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第二部 悲愴のワルキューレ篇
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しおりを挟む――高みへ。俺は、もっと強くなりたい……!! 刹那のように!!
リチャードは苦悩していた。
ここに来てから、当初はプライドをずたずたにされる日々に嫌気がさしていた。そんな彼が考えを改めたのは、忘れもしないオペラの初演の夜だ。
『クルセイダーズ』の三大幹部を一人で、しかもたった一本の刀で首級を上げ、悠々と笑顔で帰ってきた刹那の姿は服こそぼろぼろだったが、純粋にかっこよかった。憧れになった。着飾ることを好まず、強さをひけらかすこともない。ありのままの体で生きている彼のように、リチャードももうひとつの高みに登りたいと、切に願っていた。
◇
リチャードの生家はイギリス王室から公爵位を与えられた名家だ。両親と姉が本国にいる。名家のひとり息子ゆえに教養や作法は厳しく教えられた。姉は慎ましやかな人柄だったせいか、姉の分の貴族たる風格や振舞いを常にリチャードは求められる。
屋敷で使用人たちが頭を下げる姿は心地よく、王にでもなったようだと感じていた。どんどんと天狗になって行くリチャードが悩まされていたのは、気が昂った時に現れる怪奇現象だ。これが自身のせいだと気づいても、両親や姉はリチャードを褒めた。
「お前は選ばれた人間なのだ」と。
特別だから離宮を丸ごと与えられた時も両親の言葉をリチャードは信じていた。信じなければ自身の存在意義が保てなかったのだ。
だが、現実は常に理想を裏切る。
「坊ちゃま、ここに来たのは事実上の追放らしいわよ」
「そんなことにも気づかないなんて、世間知らずもいいところだ。魔術使いが次の公爵様とは旦那様も頭が痛いな」
「知らないのか? 爵位は姉君の婿養子に与えられるそうだ。リチャード様では世間体が悪いから当然だろう」
小鳥の囀りを不快だと感じ始めたのはいつからだろうか。眼の前が真っ暗になったリチャードに罵られながらも、決して傍を離れなかったのはルイーズだけだった。
「お前も陰では僕を鼻で笑っているんだろう!! 従順な素振りをして取り入ろうと目論んでも、僕は公爵にはなれないから意味は無いぞ」
ルイーズを足蹴にしたり、持っていたバケツをわざとひっくり返してみたり、八つ当たりなど日常茶飯事だった。
ある日、彼女は風に遊ばれて鳴く草の音のような消え入りそうな声で言った。
「私も魔女ですから」
それからはルイーズしか近寄らせなくなった。成人して感情のコントロールさえ覚えれば、事業もうまく行った。そんな時に、フランスから一通の招待状を受け取ったのだ。
◇
「眠れぬか?」
青白い月明かりの下で、昔を思い出していたら刹那が押し殺した声でリチャードに尋ねた。左文字は掛布団を蹴とばして、豪快に寝ている。彼に対する配慮だろう。
「……ああ、思うところがあってな」
「私はな、昔からの癖で平和なところに居ても夜は気が張ってしまって難儀するのだ。隣、良いか?」
リチャードは窓際のベッドのスペースを少しだけ空けた。刹那は礼を言って音を立てずに藍色の単衣の中に両手を入れて青い月を眺めた。
「マハが連れてくる連中との戦いはまだ数日先だが、リチャードは左文字と少々違う真面目さだからなあ」
「そうだろうか?」
「そうだとも。でなくば、こんな時期に悩みを抱えまい」
リチャードは月を堪能しながら話す刹那の横顔を見た。この余裕なのだ。リチャードが求めているのは、刹那のこういったゆとりに他ならない。
「セツナは、どうやって強くなった? 戦争を生きぬいたからか?」
「さて、剣の師匠は三人居たが、人殺しは実戦で学んだ。まだ十二か三の頃だったか。師から見れば、今の私などまだまだ殻を被った雛だろう。『壬生の狼は飼いならせない』と政府に言わしめた程の方々であったゆえ」
「やはり先生は必要なのだな」と自然とリチャードの視線が下がった。仰ぐべき師がいない自身はどう足掻いても刹那のようにはなれない。
そう諦観した時、刹那にこめかみを突かれた。
「ここの使い方だ。師が居れば必ずしも強いとは限らぬ。リチャード、以前に屋上で左文字に言われたことを忘れたか? 私とアンリが相対している時に左文字は『アンリの能力を分析しろ』と助言しておったろう。あの子にも師はおらぬ。立ち位置はお主と同じだ」
「……聴こえていたのか?」
「空気を読み合っている時分は五感が鋭敏になるのでな、盗み聞いたようなものだ。アンリは実に柔軟な頭をしている。子供だからというだけではない。力に貪欲なのだ。今はうちの主戦力だという重責も、アンリにとっては伸びしろを与えられたと捉え、誇りに感じている」
リチャードには青天の霹靂だった。刹那にばかり意識を向けて、灯台の下には目もくれなかった。今思えば、リチャードの能力とアンリの能力はよく似ている。
左文字は早い段階でヒントをくれていたのに、なぜそれに気づかなかったのだろうか。
目つきが変わったリチャードに刹那は「なにか掴めたようだな」とやはり夜陰に溶けそうな声で笑った。
「試したいことができた。ぶっつけ本番になるかもしれないし、相手も解らないが、試してみたい……!!」
「では、私はお主の勝利を傍で見物しておくとしよう。おやすみ、リチャード」
「ああ、また世話になった。感謝する」
「私はただ月を観ていただけだ」
刹那はそう言って、そろりとベッドに入った。
刹那の強さは戦争という特殊な環境に裏打ちされている部分も大きいに違いない。彼に近づくのは一朝一夕では不可能だと嫌というほど解っている。だが、あの道化女が高みへの一歩を作ってくれたことに今は多少感謝し、リチャードも微睡みの誘いを受け入れた。
翌日の空は月が雲で見えなかった。パレ・ロワイヤルの一室で、マハは五人の女に囲まれていた。橙色の白熱電球の下、女たちの忍び笑いはハーレムじみた倒錯感を醸し出す。
「プロフェッサー、本当に良いの? お友達を護る騎士を殺しちゃうわよ?」
甘えるような声を出した赤毛の女の頬を、マハはするりと撫でた。
「殺して欲しいんだ。六人の首を彼女の前に並べて……恐怖に歪んだ顔で異能の究極奥義を語らせるのも一興というものさ」
「ふふ、マハを喜ばせることができるなら光栄ですわ。じゃあ一番手は私に行かせてくださいませんこと? もう標的は決めてあるの」
先鋒を買って出たのは東洋人の女だった。射干玉の髪をきちりと纏めた絵画から抜け出してきたような白皙の中国美人である。長椅子にしなだれ、身を包むからし色のゆったりとした旗袍は長く足をすっぽりと隠している。
「気の早いことだな、レンホワ。では一番手は任せよう」
彼女は糸目を更に細めてマハに大きな袖で口元を隠しながら、礼を述べた。
◇
決戦の朝、アーヤは朝食の席でリチャードに「背後には気をつけて」と忠告した。それだけで、今日狙われるのはリチャードであると知れる。
「カルマの順番通りに来るつもりかねえ」
「有り得るわね。刹那は一対一と提案したけれど、マハがご丁寧に約束を守ってくれるとは限らないわ。全員、気を抜かないことね」
左文字の疑問を肯定しつつ、アーヤは六人を三つに分けた。二人ずつで行動し、一人が戦闘不能になっても素早く対応できるようにとの対策である。但し、手出しは無用。一対一の勝負を提案したのは刹那だからだ。
分担は、刹那とデューク、左文字とリチャード、アンリとルイーズである。物理系異能と精神系異能の組み合わせで臨む。場所も万博会場から離れたバスティーユ広場近郊に絞った。こちらとしては立てられる対策は総動員したつもりだ。全員の戦意も申し分ない。
「一番手はもう決まってんだ。俺達は吉報を待とうぜ」
リチャードにわざと歯を見せて笑う左文字だが、発破をかけているとはリチャードでなくとも伝わった。
「貴様は耳をそばだてて待っていろ」
「上等!! ――さて、出陣と行きますか」
左文字に続いて全員が立ち上がる。扉に向かう時、ルイーズがそっとリチャードに耳打ちする。
「リチャードなら大丈夫よ」
「ああ、戦いたくてうずうずしている」
リチャードは、これまでになく高揚していた。ルイーズからも笑みが漏れる。
アーヤは扉を越えていく仲間の背中を黙って見送った。
あとは神のみぞ知る。
――火蓋は切られた。さて、如何にして勝利の女神を口説こうか。
★続...
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