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5、雨に唄えば
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朝から天気の怪しい日だった。天気予報でも急な雨に注意と言っていた。
時刻は朝の九時。
ワーグナーはまだ起きてくる気配のない二人の分までチーズオムレツとサラダを作って、店の掃除に取り掛かった。十時前に小雨が軒を打つ音が聞こえてきた。
「降ってきたわね。上の二人、起きてくるのかしら?」
猫並みに気ままな生活を送っているヴェルディとアマデウスはただ雨が降っているだけでも活動したくないと言い張る時がある。
すぐに部屋をごみ溜めにするヴェルディは、ワーグナーが力任せに起こす。だが、アマデウスは小賢しくも部屋の鍵だけでなく、バリケードまで作って引きこもる。
「バリケードを作る元気があるなら買い出しくらい手伝いなさいよ!!」というワーグナーの正論は「やだ。外出の労力とは別問題」と一蹴された。朝食を作らなかったら、それはそれでうるさい。
「家賃を取るようにしようかしら」
その権限を持っているのはワーグナーではなく、父親のルーイである。悔しくてならないが、ワーグナーは綿あめに似た埃取りで棚の上を撫でた。
するとカラカラと扉のカウベルが鳴る。
おずおずと顔を覗かせたのは、茶色い髪に雨粒を付けた女性だった。年齢は二十歳前後だろうか。白とネイビーのボーダーシャツも肩が濡れている。
『あの、ごめんなさい……閉店なのはわかっているのですが……』
くっきりとしたアーモンドアイが特徴的な彼女は拙いアメリカ英語を話した。
『気にしないで。雨宿りに使って頂戴。温かいコーヒーはお好き?』
ワーグナーはにっこりと笑って、バーカウンターの上にある備品入れを漁り、新品のタオルを彼女に手渡した。
『英語が話せるのですね。助かります。コーヒーは大好きです。タオルまで……ありがとう』
『ここは色んなお客様がいらっしゃるもの。どうぞ、ソファでも、カウンターでも落ち着くところに座って。今なら選び放題よ』
電気ケトルではなく、ホーローのケトルに飲料水を入れて火にかける。
彼女はくすりと笑って、いつもヴェルディが陣取っている席に腰を下ろした。
『日本には観光でいらしたの? あたしはマスターのワーグナー』
『ワーグナーって、あのオペラの巨匠ですか?』
『そうよ。キャッチーな名前でしょ。あなたは?』
『クロエ・クレイマンズです。日本へは語学留学と、人探しを……』
『人探し?』
『ええ、婚約者が、三年前に突然婚約破棄して日本で消息を絶ってしまったの。親が勝手に決めた婚約だったけど、私は彼が消えた理由を、どうしても知りたくて探してる』
ワーグナーは、ミルでごりごりとコーヒー豆を挽きながら、クロエの話を聞く。クロエの探し人が日本にいるのならばルーイとコンタクトを取るべきかと思ったが、あの男の情報は有償だ。万が一、日本ではない国にいて、生きていると仮定した場合も法外な値段は避けられない。
『婚約者は本当に日本で消息を絶ったの?』
ミルで挽いた豆をコーヒーフィルターに移し、ケトルからゆっくりと湯を少し入れて豆を蒸らす。店の中にコーヒー豆の香りが一気に広がった。
『彼は母親が日本人だったんです。外見も東洋人にしか見えないから、真っ先に日本に来たの』
『写真とかあるかしら? あなたが望むなら、警察よりも確実に彼を探し出してくれる人を紹介することもできるけど、学生さんなのよねえ……』
十分に蒸らした豆に円を描きつつ、ゆっくりと湯を注いでいく。クロエは急いでキャメル色をした革のリュックを膝に置いて、『お金は無いけど、写真ならあります』と言った。
彼女が写真を探している最中に淹れたコーヒーをソーサーの上に乗せた。スプーンに角砂糖をひとつ置いて、ワーグナーもソファに腰かける。
お茶請けのクッキーも忘れない。
湯気を立てるコーヒーをクロエに差し出すと『いい匂い』とほわりと笑う。
『ブルーマウンテンよ。熱いうちにどうぞ。あたしもご相伴に預かっちゃう』
『ありがとうございます……!! え、と……手帳に、彼の写真を入れておいたはずなのになあ』
結局、写真は見つからず、クロエは『コーヒーが冷めてしまう』と律儀にもコーヒーカップを手にして一口飲み、ほうっと息を吐いた。
『写真が無いので、特徴をお話しします。とても独特な人だから解りやすいと思います』
『じゃあ、あたし、メモしておくわ。どんどん話しちゃって』
ワーグナーがスマホを取り出して、メモ機能をスタンバイするとクロエは『まず』と思い出を掘り返すように、コーヒーカップにまた口を付けた。
『年齢は――今なら二十五歳です。身長は高くて、すらっとした細身です』
『あら、あたしと同い年ね。長身細身っと。その他の外見は? 髪の色とか、目の色とか、誰に似ているとか……』
『髪は少し緑が混じった黒髪。目は生まれつき光に弱いのでサングラスをずっとかけています。サングラスを取ったら淡い水色をしています。母親似なので、日本人にしか見えません』
なぜか上で寝こけている男が浮かび上がったが、世に同じ顔の人間は三人も存在するのだ。
ワーグナーはクロエに先を促した。
『ものすごく無口で、音楽とゲームがとにかく好き。声は低くて、バリトン……かな。声量は驚くほど小さくて、コミュニケーションが苦手で、マイペースです。黙っていればとてもかっこいいのですが、注意散漫過ぎて恐ろしいほどドジなんです……朝にも弱かったっけ』
ほぼ確定である。ワーグナーはメモを取るのをやめ、祈りに似たポーズになった。
クロエの話に一旦ストップをかけて『少し待っていてね』と、スマホでヴェルディとアマデウスに大音量のコールを掛けた。
「集合!! 二人とも、四の五の言わずに集合よ!! 特にヴェル!!」
アマデウスは「オカマ、うるっさー……い」と不機嫌も露わだが、今回ばかりは構っていられない。
上階からはなにを暴れているのかと思うような音が聞こえる。
不安そうにするクロエに『ゴジラじゃないから安心して』とフォローになっていない言葉を吐き、頭を打ちながら階段を下りてくる足音に耳を澄ませた。
「……おい、まだ早い――」
『クロエちゃん、お探しの男はこいつで間違いないかしら!?』
目を丸くしているクロエに、サングラスを逆さに掛けて、まだ寝ぼけ眼のヴェルディの顔をくるりと向けさせた。
「……クロエ……?」
『――ライカ!!』
「ヴェル、あんた、故国では失踪者扱いになっているそうよ……詳しく話してもらいましょうか?」
ヴェルディは、泣きじゃくっているクロエをしばし見つめたまま、寝間着のシャツに手を入れてぼりぼり掻いた。
『……とりあえず顔を洗ってくる。ワーグナー、俺にもコーヒーをくれ』
どこまでもマイペースを貫くヴェルディに失笑が禁じ得ない。ワーグナーがクロエを落ち着かせていると「なんなのさ」とアマデウスも出てきたので、かいつまんで事の経緯を話す。
「ヴェルの婚約者……? 存在するんだね、そんな生き物」
「こら、クロエちゃんが可哀想でしょ。親同士が勝手に決めた――って、あいつ、遅くない?」
しびれを切らせたアマデウスが様子を窺うと、案の定、洗面所で寝ていたヴェルを引きずって戻ってきた。
これほど己に正直に生きられたのなら、どれほど楽だろうか。そんな詮無いことさえ考えてしまう。
『三年前、どうして誰にも話さずに日本に来たの?』
『……確か……』
クロエの質問に、過去を振り返ろうとしてヴェルの動きは止まった。アマデウスが「ヴェルに三年前の記憶なんかあるの?」と核心をついてしまえば、ヴェルディは「忘れた」とあっさり認める。
こともあろうに、クロエへ『お前はなにしに来たんだ?』と逆に質問を返す始末。
『語学留学よ。それと、今、付き合っている人がいるの。だから、ライカとのことに決着を付けたかった。アメリカには、帰らないのね?』
『そうだな』
外はざあざあと雨の音が聞こえる。店内の沈黙が痛かった。
空気に耐えかねたワーグナーが、このままでは埒が明かないとクロエのホームステイ先を聞き出して、車で送っていくことになった。
『新宿からだと、割と距離があるわね。留学期間中は、いつでもいらっしゃい。あんた達は冷蔵庫のチーズオムレツでも食べてなさいね』
二人に留守番を任せて、ワーグナーはクロエと共に地下の駐車場に行ってしまった。
見送りを終えて、残されたヴェルディとアマデウスはトースターで食パンを焼き、チーズオムレツを温めなおして朝食の用意をする。
「……ヴェル、なんで俺の思い付きに乗ったの?」
「バレていたか」
「伊達の付き合いじゃないよ」
「……異能力のことを、話さなければならなかったから。ワーグナーも気づいているな。初対面の時に、ルーイに説明されたのを覚えている――」
異能力への目覚めは唐突だった。
顔に触っただけで別人になれる。家族や幼馴染のクロエに黙っているのは限界があった。ただでさえ注意力散漫なヴェルが、もしも顔に触れられたらと考えると、さすがに居心地が悪い。
扱いに困った結果、マンハッタンの有名な霊能力者の家を訪ねた。そこで『JOKERS』を紹介され、流されるまま、パスポートと有り金を握って日本へやってきたのだ。
「君がライカくん? 僕は『JOKERS』のルーイです。話は聞いているよ」
ルーイの紹介でワーグナーに引き合わされた。ちょうど「タンホイザー」のオープンを控えていた時期だ。
「あんた、掃除ができないの!?」
面倒見がよく、ややお節介なワーグナーは、部屋を散らかすばかりのヴェルディに耐えかねてルームシェアを提案した。
半年もすればアマデウスも加わった。三人の共通が『オペラ』だと判明して、今に至るという訳だ。
「アメリカはとっくに捨ててきた。クロエもワーグナーがうまく説得してくれるだろう。俺では、言葉にできないことを言語化できる奴だからな」
アマデウスは「ふうん」と言って、オムレツの最後の一口を食べた。
◇
ワイパーを全開にして、ワーグナーのムーヴは高速を走る。車中ではクロエが『ライカには、イレギュラーだったとはいえ、私の訪問は迷惑だったのでしょうか』と肩を落とす。
『それは違うわ。あたし達三人は、少々特殊な繋がりであの店に居るの。ヴェル――ライカが日本に来たのは家族や貴女に迷惑をかけない為よ。彼のご両親も心配しているのでしょうけれど、どうかそっとしておいてあげて。変に暴けば、彼は本当に二度とアメリカに帰らなくなってしまう』
クロエは穏やかに微笑むワーグナーに「解りました」と言った。
『ワーグナーさんが、彼と一緒に居てくれてよかった。三年経っても、彼が変わらないでいられたのは貴方のおかげかもしれない……きっと、私のような小娘にはできなかった』
話がおかしな方向に解釈されていると覚ったワーグナーは慌てて弁解する。
『クロエちゃん……あたし、二丁目で店を出しているのは、あそこしかスペースがなかったからであって、三人とも性癖は生粋のストレートだからね!? ものすごく大事な部分よ、誤解しないで!!』
クロエが『ふふっ』と笑うと、『笑顔が意味深だわ!!』と車内のBGMさえかき消すほどにワーグナーは訴え続けた。
雨はまだ止まない。だが、遠くでは晴れ間が見えている。
to be continued...
時刻は朝の九時。
ワーグナーはまだ起きてくる気配のない二人の分までチーズオムレツとサラダを作って、店の掃除に取り掛かった。十時前に小雨が軒を打つ音が聞こえてきた。
「降ってきたわね。上の二人、起きてくるのかしら?」
猫並みに気ままな生活を送っているヴェルディとアマデウスはただ雨が降っているだけでも活動したくないと言い張る時がある。
すぐに部屋をごみ溜めにするヴェルディは、ワーグナーが力任せに起こす。だが、アマデウスは小賢しくも部屋の鍵だけでなく、バリケードまで作って引きこもる。
「バリケードを作る元気があるなら買い出しくらい手伝いなさいよ!!」というワーグナーの正論は「やだ。外出の労力とは別問題」と一蹴された。朝食を作らなかったら、それはそれでうるさい。
「家賃を取るようにしようかしら」
その権限を持っているのはワーグナーではなく、父親のルーイである。悔しくてならないが、ワーグナーは綿あめに似た埃取りで棚の上を撫でた。
するとカラカラと扉のカウベルが鳴る。
おずおずと顔を覗かせたのは、茶色い髪に雨粒を付けた女性だった。年齢は二十歳前後だろうか。白とネイビーのボーダーシャツも肩が濡れている。
『あの、ごめんなさい……閉店なのはわかっているのですが……』
くっきりとしたアーモンドアイが特徴的な彼女は拙いアメリカ英語を話した。
『気にしないで。雨宿りに使って頂戴。温かいコーヒーはお好き?』
ワーグナーはにっこりと笑って、バーカウンターの上にある備品入れを漁り、新品のタオルを彼女に手渡した。
『英語が話せるのですね。助かります。コーヒーは大好きです。タオルまで……ありがとう』
『ここは色んなお客様がいらっしゃるもの。どうぞ、ソファでも、カウンターでも落ち着くところに座って。今なら選び放題よ』
電気ケトルではなく、ホーローのケトルに飲料水を入れて火にかける。
彼女はくすりと笑って、いつもヴェルディが陣取っている席に腰を下ろした。
『日本には観光でいらしたの? あたしはマスターのワーグナー』
『ワーグナーって、あのオペラの巨匠ですか?』
『そうよ。キャッチーな名前でしょ。あなたは?』
『クロエ・クレイマンズです。日本へは語学留学と、人探しを……』
『人探し?』
『ええ、婚約者が、三年前に突然婚約破棄して日本で消息を絶ってしまったの。親が勝手に決めた婚約だったけど、私は彼が消えた理由を、どうしても知りたくて探してる』
ワーグナーは、ミルでごりごりとコーヒー豆を挽きながら、クロエの話を聞く。クロエの探し人が日本にいるのならばルーイとコンタクトを取るべきかと思ったが、あの男の情報は有償だ。万が一、日本ではない国にいて、生きていると仮定した場合も法外な値段は避けられない。
『婚約者は本当に日本で消息を絶ったの?』
ミルで挽いた豆をコーヒーフィルターに移し、ケトルからゆっくりと湯を少し入れて豆を蒸らす。店の中にコーヒー豆の香りが一気に広がった。
『彼は母親が日本人だったんです。外見も東洋人にしか見えないから、真っ先に日本に来たの』
『写真とかあるかしら? あなたが望むなら、警察よりも確実に彼を探し出してくれる人を紹介することもできるけど、学生さんなのよねえ……』
十分に蒸らした豆に円を描きつつ、ゆっくりと湯を注いでいく。クロエは急いでキャメル色をした革のリュックを膝に置いて、『お金は無いけど、写真ならあります』と言った。
彼女が写真を探している最中に淹れたコーヒーをソーサーの上に乗せた。スプーンに角砂糖をひとつ置いて、ワーグナーもソファに腰かける。
お茶請けのクッキーも忘れない。
湯気を立てるコーヒーをクロエに差し出すと『いい匂い』とほわりと笑う。
『ブルーマウンテンよ。熱いうちにどうぞ。あたしもご相伴に預かっちゃう』
『ありがとうございます……!! え、と……手帳に、彼の写真を入れておいたはずなのになあ』
結局、写真は見つからず、クロエは『コーヒーが冷めてしまう』と律儀にもコーヒーカップを手にして一口飲み、ほうっと息を吐いた。
『写真が無いので、特徴をお話しします。とても独特な人だから解りやすいと思います』
『じゃあ、あたし、メモしておくわ。どんどん話しちゃって』
ワーグナーがスマホを取り出して、メモ機能をスタンバイするとクロエは『まず』と思い出を掘り返すように、コーヒーカップにまた口を付けた。
『年齢は――今なら二十五歳です。身長は高くて、すらっとした細身です』
『あら、あたしと同い年ね。長身細身っと。その他の外見は? 髪の色とか、目の色とか、誰に似ているとか……』
『髪は少し緑が混じった黒髪。目は生まれつき光に弱いのでサングラスをずっとかけています。サングラスを取ったら淡い水色をしています。母親似なので、日本人にしか見えません』
なぜか上で寝こけている男が浮かび上がったが、世に同じ顔の人間は三人も存在するのだ。
ワーグナーはクロエに先を促した。
『ものすごく無口で、音楽とゲームがとにかく好き。声は低くて、バリトン……かな。声量は驚くほど小さくて、コミュニケーションが苦手で、マイペースです。黙っていればとてもかっこいいのですが、注意散漫過ぎて恐ろしいほどドジなんです……朝にも弱かったっけ』
ほぼ確定である。ワーグナーはメモを取るのをやめ、祈りに似たポーズになった。
クロエの話に一旦ストップをかけて『少し待っていてね』と、スマホでヴェルディとアマデウスに大音量のコールを掛けた。
「集合!! 二人とも、四の五の言わずに集合よ!! 特にヴェル!!」
アマデウスは「オカマ、うるっさー……い」と不機嫌も露わだが、今回ばかりは構っていられない。
上階からはなにを暴れているのかと思うような音が聞こえる。
不安そうにするクロエに『ゴジラじゃないから安心して』とフォローになっていない言葉を吐き、頭を打ちながら階段を下りてくる足音に耳を澄ませた。
「……おい、まだ早い――」
『クロエちゃん、お探しの男はこいつで間違いないかしら!?』
目を丸くしているクロエに、サングラスを逆さに掛けて、まだ寝ぼけ眼のヴェルディの顔をくるりと向けさせた。
「……クロエ……?」
『――ライカ!!』
「ヴェル、あんた、故国では失踪者扱いになっているそうよ……詳しく話してもらいましょうか?」
ヴェルディは、泣きじゃくっているクロエをしばし見つめたまま、寝間着のシャツに手を入れてぼりぼり掻いた。
『……とりあえず顔を洗ってくる。ワーグナー、俺にもコーヒーをくれ』
どこまでもマイペースを貫くヴェルディに失笑が禁じ得ない。ワーグナーがクロエを落ち着かせていると「なんなのさ」とアマデウスも出てきたので、かいつまんで事の経緯を話す。
「ヴェルの婚約者……? 存在するんだね、そんな生き物」
「こら、クロエちゃんが可哀想でしょ。親同士が勝手に決めた――って、あいつ、遅くない?」
しびれを切らせたアマデウスが様子を窺うと、案の定、洗面所で寝ていたヴェルを引きずって戻ってきた。
これほど己に正直に生きられたのなら、どれほど楽だろうか。そんな詮無いことさえ考えてしまう。
『三年前、どうして誰にも話さずに日本に来たの?』
『……確か……』
クロエの質問に、過去を振り返ろうとしてヴェルの動きは止まった。アマデウスが「ヴェルに三年前の記憶なんかあるの?」と核心をついてしまえば、ヴェルディは「忘れた」とあっさり認める。
こともあろうに、クロエへ『お前はなにしに来たんだ?』と逆に質問を返す始末。
『語学留学よ。それと、今、付き合っている人がいるの。だから、ライカとのことに決着を付けたかった。アメリカには、帰らないのね?』
『そうだな』
外はざあざあと雨の音が聞こえる。店内の沈黙が痛かった。
空気に耐えかねたワーグナーが、このままでは埒が明かないとクロエのホームステイ先を聞き出して、車で送っていくことになった。
『新宿からだと、割と距離があるわね。留学期間中は、いつでもいらっしゃい。あんた達は冷蔵庫のチーズオムレツでも食べてなさいね』
二人に留守番を任せて、ワーグナーはクロエと共に地下の駐車場に行ってしまった。
見送りを終えて、残されたヴェルディとアマデウスはトースターで食パンを焼き、チーズオムレツを温めなおして朝食の用意をする。
「……ヴェル、なんで俺の思い付きに乗ったの?」
「バレていたか」
「伊達の付き合いじゃないよ」
「……異能力のことを、話さなければならなかったから。ワーグナーも気づいているな。初対面の時に、ルーイに説明されたのを覚えている――」
異能力への目覚めは唐突だった。
顔に触っただけで別人になれる。家族や幼馴染のクロエに黙っているのは限界があった。ただでさえ注意力散漫なヴェルが、もしも顔に触れられたらと考えると、さすがに居心地が悪い。
扱いに困った結果、マンハッタンの有名な霊能力者の家を訪ねた。そこで『JOKERS』を紹介され、流されるまま、パスポートと有り金を握って日本へやってきたのだ。
「君がライカくん? 僕は『JOKERS』のルーイです。話は聞いているよ」
ルーイの紹介でワーグナーに引き合わされた。ちょうど「タンホイザー」のオープンを控えていた時期だ。
「あんた、掃除ができないの!?」
面倒見がよく、ややお節介なワーグナーは、部屋を散らかすばかりのヴェルディに耐えかねてルームシェアを提案した。
半年もすればアマデウスも加わった。三人の共通が『オペラ』だと判明して、今に至るという訳だ。
「アメリカはとっくに捨ててきた。クロエもワーグナーがうまく説得してくれるだろう。俺では、言葉にできないことを言語化できる奴だからな」
アマデウスは「ふうん」と言って、オムレツの最後の一口を食べた。
◇
ワイパーを全開にして、ワーグナーのムーヴは高速を走る。車中ではクロエが『ライカには、イレギュラーだったとはいえ、私の訪問は迷惑だったのでしょうか』と肩を落とす。
『それは違うわ。あたし達三人は、少々特殊な繋がりであの店に居るの。ヴェル――ライカが日本に来たのは家族や貴女に迷惑をかけない為よ。彼のご両親も心配しているのでしょうけれど、どうかそっとしておいてあげて。変に暴けば、彼は本当に二度とアメリカに帰らなくなってしまう』
クロエは穏やかに微笑むワーグナーに「解りました」と言った。
『ワーグナーさんが、彼と一緒に居てくれてよかった。三年経っても、彼が変わらないでいられたのは貴方のおかげかもしれない……きっと、私のような小娘にはできなかった』
話がおかしな方向に解釈されていると覚ったワーグナーは慌てて弁解する。
『クロエちゃん……あたし、二丁目で店を出しているのは、あそこしかスペースがなかったからであって、三人とも性癖は生粋のストレートだからね!? ものすごく大事な部分よ、誤解しないで!!』
クロエが『ふふっ』と笑うと、『笑顔が意味深だわ!!』と車内のBGMさえかき消すほどにワーグナーは訴え続けた。
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