BLUE BLOOD BLOOM

紺坂紫乃

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Ⅴ, NORA

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Ⅴ、「NORA」



 十七年前、『異界』で大規模な騒ぎが起こった。騒動の中心となっていたのは犬神。万神庁の記録によれば、一千年以上も永久凍結牢に禁固刑となっていたはずの犬神が覚醒した原因は、『異界』に遠流刑となった元神格保持者が牢の封印を解いてしまった、と公式記録には記載されている。

「公式記録の改ざんなど万神庁パンテオンでは日常茶飯事ですからね。永久凍結牢の解錠など、最高神以下数人の神々でなくばできるはずがない。そう疑った我らは独自に調査した結果、突き止めた真犯人は人間でした」

「人間? 人間が永久牢に干渉できるの?」

 ユーリの問いに「無論、不可能です」とメフィストはきっぱりと否定を前置いて話を続ける。

「その人間は下半身不随となってしまった兄を治してやりたい一心で、その神格保持者に賄賂を渡し、特殊な薬を手にしれようとした。ところが、薬の精製者から情報が流出。兄は殺され、女は流刑を言い渡された神格保持者と共に『異界』へと放り込まれた。二人の内、女は神界を強く恨み、犬神の封印を解くに至る悪神と命と引き換えに契約を結んだ」

 一千年の縛から解き放たれた犬神は、三日三晩、『異界』で暴れ、いよいよ神界にその勢力が迫ろうとした時に、人間側から薬を買おうとしていた女の娘「メアリ・ウィルソン」が犬神を鎮める為の生贄いけにえとして、『異界』に送られた。

「この時、メアリに付き添った少女が居ました。名前はターニャ・アーデルハイト」

 アーデルハイトの名にユーリはぎょっとした。メフィストはユーリが口を開きかける前に「そうです」と眼鏡のブリッジを持ち上げる。

「情報シンジケート『クラン』北米支部の支部長であるヨハネス・アーデルハイトの叔母君にあたる方でした。アメリカのウィルソン家に奉公に出されていたようでしたね」

「待って。アーデルハイトきょうは母よりも年上に見えたわ。十七年前の話だとしても、叔母様……?」

「ターニャは妾腹の方でしたから。ドイツでも屈指の名家であるアーデルハイト家も、妾腹の娘を体よく厄介払いできて都合が良かったようですよ。事実、アーデルハイト家の家系図にはターニャの名はありません」

「そんな……」

「親を罪人とされたメアリ嬢、生まれてきた存在自体を否定され続けてきたターニャ――誰かを彷彿ほうふつとさせませんか? 特にターニャの方です」

「……『BLUE ROSE』」

「左様。『異界』で犬神の子を産んで精神を壊してしまったメアリ嬢とその子供であるノラに、ターニャはよく尽くしたようですよ」

 メフィストは「これがメアリ・ウィルソンとターニャの写真です」と魔眼のバロールに命じて空中に映像を映し出した。並べられた二枚の写真を見て、ユーリは吃驚する。

「なによ……これ……?」

「驚くほど似ているでしょう? 貴女とターニャは」

 メフィストは無感動にそう言い放った。
 髪の色、目の色は全く違う。だが、顔の細かい造作や髪形がユーリと瓜二つだった。

「私は、ママにそっくりだってよく言われる」

「ええ、よく似ておられますよ。これは下衆の勘繰りでは無く、どうやらターニャの父親である前アーデルハイト卿はリリィ=アンジェ様に思いを寄せていた。世の中には必ず似た人間が存在する。リリィ様によく似た女にターニャを産ませたのでしょう。ご老体でもお元気ですねえ」

 複雑に絡み合う人間模様の糸――見えないそれに翻弄された結果、存在意義を奪われ『異界』に行きついたターニャの心情はいかばかりかと、ユーリには図りかねた。

 目に見えて意気消沈するユーリに、メフィストは追い打ちをかける。

「ユーリ様、お気持ちはお察し致しますが、刃が鈍らないことを願っておりますよ」

「わ、わかってる……!!」

「ならば結構。お嬢様が決意を鈍らせてしまっては、この祭の本当の意味がなくなってしまいますから」

「この祭の、本当の意味?」

 ユーリの問いには答えず、メフィストは眼鏡の下に潜むのは『魔界』を覆う酸雨のように妖しい緑がかった黒い瞳。普段は開いているのかも解らない糸目のくせに、この時のメフィストは人が違うようだった。
 ただ一つ、ユーリには解ったことがある。

(『魔界』勢はまだ私を信じ切っていない、か)

 「実力も心も未熟」とは査問会で嫌と言うくらいに耳にしたが、今ならあの意見も頷ける。しかし、その意見に甘んじてやる気は皆無だ。





 薬か術で眠らされ、メアリとターニャが行きついた場所は太陽はなく、蝋燭が揺らめく薄紫色の霧が立ち込める世界だった。

「ふん、罪人ノ娘を贄に寄こすトハ、業ノ深きコトよ」

 永久凍結牢から解き放たれた犬神を目にして、メアリとターニャは抱き合いながら今にも倒れそうだった。歯の根が合わない。巨大な体躯だけならず、禍々しい気を垂れ流しにしている犬神に、メアリとターニャは食われると思っていたのだ。
 痛みならば一瞬だと、そう思っていたのに犬神が与えた苦行はメアリを孕ませることだった。

「お嬢様!!」

「……ター、ニャ……」

 乱れた金色の髪は無残にもほとんどが抜け落ち、全身傷だらけになったメアリはみるみると大きくなる腹に半狂乱になりながら泣き叫んだ。

 翌日に産まれた赤子は犬神にも、メアリにも名を与えられなかった。メアリは母乳をやることも拒み、ターニャが困り果てた。

「ここには太陽がない。水も食べるものもない世界で、この赤ん坊にどう育てと言うの?」

 ターニャは知らなかった。『異界』では自給自足がセオリーだ。その自給自足とは決闘で負けた敗者を食うことだ。しかし、そんな力もない二人の下には、犬神から施しのように毎日果物や肉、野菜、透き通った水が運ばれてきた。
 授乳を拒まれた赤ん坊はターニャが作った果物の汁で生き延びた。

「ミルクも必要としないなんて、やはりバケモノね」

 メアリはくすくすと笑いながら、ターニャにだけ語りかける。メアリの心が異常さを帯びてきた様子をターニャは哀しく思いながら、一週間で立って歩くまでになった赤子を抱き寄せ、『異界』の生活に耐えた。
 一カ月もすれば、メアリはとうとうターニャすら認識しなくなった。まだニューヨークの実家に住んでいた頃、彼女が好きだったバッハの讃美歌をワンフレーズだけ、繰り返し歌い続ける。
 瑠璃色の瞳をした赤子は、ターニャが縫い直した服を着て母の歌を聴いていた。犬神は相変わらず食事をここに運んでくるだけ。他の悪神がメアリやターニャを狙っていたが、犬神への献上品だという代名詞が奇しくも彼女らを護っていた。
 やがて一年も経とうとした頃に、メアリは亡くなった。ターニャがやんちゃに歩き回る子供の世話をしている隙に、果物ナイフで喉を切り裂いて自害したのだ。

「――……メアリ様、どうか安らかに……」

 ターニャは静かに泣いて、翌朝、習慣化した食料を持ってきた犬神に墓を築く許可を乞うた。

「なラぬ」

「なぜ!?」

 犬神はターニャの願いを拒否した。恐怖で足が竦みながらも、ターニャは真っ向から犬神に抗議した。

「こコは食料不足ダ。人間のヨウに遺体を燃やシテ埋める習慣は無イ。否と申すなら、貴様ゴと、子供のエサになれ」

 ターニャが犬神をひどく憎んだのは語るまでも無い。ターニャが抱いていた子供は、もうすっかり歯も生えそろい、普通の食事をするようになっていた。

「坊ちゃま、あなたはメアリお嬢様の忘れ形見です。どうか、どうか、強く生きて下さいませ!! いつか外の世界で太陽を見る機会があるでしょう。私とメアリ様の無念はあなた様が晴らして下さると信じています……!!」

 きっとターニャの言葉など、子供は理解していまい。ターニャの涙が子供の頬に降る。そのままゆっくりと倒れたターニャは背を大きく裂かれていた。

「食エ。己ガ糧とせヨ」

 子供は何も解らぬまま、まだ温かいターニャの肉に人よりも少し長い犬歯を突き立てた。






「ああああああああああ!!」

 亜空間がビリビリと揺れるほどの絶叫を上げるノラ――すべて思い出した。

(……喰った……ボクは、父の命ずるまま、彼女を喰ったんだ……!!)

 薙刀を捨てて、脳を鷲掴みにされているかのような頭痛がノラを襲う。蹲るノラを見下して魔王は「思い出したか」と笑う。まるでターニャを喰えと命じた父と同じ眼をして。

(やめろ!! ユーリ、ボクをそんな眼で見るな!! 君がボクを拒むのは――)


 ボク ガ キミヲ クッタカラ――?


 行き当たった結論に、ノラはますます叫び声を大きくする。空間中に反響して鼓膜が破れそうに痛む。立っているのがやっとの状態のユーリに反して、倒れていた『異界』の悪神たちは叫び声に呼応して立ち上がった。
 ノラの叫びが治まってくれなければ、脇差も握れないと言うのに厄介な、とユーリが渋面を作った。だが、この絶叫の中でもエル達は平然と立っていた。

「べリアル、援護しろ!!」

 エルが手甲剣を振り上げた。
 ノラの叫びに操られているのか、ふらふらと武器を振り上げる『異界』の者達をべリアルの糸が絡みつき、引き裂く。
 ノラも捕えようと糸を放つが、叫び声がノラを包む障壁となって糸を弾いた。

「ちっ、どうすんのよ、メフィスト!!」

「王にお任せしなさい。こちらも障壁を張ります。今のノラにお嬢様を近づけるのは危険だ。私の後ろに居てください――べリアルは潜んでいるアスモデウスと共にお嬢様の護衛に専念を」

「全部、エルがやるの!? そんなに信用してくれないの!?」

「そうではありません。お嬢様には、お嬢様しかできぬ仕事をして頂きたいだけです。王が合図されたら、斬ってください――いつでも飛び出せるように構えて」

 なにをとは訊く暇も無かった。

 エルはべリアルが殺した『異界』者の血を浴びながら、振り上げた手甲剣でノラのシールドを壊す。
 ガラスが割れるような音が響き、エルは左手でノラの胸倉を掴み、持ち上げる。

「ユーリ、こいつから取り出す物を斬れ!!」

 諾の返事すらなく、ユーリはメフィストの障壁から飛び出した。

 同時にエルの手甲剣がノラの鳩尾を貫く。

「がっ!!」

「今だ!!」

 対象物を確認する間もなく、ユーリは脇差から居合一閃――手甲剣の先に刺さっていた黒いモノを両断した。

 真っ二つになった『それ』からガラスを爪でひっかいたような高い音が鳴る。

「な、に――!!?」

「呪詛だ。犬神き特有のな」

 着地したユーリを黒いマントでかばいながら、エルはそう呟いた。
 手甲剣の先にぶら下がっているノラはだらりと折れ曲がって動かない。

「死んだの?」

「いや、呪詛を取り出されて気絶しているだけだ――っと、気づかれたか。撤退だ」

 エルが垂れ下がっているノラを乱雑に投げ捨てると、亜空間を破って獣の手がノラを掴んだ。

「犬神!!」

「安心しろ。あれ以上は干渉できん。メフィスト、ここを解除しろ!!」

「御意」

 ユーリはエルが肩に座らされ、ガラガラと崩れ落ちる亜空間からの逆風に耐える。

『おノれ……ルシファー……!! 小娘共々、忌々シい……!!』

 空間が完全に消失する前に、地を這うような犬神の憎悪に満ちた声を聞いた。





「ユーリ!!」

「ほれ、返す」

 ベルフェゴールの結界の中で立っていた雪に、エルはユーリを投げるように渡した。雪は両腕を伸ばしてユーリを受け止める――ユーリの顔は血の気が引いて真っ青になり、震えていた。

「大丈夫?」

「雪くん……ありがとう。エル、ちゃんと説明して。私が斬った呪詛はなんだったの?」

 ユーリは雪の手を強く握りながら、気丈にもエルに問う。握りしめる指先の冷たさは、犬神の恐ろしさをまざまざと甦らせる。それでもユーリはエルに説明を求めた。

「ふん、『聖騎士』の地位を得て一皮剥けたか。仮にも俺達の主だ。それでいい」

「はぐらかさないで」

「呪詛についてはエキスパートに訊け」

「お嬢様が斬ったのは『犬神憑き』という、犬神固有の呪詛です。ノラはターニャを喰らい、犬神の血とメアリ・ターニャ両者の呪いを体内で呪詛に変換した。ノラが『異界侵攻』の斥候せっこう役であったのも、総大将である犬神が攻め入る前に『神界』または『人界』の地に犬神憑きの呪詛を埋め込み、『異界』側の戦力を拡充するためです。犬神憑きをノラの身体から排すことが、今回の主たる目的でした」

「話してくれなかったのは、私に犬神憑きの呪詛を躊躇ためらいなく斬らせるつもりだった、でいいの?」

「はい。おそらく犬神にとって、『犬神憑き』を取り出されたノラの利用価値は、もう無いに等しい。ノラが使えない以上、しばらく『異界侵攻』は不可能でしょう」

 メフィストの説明を聞き終えて、ユーリはやっと深く息を吐きだした。
 震えも収まったが、胸に残るのは一抹の虚無。

 ――それはおそらく目を覚ませば、最後のよすがだった父に見放されるであろうノラへの同情だった。

「あの子、これからどうやって生きていくのかな?」

「同情はさっさと捨てろ。六年で犬神の首級を上げるには、くだらん考えに割く時間はない」

 エルはマントを翻して雑踏に消えた。メフィストも、ベルフェゴールも、一礼して、エルの後を追う。
 その姿は仮の主従関係を深く物語っていた。

「ユーリ、ひとまずカフェにでも入ろう。ここは冷えるし、疲れたでしょ?」

「そう、だね……」

 まだ掴んだままの手をゆるやかに引いて、雪は歩き出した。ユーリは雪の背に小走りで歩み寄り、カシミヤのコートに額を当てた。

「ユーリ?」

「雪くん、日本に、道場に帰りたい……!!」

 この街は、人も悪魔も多すぎて心が落ち着かない。
 契約上の仲間達は繋がっているのか、いないのかわからない。
 両親さえ縋れない。

「わかった。カフェはやめて、タクシーで空港に向かおう。待ち時間が長いけど、一番早い便で日本に帰ろうか」

 それで君が深呼吸できるのなら。
 
 雪は繋いだ手を引き寄せる。コートの中にユーリを招き入れると、彼女の身体は驚くほど冷たかった。


to be continued...
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