマリア』の存在を聖女として容認していない。君達を取り込むつもりがルイーズ嬢の存在によって、抹殺に切り替えたのだ」

 話を聞き終えたルイーズは俯き、赤いストライプのスカートを握り込んだ。その手が震えるのは怒りからか、または哀しみからは判じかねる。

「……なるほど。クライストが遺した言葉通り、欲と権力の前に清貧を誓った神の使徒はこうも傲慢で身勝手なものなのか」
 刹那の目に仄暗い怒りが宿る。

「君の意見はもっともだ。ゆえに、君達をモンマルトルから離した――イギリスの部下の報告によると、ルイーズが仕えていたリチャードの実家は使用人や庭師を含めて全員殺されたようなのでな」

 今度こそ刹那の体内に燃え上がる焔が火柱を立てる。
 
 眼の前が真っ赤になった。
 
 これは間違いなく内臓から身を焦がす憤怒だったが、ルィアンは刹那に「だが、動けぬ」と言い放った。

「我々でさえ、ヴァチカンには対抗できぬのだ。その感情のままにヴァチカンに挑めば、血を見るのは君じゃない――」

 「聡い君ならば想像はたやすかろう」と無情にも刹那をルィアンは正面から見据えた。

 いつもなら啖呵を切る左文字でさえ黙り込んでいる。
 刹那はじっとなにかに耐え忍ぶリチャードとルイーズを見て、脚が棒になったようにただ亡羊ぼうようと立ち尽くした。

 外からは冷たい雨が窓を打つ音がだんだんと大きく聞こえている。


★続...
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