BLUE BLOOD BLOOM

紺坂紫乃

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Ⅹ, 青の加護と黒の愛

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Ⅹ、「青の加護と黒の愛」


 フランスのアパルトマンに、エルが単身で現れたのは午後七時だった。
 魔王・ルシファーと、ユーリの父である死神ヴィンセント・シルバは、犬猿の仲だ。無論、家で寛いでいたところにエルが玄関ではなく、リビングの影から現れ、藪から棒に「話がある」と言えば、ヴィンセントもリリィも身構える。

「犬神を倒した。同時に、中途半端な『神殺し』をしたせいで、ユーリにはリバウンドが起こった。だが、あの娘は闇堕ちせずに助かった」

 ヴィンセントとリリィは無言でエルの語りを聞いている。エルは淡泊に語り続けるが、だんだんと視線が険しくなってくる。

「ユーリは間違いなく一度は堕ちた。闇に飲まれたもの――ましてやユーリは魔王である俺と契約している身だ。そんな小娘が、通常の世界に生還するなど前例はない。今度もないだろう。まず『絶対に有り得ない』からだ――答えろ、ユーリに施した小細工はなんだ? ついでに付け加えると、俺とユーリのリンクも切れている。部下達は気づいていないが、これでは契約の不履行になるんだがなあ」

 ヴィンセントは悪びれもなく「可愛い一人娘を永く生かしてやりたいと願って何が悪い」と言ってのけた。

「魔界との契約も断ち切られた? はっ、万々歳だ。まだ生まれて半年の孫に母を知らねえつらさを味わわせなくて済む。たとえ熾天使だろうが、俺達にとっては大切な家族だ。魔王が契約違反のペナルティを要求するならすればいい。まあ、できればの話だが……」

「……これが最後だ。ユーリになにを仕込んだ?」

 ヴィンセントとエルの間に、氷雪のような凍てついた空気が流れる。ジャンヌは尋常でない二人の空気にあてられて腰を抜かして震えていた。リリィはジャンヌを支えながら、毅然とルシファーに答えた。

「娘に力を貸してくれたあなた方への大変な裏切りであることは承知です。でも、私達にも譲れない信念がある――ユーリの、娘の心臓の上に結ばれていた『玉の緒』……あれの中に雪のピアスの片割れを隠し入れています。ユーリも、雪も知りません。あなたとのリンクが切れたのもそのせい。ラピスラズリという石の聖なる力によって、娘は護られ、『魔界』との縁も切れた……ペナルティなら我々が受けます。どうか、あの子はもう手放してやってください……」

 リリィの切なる願いに、エルは「ラピスラズリ……青金石か」と嘆息する。ジャンヌもようやく胸に手を当てて深呼吸ができた。

「死神と聖女が随分と危うい賭けに出たものだな。ユーリの闇堕ちがなければ、俺に露見することなく、あの娘と俺のリンクは自然消滅していたはずだ。まさか犬神との戦いも想定済みとは言えまい」

 エルの嘲笑にリリィは「ええ、犬神との戦いは……賭けでした。勝敗など、解らないもの。信じるしかなかった……」とうつむく。

「ペナルティはお前たちが負うと言ったな。それではユーリと契約した意味がない。貴様らとは二度と逢うことはなかろう……俺は、ユリア=ロゼッタだからこそ契約し、今日まで護ってきたんだ。断じて人間や神の為ではない――さらばだ」

 マントを翻して立ち去るエルに、ヴィンセントとリリィは、喉まで出かけた言葉を飲み込んだ。魔王が残していった言葉は、まるで『ユリア=ロゼッタ』を欲するただの男の言葉にしか聞こえない。

 六年の契約は、ユーリが人としての生を終えた後、魔族として魔王の花嫁に迎えられるためのモラトリアム期間だったのだろう。

「……リリィ、忘れろ」

「ヴィンセント……」

「ユーリは『BLUE ROSE』だが、もう雪という人間の男との間に子も儲けた。魔王の花嫁じゃない。雪の妻として、星良の母として生を終える。これが俺達の娘の一生だ」

 ヴィンセントは、そのまま書斎に籠ってしまった。リリィは、ユーリに愛され続けて妻に迎えた雪と、十四の時から影に日向に彼女を黙々と護り愛してきたエル――二人の男の一人を想う気持ちがつらく、哀しかった。

 どちらも、ただ恋をした。ただそれだけなのに、皆が幸せを掴むことはこんなにも難しい。

「リリィ、ユーリに話してはだめよ」

「ジャンヌも、ヴィンセントと同じ考えなのね……」

「愛に種別は関係ないわ。神も、人も、魔も、等しく同じよ。魔王とユーリの縁は繋がらなかった」

「シンプルで、洗練されたものが最も尊くて残酷な真理ね……」

 リリィは、夫とよく似た魔王の心境を想像しようとして、辞めた。
 きっと彼は同情など望まないからだ。





 なにも知らないユーリは、埼玉の道場へと帰ってきた。そろりと足音を殺して母屋にたどり着くと、和室の片隅で雪がベビーベッドにもたれて眠っていた。
 ユーリはベビーベッドですやすやと眠る星良のふくふくとした頬に触れて「ただいま。ずっと離れていてごめんね」と霞のような声で囁いた。

「帰ってきてくれたんだ。お疲れ様」

「雪くん……びっくりした……!! 起きてたの?」

「星良につられてうたた寝していただけだから。夕方くらいに火が点いたようにずっと泣きっぱなしでどうしたのかと思ったら、ぴたっと止まって笑い始めてさ。この子にはユーリの戦いが見えていたのかもね――おかえり」

 ユーリは飛びつくように雪に飛びつき、二人で畳の上に転がった。

「ただいま……!! 全部終わったよ。もう犬神はいない。あと二年、雪くんと星良と居られるよ……!! ごめんね、育児を全部任せちゃって……」

「気にすることないよ。奥さんは大任を果たしたんだ。これからは三人でいっぱい思い出を作っていこう」

「うん……うん……!!」

 雪とユーリの唇が重なろうとした瞬間、「あうー」と星良の声が聞こえ、二人は「恥ずかしいね」と笑って起き上がった。

 ベビーベッドから抱き上げると、星良の紅葉の手がユーリの頬にぺたりと触れた。

「星良、ママが帰って来たよ。明日はゆっくりして、明後日はせっかくだから三人でどこかに出かけようか。遠くじゃなくても、近所の公園でもいいね」

「素敵だね。星良の新しい服やおもちゃを買いにも行きたいなあ」

 まだ言葉にならない星良をゆすりながら、ユーリは幸福に浸る。
 もう気兼ねすることは何もない。
 ただ、夫とたった一人の宝物に愛情を注げる日々が待っている。落ち着いたら『魔界』へ顔を出そう。その頃には戦友達の傷も癒えているはずだ。
 ここには幸せだけがあった。ゆえに、ユーリは知らなかったのだ。

 ――『魔界』への道は、永久に閉ざされたと知ったのは一週間後の話。





 エルが『魔界』への道を閉じたとユーリが耳にしたのは、雪の影のから出てきたベルフェゴールとメフィストからの口伝だった。
 メフィストはなにを質問しても「ただ王命ゆえ」としか答えてくれなかった。表情も硬い。

「……なにか、あった? 私、なにかした?」

「いいえ。お嬢様は責務を全うしてくださいました。あのままでは『魔界』は滅びていたでしょう。王に代わって、心より御礼申し上げます」

「メフィスト、私が訊きたいのはそうじゃない……!! ねえ、エルに逢わせてよ!!」

「そのお望みは承諾しかねます。ついでに申し上げますと、我々も、お嬢様とお逢いするのはこれが最後です――それでは」

 一方的に話を終わらせて帰ろうとするメフィストに雪が「じゃあ、伝言をお願いできるかな」と尋ねた。メフィストは「伺いましょう」とどこまでも事務的な対応をする。

「僕はエルや君たちに感謝している。ユーリを護ってくれてありがとう。これは心から、そう思う。だけど、僕にも譲れないものがある。ユーリが生きる場所は、ここだ。『魔界』じゃない――そう伝えて」

「……侮れないお方だ。いや、同じ想いを抱いているからこそでしょうか。承りました。王にはそのままお伝え致します――ユーリ様、どうか健やかに。お幸せな生涯を、我らは願っております」

 メフィストはそれだけを言い残し、消えた。残されたベルフェゴールは「お兄さん、ずっと気づいていたの?」と雪に問いかける。

「もちろん。初めてニューヨークのホテルで出逢った時からね」

「そっか。俺達、王様の幸せを願ってる。でも、あの人はいつも貧乏くじ引くんだ。魔王なのに、どこか甘い――あのね、お嬢さん、王様やメフィスト様の命令に初めて反抗するね。今の俺は反抗期だと思って」

「なに?」

「王様と交わした六年の契約は、もう切れている。理由は言えないけど、お嬢さんは天寿を全うして生きられるよ。だから、俺達のことは時々思い出してくれたらいい。でも、ベリアルは忘れないであげて。以上、反抗期のベルフェゴール君でした。じゃあ、さようなら。俺も、王様とは違った意味でお嬢さんが好きだったよ」

 ユーリが「あっ」と声を上げると同時に、怠惰なベルフェゴールではなく、エルと同じ顔で、観たこともない優しい笑顔を浮かべて、魔族は夢のように消えた。

 ユーリは星良を抱きながらも宙を掻いた。

「……雪くん、どういうことか教えて?」

「だめ。ユーリの頼みでも、エルの一番柔らかい部分だったと思うんだ。だから、言えない」

 雪がとても真摯に語るので、ユーリは腕の中で活発に動く星良に頬を寄せた。子供の体温は高くて、とても温かい。
 四年も傍に居たのに、エルや『魔界』との別れがこんなにもあっけないとは、ユーリは信じたくはなかった――。
 しかし、どう足掻こうとも、もう『魔界』へは行けない現実は、わずかにユーリに影を落とした。





 バロールの映像越しに目が合った四年前から「手に入れたい」と心に秘めてきた。
 彼女の心に違う男が住んでいようとも、彼女を初めて抱いたのは自分なのだという優越感と、たった六年――時間という概念が人間のそれと異なる魔王からすれば瞬きの間だ。
 六年、耐え忍べば、彼女は晴れて人でも神でもない「肉体」という殻を脱ぎ捨てて、エルの花嫁として迎え入れる心づもりだった。
 どんな卑怯な手を使っても手に入れたいと、初めて思えた「女」だった。少女から女性へと変わりゆく過渡期もひたすらに見守るに徹して、彼女が『魔界』へと堕ちる日を待ってるつもりだったのだ。

「……えらく毒されたもんだ」

 魔王がただ一人の少女に骨抜きにされていたなど、シヴァが聞いたら指をさして笑うに違いない。
 部下達はなにも言わない。
 ベリアルの遺言は、少し衝撃を受けた。自身に心酔していた部下は、四年だけ付き従った「彼女自身の幸せな余生」を願ったからだ。

 ユーリがこちらに堕ちてくれば、ベリアルも浮かばれると自己暗示をかけながら戦い抜いたが、やはり彼女は戦い終えた後の夫と赤子を抱いて母の顔をしていた。

 ――壊せない、と痛感させられた。

 きっと契約が切れず、魔王の花嫁になっても、彼女はきっと笑ってはくれない。雪に向ける笑顔は、ルシファーがどれだけ懇願しても手に入らないだろう。

「……酔わせてはくれない、か……」

 割れた窓ガラスの出窓に腰かけ、ワインの杯を傾けるが一向に酔いは回らない。

(……なあ、ユーリ。冥府まで迎えに行ったら、お前はどんな顔をするんだろうな……)

 四年間、影に徹した「男」の願いを「馬鹿じゃないの?」と呆れた口調で言ってくれる少女は、もういないのだ――。

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