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急
Ⅳ, 叫び
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Ⅳ、「叫び」
ノラ!! ノラ!! ノラ!!
『異界』が揺れる。シヴァは眼前の巨大な黒い軟体物質の咆哮に耳を押さえた。
「ええい!! やかましい!!」
半月刀は傷ひとつ付けられないのでとうに捨てた。ひたすら衝撃波を打ち込み、アグニに呼びかけていたところを、犬神の吼える声が変わった。
「まだ決着がついていないのか」
いらついていたところに、更に神経を逆なでするような淡泊な声が聞こえて、シヴァは怒りの形相でエルを睨んだ。エルは人形のようにぐったりとしているユーリを片手で抱えていた。
「小生意気な娘は静かだな。犬神の息子を仕留めたか」
「ああ、これで『暴走』はユーリしか使えん」
仏頂面のエルの瞳に喜色が浮かんだのを、シヴァは見逃さなかった。どこまでがこの男の計算の上であるか――それはシヴァにはあずかり知らぬことだ。それでいい。自身はアグニを取り戻したら、また神界の片隅で静かに暮らすのだから。
「その娘、早う処置をせんと死ぬぞ」
「つい先日、反魂で蘇らせたばかりだ。まだ『玉の緒』が繋がっている限り、問題はない」
「ふむ、まあいい。我は興味がない。こちらの決着が主たる目的ゆえな。離れておれ――そろそろアグニを本気で返してもらう」
「健闘を祈る」
魔王の口から殊勝な言葉が出たものだ。シヴァはそれを鼻で笑い、エルが一定の距離を取ったのを確認して、「ノラ」と叫び続ける軟体物質の上に乗った。
「慈悲を示してやるのもここまでだ。消し炭にしてやってもよかったが、我の寛容な心遣いに感謝せよ!!」
シヴァの全身が内側から発光する。光を浴びただけで岸壁が崩壊を始めた。光が掠めただけでも腕が細胞ごと破壊されてしまうと知ったエルは、更に数段高い場所へと移動した。
「あの単細胞。『異界』ごと壊す気か」
もうエルの声はシヴァには届かない。トランス状態に入ったシヴァは特大の光弾を犬神に打ち込んだ。
痛みからか、『異界』全体を震わせる叫び声をあげて、形状を変化させた犬神は内側から黒い煙を吐き出した。
「アグニ!! 我はここぞ!!」
シヴァが手を差し出せば、眠ったまま透明なシャボン玉のような膜に覆われた赤茶色の髪をしたシヴァと同じ顔の青年がシヴァの手に吸い込まれて消えた。
犬神の叫びは更に大きさを増す。それは苦しみもがいているようにも、泣いているようにも聞こえる叫びだった。
シヴァは瓦礫を足掛かりにして、エルが避難した『異界』の入り口近辺まで上がってきた。
「アグニを取り戻したか」
「うむ、この通りだ」
シヴァが差し出した右手は焔が燃え盛っていた。激しく燃える焔からは目に痛いほどの神気を感じる。
「ここに用は無くなった。帰る」
「待て。犬神をあのままにはしておけん」
エルは懐から取り出した大粒の黒真珠を浮遊させた。
「それはなんだ?」
「魔眼のバロールの簡易版といったところか。こいつを通して、いつでもここの様子を探れる」
「用意周到なことよ」
「用心深いと言ってくれ」
二人はそんなことを言い合いながら、メフィストに合図を出して『異界』を後にした。
◇
ノラ……ノラ……
聞こえるのは哀しい叫び。夢うつつの微睡みに浸りながら、ユーリは耳から離れない声に語りかける。
「駒じゃなかったの?」
声は答えない。ただひたすら同じ名前を呼び続ける。
「息子を愛していたの?」
不毛なやりとりだと解っていても、問わずにはいられなかった。
愛していたなら、言葉にして欲しかった。そうすれば、ノラはユーリに懐を刺されただけでも喜びながら死ぬことはなかったはずだ。
「言葉にしなければ、伝わらないよ……」
ユーリは遠ざかる声に告げる。唐突に「おっしゃる通りですね」と返事があった。
嫌味と呆れを含んだ声に、ユーリは緩やかに覚醒する。
「……メフィスト」
「おはようございます。貴女と言う人は寝言がやたらと大きいですね。しかもまた大怪我をして帰ってきて……!! 私の治癒術は貴女専用ではありませんよ」
「ごめんなさい……って、あれ? ここ、雪くんの道場……?」
メフィストの説教で頭がはっきりとしてきたユーリは、天井から壁伝いに見渡して、自身が横たえられているのが、雪の道場にある自室だと判明した。
「王の命令です。ノラを失い、『世界の目』の要素であったアグニを奪われた犬神と『異界』は大変危険な状態ですので、母君の黄金結界がまだ生きている婚約者殿の家にお運びしました」
犬神も『異界』も危険な状態――ユーリはその言葉をもう一度反芻して、あの泣き濡れた叫びを思い出す。
はた、と気づいた。
「メフィスト、シヴァは? もう神界に帰っ――……痛い……」
急に起き上がったせいで脇腹が猛烈に痛んだ。ずるずると布団に倒れ込むユーリの後頭部を、メフィストはぺしりと叩いた。
「べリアル達の馬鹿がうつりましたか? 肋骨二本が粉砕骨折、一本は大きなヒビが入っていたのです。私の術でも一週間は絶対安静だと言うのに、まったく!!」
文句を垂れながら、メフィストはパジャマ越しにユーリの脇腹に手を添えた。パールヴァティが耳を治してくれたように、白熱電球にも似た柔らかなオレンジ色の光が痛みを和らげてくれた。
「ありがとう……」
「一週間、絶対安静ですからね。婚約者殿ならいい監視役になるでしょう。バロールで監視しておりますからね」
「信用無いなー」
「ご自分の胸に手を当てて、今までをよおく思い出しなさい」
ぷりぷりと怒りながら、メフィストは『魔界』へと帰って行った。
入れ替わるように、雪と両親が顔を出した。
「お説教タイムは終わった?」
くすくすと笑う雪とリリィは、濃縮還元では無い白く濁っている林檎ジュースにストローをさしてユーリの口元に運ぶ。
「……今からはパパのお説教?」
「珍しく勘が冴えてるじゃねえか」
ストローでコップ半分ほど林檎ジュースを飲んだ。喉が渇いていた上に、この生絞りタイプのジュースが美味しくて、つい一気に飲んでしまったが胡坐をかいて座る父の表情が険しい。
父からは痛烈なデコピンを貰った。
「いたい……」
「全部魔王から聞いた。破壊神シヴァに喧嘩売ったと聞いて肝が冷えたぞ。ついでに『異界』で大怪我して帰ってきやがって。ただでさえ、気に食わない野郎から『どんな育て方したんだ』と言われた俺の身にもなれ」
「……エルの裏切り者お……シヴァの件までパパに話さなくてもいいのに……」
「反省の色が無いな、馬鹿娘」
もう一度デコピンをされたかけたが、雪が「まあまあ」とヴィンセントをなだめる。
「雪、一週間甘やかすなよ。今回ばかりはハウンドにも見張らせるからな」
「バロールにも監視されてるのに!?」
「自業自得だ。これに懲りたら怪我をしない戦い方を覚えるんだな」
ぐうの音もでないユーリは渋い顔をして布団に入る。雪とリリィはその様子を、くすくすと笑っていた。
穏やかな時間、笑い声、まだ昼なのにユーリは真綿に包まれるように再び眠りの淵へと落ちて行った。
くうくうと寝息を立てて眠るユーリを覗き込んで、雪は「ジュースに混ぜた薬が効いたかな」と苦笑する。
「こうでもしないと眠らんのか、こいつは」
まだ怒りが冷めやらぬヴィンセントはユーリの前髪を、さらりと避けてやる。知らないところで傷ついて、知らぬ間に大人になっていく一人娘にはハラハラさせられてばかりだ。
「ところで、リリィさん、例の件は話さなくてよかったの?」
「まだ確証が持てないもの。向こうは相当厄介な相手だし、この子は全部表情にでちゃうから……。今はまだ話す時ではないわ」
慎重になる時が来た、とリリィは言った。雪のピアスも、最終楽章に備えた布石の一つである。ユーリはそれすら知らない。
「話せば、せっかくできた仲間から引き離すことになるわね」
「だが、これだけは譲れん――ルシファーが『魔王』である事実は変わらないからな」
深く眠るユーリには決して届かない両親と雪の危惧。『魔界』の者に護られている雪も複雑な気分だった。
しかし、ヴィンセント達の懸念も理解できる。できることなら、ユーリにはただ幸せに満ちた人生を送って欲しい。しかし、それがどんなに難しい願いであるのか、雪は戦場から帰ってくるユーリを目にする度に思い知らされる。
『BLUE ROSE』として産まれ、ユーリが死に物狂いで手にした『聖騎士』という地位にある以上、たった十五の娘であろうとも利用価値は無限なのだ。犬神にとってのノラがそうであったように――。
「やっとできた友達なのにね……」
雪はユーリの左耳に輝くサファイアのピアスを撫でた。その手に甘えるように眠ったまま擦り寄ってくるユーリの頬をそっと包んだ。
愛しいただ一人の娘、君を護る為に僕達が鬼になろう――雪の決意は瞳に強く浮かぶ。
その後、三年――『異界』侵攻は起こらなかった。
to be continued...
ノラ!! ノラ!! ノラ!!
『異界』が揺れる。シヴァは眼前の巨大な黒い軟体物質の咆哮に耳を押さえた。
「ええい!! やかましい!!」
半月刀は傷ひとつ付けられないのでとうに捨てた。ひたすら衝撃波を打ち込み、アグニに呼びかけていたところを、犬神の吼える声が変わった。
「まだ決着がついていないのか」
いらついていたところに、更に神経を逆なでするような淡泊な声が聞こえて、シヴァは怒りの形相でエルを睨んだ。エルは人形のようにぐったりとしているユーリを片手で抱えていた。
「小生意気な娘は静かだな。犬神の息子を仕留めたか」
「ああ、これで『暴走』はユーリしか使えん」
仏頂面のエルの瞳に喜色が浮かんだのを、シヴァは見逃さなかった。どこまでがこの男の計算の上であるか――それはシヴァにはあずかり知らぬことだ。それでいい。自身はアグニを取り戻したら、また神界の片隅で静かに暮らすのだから。
「その娘、早う処置をせんと死ぬぞ」
「つい先日、反魂で蘇らせたばかりだ。まだ『玉の緒』が繋がっている限り、問題はない」
「ふむ、まあいい。我は興味がない。こちらの決着が主たる目的ゆえな。離れておれ――そろそろアグニを本気で返してもらう」
「健闘を祈る」
魔王の口から殊勝な言葉が出たものだ。シヴァはそれを鼻で笑い、エルが一定の距離を取ったのを確認して、「ノラ」と叫び続ける軟体物質の上に乗った。
「慈悲を示してやるのもここまでだ。消し炭にしてやってもよかったが、我の寛容な心遣いに感謝せよ!!」
シヴァの全身が内側から発光する。光を浴びただけで岸壁が崩壊を始めた。光が掠めただけでも腕が細胞ごと破壊されてしまうと知ったエルは、更に数段高い場所へと移動した。
「あの単細胞。『異界』ごと壊す気か」
もうエルの声はシヴァには届かない。トランス状態に入ったシヴァは特大の光弾を犬神に打ち込んだ。
痛みからか、『異界』全体を震わせる叫び声をあげて、形状を変化させた犬神は内側から黒い煙を吐き出した。
「アグニ!! 我はここぞ!!」
シヴァが手を差し出せば、眠ったまま透明なシャボン玉のような膜に覆われた赤茶色の髪をしたシヴァと同じ顔の青年がシヴァの手に吸い込まれて消えた。
犬神の叫びは更に大きさを増す。それは苦しみもがいているようにも、泣いているようにも聞こえる叫びだった。
シヴァは瓦礫を足掛かりにして、エルが避難した『異界』の入り口近辺まで上がってきた。
「アグニを取り戻したか」
「うむ、この通りだ」
シヴァが差し出した右手は焔が燃え盛っていた。激しく燃える焔からは目に痛いほどの神気を感じる。
「ここに用は無くなった。帰る」
「待て。犬神をあのままにはしておけん」
エルは懐から取り出した大粒の黒真珠を浮遊させた。
「それはなんだ?」
「魔眼のバロールの簡易版といったところか。こいつを通して、いつでもここの様子を探れる」
「用意周到なことよ」
「用心深いと言ってくれ」
二人はそんなことを言い合いながら、メフィストに合図を出して『異界』を後にした。
◇
ノラ……ノラ……
聞こえるのは哀しい叫び。夢うつつの微睡みに浸りながら、ユーリは耳から離れない声に語りかける。
「駒じゃなかったの?」
声は答えない。ただひたすら同じ名前を呼び続ける。
「息子を愛していたの?」
不毛なやりとりだと解っていても、問わずにはいられなかった。
愛していたなら、言葉にして欲しかった。そうすれば、ノラはユーリに懐を刺されただけでも喜びながら死ぬことはなかったはずだ。
「言葉にしなければ、伝わらないよ……」
ユーリは遠ざかる声に告げる。唐突に「おっしゃる通りですね」と返事があった。
嫌味と呆れを含んだ声に、ユーリは緩やかに覚醒する。
「……メフィスト」
「おはようございます。貴女と言う人は寝言がやたらと大きいですね。しかもまた大怪我をして帰ってきて……!! 私の治癒術は貴女専用ではありませんよ」
「ごめんなさい……って、あれ? ここ、雪くんの道場……?」
メフィストの説教で頭がはっきりとしてきたユーリは、天井から壁伝いに見渡して、自身が横たえられているのが、雪の道場にある自室だと判明した。
「王の命令です。ノラを失い、『世界の目』の要素であったアグニを奪われた犬神と『異界』は大変危険な状態ですので、母君の黄金結界がまだ生きている婚約者殿の家にお運びしました」
犬神も『異界』も危険な状態――ユーリはその言葉をもう一度反芻して、あの泣き濡れた叫びを思い出す。
はた、と気づいた。
「メフィスト、シヴァは? もう神界に帰っ――……痛い……」
急に起き上がったせいで脇腹が猛烈に痛んだ。ずるずると布団に倒れ込むユーリの後頭部を、メフィストはぺしりと叩いた。
「べリアル達の馬鹿がうつりましたか? 肋骨二本が粉砕骨折、一本は大きなヒビが入っていたのです。私の術でも一週間は絶対安静だと言うのに、まったく!!」
文句を垂れながら、メフィストはパジャマ越しにユーリの脇腹に手を添えた。パールヴァティが耳を治してくれたように、白熱電球にも似た柔らかなオレンジ色の光が痛みを和らげてくれた。
「ありがとう……」
「一週間、絶対安静ですからね。婚約者殿ならいい監視役になるでしょう。バロールで監視しておりますからね」
「信用無いなー」
「ご自分の胸に手を当てて、今までをよおく思い出しなさい」
ぷりぷりと怒りながら、メフィストは『魔界』へと帰って行った。
入れ替わるように、雪と両親が顔を出した。
「お説教タイムは終わった?」
くすくすと笑う雪とリリィは、濃縮還元では無い白く濁っている林檎ジュースにストローをさしてユーリの口元に運ぶ。
「……今からはパパのお説教?」
「珍しく勘が冴えてるじゃねえか」
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父からは痛烈なデコピンを貰った。
「いたい……」
「全部魔王から聞いた。破壊神シヴァに喧嘩売ったと聞いて肝が冷えたぞ。ついでに『異界』で大怪我して帰ってきやがって。ただでさえ、気に食わない野郎から『どんな育て方したんだ』と言われた俺の身にもなれ」
「……エルの裏切り者お……シヴァの件までパパに話さなくてもいいのに……」
「反省の色が無いな、馬鹿娘」
もう一度デコピンをされたかけたが、雪が「まあまあ」とヴィンセントをなだめる。
「雪、一週間甘やかすなよ。今回ばかりはハウンドにも見張らせるからな」
「バロールにも監視されてるのに!?」
「自業自得だ。これに懲りたら怪我をしない戦い方を覚えるんだな」
ぐうの音もでないユーリは渋い顔をして布団に入る。雪とリリィはその様子を、くすくすと笑っていた。
穏やかな時間、笑い声、まだ昼なのにユーリは真綿に包まれるように再び眠りの淵へと落ちて行った。
くうくうと寝息を立てて眠るユーリを覗き込んで、雪は「ジュースに混ぜた薬が効いたかな」と苦笑する。
「こうでもしないと眠らんのか、こいつは」
まだ怒りが冷めやらぬヴィンセントはユーリの前髪を、さらりと避けてやる。知らないところで傷ついて、知らぬ間に大人になっていく一人娘にはハラハラさせられてばかりだ。
「ところで、リリィさん、例の件は話さなくてよかったの?」
「まだ確証が持てないもの。向こうは相当厄介な相手だし、この子は全部表情にでちゃうから……。今はまだ話す時ではないわ」
慎重になる時が来た、とリリィは言った。雪のピアスも、最終楽章に備えた布石の一つである。ユーリはそれすら知らない。
「話せば、せっかくできた仲間から引き離すことになるわね」
「だが、これだけは譲れん――ルシファーが『魔王』である事実は変わらないからな」
深く眠るユーリには決して届かない両親と雪の危惧。『魔界』の者に護られている雪も複雑な気分だった。
しかし、ヴィンセント達の懸念も理解できる。できることなら、ユーリにはただ幸せに満ちた人生を送って欲しい。しかし、それがどんなに難しい願いであるのか、雪は戦場から帰ってくるユーリを目にする度に思い知らされる。
『BLUE ROSE』として産まれ、ユーリが死に物狂いで手にした『聖騎士』という地位にある以上、たった十五の娘であろうとも利用価値は無限なのだ。犬神にとってのノラがそうであったように――。
「やっとできた友達なのにね……」
雪はユーリの左耳に輝くサファイアのピアスを撫でた。その手に甘えるように眠ったまま擦り寄ってくるユーリの頬をそっと包んだ。
愛しいただ一人の娘、君を護る為に僕達が鬼になろう――雪の決意は瞳に強く浮かぶ。
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