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第一部 V.S.クルセイダーズ篇
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十六、
アズライール戦の翌日の昼食タイムの時、クライスト対策の会議を終えたアーヤから半強制的な指令が下った。
「リチャード達が合流した日に地元のテロリストから入手した爆弾の配置図と各国要人の行動日程だけれど、そろそろ情報が古いから新しいのを探してきて」
アーヤはニシンのパイ包みを食べ終えて、コーヒーを口にしながら、今日の新聞を買ってこいとでも言うかのように言い放った。
あれは刹那が偶然にも手に入れた物であって、『クルセイダーズ』のメンバーがくれたものではない。それの最新版を持ってこいなどとまた無茶を言う、と全員の意見が一致した。
「お前、傍若無人なのは今に始まったことじゃねえけど、また無茶苦茶言うなよ。あれも手に入ったのは運が良かったからだろ? あとはお前のカードで調べてくれれば良いじゃねえか」
誰も口にしなかったことを左文字が藪をつつく。
――当然ながら出てくるのは蛇だ。
「へえ……広大な敷地内に設置される爆弾をひとつずつ、いちいちカードで調べて、クライストの動向にも気を配って、貴方達全員の動きも把握して」
「俺が短慮でした。ごめんなさい」
アーヤの一睨みで左文字はすぐさま謝罪を口にする。どうやら昨日のおしおきがトラウマ化しているらしい。
ふん、と鼻を鳴らしてアーヤはまたコーヒーを飲んだ。
「しかし、左文字の言い分にも一理ある。せめて、図面を持っている人物だけでも特定してくれねば、我々は闇雲に歩き回るだけになってしまう」
「わかってるわよ。それくらいは占うから、判明するまでは全員オフね」
自由時間を与えられた瞬間、なぜかリチャードがいの一番に立ちあがって「セツナ、俺に同道しろ」と「お?」と首を傾げる刹那を引きずるようにして部屋を出て行ってしまった。
「なんだ、あれ?」
「リチャードが刹那に『だけ』訊きたいことがある、と。……面白そうね」
にたりとアーヤが笑う。盗聴する気満々だと覚った左文字が「いや、それだけは辞めてやれよ。第一、お前はやることがあるだろう」と正論でアーヤを制止した。
◇
リチャードは難しい顔をしながら、とりあえず隠れ家から歩いて五分のサクレ・クール寺院まで刹那を引っ張ってきた。
石の階段に腰掛けたまでは良かったものの、どう話をきり出そうかと思案していると、刹那が「少々待て」とテルトル広場の方へ消えて行った。ものの五分ほどで帰ってきた刹那の手には紙ナプキンに包まれたクレープが二つあった。
「テルトル広場の近くにブルターニュ地方出身の親父が営む小さな店があってな。そば粉のクレープで、塩と砂糖、どちらが良い?」
「……では、塩をくれ。その、礼を言う」
「気にするな。――それで、私だけを連れ出したのは理由があるのだろう?」
刹那が買ってきてくれた素朴な味わいのクレープを食べながら、リチャードはきまりが悪いように眉間に皺を寄せる。
「その、三大天使と戦う前に……デュークに言われたのだが、『恋愛をしてから結婚しろ』と」
刹那は相槌を打ちながらリチャードの話に耳を傾けた。なにが言いたいのかも、大体の察しはついたが刹那はそれを口にせず、リチャードの言葉を待つ。
「俺はイギリスに帰ったら父の決めた女性と結婚する。もう二十五だ。身を固めるのも適齢期だと思うし、妻は大事にしたい。しかし、デュークは『恋愛をしてから』と前置きをした。その意味が、今でもよく解らない」
「なるほど。そうさなあ……私にはデュークの意見も、お主の葛藤も解る。ゆえに結論から言うが、恋愛と破滅は紙一重だ、と言うのが私の経験則からの意見だな」
「破滅?」
リチャードはますます頭を抱えた。
刹那ならば、デュークの謎解きのような意見に明確な答えを出してくれるかと思ったが、彼の方が難解な物言いをする。
「ちゃんと説明をするから、そのような顔をするな」
刹那は目を回しそうになっているリチャードを見て、柔く笑った。
「恋なら私もしたさ。国の未来を二分する大戦争の真っ最中にな……」
日本とは違う乾いた爽やかな夏の風の下、刹那は紅緒を思い出しながら、前髪を手で上げた。
リチャードは初めて目にする刹那の眉間の傷と、やや垂れ目がちな黒い双眸にどう反応したものか困惑する。
「この傷は恩師に付けられたものだ。戦争のさなか、最も年若い隊士が夜半に忍んで逢引に行くとなれば、そりゃ怒られもしよう。だが、恩師はこの傷だけで恩情を示して逢引を許して下さった。怒られながらも彼女と過ごす時間は楽しかったし、孤児だった私を抱きしめてくれた彼女は戦争の次に大切だった……今でも、私は彼女以外の女性を愛せない」
そっと前髪を下ろした刹那にリチャードは尋ねた。
「では、戦争が終わってから彼女と家庭を持ったのか?」
リチャードの問いに刹那はゆるりと首を振った。
「そうしたかったが、できなかった。恩師を失って私の心は死んだも同然だった。彼女を迎えに行ってやれと言ってくれた先輩の心遣いも無にして――私は彼女を焼き殺したのだ」
衝撃の告白にリチャードはまた言葉を失った。刹那の過去を、リチャードは知らない。だが、第七のカルマを背負うこと、またデュークが「償っても償いきれぬ罪」を刹那も持っているのだと聞かされたが、彼が語った行為はおよそ今の刹那からは想像がつかなかった。
「解らずともよい。理解が欲しい訳じゃない。あの時の私にはどんなに愛した女よりも、恩師の方が大切だったのだ――二人を天秤にかけてしまった時点で、私にはもう彼女を愛する資格など無かった。フランスに来てからは故国との恋愛の価値観の違いに戸惑ったのも確かだ。参考になるかは解らんが、これが私の恋愛談。これでお主は同じ轍を踏まないだろう」
哀しく笑う刹那が言わんとしていることがリチャードは朧げに解った。すっかり食べ終わったクレープの塩味は涙を連想させた。
「……俺は、今のセツナしか知らない。お前は不本意ながら、俺が足元にも及ばぬほどなにもかもが強くて、強いから優しくあれる――そんな男だと思っている」
「光栄だな」
「セツナ、恋は……よいものか?」
「ああ、少なくとも私は恩師と彼女との出逢いは宝箱にしまってある。リチャード、デュークの意見も最もだが、恋愛は無理をしてするものではないぞ。身近にあるかもしれない、或いは通りすがりの女性かもしれない、はたまた故国に帰ってから出逢うやもしれぬ。大事なのはお主が人の魅力に気づけるか、であろうなあ」
リチャードは刹那の言葉を噛みしめながら立ちあがった。
「腑に落ちたか?」
「ああ、やはりセツナに訊いてよかった」
リチャードが立ちあがったのを見て、刹那も腰を上げる。呼び出しはかかってはいないが、アーヤに呼ばれる前に帰るか、と二人は石段をゆっくりと降りる。
テルトル広場はちょうど賑わいを見せていた。
「彼らは芸術家か?」
「そうだ。モンマルトルの夜は繁華街だが、昼はこうして玄人か素人かは問わず、創作者たちが露店を出している。アーヤには悪いが、ちと寄ってみよう」
温室育ちのリチャードにはこういう光景すら珍しいのだろう。子供のように目を輝かせて作品を見つめていた。
リチャードはふとあるものに目を止めた。絵画の露店が多い中でその人物の作品は異彩を放っていた。
「セツナ……女性への贈り物というのはやはり宝石や装飾品や花が喜ばれるだろうか?」
「一概にそうとは限らぬなあ。私は相手が好きな物を選ぶ」
「そ、そうか……!!」
自身の選択が間違っていなかった、と刹那の意見に安堵したリチャードは店の男に声を掛け、それを購入した。リチャードも満足そうに簡易に包装された小さな紙袋を懐に入れた。
「リチャードはやはり趣味がいい」
「……喜ぶだろうか」
「渡す時を見誤らなければ問題ないさ」
傲岸不遜の殻に覆われていたリチャードは、殻を取り払ってみればその実は世間知らずの実直な青年である。
刹那は帰路に他愛ない話をしながら、リチャードの成長を噛みしめる。土方も『瞬太郎』を見ている時はこんな気分だったのかもしれない――そう思いながら、隠れ家の近くの窓辺に咲いている赤い花を見て微笑む。
「ところでリチャード、左文字とお主は同い年だと知っていたか?」
「なに!?」
◇
帰宅早々、刹那は左文字と二人で、倉庫街であるベルシー通りに潜むマフィアから『クルセイダーズ』の情報を取ってくるようにアーヤに命じられた。モンマルトルからかなり距離があるのでさすがの二人も馬車を使う。
「あんの女……どこまで人遣いが荒いんだ」
「今に始まったことではないだろう。そんな顔をするな」
馬車に揺られながら、左文字は「尻が痛え」と口を開けばそんなことばかりを口にする。
指定された倉庫からは、戦闘を行わずとも図面だけが安易に手に入った。拍子抜けした二人だが、そんな時こそ警戒すべきだとは本能で知っている。
「人が少なすぎるな」
目算でもマフィアは十人足らずだった。明らかな罠だ、と判じた刹那は図面を左文字に託して帰らせた。
左文字は渋ったが、刹那ならばクライストが現れても、呪術が効かないので問題ないとし、左文字はまたモンマルトルへと帰った。
「待っていました、カサギ・セツナ」
左文字の気配が断たれたとほぼ同時にクライストは、黒いローブを着て仮面を被った小さな男を伴って倉庫の奥から姿を現した。他のマフィアの気配はない。月明かりだけが光源の石造りの倉庫にクライストの声が反響する。
「……やはり私が狙いか」
「貴方一人を狙え、と三大天使戦で言ったのは貴方でしょう」
クライストは腰の刀に手を掛ける刹那に両手を広げた。刹那は神速の抜刀でまた『何か』を斬った。
「やはり念力の糸か。トロカデロ広場で私を操ったのはこれで確定か」
「素晴らしい。その尋常ならざる剣……!! やはり『アレ』の復活には貴方と私のマリオネットが不可欠だ」
「アレ?」
満足そうに悦に浸るクライストの言葉に、刹那は訝しむ。微動だにしない隣の仮面男も気になった。その気配がなぜか知っているような錯覚を覚えて、刹那は落ち着かない。そんな刹那に、クライストは深い笑みを湛えた。
「ねえ、カサギ・セツナ。ひとつ、提案があるのです。私に、少々手を貸してくれませんか?」
「今更、何を申し出るか知らぬが断る――その隣の者を解放しろ。どうせ私との交渉を確たる物とするための人質であろう」
刀を正眼に構えた刹那にクライストはお道化て両肩を上げた。
「そこまでバレていましたか。せっかく日本からはるばる送られてきた交換品だというのに」
クライストは男の仮面と頭に被せてあったフードを取り払った。
――両目と口が縫い合わされた男。
刹那は目を瞠った。
「――っ……まさか、市村さん……? 市村鉄之助さん、ですか? 土方副長の小姓だった……」
見えない眼と話せない口で、男は何度も深く頷いた。
市村は土方の遺品を日野の遺族に渡すことを託され、その後は大垣で死んだはずだ。
なのになぜ――。
「交渉は決裂だ、クライスト。貴様は私の最も触れてはいけない逆鱗に触れた……万に刻んでも許さぬ――!!」
刹那の剣気が最大値を超えた。
左文字が得意とする『縮地』を用い、刹那は囚われの市村の首を斬った後、返す切っ先でクライストに接近し、その目を狙って突きを放つ。
だが、なぜか刹那の目を狙って突きが返ってきた。
「なに……!?」
クライストは後方に飛び退って、刹那から距離を取る。
「神速の己の剣すら避けましたか……。惜しいな、これで目が潰れれば貴方は楽に捕らえられたのに」
左眼の目尻の小さな傷からつっ、と血が流れた。クライストの姿はどんどん朧になって消えた。声だけが倉庫の中に反響する。
刹那が刀を構え直した瞬間、何もない空間から現れたクライストの手で刹那は目を覆われ、脳を直撃するような電流によって気を失った。
「ふふ……手こずらせてくれる。だが、これで革命記念日に間に合います。七月十四日は第二次フランス革命の日となる」
倉庫の中で、刹那の手を離れた籠釣瓶の地を鳴らす高い音が響き渡った。
◇
「ルイーズ」
左文字と刹那の帰宅を待って、夕飯の仕込みをしていたルイーズをリチャードがこっそりと手招く。
「どうしたの?」
「……やる」
リチャードは茶色いクラフト紙の包みをルイーズに渡して、さっさと応接室に戻って行った。その耳が赤くなっていたので、なにか彼にとっては恥ずかしいことなのだろう、とルイーズは見当をつけて丁寧にクラフト紙を開く。
「……わあ……!!」
中から出てきたのは青いリボンだった。
器用なことに金糸で三枚花弁の百合の紋章が細かく刺繍されている匠の一品だ。刹那を伴って出て行った時に買ってくれたのだろう。
ルイーズはリチャードからの初めての贈り物であるそれを大切に胸に抱きしめ頬を染めた。
★続...
アズライール戦の翌日の昼食タイムの時、クライスト対策の会議を終えたアーヤから半強制的な指令が下った。
「リチャード達が合流した日に地元のテロリストから入手した爆弾の配置図と各国要人の行動日程だけれど、そろそろ情報が古いから新しいのを探してきて」
アーヤはニシンのパイ包みを食べ終えて、コーヒーを口にしながら、今日の新聞を買ってこいとでも言うかのように言い放った。
あれは刹那が偶然にも手に入れた物であって、『クルセイダーズ』のメンバーがくれたものではない。それの最新版を持ってこいなどとまた無茶を言う、と全員の意見が一致した。
「お前、傍若無人なのは今に始まったことじゃねえけど、また無茶苦茶言うなよ。あれも手に入ったのは運が良かったからだろ? あとはお前のカードで調べてくれれば良いじゃねえか」
誰も口にしなかったことを左文字が藪をつつく。
――当然ながら出てくるのは蛇だ。
「へえ……広大な敷地内に設置される爆弾をひとつずつ、いちいちカードで調べて、クライストの動向にも気を配って、貴方達全員の動きも把握して」
「俺が短慮でした。ごめんなさい」
アーヤの一睨みで左文字はすぐさま謝罪を口にする。どうやら昨日のおしおきがトラウマ化しているらしい。
ふん、と鼻を鳴らしてアーヤはまたコーヒーを飲んだ。
「しかし、左文字の言い分にも一理ある。せめて、図面を持っている人物だけでも特定してくれねば、我々は闇雲に歩き回るだけになってしまう」
「わかってるわよ。それくらいは占うから、判明するまでは全員オフね」
自由時間を与えられた瞬間、なぜかリチャードがいの一番に立ちあがって「セツナ、俺に同道しろ」と「お?」と首を傾げる刹那を引きずるようにして部屋を出て行ってしまった。
「なんだ、あれ?」
「リチャードが刹那に『だけ』訊きたいことがある、と。……面白そうね」
にたりとアーヤが笑う。盗聴する気満々だと覚った左文字が「いや、それだけは辞めてやれよ。第一、お前はやることがあるだろう」と正論でアーヤを制止した。
◇
リチャードは難しい顔をしながら、とりあえず隠れ家から歩いて五分のサクレ・クール寺院まで刹那を引っ張ってきた。
石の階段に腰掛けたまでは良かったものの、どう話をきり出そうかと思案していると、刹那が「少々待て」とテルトル広場の方へ消えて行った。ものの五分ほどで帰ってきた刹那の手には紙ナプキンに包まれたクレープが二つあった。
「テルトル広場の近くにブルターニュ地方出身の親父が営む小さな店があってな。そば粉のクレープで、塩と砂糖、どちらが良い?」
「……では、塩をくれ。その、礼を言う」
「気にするな。――それで、私だけを連れ出したのは理由があるのだろう?」
刹那が買ってきてくれた素朴な味わいのクレープを食べながら、リチャードはきまりが悪いように眉間に皺を寄せる。
「その、三大天使と戦う前に……デュークに言われたのだが、『恋愛をしてから結婚しろ』と」
刹那は相槌を打ちながらリチャードの話に耳を傾けた。なにが言いたいのかも、大体の察しはついたが刹那はそれを口にせず、リチャードの言葉を待つ。
「俺はイギリスに帰ったら父の決めた女性と結婚する。もう二十五だ。身を固めるのも適齢期だと思うし、妻は大事にしたい。しかし、デュークは『恋愛をしてから』と前置きをした。その意味が、今でもよく解らない」
「なるほど。そうさなあ……私にはデュークの意見も、お主の葛藤も解る。ゆえに結論から言うが、恋愛と破滅は紙一重だ、と言うのが私の経験則からの意見だな」
「破滅?」
リチャードはますます頭を抱えた。
刹那ならば、デュークの謎解きのような意見に明確な答えを出してくれるかと思ったが、彼の方が難解な物言いをする。
「ちゃんと説明をするから、そのような顔をするな」
刹那は目を回しそうになっているリチャードを見て、柔く笑った。
「恋なら私もしたさ。国の未来を二分する大戦争の真っ最中にな……」
日本とは違う乾いた爽やかな夏の風の下、刹那は紅緒を思い出しながら、前髪を手で上げた。
リチャードは初めて目にする刹那の眉間の傷と、やや垂れ目がちな黒い双眸にどう反応したものか困惑する。
「この傷は恩師に付けられたものだ。戦争のさなか、最も年若い隊士が夜半に忍んで逢引に行くとなれば、そりゃ怒られもしよう。だが、恩師はこの傷だけで恩情を示して逢引を許して下さった。怒られながらも彼女と過ごす時間は楽しかったし、孤児だった私を抱きしめてくれた彼女は戦争の次に大切だった……今でも、私は彼女以外の女性を愛せない」
そっと前髪を下ろした刹那にリチャードは尋ねた。
「では、戦争が終わってから彼女と家庭を持ったのか?」
リチャードの問いに刹那はゆるりと首を振った。
「そうしたかったが、できなかった。恩師を失って私の心は死んだも同然だった。彼女を迎えに行ってやれと言ってくれた先輩の心遣いも無にして――私は彼女を焼き殺したのだ」
衝撃の告白にリチャードはまた言葉を失った。刹那の過去を、リチャードは知らない。だが、第七のカルマを背負うこと、またデュークが「償っても償いきれぬ罪」を刹那も持っているのだと聞かされたが、彼が語った行為はおよそ今の刹那からは想像がつかなかった。
「解らずともよい。理解が欲しい訳じゃない。あの時の私にはどんなに愛した女よりも、恩師の方が大切だったのだ――二人を天秤にかけてしまった時点で、私にはもう彼女を愛する資格など無かった。フランスに来てからは故国との恋愛の価値観の違いに戸惑ったのも確かだ。参考になるかは解らんが、これが私の恋愛談。これでお主は同じ轍を踏まないだろう」
哀しく笑う刹那が言わんとしていることがリチャードは朧げに解った。すっかり食べ終わったクレープの塩味は涙を連想させた。
「……俺は、今のセツナしか知らない。お前は不本意ながら、俺が足元にも及ばぬほどなにもかもが強くて、強いから優しくあれる――そんな男だと思っている」
「光栄だな」
「セツナ、恋は……よいものか?」
「ああ、少なくとも私は恩師と彼女との出逢いは宝箱にしまってある。リチャード、デュークの意見も最もだが、恋愛は無理をしてするものではないぞ。身近にあるかもしれない、或いは通りすがりの女性かもしれない、はたまた故国に帰ってから出逢うやもしれぬ。大事なのはお主が人の魅力に気づけるか、であろうなあ」
リチャードは刹那の言葉を噛みしめながら立ちあがった。
「腑に落ちたか?」
「ああ、やはりセツナに訊いてよかった」
リチャードが立ちあがったのを見て、刹那も腰を上げる。呼び出しはかかってはいないが、アーヤに呼ばれる前に帰るか、と二人は石段をゆっくりと降りる。
テルトル広場はちょうど賑わいを見せていた。
「彼らは芸術家か?」
「そうだ。モンマルトルの夜は繁華街だが、昼はこうして玄人か素人かは問わず、創作者たちが露店を出している。アーヤには悪いが、ちと寄ってみよう」
温室育ちのリチャードにはこういう光景すら珍しいのだろう。子供のように目を輝かせて作品を見つめていた。
リチャードはふとあるものに目を止めた。絵画の露店が多い中でその人物の作品は異彩を放っていた。
「セツナ……女性への贈り物というのはやはり宝石や装飾品や花が喜ばれるだろうか?」
「一概にそうとは限らぬなあ。私は相手が好きな物を選ぶ」
「そ、そうか……!!」
自身の選択が間違っていなかった、と刹那の意見に安堵したリチャードは店の男に声を掛け、それを購入した。リチャードも満足そうに簡易に包装された小さな紙袋を懐に入れた。
「リチャードはやはり趣味がいい」
「……喜ぶだろうか」
「渡す時を見誤らなければ問題ないさ」
傲岸不遜の殻に覆われていたリチャードは、殻を取り払ってみればその実は世間知らずの実直な青年である。
刹那は帰路に他愛ない話をしながら、リチャードの成長を噛みしめる。土方も『瞬太郎』を見ている時はこんな気分だったのかもしれない――そう思いながら、隠れ家の近くの窓辺に咲いている赤い花を見て微笑む。
「ところでリチャード、左文字とお主は同い年だと知っていたか?」
「なに!?」
◇
帰宅早々、刹那は左文字と二人で、倉庫街であるベルシー通りに潜むマフィアから『クルセイダーズ』の情報を取ってくるようにアーヤに命じられた。モンマルトルからかなり距離があるのでさすがの二人も馬車を使う。
「あんの女……どこまで人遣いが荒いんだ」
「今に始まったことではないだろう。そんな顔をするな」
馬車に揺られながら、左文字は「尻が痛え」と口を開けばそんなことばかりを口にする。
指定された倉庫からは、戦闘を行わずとも図面だけが安易に手に入った。拍子抜けした二人だが、そんな時こそ警戒すべきだとは本能で知っている。
「人が少なすぎるな」
目算でもマフィアは十人足らずだった。明らかな罠だ、と判じた刹那は図面を左文字に託して帰らせた。
左文字は渋ったが、刹那ならばクライストが現れても、呪術が効かないので問題ないとし、左文字はまたモンマルトルへと帰った。
「待っていました、カサギ・セツナ」
左文字の気配が断たれたとほぼ同時にクライストは、黒いローブを着て仮面を被った小さな男を伴って倉庫の奥から姿を現した。他のマフィアの気配はない。月明かりだけが光源の石造りの倉庫にクライストの声が反響する。
「……やはり私が狙いか」
「貴方一人を狙え、と三大天使戦で言ったのは貴方でしょう」
クライストは腰の刀に手を掛ける刹那に両手を広げた。刹那は神速の抜刀でまた『何か』を斬った。
「やはり念力の糸か。トロカデロ広場で私を操ったのはこれで確定か」
「素晴らしい。その尋常ならざる剣……!! やはり『アレ』の復活には貴方と私のマリオネットが不可欠だ」
「アレ?」
満足そうに悦に浸るクライストの言葉に、刹那は訝しむ。微動だにしない隣の仮面男も気になった。その気配がなぜか知っているような錯覚を覚えて、刹那は落ち着かない。そんな刹那に、クライストは深い笑みを湛えた。
「ねえ、カサギ・セツナ。ひとつ、提案があるのです。私に、少々手を貸してくれませんか?」
「今更、何を申し出るか知らぬが断る――その隣の者を解放しろ。どうせ私との交渉を確たる物とするための人質であろう」
刀を正眼に構えた刹那にクライストはお道化て両肩を上げた。
「そこまでバレていましたか。せっかく日本からはるばる送られてきた交換品だというのに」
クライストは男の仮面と頭に被せてあったフードを取り払った。
――両目と口が縫い合わされた男。
刹那は目を瞠った。
「――っ……まさか、市村さん……? 市村鉄之助さん、ですか? 土方副長の小姓だった……」
見えない眼と話せない口で、男は何度も深く頷いた。
市村は土方の遺品を日野の遺族に渡すことを託され、その後は大垣で死んだはずだ。
なのになぜ――。
「交渉は決裂だ、クライスト。貴様は私の最も触れてはいけない逆鱗に触れた……万に刻んでも許さぬ――!!」
刹那の剣気が最大値を超えた。
左文字が得意とする『縮地』を用い、刹那は囚われの市村の首を斬った後、返す切っ先でクライストに接近し、その目を狙って突きを放つ。
だが、なぜか刹那の目を狙って突きが返ってきた。
「なに……!?」
クライストは後方に飛び退って、刹那から距離を取る。
「神速の己の剣すら避けましたか……。惜しいな、これで目が潰れれば貴方は楽に捕らえられたのに」
左眼の目尻の小さな傷からつっ、と血が流れた。クライストの姿はどんどん朧になって消えた。声だけが倉庫の中に反響する。
刹那が刀を構え直した瞬間、何もない空間から現れたクライストの手で刹那は目を覆われ、脳を直撃するような電流によって気を失った。
「ふふ……手こずらせてくれる。だが、これで革命記念日に間に合います。七月十四日は第二次フランス革命の日となる」
倉庫の中で、刹那の手を離れた籠釣瓶の地を鳴らす高い音が響き渡った。
◇
「ルイーズ」
左文字と刹那の帰宅を待って、夕飯の仕込みをしていたルイーズをリチャードがこっそりと手招く。
「どうしたの?」
「……やる」
リチャードは茶色いクラフト紙の包みをルイーズに渡して、さっさと応接室に戻って行った。その耳が赤くなっていたので、なにか彼にとっては恥ずかしいことなのだろう、とルイーズは見当をつけて丁寧にクラフト紙を開く。
「……わあ……!!」
中から出てきたのは青いリボンだった。
器用なことに金糸で三枚花弁の百合の紋章が細かく刺繍されている匠の一品だ。刹那を伴って出て行った時に買ってくれたのだろう。
ルイーズはリチャードからの初めての贈り物であるそれを大切に胸に抱きしめ頬を染めた。
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沖縄県の手塚島で忍者の修行をして育った大也は東京に出て、忍者の争いに否応なく巻き込まれるのだった。
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