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Ⅲ, 凶刃
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Ⅲ、「凶刃」
雪との再会でさんざん泣き叫んだユーリは、今朝治してもらったばかりの瞼がまた腫れて重くなっていることに呻いている。今は泣き終えて、雪が宿泊しているホテルの部屋のベッドに腰掛けて、フロントで貰った保冷材を目に当てている。
「うー……」
「落ち着いた?」
「うん、久しぶりに逢えたのに……ごめんね」
今朝の父の一件も相まって、堪えていた感情が爆発してしまった。隣に腰掛けて「構わないよ」と抱き寄せてくれる雪は、ハグとキス以上の触れ合いをしてこない。出会い頭に泣き喚いてしまった件といい、つくづく自分がまだ子供なのだと痛感させられる。
「雪くん、一緒に寝てもいい?」
「うーん、とね……僕としては非常に嬉しいお誘いなんだけど、ヴィンセントさんに釘を刺されたばっかりだし、僕が暴走して離されるのが一番嫌だから駄目。大事にさせてよ。我慢強さには自信があるから」
「代わりに短い時間でも堪能させてもらう」と、顔中にキスをしてくる。真っ赤になったユーリはくすぐったくて仕方がない。
ノヴォシビルスクでは殺すか殺されるかの戦いをしてきたのに、雪の腕の中では穏やかな幸せに少しだけ恐怖を感じる。この平和な時間に慣れすぎると、もう戦えないような錯覚に陥る。
「怖い?」
「え!?」
「そういう顔してる。ユーリは溜めこむタイプの割に表情に出やすい。昔のリリィさんと同じだね」
「エスパーなの?」
「伊達に十年も刑事やっていたんじゃないってだけ。エスパーなら、とっくに君を攫ってる――それよりも話してごらん」
雪に隠し事はできない。なによりせっかくの二人の時間に隠し事をしたまま過ごしたくは無かった。一度、戦場に出たら帰ってこられない恐れもあるがゆえに――ユーリは中指に感じる重みごと、雪のジャケットを握りしめた。
「うまく言えないけど、あんまり幸せな時間に浸っていたら……もう戦えなくなりそうで、不安になる。『聖騎士』なんて御大層な地位を手に入れたくせに――地位を手に入れる為に『魔界』まで行ったくせに、幸せな時間の比重が重いほど不安は大きくなる。でも、雪くんと離れたくない……!! 好きなの……みんなから見たら子供が大人に憧れていると言われるのかもしれないけど、この気持ちだけは――本物」
「以前、戦場カメラマンの人が同じことを言っていたよ。僕は命の遣り取りの現場を知らないからアドバイスなんてできないけど……ユーリと過ごす時間は三十二年間生きてきた中では信じられないほど満たされてる。義兄さんと姉さんがね、君と暮らすようになって、世の中を達観して見ていた僕の表情が豊かになったって言うんだ。あまり自覚は無いんだけど、ヴィンセントさんの胸倉を掴むくらい怒ったのは人生で初めてかな……」
雪は、決まりが悪そうに眉尻を下げて頬を掻いた。ユーリはぎょっとする。穏やかな雪が、あの父に怒る姿など想像ができない。
ユーリが知る限り、父と雪は親友だと思っていた。雪の姉である月と母は気心知れた仲だと言うのなら、言葉足らずで寡黙な父の補足役が雪だ。そして、大体一言多くて父に「狐」と称されているのが、月の夫の明光――ユーリを取り巻く五人の大人は絶妙な関係で成り立っている。
「雪くん……私、もうパパとは仲直りできないのかなあ? ママからきっと何か言われているだろうけど、今回の問題だけは一筋縄ではいかない気がする。謝っても許してくれない、かなあ」
「謝るの? それこそ火に油だよ。ユーリは、ロシアで初めて仲間と戦ったんでしょ? 彼らが居てくれたからこそ生きてここに居るんだし、空っぽだって言っていたけど社会的な地位を手に入れた。違う?」
「そう、だけど……」
「例え契約上の仲間だとしても彼らは君を六年間は絶対に護ってくれる。何かを犠牲にしなければ、大切なものは得られないなんて考えはもう古き良き化石みたいな考えだ」
雪の例えにユーリはくすくすと笑い始めた。
「なあに? 古き良き化石って。いいのか悪いのか、わかんないよ」
「良し悪しの二元論じゃないって意味だったんだけど、そんなに笑われると恥ずかしいなあ」
身を寄せ合ったまま、二人で笑い合った。まだ同じベッドで眠れなくても、雪はユーリが眠りに落ちるまで、物語を聞かせるように話してくれた。
あんなに泣いたのに悪夢を見なかったのは、きっと雪のおかげだ――。
◇
歌が聴こえる。英語の歌だ。同じフレーズを繰り返し、繰り返し――。
歌詞の意味は知らない。
しかし、ノラが覚えている母の形見はこれだけなのだ。
「懐かシい歌ヲ覚えていルな」
「……父さん」
『異界』には太陽がない。罪人の流刑地なのだから、太陽神の恩恵が受けられない場所なのだ。荒涼とした大地には草の一本も生えない。そんな不毛の地で、唯一シンボルマークとしてあるのが、廃墟と化したコロシアム跡地だ。はるか昔はここで罪人同士が暇つぶしの為に命懸けの戦いをしたそうだが、今の『異界』に残る者にそんな余力はない。力がある者は人界に散らばるように、父が命じた。
ノラは『異界』の中でも最も高い場所であるコロシアムの屋根で、胡坐をかいていた。
「……暴走して、ごめんなさい……」
「ユリアと言ったカ。死神ノ娘は」
「ユーリ……ユリア=ロゼッタです」
「ヴィンセント・シルバは、よホど娘が可愛かったと見エる」
「あの……」
父の話が要領を得ないのは今に始まったことではないが、わざわざノラの隣に腰掛けてきた犬神にノラはどう反応したものか戸惑う。
「ノラよ、あの娘は『聖騎士』となったゾ」
「『聖騎士』ってなんですか?」
「我ラを殺す者の筆頭役ダ。忘れヨ……アレを欲してモ、もう手に入らヌ。今モ婚約者ノ腕の中デ笑っテおるわ。まこと憎々しいコトよ」
犬神は青い眼を見開いて呆けている息子の頭に前足とも言える手を置いて、その場を去った。
「婚約者……? ユーリが、ボクらを殺す筆頭役? そんな、そんなにも……」
ソンナニモ キミハ ボクヲ コバムノカ――。
ノラはふらりと立ちあがった。足場が悪いせいで、片足を滑らせた。
落ちる。
だが、器用にも空中で体制を立て直し、コロシアムの砂場に着地した。
「――殺してやる……!!」
顔を上げたノラの目はかつてないほどの怒りで燃えていた。
◇
翌朝、雪と話しながらホテルのレストランで朝食のバイキングを選んで部屋番号の席に行くと、泊まってもいないのにエルが新聞を広げてコーヒーを啜っていた。
せっかくの気持ちのいい朝を台無しにされたようで、ユーリがエルに噛みつく。
「なんで居るのよ……?」
「……ヤったのか?」
「ヤってない!! あんたと雪くんを一緒にしないで!!」
「なんだ、つまらん」
「雪くん、席を変えてもらおう? 魔王の汚らわしい思考が雪くんにうつったら一大事だもん」
青筋を立てるユーリを「まあまあ」と雪がなだめる。
「僕はエルと話してみたいなあ」
「正気!? この下劣な男に話!?」
「まあ、座れよ」となぜかエルが主導権を握るので、ユーリが更に憤慨する。雪は礼を言って、エルの正面に座った。
「変な事を言ったら斬るからね」
「ふん、お前のゴボウよりも役に立たん剣に斬られるようなら俺も終いだ。死のう」
ああ言えばこう言う。
雪の隣で番犬のようにエルに牙をむくユーリを無視して、エルは「お前が甘やかすからだぞ」と無表情のまま、突っ伏して笑っている雪に理不尽な文句を付ける。
「ごめ……!! 笑いすぎて食べられないから、その辺で勘弁して……!!」
「ほう、なかなかの強者だな。気に入った」
「それはどーも」
目尻の涙を拭いて、雪は食事を始めた。ユーリもむっつりとしながら、バジルが混ぜられた焼きたてのソーセージを口に運ぶ。
コーヒーだけが眼の前にあるエルに雪が「君は何も食べないの?」と尋ねた。
「食事ならすべて制覇した。あの発酵させた豆の匂いだけは受け付けなかったな」
「ああ、納豆ね。日本人でも苦手な人はいるよ」
「豆の話が本題か?」
「まさか。自己紹介がまだだったし、本条雪個人として興味があったんだ。ヴィンセントさんとは長い付き合いだけど、あの人が『魔界は排他的』と称していたからね」
ナイフとフォークを動かして、食事を進めながらも雪は視線だけでエルを見定めるように目を細める。
エルもまた雪を見定めるように視線を返す。男二人が探り合いをしていることにユーリは気づいていないようだ。ただエルが雪に余計なことを言わないかを気にしているとしか思えない。
「排他的か。死神の評価を否定はしない。他の連中は知らんが、少なくとも俺は神界がつまらなくて堕天した身だ」
「そう。僕には、思慮深い君が他の『世界』を排した理由がそれだけとは思えないけれど……気のせいかな」
「……どうやら我が主は男を見る目はあったらしい。人間は脆い、が、お前は例外のようだ」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
何に満足したのか、さっぱりわからないが、エルは「邪魔者は消えるとしよう」と席を立った。
「またな、ユキ」
「意味深だね」
ユーリがさっぱりわからないまま、二人の会話は終わったらしい。ユーリは首を傾けるが、雪は食事がまだ途中なのに、ナイフとフォークを置いた。
「雪くん、どうかした?」
「ユーリ……別に肩を持つ訳じゃないけど、今ならヴィンセントさんが怒った理由が解らなくもないよ。君、よく『魔界』と契約したね……」
「エルは危険だってこと?」
「それもあるけど、それだけじゃないよ。彼も、彼に従う者も――って、食事が冷めちゃうね。食べよう。デザートも美味しくて有名なんだよ、このホテル」
「う、うん」
うまくはぐらかされたが、追及はできないままユーリは食事を再開した。雪との時間が惜しい。ただそれだけだった。
一方、ホテルのレストランから出てきたエルをラウンジで待ち受けていたMが「どう見られますか?」と問うた。
「ユーリを育てただけはあるな。うるさいのさえいなければ、こちら側に勧誘したいくらいだ。数百年も『魔界』の空気を吸えばお前と肩を並べるだろうよ」
「随分と高評価ですね。確かに、お嬢様の話をしなかった点や二言三言であなた様の本心を掴んでおられましたところは侮れませんが」
「だろう。優男だと侮れば怪我だけではすまん」
無表情の仮面の下に隠しきれていない高揚が声に現れているエルに、メフィストは声を潜める。
「ところで王よ、バロールが拾ってきた映像をご覧頂きたい。あなた様好みのものかと存じます」
「ほう……これは面白くなりそうだ。メフィスト、祭の準備は怠るなよ。他の連中にも伝えておけ」
「御意」
メフィストはかつてないほど魔王が楽しんでいる様子に、同じく高揚を覚えた。エルが見ている未来――祭は数時間後に始まろうとしている。
◇
ホテルをチェックアウトしたのが午前九時。特に呼び出しも無かったので、雪とユーリは街に繰り出した。
「どこに行きたい?」
「やっぱり洋服が見たいかなあ。これから世界中飛び回るから、ゆっくり買い物できないし。雪くんは?」
「僕も服が欲しいなあ。春用のトレンチコート、もう五年くらい着ているから姉さんに『ださい』って言われた。じゃあ五番街全体をゆるっと歩きますか」
「うん!!」
寒風吹きすさぶ二月末のニューヨークでも、世界有数の観光地だけあって人通りは多い。しかし、恋人らしい遊びや買い物など初めてで、ユーリは『異界』の脅威を一時でも忘れられて嬉しかった。ブランド品よりもディスカウントショップの方に引き寄せられる二人は、周囲から見れば仲の良いカップルに映っただろう。
――水を差されたのは昼食前の十一時になった時だ。
「ユーリ、左手の指輪が光ってるよ」
「え……あー、出動かあ。ごめんね、雪くん……」
「ううん、気をつけて行っておいで」
気分が萎んでしまったユーリの唇にキスを落とし、ユーリも雪の頬にキスを返す。
二人が別れたのは、チェルシー地区の五番街だった。
「場所は?」
「エル。それが……まだ送られてきてなくて、って、今頃来た。けど、これ……ニューヨークのマンハッタンって、ここじゃない!! ――まさか、雪くん!!」
スマートフォンのマップが光る場所は、まさしく今ユーリが通ってきた道だった。
――嘘だ。お願い、やめて――!!
ユーリは駆けた。この人ゴミの中からただ一人を探す。
その人だけは奪わないでと願いながら。
ユーリの願いは虚しく、雪は背に熱いモノを感じて歩みを止めた。
緩慢な動きで背に手をやると、紅い液体でぬるつく。
「……ユー……リ……」
「お前みたいな凡人に、ユーリは渡さない……!!」
隣を歩いていた女が悲鳴を上げた。
ユーリと同じ年ごろの女の子達だ。
そして、殺意で燃え上がる瞳を雪に向けていたのは、愛しい娘と同じ瑠璃色の双眸だった。
to be continued...
雪との再会でさんざん泣き叫んだユーリは、今朝治してもらったばかりの瞼がまた腫れて重くなっていることに呻いている。今は泣き終えて、雪が宿泊しているホテルの部屋のベッドに腰掛けて、フロントで貰った保冷材を目に当てている。
「うー……」
「落ち着いた?」
「うん、久しぶりに逢えたのに……ごめんね」
今朝の父の一件も相まって、堪えていた感情が爆発してしまった。隣に腰掛けて「構わないよ」と抱き寄せてくれる雪は、ハグとキス以上の触れ合いをしてこない。出会い頭に泣き喚いてしまった件といい、つくづく自分がまだ子供なのだと痛感させられる。
「雪くん、一緒に寝てもいい?」
「うーん、とね……僕としては非常に嬉しいお誘いなんだけど、ヴィンセントさんに釘を刺されたばっかりだし、僕が暴走して離されるのが一番嫌だから駄目。大事にさせてよ。我慢強さには自信があるから」
「代わりに短い時間でも堪能させてもらう」と、顔中にキスをしてくる。真っ赤になったユーリはくすぐったくて仕方がない。
ノヴォシビルスクでは殺すか殺されるかの戦いをしてきたのに、雪の腕の中では穏やかな幸せに少しだけ恐怖を感じる。この平和な時間に慣れすぎると、もう戦えないような錯覚に陥る。
「怖い?」
「え!?」
「そういう顔してる。ユーリは溜めこむタイプの割に表情に出やすい。昔のリリィさんと同じだね」
「エスパーなの?」
「伊達に十年も刑事やっていたんじゃないってだけ。エスパーなら、とっくに君を攫ってる――それよりも話してごらん」
雪に隠し事はできない。なによりせっかくの二人の時間に隠し事をしたまま過ごしたくは無かった。一度、戦場に出たら帰ってこられない恐れもあるがゆえに――ユーリは中指に感じる重みごと、雪のジャケットを握りしめた。
「うまく言えないけど、あんまり幸せな時間に浸っていたら……もう戦えなくなりそうで、不安になる。『聖騎士』なんて御大層な地位を手に入れたくせに――地位を手に入れる為に『魔界』まで行ったくせに、幸せな時間の比重が重いほど不安は大きくなる。でも、雪くんと離れたくない……!! 好きなの……みんなから見たら子供が大人に憧れていると言われるのかもしれないけど、この気持ちだけは――本物」
「以前、戦場カメラマンの人が同じことを言っていたよ。僕は命の遣り取りの現場を知らないからアドバイスなんてできないけど……ユーリと過ごす時間は三十二年間生きてきた中では信じられないほど満たされてる。義兄さんと姉さんがね、君と暮らすようになって、世の中を達観して見ていた僕の表情が豊かになったって言うんだ。あまり自覚は無いんだけど、ヴィンセントさんの胸倉を掴むくらい怒ったのは人生で初めてかな……」
雪は、決まりが悪そうに眉尻を下げて頬を掻いた。ユーリはぎょっとする。穏やかな雪が、あの父に怒る姿など想像ができない。
ユーリが知る限り、父と雪は親友だと思っていた。雪の姉である月と母は気心知れた仲だと言うのなら、言葉足らずで寡黙な父の補足役が雪だ。そして、大体一言多くて父に「狐」と称されているのが、月の夫の明光――ユーリを取り巻く五人の大人は絶妙な関係で成り立っている。
「雪くん……私、もうパパとは仲直りできないのかなあ? ママからきっと何か言われているだろうけど、今回の問題だけは一筋縄ではいかない気がする。謝っても許してくれない、かなあ」
「謝るの? それこそ火に油だよ。ユーリは、ロシアで初めて仲間と戦ったんでしょ? 彼らが居てくれたからこそ生きてここに居るんだし、空っぽだって言っていたけど社会的な地位を手に入れた。違う?」
「そう、だけど……」
「例え契約上の仲間だとしても彼らは君を六年間は絶対に護ってくれる。何かを犠牲にしなければ、大切なものは得られないなんて考えはもう古き良き化石みたいな考えだ」
雪の例えにユーリはくすくすと笑い始めた。
「なあに? 古き良き化石って。いいのか悪いのか、わかんないよ」
「良し悪しの二元論じゃないって意味だったんだけど、そんなに笑われると恥ずかしいなあ」
身を寄せ合ったまま、二人で笑い合った。まだ同じベッドで眠れなくても、雪はユーリが眠りに落ちるまで、物語を聞かせるように話してくれた。
あんなに泣いたのに悪夢を見なかったのは、きっと雪のおかげだ――。
◇
歌が聴こえる。英語の歌だ。同じフレーズを繰り返し、繰り返し――。
歌詞の意味は知らない。
しかし、ノラが覚えている母の形見はこれだけなのだ。
「懐かシい歌ヲ覚えていルな」
「……父さん」
『異界』には太陽がない。罪人の流刑地なのだから、太陽神の恩恵が受けられない場所なのだ。荒涼とした大地には草の一本も生えない。そんな不毛の地で、唯一シンボルマークとしてあるのが、廃墟と化したコロシアム跡地だ。はるか昔はここで罪人同士が暇つぶしの為に命懸けの戦いをしたそうだが、今の『異界』に残る者にそんな余力はない。力がある者は人界に散らばるように、父が命じた。
ノラは『異界』の中でも最も高い場所であるコロシアムの屋根で、胡坐をかいていた。
「……暴走して、ごめんなさい……」
「ユリアと言ったカ。死神ノ娘は」
「ユーリ……ユリア=ロゼッタです」
「ヴィンセント・シルバは、よホど娘が可愛かったと見エる」
「あの……」
父の話が要領を得ないのは今に始まったことではないが、わざわざノラの隣に腰掛けてきた犬神にノラはどう反応したものか戸惑う。
「ノラよ、あの娘は『聖騎士』となったゾ」
「『聖騎士』ってなんですか?」
「我ラを殺す者の筆頭役ダ。忘れヨ……アレを欲してモ、もう手に入らヌ。今モ婚約者ノ腕の中デ笑っテおるわ。まこと憎々しいコトよ」
犬神は青い眼を見開いて呆けている息子の頭に前足とも言える手を置いて、その場を去った。
「婚約者……? ユーリが、ボクらを殺す筆頭役? そんな、そんなにも……」
ソンナニモ キミハ ボクヲ コバムノカ――。
ノラはふらりと立ちあがった。足場が悪いせいで、片足を滑らせた。
落ちる。
だが、器用にも空中で体制を立て直し、コロシアムの砂場に着地した。
「――殺してやる……!!」
顔を上げたノラの目はかつてないほどの怒りで燃えていた。
◇
翌朝、雪と話しながらホテルのレストランで朝食のバイキングを選んで部屋番号の席に行くと、泊まってもいないのにエルが新聞を広げてコーヒーを啜っていた。
せっかくの気持ちのいい朝を台無しにされたようで、ユーリがエルに噛みつく。
「なんで居るのよ……?」
「……ヤったのか?」
「ヤってない!! あんたと雪くんを一緒にしないで!!」
「なんだ、つまらん」
「雪くん、席を変えてもらおう? 魔王の汚らわしい思考が雪くんにうつったら一大事だもん」
青筋を立てるユーリを「まあまあ」と雪がなだめる。
「僕はエルと話してみたいなあ」
「正気!? この下劣な男に話!?」
「まあ、座れよ」となぜかエルが主導権を握るので、ユーリが更に憤慨する。雪は礼を言って、エルの正面に座った。
「変な事を言ったら斬るからね」
「ふん、お前のゴボウよりも役に立たん剣に斬られるようなら俺も終いだ。死のう」
ああ言えばこう言う。
雪の隣で番犬のようにエルに牙をむくユーリを無視して、エルは「お前が甘やかすからだぞ」と無表情のまま、突っ伏して笑っている雪に理不尽な文句を付ける。
「ごめ……!! 笑いすぎて食べられないから、その辺で勘弁して……!!」
「ほう、なかなかの強者だな。気に入った」
「それはどーも」
目尻の涙を拭いて、雪は食事を始めた。ユーリもむっつりとしながら、バジルが混ぜられた焼きたてのソーセージを口に運ぶ。
コーヒーだけが眼の前にあるエルに雪が「君は何も食べないの?」と尋ねた。
「食事ならすべて制覇した。あの発酵させた豆の匂いだけは受け付けなかったな」
「ああ、納豆ね。日本人でも苦手な人はいるよ」
「豆の話が本題か?」
「まさか。自己紹介がまだだったし、本条雪個人として興味があったんだ。ヴィンセントさんとは長い付き合いだけど、あの人が『魔界は排他的』と称していたからね」
ナイフとフォークを動かして、食事を進めながらも雪は視線だけでエルを見定めるように目を細める。
エルもまた雪を見定めるように視線を返す。男二人が探り合いをしていることにユーリは気づいていないようだ。ただエルが雪に余計なことを言わないかを気にしているとしか思えない。
「排他的か。死神の評価を否定はしない。他の連中は知らんが、少なくとも俺は神界がつまらなくて堕天した身だ」
「そう。僕には、思慮深い君が他の『世界』を排した理由がそれだけとは思えないけれど……気のせいかな」
「……どうやら我が主は男を見る目はあったらしい。人間は脆い、が、お前は例外のようだ」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
何に満足したのか、さっぱりわからないが、エルは「邪魔者は消えるとしよう」と席を立った。
「またな、ユキ」
「意味深だね」
ユーリがさっぱりわからないまま、二人の会話は終わったらしい。ユーリは首を傾けるが、雪は食事がまだ途中なのに、ナイフとフォークを置いた。
「雪くん、どうかした?」
「ユーリ……別に肩を持つ訳じゃないけど、今ならヴィンセントさんが怒った理由が解らなくもないよ。君、よく『魔界』と契約したね……」
「エルは危険だってこと?」
「それもあるけど、それだけじゃないよ。彼も、彼に従う者も――って、食事が冷めちゃうね。食べよう。デザートも美味しくて有名なんだよ、このホテル」
「う、うん」
うまくはぐらかされたが、追及はできないままユーリは食事を再開した。雪との時間が惜しい。ただそれだけだった。
一方、ホテルのレストランから出てきたエルをラウンジで待ち受けていたMが「どう見られますか?」と問うた。
「ユーリを育てただけはあるな。うるさいのさえいなければ、こちら側に勧誘したいくらいだ。数百年も『魔界』の空気を吸えばお前と肩を並べるだろうよ」
「随分と高評価ですね。確かに、お嬢様の話をしなかった点や二言三言であなた様の本心を掴んでおられましたところは侮れませんが」
「だろう。優男だと侮れば怪我だけではすまん」
無表情の仮面の下に隠しきれていない高揚が声に現れているエルに、メフィストは声を潜める。
「ところで王よ、バロールが拾ってきた映像をご覧頂きたい。あなた様好みのものかと存じます」
「ほう……これは面白くなりそうだ。メフィスト、祭の準備は怠るなよ。他の連中にも伝えておけ」
「御意」
メフィストはかつてないほど魔王が楽しんでいる様子に、同じく高揚を覚えた。エルが見ている未来――祭は数時間後に始まろうとしている。
◇
ホテルをチェックアウトしたのが午前九時。特に呼び出しも無かったので、雪とユーリは街に繰り出した。
「どこに行きたい?」
「やっぱり洋服が見たいかなあ。これから世界中飛び回るから、ゆっくり買い物できないし。雪くんは?」
「僕も服が欲しいなあ。春用のトレンチコート、もう五年くらい着ているから姉さんに『ださい』って言われた。じゃあ五番街全体をゆるっと歩きますか」
「うん!!」
寒風吹きすさぶ二月末のニューヨークでも、世界有数の観光地だけあって人通りは多い。しかし、恋人らしい遊びや買い物など初めてで、ユーリは『異界』の脅威を一時でも忘れられて嬉しかった。ブランド品よりもディスカウントショップの方に引き寄せられる二人は、周囲から見れば仲の良いカップルに映っただろう。
――水を差されたのは昼食前の十一時になった時だ。
「ユーリ、左手の指輪が光ってるよ」
「え……あー、出動かあ。ごめんね、雪くん……」
「ううん、気をつけて行っておいで」
気分が萎んでしまったユーリの唇にキスを落とし、ユーリも雪の頬にキスを返す。
二人が別れたのは、チェルシー地区の五番街だった。
「場所は?」
「エル。それが……まだ送られてきてなくて、って、今頃来た。けど、これ……ニューヨークのマンハッタンって、ここじゃない!! ――まさか、雪くん!!」
スマートフォンのマップが光る場所は、まさしく今ユーリが通ってきた道だった。
――嘘だ。お願い、やめて――!!
ユーリは駆けた。この人ゴミの中からただ一人を探す。
その人だけは奪わないでと願いながら。
ユーリの願いは虚しく、雪は背に熱いモノを感じて歩みを止めた。
緩慢な動きで背に手をやると、紅い液体でぬるつく。
「……ユー……リ……」
「お前みたいな凡人に、ユーリは渡さない……!!」
隣を歩いていた女が悲鳴を上げた。
ユーリと同じ年ごろの女の子達だ。
そして、殺意で燃え上がる瞳を雪に向けていたのは、愛しい娘と同じ瑠璃色の双眸だった。
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