BLUE BLOOD BLOOM

紺坂紫乃

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Ⅴ, 一縷の光

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Ⅴ、「一縷いちるの光」



 約二年三カ月、『異界』は戦争など無かったかのように沈黙を守っていた。戦いの日々が嘘であったかとすら感じてしまうくらいには、ユーリの日常は普通の人間の生活を送れている。
 変化と言われれば、雪と正式に婚約し、結納も終わった。結婚式は、いつまた『異界』が動くか解らないせいで式のみということになった。

「披露宴はちゃんとしている方がいいわよ?」

 母やジャンヌは口を酸っぱくしてそう言ったが、「いつでも動けるようにしておかないと」と、ユーリは苦笑を浮かべて逃げてきた。

「本音は違うんでしょ。なにが不安なの?」

 雪だけは誤魔化せなかった。並んで夕飯の食器を片付けていたら、いつも通りの微笑みを浮かべて、雪は問うてくる。

「……雪くんって、本当にエスパーみたいだよね」

「僕は、君の表情が解りやすいと思ってるだけだよ。今の自分がどんな顔色しているか、鏡を見てきてごらん」

 指摘されるほど悲惨な顔をしているのかと思ったら、食器を拭く手が止まった。胸からせりあがってくる『モノ』がある。
 息苦しい。
 日に日にひどくなるコレを、雪は気づいている。

「……怖いの……」

 胸の『モノ』は、震えと共にやってきた。

「犬神がなぜ動かないのか、安全な日々を過ごしているからこそ怖い。どんどん死期だけが近寄ってくる。もしかしたら『異界』は私が死ぬのを待っているのかもしれないとか、遺された限りある時間で私はなにを雪くん達に遺せるのかとか……」

「悩んでいたら眠れない訳だね」

「……知ってたの?」

「そりゃあ、一緒に暮らしてるから。夜に何度も布団から抜け出して、道場に行っていたら気がつくよ」

 いつでも柔らかい雪の声。雪は叱る時はきちんと叱る。子供の頃からユーリは対等に育てられてきた。だが、雪の性格なのか、感情的に怒ることは一度たりとも無かった。ジャンヌには「ユーリはもっと大人を頼りなさい」と、ウェディングドレスを選んでいる時に言われた。呆れ半分、じれったさが半分という口調だった。
 晴れ着を選んでいるのに、『異界』にばかり囚われているユーリの気持ちの切り替えができていない点が気になっただろう。しかし、どうしても眼の前の幸せに集中できないのだ。

「ユーリ、式も辞めて、写真だけにしようか? 僕は構わないよ。新婚旅行もプランは立ててないし、マタニティブルーとは少し違うけど、君が無理をする必要はないんだよ?」

「――違う、式はちゃんとしたい……!! 私には、本物の神様の祝福はないかもしれないけど、ちゃんと雪くんのお嫁さんだったって証拠が欲しいし、皆にも見てもらいた――っ!!」

「ユーリ?」

 真っ青になったユーリは、手に持っていた布巾を投げだして、洗面台に胃の中が空になるまで吐き続けた。

「……ねえ、ユーリ。君はずっと不順だったけど、最後に来たのはいつか覚えてる?」

 蒼白い顔をしているユーリの背を撫でながら、雪は真剣な口調で尋ねた。熱っぽくて、頭が回らないせいか、雪に支えられて立っているユーリは「なんのことだろう」と一瞬解らなかった。

「最後……え、っと……あれ……そう言えば……半年、来てない、かも……」

「半年!? なんで早く言わないの!! 待ってて、すぐに病院の用意をするから――」

 夜間診療のある病院へとと思い立ったが、雪はすぐに判断を改めた。ユーリは普通の人間の身体ではない。しかもヒト因子が無いことを思い出した。咄嗟にコールしようとした番号を変更した。

『アロー?』

「もしもし、ジャンヌさん。雪です。すみません、ユーリが、もしかしたら妊娠したかもしれないんです」

『な、は!? 妊娠!?』

「検査薬が無いのでまだわかりません。ですから、ユーリを診てくれる産婦人科医を紹介してくれませんか? 下手に人間の医者にかかって騒ぎになるのは避けたい」

 ジャンヌはしばし唸った後「少し待ってなさい」と五分ほど電話を切らずに指示する。

「ゆ、雪くん……」

「大丈夫だよ、君は心配いらない」

 板間にへたり込んでいるユーリの身体を冷やさないよう、脱衣所に置いてあったブランケットで蒼白い顔をしているユーリを包んだ。
 ジャンヌに待たされた時間がとても長く感じる。
 ユーリは雪のシャツを震える手で握りしめた。震えが止まらない。

(……妊娠……まだ『異界』と戦っている最中なのに……? どうしたらいいんだろう……それに、もし……)

 ユーリの不安はジャンヌの『お待たせ』という声で、一気に現実に引き戻された。

『雪の家は埼玉だったわね。少し距離があるけど、新宿にある聖ペテロ・エイツ総合病院が、うちの情報屋系列の病院なの。そこならユーリの秘匿ひとく情報も護られるから、そこに行きなさい。私達も今から最終便でそちらに向かうわ』

「ありがとうございます。では、明日に」

 雪は終話マークをタップすると「荷物の準備をしてくるよ。居間で待っててくれる?」とユーリを抱きかかえて居間に向かう。

「ゆ、雪くん……本当に、子供なのかな……?」

「それを検査してもらうんだよ」

「あ、そだね……え、っと……もしも、子供だったら産んでもいいの?」

「当たり前でしょ。僕ら、もう結納も済ませて後は婚姻届の手続き待ちなだけで、もう夫婦同然だよ」

 ユーリは目を泳がせる。視線を合わせてくる雪を正視できない。

 これは『恐怖』だ。

「……だって、もし、青いだったら……」

「関係ないよ。僕達の子であることに変わりはない。なにも問題じゃない」

「ひ、人じゃ、ない……って、言われたら――?」

 きっとユーリは耐えられない。このぺたんこの腹の中にあるかもしれない命は、人と何者でもない者から産まれてくるのだ。ならば、この子は――ナニ?

「ユーリ、これが最後だ――関係ない、本条雪とユリア=ロゼッタ・本条の間に産まれる子。それでいい。この子の存在意義はそれだけで充分だから、ね」

 ユーリは椅子に座って、腿の上に置いていた両手の上を大粒の涙で濡らす。涙でぼやける視界に金色に輝くアーマーリングがぼやけて見えた。これを手にした日も、雪の腕の中で大声を上げて泣いた。

「あんまり泣くと赤ちゃんによくないよ」

「だ、って……だ、ってえ……!!」

「行こう、ユーリ。本当に赤ちゃんがいるのかどうか確かめに。僕はずっと傍に居るから」

 やっと小さく頷いたユーリに綿あめのように笑いかけて「準備してくるよ」と言い残し、雪は離れて行った。
 その間もユーリは泣き通しだったが、十分もかからずにモノトーンのボストンバッグを抱えてきた雪に誘われてユーリは車に乗った。

 暗い夜道を新宿まで走る。車内では雪の姉であるユエが覆面歌手として歌う「DIVA」のバラードが流れる。静かなジャズがベースの曲はフランス語で、讃美歌のようだ。
 窓の外を流れるテールランプ、しっとりと包み込む慈愛と微かな哀しさを感じさせる歌、ユーリは月や星以外で夜を美しいと思ったのは初めてだった。

「綺麗な曲……月さんの曲はほぼ全部聴いているけど、こんな歌もあったんだね。聴き逃していたのかな?」

「いや、これは世に三枚しかない姉さんのプライベートソングばかりを集めたCDなんだ。特にこの歌は、僕らの亡くなった祖父に捧げられた歌なんだよ。だからフランス語」

「雪くん達の、お祖父さん?」

「うん。正確には実の祖母のお兄さんだった人なんだけど……僕らを本当の孫同然に愛してくれた。敬虔けいけんなクリスチャンでね。僕が大学に入ってすぐに老衰で亡くなったから、これはお祖父ちゃんへの曲」

 ユーリには祖父母がどういうものかを知らない。だけど、祖父を語る雪の目や、口調はとても優しく、自慢の身内だったのだろうとユーリにも察せられる。

「今度、フランスに行ったらお祖父ちゃんに紹介するよ。僕のお嫁さんと子供だよって。お祖母ちゃんも同じお墓に入ってるから、きっと喜ぶ。雪はいい意味で普通じゃない恋愛を選ぶだろうね、って口癖のように言われていたから、お祖父ちゃんには未来が視えていたのかな」

 ハンドルを握りながら、嬉しそうに語る雪につられてユーリも笑みが浮かぶ。

「まだ子供ができたって確定してないのに、僕は浮かれ過ぎだね」

「そんなことないよ。私、まだ実感とか全然ないけど、雪くんがそんな風に喜んでくれるなら、元気な子を産みたい」

「ユーリは男の子と女の子、どちらがいい?」

「うーん、こだわりはないなあ。雪くんは?」

「僕もどちらでも。二人でも三人でもいいよ」

 二人でくすくすと笑い合えば、もう新宿は眼の前だった。あたたかい地上の星と慈愛の曲に包まれながら、二人は十字架が掲げられた総合病院の駐車場に停泊した。





「雪、結果は!?」

 どうやらユーリが検査中に雪が連絡したらしい。桐嶋夫妻がノックもせずにユーリの病室に闖入ちんにゅうしてきた。

「……姉さん、いくら個室でも時間を考えてよ。今でちょうど四週目。予定日は来年の三月下旬だってさ」

 誰よりも興奮気味の月は雪の言葉を聞いて、突如ドアも閉めずに腰を抜かした。

「に、義兄さん……閉めて……!!」

「月、お前なあ……」

「……よか、ったあ……」

 慌てる雪達をそっちのけにして、月は碧と緑のオッドアイから滝のように涙を流し始めた。

「……ユーリ、よかったね……雪に、家族をありがとう……」

「月さん……え、っと……」

 言葉に窮すユーリに、月は子供のように泣きじゃくりながら礼を繰り返した。

「ヴィンセントとリリィは明日到着だって?」

「はい、今夜の最終便には間に合ったって、雪くんに連絡がありました」

「ヴィンセントの顔が見物ね。明日、カメラに撮ろう」

「スマホ粉砕されるだけだよ」

 つわりはどうだ、や、明日必要な物はあるかと質問攻めされるユーリの警備員のように雪が姉をなだめ、二人は消灯時間に帰って行った。



 嵐が過ぎたようだ、と思っていたら「お嬢さん、おめでとう」とちょうどカーテンの影になっている部分から、ベルフェゴールの声が聞こえてきた。

「い、いつから居たの!?」

「最初からずっと。王様たちにも報告済みだよ」

 眠たそうなベルフェゴールは、ちょこんと窓際に座った。

「ベルフェゴール、ご覧のとおり、ユーリはしばらく戦えない。それに関して、エルはなにか言っていた?」

 ユーリはどきりと心臓が跳ねた。メフィストやべリアルが怒り狂っている様子が目に浮かぶ。この均衡状態の最中に戦えない『聖騎士パラディン』など見放されても仕方がない――ベルフェゴールの口から出てくる回答が怖くて、掛布団を握りしめたままユーリは俯いていた。

「王様とメフィスト様の勝ちだった。べリアルとベルゼブブは大損したって悔しがってたけど」

「……あんた達、賭けてたの……!?」

「まあね。それはさておき、前線のことなら気にしなくていいよ。前にガルが造ったお嬢さんの『スペア』があるからね。ガルが頑張って脇差も本物と遜色ないものを作ってくれたし、王様が『腹が空になってから来い』だってさ」

 最悪、罵倒されるか子供を取り上げられないかと覚悟していたユーリは一気に脱力した。そのせいでまた吐いてしまった。

「『魔界』ってそんなに甘いの? 僕はエルがそんな風には見えなかったけど」

 雪がユーリの言葉を代弁すると、ベルフェゴールは「予想の範疇でしょ」とにべもなく答える。

「だって婚約者と同棲してて、二十歳までしか生きられないなら子孫を残そうとするのは生物学的な本能だ。抗える訳がない。お嬢さんを責めたところで、『異界』が動く訳でもないしね――王様たちに伝言があるなら伝えるよ」

 ベルフェゴールに、ユーリはそろりと「ありがとう、って伝えて。私は、必ず前線に戻るから」と言い放った。
 ベルフェゴールは了承したとばかりに、袖が余っている手をひらりと振った。

「お嬢さんって、やっぱりすごいね」

 意味深な一言を残し、今度こそ影の中に入って行った。

「どういう意味だろう……?」

 ユーリが首を傾げると、雪が「僕も、彼と同じ意見だな」と複雑な表情で呟いた。


to be continued...
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