BLUE BLOOD BLOOM

紺坂紫乃

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Ⅷ, Good night (後)

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 Ⅷ、「Good night」(後)


 ――空気が痛い。ピリピリと小さな針で刺されているようだ。

 ユーリは荒野の中央に立っていた。後ろにはエル率いる『魔界』勢が立つ。皆、一様に張り詰めたオーラを放っている。

「お嬢様、来ます――」

 メフィストの一言と共に酸雨の雲がぐにゃりと歪んだ。雷鳴が地を揺らし、苔色の雲を切り裂いて、黒い雷が落ちた。
 それは、徐々に人の形を成す。

「……犬神……!!」

 頭に巻いたくすんだ青の布と同じ色の布をマスクにして、ノラの形だけを借りた悪神・犬神は目を細める。

「ユーリ」

 声もノラのものだ。ユーリはぎりっと奥歯を噛みしめ、左手の手刀で空気を横一閃に払う。

「その声で……私の名を呼ぶな!!」

 ノラのマスクが細切れになって、雪のようにはらはらと舞った。
 にいっとおぞましい笑みを浮かべた犬神は、大薙刀を頭の上で回転させ、竜巻を起こす。
 風の刃がユーリ達を襲う。ユーリはベリアルの糸で盾を形成して、刃を受け流した。一瞬の気の緩みも許されない。絶対的な力と、不気味な存在感――しかし、ユーリは負けじと脇差を抜きはらった。

「私は帰る。どんなにボロボロでも、待っていてくれる人がいるから!!」

 人形のような光のない双眸の犬神。対して鮮烈な闘心を瞳に宿して、犬神に挑む戦鬼・ユリア=ロゼッタ。

 戦いに疲弊していた『魔界』の者達も、彼女に誘発されて犬神に挑む――。

「小蝿が集ったところで、所詮は非力。貴様らが掲げた戦女神の脆さを知らしめてくれようぞ」

 大薙刀でユーリの突きを弾き、背後から迫るエルの手甲剣も石突でかち上げる。

 メフィストの炎は素手で握りつぶし、ベルゼブブ、アスモデウス、ベルフェゴールの三位一体の近接魔法攻撃すら、剣気で弾き飛ばされた。

「小娘がたった一人帰ってきたところで我に勝てると思うたか――笑止!!」

 空に哄笑を響かせる犬神に「黙れ」と命じる声があった。
 その低い声はを鼓膜が拾う頃には、黄金の切っ先が犬神の左眼球に迫り、貫いていた。

「ぎゃああああ!!」

 哄笑が一転して、獣の叫び声となる。ユーリは脇差を引き抜いて、エルの手甲剣「プレアデス」から降り、血糊を払った。
 潰された左目を押さえながら、犬神は噛みしめた歯の間から湯気のような呼気をふうふうと吐く――が、ユーリの猛攻は終わらない。
 薙刀を持ち上げられる前に踏みつけ、糸で薙刀を絡めとる。
 そこにメフィストが重力をかければ、ユーリは逆手に持った脇差で右目も潰した。

「おのれ……おのれ、おのれ、おのれ、ユリア=ロゼッタあああ!!」

 犬神の凄まじい剣気から、後退したユーリを、ベルフェゴールがシールドで護る。
 連携という戦いが、成り立っていた。
 絶対不可侵の『魔界』が、たった一人の『BLUE ROSE』を主軸にしただけで戦法が豹変した。

(……なにが違う……!? この娘と、ノラは同じ『BLUE ROSE』だった。なのに、なぜ息子は受け入れられず、この小娘は人を引き寄せるのか……!?)

 両眼の見えない犬神の自問自答に答えたのは、エル――ルシファーだった。

「愛情って奴だろうよ。俺やお前には縁遠いものだ。およそ理解に苦しむ。だが、愛されていることを知っている生き物は、帰りを待つ者の為に、足掻いて、足掻いて、どんなに無様でも生き延びようとする……ノラも、お前が道具としてでも愛情を示してやれば、ユーリの刃に喜びながら逝かなかったかもな」

 父さん、と呼ぶ声が聞こえる。白く細い髪を揺らし、深い青の瞳に哀愁をたたえながら、必死で父の愛に答えようとした、健気な一人息子。同胞を求め、父を求めたのに誰にも愛されずに冥府へと逝った、この身体の持ち主だ。
 犬神の肩が揺れる。泣いているのかと思ったが、先ほどよりももっと禍々しい狂気と殺気が増幅され、ユーリは全身から鳥肌が立った。

「愛情だと? 血迷うたか、魔王よ」

 両目から紅い血をだくだくと流しながら、犬神は小首を傾げる。

「愛い奴よ、大きく育てと餌を与え、毛並みを撫で、忠誠を尽くした主人達に飢えさせられ、首を刎ねて呪詛の道具とされた恨みの声。その恨みの集大成が我だ。人よ、憎らしい。神よ、疎ましい。我は信じぬ……愛情を傾ける者こそ、最も残酷な裏切りができるのだ!!」

 狂わすには辻道、殺したくば宮ノ下――数千年にも及ぶ人間のエゴで愛情を憎しみに変換せざるを得なかった生き物たちの嘆きが、犬神となって目の前に立っている。

「嗚呼、憎らしや……嗚呼、苦しや……」

 都都逸のメロディを口ずさみながら、犬神は薙刀をユーリの鼻先にぴたりと突き付けた。


「――死ね」

 
 余計な言葉を削ぎ落としたシンプルな一言――ユーリはなぜか動こうとしない。

「お嬢様!!」
「お嬢さん!!」

 メフィストとベルフェゴールの叫びが聞こえる。だが、身体が動かないのだ。


「飲まれては、いけない――」
 

 静謐にして玲瓏れいろうな声が、無理やりユーリのアーマーリングから糸を発生させ、犬神の刃を宙でとどめた。

「なにやつ!?」

 百合の匂いがする。酸雨の雲が突如一切焼失し、満天の星空が『魔界』の空を覆いつくした。夜空を見上げたユーリは、鼓膜を響かせる十二の声を聞いた。

「星良――熾天使サンダルフォン?」

「……いや、熾天使と、十二宮天だ」

 エルが静かに答える。ユーリの子供を熾天使に変えた十二の星座に位置する十二の神々――十二宮天という。アリエス、タウラス、ジェミニ、キャンサー、レオ、ヴァーゴ、ライブラ、スカルピオス、サジタリアス、カプリコーナス、アクエリアス、ピスセズの十二星座を司る神々だ。

「犬神の憎しみは人の業。罪深く、根深い。しかし、我らが『聖騎士』にして新たな『聖母』ユリア=ロゼッタ、貴殿は生きるのであろう。冥府に向かった者達の誓いと願いを無にして、犬神の刃に掛かってやるつもりか?」

 ドゥルガー……ベリアル……ノラ――ユーリに祈りを託した者の笑顔が走馬灯のように浮かんでは消える。

「いいえ」とユーリは、瑠璃色の瞳に光を再燃させ、脇差を掲げた。

「犬神、人の深き業はこの刃が受け止めた!! 私は死なない。帰る場所が、帰らなければならない場所があるから――!! その身体を、ノラに還せ!!」

 糸に捕らわれたままの薙刀を台にして、飛び上がったユーリの背中に真珠色の六枚羽根が現れる。
 ユーリは重力に身を任せて、犬神の額に黄金の刃を突き立てた――。

 ノラの額から、黒い煙が立ち上がる。

 形無き『それ』こそが犬神の真の姿――煙がユーリを捕えようとしたところを、間一髪でエルがユーリを抱いて、ノラの身体から離れた。

 両眼も、額の傷も、綺麗に治ったまま横たわるノラの死体から、離れた犬神はもう話すこともできない怨念という概念となった。

「メフィスト、燃やせ!!」

 エルがメフィストに鋭く命じ、メフィストも即座に答えて、真っ赤な焔が轟轟と犬神を包む。

「――くそっ、浄化の焔も効かないのか……!!」

 エルが舌打ちを漏らすと、高らかに「当然よ!!」と笑う者が現れた。

神焔しんえんを司るは、このシヴァが半身――アグニなり!! さあ、犬神よ!! 未練たらしいその姿を我に晒した罪科つみとがをおって、神なる焔の中で眠れ!!」

「シヴァ!!」

「ユーリ、好機だ。シヴァが焔を放ったら出るぞ。最終的にはお前の刃でしか『神殺し』は不可能だ」

「わかった」

 エルの肩に乗せられて、ユーリは脇差を握り直す。
 相も変わらず自信に満ち溢れた笑いを響かせながら、特大の火球をシヴァは犬神に放った。
 同時にエルが高速で飛び出す。

――ユーリは、獣のように吠えながら、火球と共に一閃を払った――。

to be continued...
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