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急
Ⅱ, 世界の目
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Ⅱ、「世界の目」
ユーリは落ちてくる木材を避けながら、祭壇へと近づく。頭上に降ってきた丸太などはエルが手甲剣の風圧で粉砕してくれる。エルの援護のおかげでユーリは障害物を気にせずに祭壇まで走れた。
祭壇下で待ち構えていたドゥルガーが、十本の腕に持った剣で猛攻を仕掛けてくる。ユーリは抜刀も、反撃もせず、十本の腕がユーリを狙って一点集中した隙に、ドゥルガーの頭を押さえて宙で身を転がした。
着地した先にいるのはシヴァとパールヴァティ。ユーリは、大音響の発生源まで来たせいで鼓膜から血を吹き出したが、脇差を抜いて酒が入ったデカンタを持っていたパールヴァティの細首に脇差を突きつけた。
途端にシヴァの絶叫がぴたりと止んだ。
「小娘、なにを……!!」
「安心してよ。この女神様の命は取らない。でも、エルに合図すれば下にいるドゥルガーは捕縛する。全ては貴方次第です――シヴァ様」
鼓膜からの出血のせいで、あまり小さな音は聞こえなくなってきた。全身に細かい掠り傷を作りながら、荒い息をするユーリは脂汗をかいていた。
「……二人を人質にしてなにがしたいというのだ?」
「話を聞いてください。私が望むのは、ただそれだけ」
シヴァは目を丸くした。二人を質に取り、自身は立っているのもやっとの体で、何を要求するのかと思えば話を聞くだけときた。無理やり同盟の話を持ち出すことも、魔王に命じて戦わせることもできる立ち位置まで来ていながら要求があまりにもシンプルだ。
「ルシファーよ、ひとつ問いたい」
「なんだ」
「この娘は、何者だ?」
「聞くのを拒んだのはお前だろう。俺じゃない。そいつに聞け。もっとも、俺に言わせれば無謀な行動ばかりのじゃじゃ馬だ」
ふと笑ったエルに、シヴァはますます混乱する。かつての神界で栄光と名誉を一身に受け、堕天してなお絶対不可侵の『魔界』を創り上げて以降魔族の信頼深い魔王ルシファーを、いかなる姑息で醜悪な手を以て配下にしたのかとシヴァは考えていた。
また一人の小娘に従属した『魔界』を侮っていた。
「貴様、まずは名と素性を聞いてやる」
「ユリア=ロゼッタ。薔薇の死神ヴィンセント・シルバと神殺しの聖女リリィ=アンジェの一人娘――『BLUE ROSE』です」
「我に何を求めてやってきた?」
「貴方が半身である火の神・アグニを犬神から取り戻すと言うなら共同戦線を。その際には、犬神と息子の『BLUE ROSE』について、情報を開示します。我々が足手まといで、やはり単身で戦うと言うのならご自由にどうぞ」
シヴァは思案する。犬神側にも『BLUE ROSE』が存在するという情報はシヴァの耳にも届いている。第一次侵攻の際、斥候役だった、と。しかし、それ以上の情報は持っていない。
破壊神たるシヴァは単身またはドゥルガーを率いて『異界』に乗り込み、犬神を殺してアグニを取り戻せばいい。しかし、眼の前の娘やルシファーの様子では、一筋縄ではいかない様子が窺える。
長い思考の末、シヴァは「よかろう。情報共有は認める」と口にした。
「だが、アグニを取り返した後のことは知らぬ。それと我は群れを好まぬ。ユリア=ロゼッタとルシファーだけならば、アグニを取り返す際に同道を許そう」
「私は構わないけど……エル?」
「俺に異論はない。『魔界』四将が引きつけ役となって、俺達は少数精鋭で乗り込む。効率がいい方を取る」
「決定ね――では、情報開示しましょうか」
ユーリは脇差を下げて、パールヴァティに「喋らない……ううん、喋れないのね。乱暴な真似をしてごめんなさい」と苦笑した。
パールヴァティはふるふると首を横に振った後、儚く笑った。その笑顔はどことなく母に似ている。
出血しているユーリの耳に手を触れるパールヴァティ。ユーリは身を固くしたが、じんわりと優しい温熱にほっと息をつく。
「……治して、くれたの? ありがとう……」
パールヴァティはまたにっこりと微笑む。その様子を見ていたシヴァが、棘のある物言いをする。
「おかしな娘だ。我が妻に謝ったり、礼を言ったり、とても『魔界』勢がなぜ絆されたのか、我には理解できぬ」
「……別に当たり前のこと言っただけ、ですけど。私にも、将来を約束した人が居る……んです。彼は育ての親として、剣の師匠として礼節を厳しく教えてくれた、じゃない、ました」
「貴様、我には無理やり敬語を使っておるだろう。丸わかりだ!!」
「や、だって最高神に怒鳴ったのは反省していますけど……その、どうしてもまだ貴方に尊敬できる部分が見出せてないせい、です」
「嘘でも悪かったと言っておけ……!!」
噛みつくシヴァの姿が珍しく面白いのか、パールヴァティとドゥルガーはくすくすと笑った。
シヴァはきまりが悪くて、玉座の肘置きに肘をついて面白くないと天邪鬼な事を言う。
「くそっ、良いか。小娘!! 明後日の子の刻に我は『異界』に入ってアグニを取り戻す!! ひいてはそれに伴い、貴様らが握っている『異界』の情報をすべて話せ!!」
半分八つ当たりのようにユーリに命令するシヴァに、ユーリもエルも呆れつつ、ノラの話から始めた。
犬神の最終目的地、ノラの「暴走」を使うこと――ユーリとエルは委細全てをつまびらかに話した。
「『BLUE ROSE』の「暴走」を使うか。犬神め。所詮は獣風情が大層な知恵を絞り出しおる」
「今のところ、これですべてです。なにかご質問があればお願いします」
シヴァはしばし黙した後、「ここでの会話も、聞かれておろうな」とエルに上目遣いの視線を送る。
「ああ、『世界の目』を手に入れたんだ。聞かれているだろうよ。だが、お前がアグニを取り戻してくれれば、それも効力を失くす」
「『世界の目』って、なに?」
ユーリがきょとんとして訊けば、「物知らずが」とシヴァは悪態を吐く。カチンときたユーリは足元に落ちていた小さな木片をシヴァに向かって蹴った。
「小娘ええええ!!」
「そういうところが尊敬できないって学びなさいよ!!」
またしてもぶつかり合いになりそうなところを、エルが仲裁に入って事なきを得た。
「『世界の目』とは、神、人、魔の三世界に在って、森羅万象、すべてを見通すことができる目の事だ。『天眼通』とも言う。主に四大元素の神が一つの身体に入ったら得られるものだが、一人だけ、人界に例外で『世界の目』を持っている奴が居るな」
「え、だ、誰!?」
「お前の母親。神殺しの聖女リリィ=アンジェだ。彼女を守護している神と天使は万神庁の最高神の中にあれば筆頭役に値するんだが……諸事情で聖女から離れようとしない」
ユーリはひくりと口角を震わせた。
「ママって……そんなにすごかったんだ……」
母は過去をあまり話したがらない節があるせいか、一人娘でも初めて耳にすることは多い。ユーリも両親との距離を測りかねていたから、尚更他人から聞かされて母の過去を知る機会の方が多いのだ。
「話さないというのは単純に訊かれてないからだと答える奴と、あえて語りたくない奴に別れる。お前の母親は、後者だろうな。あの賢い女が『世界の目』について語らないのは、話す必要の無い過去だと割り切ったのだろう」
エルが断言する「過去と自身の能力について」――ユーリは、また少し距離を感じた。きっと尋ねれば、仕方がないねとでも言って聞かせてくれるかもしれない。だが、封印した過去を掘り下げるような真似はしたくなかった。
◇
シヴァと共に『異界』へと向かう前に、ユーリはこっそりと家を出て、日本の雪の道場を訪れた。夜の六時頃にメールで「今から行く」とだけ伝えて向かえば、玄関前で鉢合わせた雪はスーツ姿だった。
「おかえり。姉さんに急に呼び出されてね、義兄さんの会社で少しだけ手伝いをしてきたんだ。ユーリはどうかしたの?」
「あ、あのね……また明日の夜に『異界』に行くことになったから、その……」
「逢いたかった?」
「……うん。すごく逢いたかった」
雪はそっとユーリの手を取って、「おいで」と誘う。ユーリはこの手を拒む方法を知らないし、知る必要もないと思っている。掌に固い剣ダコがある手。この手がいつも包み込んでくれる。
部屋着のシャツとジャージに着替えた雪は、熱い柚子茶を出してくれた。
「美味しい!!」
「裏の沢木さんのおばあさん、九州に住んでいるらしいんだけど、毎年冬に送ってくるんだって。今年は特に多く来たから小瓶で貰っちゃった。これ、残った皮も美味しいよね」
「うん、苦みがあるけど蜂蜜の柔らかい甘さがする」
甘い柚子茶と付け合わせは渋谷に本店がある西光亭のほろ苦いチョコくるみクッキーだ。ユーリが大好きなクッキーを用意してくれている辺り、やはり雪は優しい。この優しさに溶けて消えてしまいたくなる時がある。
「あ、そうだ。雪くんに謝らなきゃいけないんだった……」
「なに?」
「……エルのせいで、パパに、バレた……」
ユーリの赤面と、言いにくそうな態度から察しのいい雪は「あー、あちゃあ」と額を押さえた。
「ごめん……」
「ユーリは悪くないよ。僕が正式に挨拶や結納について話してなかったのも悪いから。ヴィンセントさん、また拗ねちゃったんじゃないの?」
「やっぱり解る?」
「そりゃあ、ね」
苦笑を返す雪に、ユーリはぽすりと額を預ける。
「『異界』から帰ってきたら具体的な将来の話をしよう。だから、必ず帰ってくるんだよ?」
「うん、約束する。雪くんは、浮気しないでね……」
「十八も下の奥さんをもらおうとしている奴が浮気なんかしないよ」
「言ってみたかったの」
二人で笑い合うと、ふとユーリはあるものに気づいた。
「雪君、いつの間にピアス開けたの?」
「ああ、気づいた? 仕事の時は外さなきゃいけないから左だけね。ラピスラズリを選んだんだ。似合う?」
ユーリと同じ瞳の色――ユーリが付けているのはサファイアだが、雪のは更にユーリの瞳の色に近い。
「ユーリ、先にお風呂入っておいで」
「あ、う、うん。お先に頂きます」
雪の声が艶めかしく聞こえて、ユーリは動きがぎこちなくなる。雪はそれを楽しんでいるのが伝わってくるので、ユーリは「雪くん、布団で待ってるね」と言って、さっと消えた。
「ふはっ、かーわいいなあ」
雪は至極楽しそうにユーリを見送る。
二人で眠った布団は、温かくて、ずっと微睡みを手放したくはないと二人は口づけを交わす。
『異界』に旅立つぎりぎりの時間まで、ユーリは雪と共に過ごした。
ここからは決戦の幕開けだ。
「行ってきます」
「気を付けて、帰りを待ってる」
雪のこの一言が、どれだけユーリを支え続けたか――それを知るのは、少し先のこと。
to be continued...
ユーリは落ちてくる木材を避けながら、祭壇へと近づく。頭上に降ってきた丸太などはエルが手甲剣の風圧で粉砕してくれる。エルの援護のおかげでユーリは障害物を気にせずに祭壇まで走れた。
祭壇下で待ち構えていたドゥルガーが、十本の腕に持った剣で猛攻を仕掛けてくる。ユーリは抜刀も、反撃もせず、十本の腕がユーリを狙って一点集中した隙に、ドゥルガーの頭を押さえて宙で身を転がした。
着地した先にいるのはシヴァとパールヴァティ。ユーリは、大音響の発生源まで来たせいで鼓膜から血を吹き出したが、脇差を抜いて酒が入ったデカンタを持っていたパールヴァティの細首に脇差を突きつけた。
途端にシヴァの絶叫がぴたりと止んだ。
「小娘、なにを……!!」
「安心してよ。この女神様の命は取らない。でも、エルに合図すれば下にいるドゥルガーは捕縛する。全ては貴方次第です――シヴァ様」
鼓膜からの出血のせいで、あまり小さな音は聞こえなくなってきた。全身に細かい掠り傷を作りながら、荒い息をするユーリは脂汗をかいていた。
「……二人を人質にしてなにがしたいというのだ?」
「話を聞いてください。私が望むのは、ただそれだけ」
シヴァは目を丸くした。二人を質に取り、自身は立っているのもやっとの体で、何を要求するのかと思えば話を聞くだけときた。無理やり同盟の話を持ち出すことも、魔王に命じて戦わせることもできる立ち位置まで来ていながら要求があまりにもシンプルだ。
「ルシファーよ、ひとつ問いたい」
「なんだ」
「この娘は、何者だ?」
「聞くのを拒んだのはお前だろう。俺じゃない。そいつに聞け。もっとも、俺に言わせれば無謀な行動ばかりのじゃじゃ馬だ」
ふと笑ったエルに、シヴァはますます混乱する。かつての神界で栄光と名誉を一身に受け、堕天してなお絶対不可侵の『魔界』を創り上げて以降魔族の信頼深い魔王ルシファーを、いかなる姑息で醜悪な手を以て配下にしたのかとシヴァは考えていた。
また一人の小娘に従属した『魔界』を侮っていた。
「貴様、まずは名と素性を聞いてやる」
「ユリア=ロゼッタ。薔薇の死神ヴィンセント・シルバと神殺しの聖女リリィ=アンジェの一人娘――『BLUE ROSE』です」
「我に何を求めてやってきた?」
「貴方が半身である火の神・アグニを犬神から取り戻すと言うなら共同戦線を。その際には、犬神と息子の『BLUE ROSE』について、情報を開示します。我々が足手まといで、やはり単身で戦うと言うのならご自由にどうぞ」
シヴァは思案する。犬神側にも『BLUE ROSE』が存在するという情報はシヴァの耳にも届いている。第一次侵攻の際、斥候役だった、と。しかし、それ以上の情報は持っていない。
破壊神たるシヴァは単身またはドゥルガーを率いて『異界』に乗り込み、犬神を殺してアグニを取り戻せばいい。しかし、眼の前の娘やルシファーの様子では、一筋縄ではいかない様子が窺える。
長い思考の末、シヴァは「よかろう。情報共有は認める」と口にした。
「だが、アグニを取り返した後のことは知らぬ。それと我は群れを好まぬ。ユリア=ロゼッタとルシファーだけならば、アグニを取り返す際に同道を許そう」
「私は構わないけど……エル?」
「俺に異論はない。『魔界』四将が引きつけ役となって、俺達は少数精鋭で乗り込む。効率がいい方を取る」
「決定ね――では、情報開示しましょうか」
ユーリは脇差を下げて、パールヴァティに「喋らない……ううん、喋れないのね。乱暴な真似をしてごめんなさい」と苦笑した。
パールヴァティはふるふると首を横に振った後、儚く笑った。その笑顔はどことなく母に似ている。
出血しているユーリの耳に手を触れるパールヴァティ。ユーリは身を固くしたが、じんわりと優しい温熱にほっと息をつく。
「……治して、くれたの? ありがとう……」
パールヴァティはまたにっこりと微笑む。その様子を見ていたシヴァが、棘のある物言いをする。
「おかしな娘だ。我が妻に謝ったり、礼を言ったり、とても『魔界』勢がなぜ絆されたのか、我には理解できぬ」
「……別に当たり前のこと言っただけ、ですけど。私にも、将来を約束した人が居る……んです。彼は育ての親として、剣の師匠として礼節を厳しく教えてくれた、じゃない、ました」
「貴様、我には無理やり敬語を使っておるだろう。丸わかりだ!!」
「や、だって最高神に怒鳴ったのは反省していますけど……その、どうしてもまだ貴方に尊敬できる部分が見出せてないせい、です」
「嘘でも悪かったと言っておけ……!!」
噛みつくシヴァの姿が珍しく面白いのか、パールヴァティとドゥルガーはくすくすと笑った。
シヴァはきまりが悪くて、玉座の肘置きに肘をついて面白くないと天邪鬼な事を言う。
「くそっ、良いか。小娘!! 明後日の子の刻に我は『異界』に入ってアグニを取り戻す!! ひいてはそれに伴い、貴様らが握っている『異界』の情報をすべて話せ!!」
半分八つ当たりのようにユーリに命令するシヴァに、ユーリもエルも呆れつつ、ノラの話から始めた。
犬神の最終目的地、ノラの「暴走」を使うこと――ユーリとエルは委細全てをつまびらかに話した。
「『BLUE ROSE』の「暴走」を使うか。犬神め。所詮は獣風情が大層な知恵を絞り出しおる」
「今のところ、これですべてです。なにかご質問があればお願いします」
シヴァはしばし黙した後、「ここでの会話も、聞かれておろうな」とエルに上目遣いの視線を送る。
「ああ、『世界の目』を手に入れたんだ。聞かれているだろうよ。だが、お前がアグニを取り戻してくれれば、それも効力を失くす」
「『世界の目』って、なに?」
ユーリがきょとんとして訊けば、「物知らずが」とシヴァは悪態を吐く。カチンときたユーリは足元に落ちていた小さな木片をシヴァに向かって蹴った。
「小娘ええええ!!」
「そういうところが尊敬できないって学びなさいよ!!」
またしてもぶつかり合いになりそうなところを、エルが仲裁に入って事なきを得た。
「『世界の目』とは、神、人、魔の三世界に在って、森羅万象、すべてを見通すことができる目の事だ。『天眼通』とも言う。主に四大元素の神が一つの身体に入ったら得られるものだが、一人だけ、人界に例外で『世界の目』を持っている奴が居るな」
「え、だ、誰!?」
「お前の母親。神殺しの聖女リリィ=アンジェだ。彼女を守護している神と天使は万神庁の最高神の中にあれば筆頭役に値するんだが……諸事情で聖女から離れようとしない」
ユーリはひくりと口角を震わせた。
「ママって……そんなにすごかったんだ……」
母は過去をあまり話したがらない節があるせいか、一人娘でも初めて耳にすることは多い。ユーリも両親との距離を測りかねていたから、尚更他人から聞かされて母の過去を知る機会の方が多いのだ。
「話さないというのは単純に訊かれてないからだと答える奴と、あえて語りたくない奴に別れる。お前の母親は、後者だろうな。あの賢い女が『世界の目』について語らないのは、話す必要の無い過去だと割り切ったのだろう」
エルが断言する「過去と自身の能力について」――ユーリは、また少し距離を感じた。きっと尋ねれば、仕方がないねとでも言って聞かせてくれるかもしれない。だが、封印した過去を掘り下げるような真似はしたくなかった。
◇
シヴァと共に『異界』へと向かう前に、ユーリはこっそりと家を出て、日本の雪の道場を訪れた。夜の六時頃にメールで「今から行く」とだけ伝えて向かえば、玄関前で鉢合わせた雪はスーツ姿だった。
「おかえり。姉さんに急に呼び出されてね、義兄さんの会社で少しだけ手伝いをしてきたんだ。ユーリはどうかしたの?」
「あ、あのね……また明日の夜に『異界』に行くことになったから、その……」
「逢いたかった?」
「……うん。すごく逢いたかった」
雪はそっとユーリの手を取って、「おいで」と誘う。ユーリはこの手を拒む方法を知らないし、知る必要もないと思っている。掌に固い剣ダコがある手。この手がいつも包み込んでくれる。
部屋着のシャツとジャージに着替えた雪は、熱い柚子茶を出してくれた。
「美味しい!!」
「裏の沢木さんのおばあさん、九州に住んでいるらしいんだけど、毎年冬に送ってくるんだって。今年は特に多く来たから小瓶で貰っちゃった。これ、残った皮も美味しいよね」
「うん、苦みがあるけど蜂蜜の柔らかい甘さがする」
甘い柚子茶と付け合わせは渋谷に本店がある西光亭のほろ苦いチョコくるみクッキーだ。ユーリが大好きなクッキーを用意してくれている辺り、やはり雪は優しい。この優しさに溶けて消えてしまいたくなる時がある。
「あ、そうだ。雪くんに謝らなきゃいけないんだった……」
「なに?」
「……エルのせいで、パパに、バレた……」
ユーリの赤面と、言いにくそうな態度から察しのいい雪は「あー、あちゃあ」と額を押さえた。
「ごめん……」
「ユーリは悪くないよ。僕が正式に挨拶や結納について話してなかったのも悪いから。ヴィンセントさん、また拗ねちゃったんじゃないの?」
「やっぱり解る?」
「そりゃあ、ね」
苦笑を返す雪に、ユーリはぽすりと額を預ける。
「『異界』から帰ってきたら具体的な将来の話をしよう。だから、必ず帰ってくるんだよ?」
「うん、約束する。雪くんは、浮気しないでね……」
「十八も下の奥さんをもらおうとしている奴が浮気なんかしないよ」
「言ってみたかったの」
二人で笑い合うと、ふとユーリはあるものに気づいた。
「雪君、いつの間にピアス開けたの?」
「ああ、気づいた? 仕事の時は外さなきゃいけないから左だけね。ラピスラズリを選んだんだ。似合う?」
ユーリと同じ瞳の色――ユーリが付けているのはサファイアだが、雪のは更にユーリの瞳の色に近い。
「ユーリ、先にお風呂入っておいで」
「あ、う、うん。お先に頂きます」
雪の声が艶めかしく聞こえて、ユーリは動きがぎこちなくなる。雪はそれを楽しんでいるのが伝わってくるので、ユーリは「雪くん、布団で待ってるね」と言って、さっと消えた。
「ふはっ、かーわいいなあ」
雪は至極楽しそうにユーリを見送る。
二人で眠った布団は、温かくて、ずっと微睡みを手放したくはないと二人は口づけを交わす。
『異界』に旅立つぎりぎりの時間まで、ユーリは雪と共に過ごした。
ここからは決戦の幕開けだ。
「行ってきます」
「気を付けて、帰りを待ってる」
雪のこの一言が、どれだけユーリを支え続けたか――それを知るのは、少し先のこと。
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