裏鞍馬妖魔大戦

紺坂紫乃

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第一部 風の魔物と天狗の子

第六話 偽りの星

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六、「偽りの星」


 夜空に瞬く星を見上げながら、安倍清明は柳眉をしかめた。

「誰ぞ、『鏡』を」

 一条戻り橋近郊にある荒れ屋敷の庭に立った清明は、誰もいない背後に命じる。ほどなくすると、一人の女が裳裾をひきながら、茶色く変色した呪符で封じられている青銅の鏡を清明の足元に置いた。
 清明は礼も何も述べず、古ぼけた鏡に映った星々を見て眉間の皺をさらに深くする。

「星の配置が狂っとるなあ。このは……あの時と同じ? 否、私の見当違いか? それにしても、この卦は……」

 閉じた扇子で頬を叩きながら、清明はまた星空に視線を戻した。鏡に映る星の位置と、実際の星の位置が異なる。原因の一つとして立てた仮説を清明はすぐに否定した。

式部しきぶ、おるか?」
「これに」

 鏡を持ってきた藤色の打掛を着た女――式部が惑う清明の前に再び現れる。平素は感情を表に出さない主人の戸惑う表情は珍しい。そう思いながらも、式部は顔色ひとつ変えずに軽く頭を下げた。

「取り急ぎ、最澄の下へ行け。この戦争は元より仕組まれたもんやったが、これは明らかに異常やと最澄に伝えよ」

「助言はされぬとおっしゃったのに、わたくしを最澄様のところへおやりになるのですか?」

 女は凪いだ湖面のような眼差しをしていた。式神である女が疑問を口にすることは滅多にない。珍しいこともあるものだと、清明は青銅の鏡に再び視線を落としながら渋面を作る。

「助言やない。忠言や。無論、僧正坊にも伝える」

「あくまで中立であられるのですね。かしこまりました。では、髑髏ヶ淵どくろがふちに到達される前にお伝え致します」

「頼んだ。いくら龍鱗を持っとっても、あそこが双方にとって最大の関門となるやろう」

 この主が式神に「頼む」などと口にしたことに触発され、式部は胸の内に留めておくつもりだった言葉を口にした。

「僭越ながら……破門され、師弟の関係が無くなっても、貴方様は最澄様の為に動かれるとばかり思っておりました」

 まるで野花の囁きのようなかすかな声でそう述べると、式部は主の答えを聞かずに消えた。
 その小さな声に清明は遠い日に聞いた「お願い致しますね」という少女の声を思い出した。最澄によく似た面影の少女は、夫となった狐に出逢うまで、弟の身だけを案じて生きてきた。

『清明様、弟を――最澄をよろしくお願い致しますね』

 迎賓館を後にする度に、はにかんだ笑顔で決まり文句を口にしていた少女は、妻となり、母となってカミツレの花を想わせる女性になった。過ぎし日の彼女の言葉には何度も頷いたのに、結果はこの通りだ。

「約束は果たされへんかったなあ。堪忍え」

 狂った星座がきらめく夜空に、清明はぽつりと謝罪を口にした。式部はもういない。雲は少ないのに夜風は雨の匂いがする。清明はそっと長い睫毛が縁取る目を伏せた。
 叶うことなら最澄の後ろ盾で居てやりたかった。しかし、今は十年を共に過ごしても、最澄は清明に心の内をすべてさらけ出してはくれなかったという現実を突きつけられている。彼の気性や実力ゆえのプライドから、破門を言い渡した清明に縋りはしないとは容易に想像できた。確証となったのは、最澄が伏見の次に諏訪の龍神を頼ったと知り、少なからず落胆したのは清明自身が一番驚いている。

「私も歳やろうか。死んだ弟子たちは悪態を吐きながらも頼ってくれたさかい」

 自惚れと言われれば否定はできない。しかし、荒んだ環境で育ってきた最澄は、根っからの風魔であった。師に累が及ばぬようとの配慮があったのかもしれない。だが、最澄は口が裂けてもそうは言わないだろう。

「それほどに愛していたか、姉を――ただ一人の女の幸せを切に願って」

 最澄の人生は姉一家の為にあったと言っても過言ではない。姪の浅葱が生まれてからは輪をかけて『迎賓館』に足しげく通い、慈しんできた。その姿は冷淡な魔物とは程遠い笑顔を浮かべていたのは記憶に新しい。

 ――叶わぬとは痛いほどに解っていても、願わくばあの頃の最澄に戻してやりたい。

 清明は歪んだ星空の下、黒々とした睫毛で縁取られた瞼を伏せた。 



 滝丸の魂が最澄に消された夜から三日三晩、羅天は熱を出して寝込んだ。ゆめうつつに清明と僧正坊が「最澄は松江に向かった」と話していたことだけは覚えている。ならば、寝込んでいる場合ではないと思うのだが、気が急いても身体は思うように動いてはくれない。
 羅天は熱に浮かされながらも歯がゆくて仕方がなかった。こうしている間にも最澄との差はどんどんと深まって行く。皆の制止も振り切ってまだ傷の癒えない身体に無理を強いてでも松江まで飛んで行きたかった。

「羅天、お前に客人や」

 そんな思いを抱えながらも、やっと熱がひいた四日目の午後のこと。清明と僧正坊に連れられて一匹の白い狐がうつ伏せになっている羅天の枕元に現れた。

「明神様の使い?」

「……たった四日で忘れるの? トリ頭」

「え、その声……祭!? なんで狐の姿に!?」

 興奮して起き上がろうとする羅天を清明が指をパチンと鳴らして、紙の式神に押さえつけさせる。

「傷に障る。まだじっとしとき」

「あの、清明様。説明して下さい」

「木下祭やったな。隠り世の扉が開いて、あちらがきちんと機能するまで浮遊霊は各地の土地神や稲荷明神が保護することで一致したらしい。けど、この娘だけは稲荷明神の使いとして、お前の手助けをしたいと聞かんでな。明神も渋ったんやけど、羅天、まずはお前の意思を訊こう思て連れてきた」

「俺の意思もなにも、こいつはもう狐になっちまったなら、連れて行くしかないんじゃあ……」

「まあ、せやな」

 清明のあっさりとした回答に羅天はひくりと口角が引き攣る。最初から羅天に選択肢などなかった。数多の陰陽師の中でもその才覚は随一とまで謳われ、本名である「安倍清明はれあきら」という名さえ敬意をはらって口にはされない人物が、この眼の前の平安絵巻から抜け出てきたような男だ。しかし千年以上も生きたせいか、『裏』では変人としても有名である。その後者の清明を垣間見た気がした。羅天は軽い眩暈を覚える。さすがあの最澄の師である、と妙な感心すら湧いて出た。

「わかりました、連れて行きます。祭、後悔しても遅いからな」

「あ、ありがとう!! これからよろしくね、羅天!! 頑張るから!!」

「お、おう……よろしく」

「青春やな」

「貴方は少し黙っていて下さいますか」

 「おお、怖っ。お前は死んだ弟子みたいや」と扇子で口元を隠してしまった。お道化た口調とは裏腹に、清明の目は憂いを帯び、眼の下には隈があった。この男も僧正坊と同じく、迎賓館の惨劇と最澄の変貌に心を痛めているのが手に取るように解る。羅天は複雑な心境に小さく舌打ちを漏らした。

「あいつが向かったのは黄泉比良坂よもつひらさかなんですよね――祭、早速だけど行こう」

「え、君は病み上がりでしょ?」

「充分すぎるくらい休んだ。これ以上、あいつに差を付けられるのはごめんだ」

「羅天」

 清明も苦言だろうかと羅天は起き上がってから清明に向き直ると口の中になにかを放りこまれた。吐きだそうと手を口にやる前に舌が痺れる。

「まっず……!!」

「私が調合した丸薬や。病み上がりに松江まで飛ぶんやったら大人しゅう飲んどき」

 吐き出してしまいたいのを必死で堪えて、羅天は涙目になりながら丸薬を嚥下した。もうこの陰陽師に関わると碌なことがない。せっかく回復したばかりだというのに、もう心身ともに疲弊している。
 清明を無視してそそくさと準備を整えると、僧正坊に一言断わりを入れに霊殿の大門に立った。

「僧正坊様、それでは行って参ります」

「道中、気をつけてな。黄泉比良坂に至るに最大の関門となるのは『髑髏ヶ淵』と呼ばれる沼地じゃ。あそこは既に黄泉の入り口の一部ゆえ、くれぐれも……」

 心配性の僧正坊に、羅天は「へへっ」と笑う。肩に置かれた枯れ木のような手にそっと触れた。羅天の両の眼はまっすぐに僧正坊を見つめ返してくる。

「ご心配は嬉しいですが、今回は祭も一緒です。僧正坊様にこれ以上哀しい思いをさせないように心がけますから、どうか御身も大切にしてください――では」

 羅天は白い雲が帯のようにたなびく青空に黒い羽根を数枚落として舞い上がった。

「……ええ子やな」

「儂の孫も同然じゃよ。多少気の短いところはあるが、情が深く、すれたところがない。清明よ、あの子すら駒にしようとしている者は何者じゃ?」

 清明は「言えぬよ」と踵を返した。僧正坊は「それほどに凶悪か」とかぶりを振った。

「……星空すら歪める悪鬼羅刹あっきらせつや。口にするのもおぞましいわ」

 龍鱗を得た最澄もまた同じ穴のむじな――清明は手に持っていた白い扇を握りつぶした。滝丸の背後にいた『人物』と最澄が同類だとちらりとでも頭をよぎった自身に吐き気がした。

「……お前が生きとったら、今の最澄になんて言葉をかけるんや。なあ、頼むわ……教えてくれへんか……?」

 鮮やかな思い出になってしまった弟子の最愛に、懇願にも似た問いを清明は投げる。返事は、無論無かった――。

続...
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