KARMA

紺坂紫乃

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第三部 影喰み-shadow bite-篇

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九、


 ルィエンに抱きついてひとしきり泣いたら双子はいつも通りに戻った。
そして、これはサンクが発した一言が始まりである。

「ねえ、なんで前髪切らないの?」

 ベッドから応接室までの歩行練習の途中で力尽きたアンリをソファに座らせた時に、サンクが刹那に尋ねた。おそらく深い意味は無かったと思われる。

「はて、なぜかと言われたら最初に髪を切って貰った時に、この眉間の傷を隠すためだが……」

 刹那が片手で前髪を持ち上げれば、普段は見ない両目と、眉間から左の眉にかかる傷がうっすらと現れた。

「傷痕と真剣を持った日本人など、即警察沙汰だ。ただでさえ、フランスに来ただけでも何度も留置所に放り込まれたというのに」

 やや垂れ目がちだが、前髪のない刹那にアンリやルイーズも「初めて見た……!!」となぜか黄色い声を上げる。
 刹那が手を離して元通りになると、最初に指摘したサンクが、しばしの硬直の後にものすごい剣幕で刹那に迫る。興奮からか、はたまた別の理由からか頬まで朱に染めているが、唾を飛ばすのは辞めて欲しい。

「ちょ、ちょっと……!! なんで隠すのよ!! 切った方が絶対良いじゃない!! ね、シス」
 離れたところで相変わらず茶菓子を頬張っていたシスも頷いた。
「お?」

 勝手に話を進めるサンクが「普段はどこで髪切っているの!?」と尋問さながらに迫ってくるので刹那も「裏の理髪店だが……」と諸手を上げる。

 いつもならば、ここで左文字辺りから一言あるはずだが、生憎、今左文字はデュークとリチャードの三名で買い出しに行って不在だった。
 刹那は眉尻を下げて、サンクに事情を話す。

「いや、もう何年もこのままなのでな。サンクの気持ちはありがたいが、これは恩人からの配慮でもあるゆえ、このままでいたいのだ」

 サンクににっこりと優しく笑って「気持ちだけ受け取っておく」と刹那は告げた。

 直後にやっと部屋から出てきたアーヤを目にすると、刹那は彼女を呼び止める。

「アーヤ」

 横目でじろりと刹那と睨んで、アーヤは踵を返す。

「刹那……あの、アーヤはね……」

 ルイーズがその様子に潜めた声で刹那に注意を促した。アンリも不安そうな目で刹那に訴えかける。

「解っておるよ。伊達に十年も彼女と過ごしはおらぬ。もしも左文字が帰ってきたら風呂に居ると伝えてくれ」

 刹那は二人にそう託けるとアーヤを部屋から引きずりだした。

「刹那……なんなのよ!! 離しなさい!!」
「拗ねるとすぐに引きこもる。普段は女王様然としているくせに。まったく君は何一つ変わらないな」
 怒るアーヤを呆れた口調で刹那は無理やりシャワールームに連れ込んでいく。
「お姉ちゃん……ここでの男運は無いんじゃない?」
 シスの仔猫のような声にサンクは顔を真っ赤にして「……ふん!!」と顔を逸らせた。



 刹那はバスタブの中に唇を尖らせたアーヤの髪を持ち上げてタオルを掛ける。懐から取り出したたすきを掛けて自身の袖を後ろへと避けてから、癖のある黒髪に柘植(つげ)の櫛を丁寧に通して行く。

「なによ……あんたも、左文字も、アンリも、もう私の忠告や心配なんて耳も貸さないくせに!!」

「やっと吐いたか。何も君の心配を無視しているのではない。アンリにも主張があった。それだけだ」

「……どうせ戦場にもでない、第一線で戦うあんた達の覚悟なんて、私には理解できないもの……」
 一通り、櫛を通した髪は引っかかり取れて、さらさらと流れる。次に丁寧に彼女の髪を洗い、軽くタオルで拭いた後、小さな白いガラス瓶に入った椿油を手でじっくりと馴染ませていく。

「まあた拗ねてんのか。本当に面倒くせえな、お前」
「左文字、煽るでない」

 突然現れた左文字は無言で刹那に追加の椿油の瓶を渡した。

「……じゃあ、放っておけばいいじゃない……!!」

 はなを啜る音が聞こえる。泣いたアーヤは子供返りするのか、左文字はバスタブの中に新しいタオルを投げ入れた。それは狙いすましたかのように、アーヤの膝の上に落ちた。

「あのなあ、じゃあ俺達に頼めない間になんでルイーズに髪結いを頼まなかったんだよ。どうせ夜中にあいつに愚痴を言ってたんだろ?」

 図星なのでアーヤは黙る。
 黙ったのを良いことに荒れていたアーヤの長い髪も艶を取り戻した。
 刹那は髪を三つの束に分け、慣れた手つきで編み込んでいく。

「……だって、頼りないでしょ? いい歳した大人の女がうじうじしている姿なんて……」

「俺らは良いのかよ……」

「今更だな。これから長い付き合いになる。君の見栄も、虚勢も、すぐにバレるさ。ただでさえ、キッチンには立てないと判明したのだからな。戦士の胸中を戦場に無理に立って理解しろというならそれは暴論だ。だが、アンリは子供を武器にするが、中身はサクレ・クールの階段で震えていた子供から脱却したとは認めてやってほしい――私はそれ以上を望まんよ」

 最後に金色の髪留めをパチンと止めると、アーヤは小さく「……やっぱり刹那じゃないと無理ね」と編まれた髪を手に取った。さっきまで纏めようともしなかったぱさぱさとしていた髪とは大違いだ。

「刹那も言ったが、俺達はともかくアンリやリチャードはちゃんと労ってやれよ。ZEROだって、不本意ながら上司命令に従ってんだ。アンリは気を失うほどの激痛に耐えて、リハビリ期間が伸びても戦場に立つって決めてたんだぞ。お前は刹那とは違った立ち位置だが、チームの要である以上、必要な言葉は怠るなよ」

 左文字は冷たい言い方をするが、彼なりの照れ隠しで、激励であることもアーヤは知っている。言葉が過ぎていたら刹那の制止が入っていただろう。
 襷を解きながら「目が落ち着いたら出てくるといい」と彼もまたタオルに顔を埋めたアーヤを置いて、シャワールームを出て行った。

「……言いたいだけ言って……私の気持ち、知っているくせに……!!」

 シャワールームは声が響く。だがアーヤが吐露した心は顔を埋めたタオルに吸収されてしまった。



 シャワールームから出てきた刹那は、アンリとソファで本を広げていたルイーズに声を掛ける。

「ルイーズ、すまぬな。また彼女から愚痴が零れることもあろう。手に余れば呼んでくれ。君にしか解らぬことも多いのは事実ゆえな」

「解ったわ。あのね、アーヤは……本当に皆のことを心配しているのだけは信じてあげて」

「ああ、知っているとも。なのに、変に強がるのだろう。私はもう一人の強がりを諭しに行って参る」
 「もう一人の強がり」が誰を指すのか、なぜ刹那ばかりがいつもフォローに回るのかを知っているアンリは、大袈裟に溜息を吐いた。

「……僕さ、セツナみたいな大人になりたいけど、あのポジションだけは御免だよ。アーヤも左文字も刹那が居なかったら、なんて考えたら恐ろしいよね」

「アンリ、アーヤは前に『絶対に振り向いてはくれない刹那に恋愛感情なんて不毛だから勘弁して欲しいわ。左文字は論外』って言ってたんだけど、どう思う? 私は仲間への接し方にしては、あの三人は特殊だと思うの」

 ルイーズの言葉に、アンリが珍しく顔を顰める。

「それって恋愛対象としての話でしょ? 同じ質問を前に僕もデュークにしたよ。あのね、デュークが言うには人の心は一人じゃないんだって。アーヤは不毛だと解っていても刹那が好きなんだよ。それだけなら単純なんだけど、左文字も好きなんだ。アーヤは天邪鬼だから素直には言わないけど、ここ数日は僕のせいであの二人と衝突していたでしょ。かなりへこんでたんじゃないの?」
 
 ルイーズはお見通しであるアンリの視線を受け止めきれずに宙に視線をやる。

「う、うん……お酒入っていたからべろべろだったけど」

「やっぱり。アーヤは酔うまでお酒は飲まないよ。なのに人前で酔うまでお酒に頼ったってことは、そういうこと」

「つまりアーヤは恋愛対象として『あの二人』が好きってこと?」

「うん。クライストが死んで過去の恋愛がふっ切れたから余計に二人を見ているんじゃないかな、ってデュークが言ってた」

 二人は顔を見合わせて「アーヤらしいね」と囁き合った。大人の世界は単純ではないのだと、しみじみ解る。

「でも、二人のそれぞれの魅力は甲乙つけがたいもんね」

「優しくて強い刹那と、男らしい左文字?」

「私達から見ても充分魅力的だと思うよ。ね、サンク、シス」

 突然ルイーズに話題を振られたサンクは、また真っ赤になり、姉を慰めていたシスはまだクッキーを齧りながら頷いた。

「何言ってるの、ルイーズにはリチャードがいぅ……!?」

「アンリ、今の話題に私は関係ないから!!」

 ルイーズに口を塞がれながら、アンリは「やっぱり女の子ってわっかんないなあ」と塞がれた口の中で思いを馳せた。



 屋上では何枚ものシーツがはためいていた。存外、風が強い。
 左文字はそのシーツの中であえて一番奥の防柵に凭れていた。彼にしてはほとんど口にしないと言っていい紙煙草シガーを吹かしていた。

「お主も相当頭に来ておるな。買い物の時に買ったのか?」
「いや、ZEROのおっさんに貰った」

 この当時は紙煙草シガーが一気に隆盛を極めた時代である。中にはやはりパイプや煙管キセルを好む者もいたが、ニコチンの摂取量が大幅に下がる紙煙草は、アメリカから広がったとされている。 
 土方は好んで煙管を吸っていたが、刹那はこの煙がどうにも苦手だったので、左文字の風上に立った。

「昼だから酒ではなく煙草か。今日の悩みはなんだ? アーヤが原因だとは察しているが」
「さあ。俺にも解らん。ただ、お前はひとりの女に心の全部を捧げちまってる。それを尊敬している。俺にはできねえ生き方だ」

 刹那が紅緒だけを生涯愛し抜いているのは、なにも手にかけてしまった罪悪感からではない、とは左文字は理解している。刹那の性分であり、その死んだ女に余程救われたのだろう。戦時下、恩師の死、すべてを取り払っていれば刹那は余生を家族と過ごしていたに違いない。
 対して左文字は女に理想を描いたことはない。正確には恋愛感情のなんたるかを未だに模索しているのだ。このアーヤに対する気持ちは恋なのか、十年も経ってしまったら変質した仲間への固執なのか。
 その証拠に、刹那がアーヤの髪結いに選ばれようが嫉妬すら湧かない。日常の一コマにしか映らないのだ。

「なあ、刹那。嫉妬もなにも湧かねえ、このただモヤモヤした感情が『恋愛』なのか?」
「私はお主の心は見えぬぞ。だが、アーヤだけでなく、一人で立っているように見える人間が誰かの支えを必要としている姿は、存外見えにくいものだ」

 左文字が吐き出した紫煙は強風に、あっという間にさらわれる。
 蒼穹に浮かぶ、あの白雲のように留まれない。

「中にはひとりで立てる者も居る。だが、アーヤはその類ではあるまい。現にこのチームが離散したら生きられない。その点ではアンリと同じだな。私が彼女を異性として支えてやれぬ以上、お主くらいは手を取ってやっても良いとは思う、と言葉を濁しておこう」
「ずるいよな、お前」
「ははは、今更それを指摘するのか?」

 風に煽られて、眉間の傷と突き抜ける青空を見つめる刹那のゆとりが羨ましい。左文字は短くなった紙煙草を柵ですり潰した。

「……前髪、切らねえの?」

「今日はその質問が流行っておるのか……?」

 ――秋晴れのパリは単衣だけでも充分な気候である。
このモンマルトルの丘はパリで一番の高台だ。しかも、このアパルトマンの屋上からならパリが一望できる。
「いい眺めだな」
「ああ、休息にはもってこいだ」
 二人はエッフェル塔だけが突出して見える街と、首を巡らせれば根強く残る農村地帯に笑いを噛み殺して眺めていた。

★続...
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