BLUE BLOOD BLOOM

紺坂紫乃

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Ⅷ, 彼岸のまほろば

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Ⅷ、「彼岸のまほろば」


 ユーリは白いワンピースを着て裸足で立っていた。辺り一面は白い霧に覆われて、なにも見えない。

(……ここは、どこだろう……? 私は……どうしてここに立っているの……?)

 頭の中も靄がかかったようで、ぼんやりと寝起きのような、今から眠りに入るような、曖昧な感覚だ。
全身がだるい。歩きだそうにも、決意が湧かない。
「ユーリ」
 霧の中から誰かに呼ばれた。その声はひどく優しく、穏やかで、慈愛に満ちていた。

「雪くん?」

 大好きな人の名を口にすると、『その人』は雪だった。道着と袴姿で、にっこりと微笑んでユーリに手を差し出す。

「連れていってくれるの?」

「君が望むなら」

 二人きりの旅路も悪くないかもしれない。ユーリは雪の手を取った。互いの手の感触がないことにも気づかずに。

「ゆっくり行こう。君の歩調でいい」

「うん……少し、疲れちゃった……」

 「君は頑張ったから」と、雪はユーリを抱きしめてくれた。ユーリもそっと抱きしめ返す。

 ここがどこか、どこに行くのかなど、もうどうでもよかった。
 雪が居て、存在意義を求めて戦うこともない世界――。
 そんな真綿のような柔らかな世界を求めていたんだ、とユーリは一滴の涙を流した。







 ヴィンセントに抱かれて帰ってきたユーリの姿に、雪は世界が凍てつくのを感じた。
 月がすっぽりと叢雲に隠れた夜、変わり果てた婚約者は、客間の布団の上にそっと寝かされた。
 雪も、ヴィンセントも、リリィも誰も口を開こうとしない。

 どれほどの沈黙が流れたか――。

 時間が動き出したのは、エルとメフィストが現れてからだ。二人はユーリの姿に動揺もせず、メフィストが「せめて傷だけは消してさしあげましょう」とユーリの遺体に手をかざすと、雪はメフィストを突き飛ばした。

「……触るな……」

「雪」

「彼女に触るな!! 僕は信じない!! だって、笑っていたじゃないか……。みんなと稽古をして、なのにどうしてこんな姿に……どうして、どうして君達はいつもこの子を傷つけるんだ!? この子がなんの罪を犯した!? ただ青い瞳をしているだけで、なぜこの子はいつも迫害されないといけないんだよ!?」

 激昂した雪を目にするのは二度目だ。しかし、声を荒げることすら稀なのに、泣きながらヴィンセント達を責める雪は平素と比べて別人のようだった。
 荒れる雪の首裏にエルが手刀を叩き入れた。不覚を取った雪はユーリの遺体に折り重なるように気を失った。

「ルシファー!!」

「うるさいから黙らせただけだ。お前らに説教される筋合いはないぞ。俺達は神界に干渉しない。だから随行も控えた。そこでユーリを護りきれなかったのは、お前達の責任――違うか」

「……その通りだ」

 言い返す権利など、自分にはない。ヴィンセントは目を伏せた。リリィも俯いて、涙が零れそうになるのを必死で耐えていた。

「ふん、葬式など考えるなよ? ユーリはまだ使える」

「は……? おい、なにを企んでやがる――!?」

 ヴィンセントは切窓の枠に腰掛けたエルに詰問する。エルはヴィンセントを無視してメフィストを呼んだ。

「メフィスト、ガルに製造を命じていたアレの稼働率はどうなっている?」

「動作はほぼ問題ないそうです。ただ一点、問題が……」

「脇差との同調か」

「はい」

「ちっ、まったく手を焼かされる……いいか、耳の穴をかっぽじってよく聞け。ユーリの魂はまだ冥界に行ってはいない。離れる寸前にメフィストが捕らえた。だが、傷を消して魂を戻したところで、一度離れた身体はもう使えん。ユーリと契約した時、同時に『スペア』を造らせておいた。今の身体となんら遜色ない出来だ。それにユーリの魂を移せば、この娘はまだ戦える。俺との契約期間はまだ残っているからな。働いてもらうぞ」

 情の一欠片もない言葉に、ヴィンセントとリリィは絶句するしかない。

「『スペア』に移すだと? てめえ……どこまで無情なんだ!!」

 狭い客間は長身のヴィンセントが歩けば、数歩でエルの下に辿り着く。ヴィンセントは雪と同じように怒り狂っていた。心も、表情も読めない黒い目には闇だけが映っていて、あれだけ同じ時間を過ごしながらもユーリをモノとしか考えない、この男に腸が煮えくりかえる。

「今日と言う今日は許さねえ!! ユーリのスペアだと!? リリィが腹を痛めて産んだ俺達の娘だ!! 身体さえ動いて『異界』と戦えればいいなんて、割り切れる訳ねえだろう!!」

 エルは胸倉を掴むヴィンセントの手を、いかにも汚らわしいとばかりに叩き落とした。

「腹を痛めて産んだ、ねえ……。死神、大事なことを忘れているだろう。お前らの間に産まれて、青い瞳をしているってだけで、ユーリは苦しみの果てに俺達を選んだ。周囲に疎まれながらも死に物狂いで『聖騎士パラディン』の地位を掴んだんだろうが!!」

 ヴィンセントの胸倉を掴み返して、珍しくエルが吼えた。

「貧血を起こしながらも対峙した犬神に刃を向けた。拗ねたお前に心ない言葉をかけられても堪えて査問会議に臨んだ。俺は『ユリア=ロゼッタ』という『BLUE ROSE』の性根を買っている。だから四将どももあいつに付いていくんだ――可愛いと愛でるだけで、裏切られれば傷つける。そんな親の叫びよりも雪の怒りの方がよっぽど重いぞ!!」

 ヴィンセントは眩暈を覚えた。違う、と言い返したいのに――魔王の言葉の方がよほど娘を『知っている』

(……俺はなにをしていた? 友達が欲しいと言った時も、自身の正体を知ったユーリを雪に預けた時も、俺は……ただ正論を並べ立ててユーリを傷つけていただけ、か……)

 犬神と対峙したなんて知らない。どんな気持ちで自分を測られる査問会の席に座っていたかも――父親である俺はユーリの気持ちを考えようともしなかった。
 
 ヴィンセントが一歩後退る。エルの気迫に負けたんじゃない。己の無知が大事に思っていた娘を傷つけていた現実を突きつけられたからだ。

「王様」

 どこから現れたのか、B3が眠っているようなユーリの枕元に彼女を覗き込むように胡坐をかいていた。

「ベルフェゴールか。なんだ?」

「お嬢さんの魂、やっぱりこの身体にかえしてあげたいんだ。なんとかならないの?」

 エルは普段要求などしないベルフェゴールの眠そうな上目遣いに嘆息した。

「反魂術は外法げほうだ。外法が露呈すれば、罰せられるのは治外法権の『魔界』ではなくユーリだぞ」

「うん、解ってる。俺は歳取ってるから解るつもりなんだ。でも『魔界』が――まあ、べリアルのせいなんだけど……あいつ、隠れて泣いているんだよね。アスモもそっとしておきましょうだとか、ベルゼブブは瓦礫に当たり散らしてる。あいつら、堕天して『魔界』に着た時よりも様子がおかしくてさ。落ち着かないからここに来たんだけど、そしたらお兄さんが怒鳴ってる。お嬢さんがいないだけで色んな歯車が正常に回らない」

 「それに」とベルフェゴールは独り言のような呟きを続ける。

「お兄さん、俺に訊いたんだ。『ただの人間でも魔法や力を身につけることは可能か?』って。一応、否定しておいたけど……あの様子じゃあ目を覚ましたらどういう行動に出るか、手に取るように解るよ」

 頭のいい雪のことだ。自害などはしないだろうが、『魔界』に行くとは言いだしかねない。ユーリを受け入れなかった神界や人界は捨てるだろう。ずっと共に生きてきた姉の家族よりも、雪はユーリを探し求めるに違いない。
 彼は『スペア』のユーリを受け入れないのも簡単に想像がつく。ずっとユーリを育ててきた人間だ。あのすぐに泣く娘を支え、愛し続けてきた。二十歳までしか生きられない青い瞳の『ユリア=ロゼッタ』に恋をし、愛されたただ一人の人間――彼だけが『ユーリ』を見ていた。

「……ガルの労働が無駄になるな」

「そうでもないよ。『スペア』の使い道なんて、お嬢さんの生死に拘わらずいくらでもある。少なくともメフィスト様は案を捻りだす天才だし、俺が無駄にはさせない」

 ベルフェゴールから意欲を感じるセリフが飛び出すとは、とエルは目をみはる。

「で、なにをすればいい? 外法の穴をすり抜けてお嬢さんを復活させる方法を教えてよ」

 ベルフェゴールの問いに、エルは「決定事項かよ」とぶすくれた。

「メフィスト」

「はい。必要な物は三つ。身体と魂を再び繋ぐ『玉の緒』、復活の儀を隠す『闇紗あんさ』、そして、捕らえてある魂がもう一度身体に戻るよう誘導する『青い血』。いずれも厳重に秘されている場所をご存知なの方は貴方だけのはず――違いますか? 「薔薇の死神」殿」

 メフィストはじとりとした目で、壁に身体を預けて黙っていたヴィンセントに視線をやった。

「死神の前で堂々と禁術の相談とはな。しかも俺の娘の為ときた」

 ヴィンセントは目を隠したまま、くつくつと笑う。

「三つとも人界で手に入る。存在するものじゃない。『創る』んだ。だから俺しか知らない」

「では、情報の開示を」

「いいだろう」

 ヴィンセントは静かに横たわっているユーリと雪の顔を一瞥して、口を開いた。

 ――もう一度、二人の笑顔が見られるのならば、例え相手が『魔界』であろうとも、この地位と摂理に反してでも構わない、と決心をしながら。

 ずっと黙っていたリリィは自身を護る守護神と天使に願う。

「お願い……彼らが戻るまで、ユーリとヴィンセントを万神庁から隠して」

 諾の声はリリィにしか聞こえないまま、承認された。



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