8 / 34
破
Ⅰ, 開戦 (後)
しおりを挟む
Ⅰ、「開戦」(後)
剣戟の音が白い大地に響き渡る。
脇差と薙刀という圧倒的不利な得物であっても、ユーリは機動力を生かしてノラの猛攻をしのぐ。
大薙刀という武器の性質上、攻撃後に生まれる隙をうまく突いたが、なかなか致命傷に至らないのはノラのポテンシャルゆえだろう。
どちらにも決定打がないまま、体力だけが削られて行く。
戦場も、いくら動き回っていても氷点下の寒冷地だ。ノラの薙刀を握る手は熱を奪われ、いつものように積極的に攻められていないのも、両者の決着がつかない理由の一つだった。
なによりもユーリの剣筋が違う。以前のような剣道の延長ではなく、明らかに「命を奪う剣」になった。
「この短期間で見違えるほど剣が変わったね」
「相変わらずストーカーみたいなところを見ているわね……。この半年間、みっちり『魔界』の曲者達に死ぬ一歩手前まで特訓されてきたもの」
「ボクを殺す為に?」
「そうよ」
あれほど殺気を剥き出しにしていたノラの青い眼に刹那の影が落ちる。ユーリがそれを訝しく思った瞬間が命取りになった――。
ユーリの切っ先が僅かに下がった一瞬の隙をついて、ノラの刃がユーリの眼の前に突きだされる。
(しまっ……!!)
不意をつかれたが、ユーリも身体が神経反射でそれを間一髪で避ける。おかげで額を斬るだけで済んだ。しかし、額の傷は浅いが出血が多く右眼の視野が狭くなってしまった。
「おい」
「構わないで!! 掠り傷よ。メフィスト、『異界』のゲートを探して封鎖して!!」
「承知」
エルの援護も受け付けず、ユーリは気丈にもメフィストに命を下す。首に垂れ下がっていたボルドーのマフラーを脇差で裂いて、頭に巻き付ける。再び剣をノラに構え直した。
傷は浅くとも出血量が多ければ、必然的に体温が下がる。それこそこの場所では命取りだと言うのに、ユーリは援護を拒否した。
「あは、はっ、ははははは!! 君は、君だけが、いつもボクの予想を軽く飛び越えていく!!」
――狂った哄笑を上げながら、ノラは泣いていた。
狭くなった視界で、ユーリはただぼろぼろと雪に吸い込まれて行く雫を眺めていた。
「ボクと君……同じ『BLUE ROSE』なのに、なにが違うの? どうして、ボクは誰にも愛してもらえなくて……同胞の君でさえボクに刃を向けるんだ……!!」
俯いていたノラが顔を上げると同時に薙刀を振るう。流れる涙を拭おうともせず、ノラは滅茶苦茶に刃を振るった。
「――っ……愛されていても、うまく答えられないわよ!! 自分だけが不幸面するな!!」
「うるさい!! 孤独を知らない君の贅沢な悩みなんか聞きたくもない!!」
まるで子供の喧嘩だ、とエルは入る余地のない戦いを見守っていた。
二人の怒りに呼応して、衝突はどんどんと激しさを増す。
風圧だけで周囲の柱や松明が次々と倒れていく。
ユーリはなんとか正気を保っているが、明らかにノラの様子がおかしい。
呼吸が荒すぎる。
なにより纏う殺気が尋常じゃない。
エルはこの現象には心当たりがあった。
「ちっ、暴走しかけてやがる……!!」
――そう直感し、エルは二人の間に強引に割って入った。
「メフィスト!! このガキが完全に暴走する前にゲートを開け!!」
「不可能です!! 王、頭上にご注意ください!! 別のゲートが開きかけています!!」
メフィストの忠告に空を見上げると、低く垂れこめた厚い雲が渦を巻いていた。
べリアルが咄嗟に糸をユーリの四肢に巻きつけて引き寄せ、自身が覆いかぶさってユーリを庇った。
「な、なに!?」
「なにが起こるか解らないから、こうしてんのよ!!」
夜の闇を切り裂いて、雷が落ちてきた。
光は収束し、禍々しいオーラを放つ二メートルをゆうに超す獣面奇人となった。牙の間から白い息を吐きながらギョロリとノラを睨む。
「……犬神か。まさか敵の総大将直々のお出ましとは驚きだ」
エルの呟きに「あれが?」とユーリはぼやけ始めた視界でも感じる気に身震いする。
(あれが……犬神? これだけ離れているのに……威圧感が……)
「と、う、さん……?」
茫然自失としているノラの首裏に、エルが目にも止まらぬ速さで手刀を叩きこんだ。ノラはがくりと膝を折り、エルの腕に倒れた。
「ほらよ、とっとと連れて帰れ」
「なゼ殺さナイ?」
「こいつにかまけている内に、てめえが俺の背を裂くからだ」
グルグルと喉で笑った犬神に、気絶しているノラを差し出してエルも口だけで笑みに応える。
「エル、そいつを足止めして!!」
「あ、こら!! お嬢!!」
べリアルの制止を振りきって、おぼつかない足取りでユーリは犬神に脇差を構えた。
「ほら、行け。うちにも面倒な命知らずがいるんだ」
「そのヨウだな――死神ノ娘か。なるほど。似ているナ……ノラが恋着するのハ、その容姿ゆえカ。……貴様トハまた相見えようゾ」
犬神はユーリを一瞥すると、のそりとゲートに吸い込まれて行った。
「待て――べリアル、離しなさい!!」
「その出血でなに言ってんのよ、おバカ娘!! あんたはもう黙ってな!!」
べリアルの糸がユーリの鼻と口を覆うと、ユーリは酸欠と失血で気を逸した。
「……うわあ、俺、その糸はお前の変な成分入っていそうで嫌いなんだよなあ。嬢ちゃんに同情するぜ」
「何も入ってないわよ、失礼ね!!」
緊張感の欠片もないべリアルとベルゼブブの後頭部を殴って、エルが失神しているユーリを抱き上げる。
「メフィスト、ノヴォシビルスク駅前まで戻るぞ。今日はホテルに一泊だ」
「はい。ふらふらで犬神に向かって行くなど……お嬢様は目覚めたらお説教ですね、ふふっ」
「目が笑ってないぞ」
エルの痛烈な一撃を食らったBコンビはアスモデウスに引きずられて、メフィストの呪文詠唱で現れた魔法陣の中に入って行った。
こうして『異界』による第一次人界侵攻は終結した。
二人の『BLUE ROSE』は不完全燃焼のまま、静かに眠っている。
戦場となったノヴォシビルスクの村は、この日を境に地図から消された。
◇
翌朝、ユーリは空腹中枢をくすぐる匂いで目を覚ました。
焼きたてのパン、香ばしくローストされた肉、唾液を大量に分泌させるガーリックなど、まだぼんやりとしている頭で「……お腹すいた」と寝ころんだまま、腹を撫でた。
煌びやかな天井は見知らぬ場所だ。このベッドも、ノリのきいた掛布団も、すべて見覚えが無い。開け放たれたドアの向こうからはB1とB2がぎゃあぎゃあと騒ぐ声が聞こえてくる。皆は向こうにいるのかと、まだ判然としない頭で認識する。
「起きたか」
「エル、ここ、どこ?」
「ノヴォシビルスクのヒルトンホテル――ちなみにスイートルーム」
「……代金は誰が払うと思ってるの? あんた達、ルームサービスまで取ったでしょ」
黒いシャツと黒のダメージジーンズに着替えたラフな格好のエルは、片手で林檎をもてあそびながらユーリが横たわるベッドに腰掛ける。身体中からガーリックの匂いがする。解っていながらこの距離に座ったのは間違いなく嫌がらせだ。
「金の心配ならいらん。Mは人界ではなんとかって老舗商社の会長だ。ブラックカードとかいうやつを持っているから、この部屋もすんなり取れたぞ」
皮が付いたままの真っ赤な林檎にかじりつきながらエルは平生と変わらぬ様子で語る。
「……頭痛がしてきた」
「額ならMが治したはずだが」
額に傷――昨日の記憶が鮮明に甦ったところでユーリはがばりと起き上がった。
「ノラは!? それに犬神!!」
「落ち着け。奴らはノラが暴走する前に『異界』に帰った。犬神と一戦交えるのも一興だったが、ノラの暴走を止める方が先決だった。うちの大将も万全では無かったからな。最終決戦まで、また特訓だな」
しゃりしゃりと林檎を食べながら話すエルに毒気を抜かれたユーリは「お腹すいた」と、きゅるきゅると鳴る腹を押さえる。
「林檎、食うか?」
「食べる」
差し出された半分近くなくなっている林檎に、果汁が垂れるのも構わずに齧りついた。
「意外だな」
「なにが?」
「俺の手からものを食うとは」
「今、過去最大級にお腹すいてるの。嫌味な相手からの施しでも喜んで頂くくらいには」
「ほう」
エルはユーリの口の周りに付いた林檎の汁をぺろりと舐めた。
当然ながら平手が飛んできて、エルの左頬が林檎さながらに赤くなる。
「可愛げのない……」
「あんたに可愛いと思って貰わなくて結構!!」
ベッドから飛び降りると、ユーリはエルを置いてけぼりにし、サテンのネグリジェのまま食事を求めて隣の部屋へと向かった。
「なんですか、その恰好は!? 慎みを持ちなさい!! まったく……昨日もですが貴女は――」
Mのお説教を聞き流しながら、ユーリはむしゃむしゃと残り少ない朝食を口に運ぶ。
「チェックアウトは何時?」
「十時です」
「じゃあもう少しゆっくりできるわね。午後にはニューヨークに発たなきゃ……行きたくないけど」
ユーリは一通りの食事を終えるとナプキンで口元を拭った。今まできちんと礼節を教え込まれてきたのだろう。いつものユーリならMの説教がどれほど長くなろうとも正座をし、ちゃんと耳を傾けて謝罪を口にしてきたのに、今日に限っては気もそぞろだ。
「なんだ、嬢ちゃん。まだ昨日の疲れが残ってんのかい?」
最後に残った七面鳥のもも肉を丸かじりしながら、B2が溜息ばかりのユーリの眼の前にどかりと座って体調を気にかける。
「ん? ああ、ごめんなさい。体調は万全よ。ただニューヨークに行くのがね……」
「今回の任務の報告と査定があるんだっけ? 成果ならノラの討伐は不可能だったけど、魔王と魔界四将を率いての初陣にしては上出来だと思うわよ。暴走もしなかったし、十年も表舞台に出てこなかった犬神まで引きずり出した。たった十四歳のお嬢ちゃんにしては充分すぎるほどじゃない。胸を張りなさいよ」
まだ煮え切らない物言いをするユーリにB1――べリアルが会話に割って入る。
「ありがとう。査定審査の内容にはあまり心配してないの。ただ……」
「ああもう、はっきり言いなさいよ。じれったいわね!!」
「会いたくない人が居るの。半年間、連絡を絶っていたから、嫌でも話をしないと……もう逃げられないわ」
とうとう机に突っ伏したユーリに四将たちは顔を見合わせる。そんなに会いたくない相手なのか、ここまで落ち込んでいると逆に気になってくるというもの。
「昔の男ですか?」
Mのわざと的を外した問いにユーリが噛みつく。
「そんな訳ないでしょ!! ……母よ」
「お嬢様のご両親と言えば、薔薇の死神と神殺しの聖女ですか」
「そう。ママは世界最大の情報シンジケート『クラン』の長で、『異界侵攻』対策委員会の相談役だもん。絶対居る。ついでに父も付いてきてる……あの二人、いっつもべったりだもの」
ユーリの両親――薔薇の死神ヴィンセント・シルバと神殺しの聖女リリィ=アンジェ。この二人の噂は人界、神界と隔絶していた『魔界』にも響いてきている。
死神として確かな実力を有し、最高神からの信頼も厚いヴィンセント・シルバ。約二十余年前に兄アベル・シルバを堕天した女神に殺された過去を持つ。その兄の養い子が聖女リリィ=アンジェであるという事実を知らぬ者はいない。
神界の重鎮と人界の重鎮の間に産まれた『BLUE ROSE』――ユーリのコンプレックスが根深いのも納得がいく。
(ニューヨークでも、ひと悶着ありそうだな……)
口には出さないものの、満場一致の推論である。
――そして、奇しくも推論は現実となるのだ。
to be continued...
剣戟の音が白い大地に響き渡る。
脇差と薙刀という圧倒的不利な得物であっても、ユーリは機動力を生かしてノラの猛攻をしのぐ。
大薙刀という武器の性質上、攻撃後に生まれる隙をうまく突いたが、なかなか致命傷に至らないのはノラのポテンシャルゆえだろう。
どちらにも決定打がないまま、体力だけが削られて行く。
戦場も、いくら動き回っていても氷点下の寒冷地だ。ノラの薙刀を握る手は熱を奪われ、いつものように積極的に攻められていないのも、両者の決着がつかない理由の一つだった。
なによりもユーリの剣筋が違う。以前のような剣道の延長ではなく、明らかに「命を奪う剣」になった。
「この短期間で見違えるほど剣が変わったね」
「相変わらずストーカーみたいなところを見ているわね……。この半年間、みっちり『魔界』の曲者達に死ぬ一歩手前まで特訓されてきたもの」
「ボクを殺す為に?」
「そうよ」
あれほど殺気を剥き出しにしていたノラの青い眼に刹那の影が落ちる。ユーリがそれを訝しく思った瞬間が命取りになった――。
ユーリの切っ先が僅かに下がった一瞬の隙をついて、ノラの刃がユーリの眼の前に突きだされる。
(しまっ……!!)
不意をつかれたが、ユーリも身体が神経反射でそれを間一髪で避ける。おかげで額を斬るだけで済んだ。しかし、額の傷は浅いが出血が多く右眼の視野が狭くなってしまった。
「おい」
「構わないで!! 掠り傷よ。メフィスト、『異界』のゲートを探して封鎖して!!」
「承知」
エルの援護も受け付けず、ユーリは気丈にもメフィストに命を下す。首に垂れ下がっていたボルドーのマフラーを脇差で裂いて、頭に巻き付ける。再び剣をノラに構え直した。
傷は浅くとも出血量が多ければ、必然的に体温が下がる。それこそこの場所では命取りだと言うのに、ユーリは援護を拒否した。
「あは、はっ、ははははは!! 君は、君だけが、いつもボクの予想を軽く飛び越えていく!!」
――狂った哄笑を上げながら、ノラは泣いていた。
狭くなった視界で、ユーリはただぼろぼろと雪に吸い込まれて行く雫を眺めていた。
「ボクと君……同じ『BLUE ROSE』なのに、なにが違うの? どうして、ボクは誰にも愛してもらえなくて……同胞の君でさえボクに刃を向けるんだ……!!」
俯いていたノラが顔を上げると同時に薙刀を振るう。流れる涙を拭おうともせず、ノラは滅茶苦茶に刃を振るった。
「――っ……愛されていても、うまく答えられないわよ!! 自分だけが不幸面するな!!」
「うるさい!! 孤独を知らない君の贅沢な悩みなんか聞きたくもない!!」
まるで子供の喧嘩だ、とエルは入る余地のない戦いを見守っていた。
二人の怒りに呼応して、衝突はどんどんと激しさを増す。
風圧だけで周囲の柱や松明が次々と倒れていく。
ユーリはなんとか正気を保っているが、明らかにノラの様子がおかしい。
呼吸が荒すぎる。
なにより纏う殺気が尋常じゃない。
エルはこの現象には心当たりがあった。
「ちっ、暴走しかけてやがる……!!」
――そう直感し、エルは二人の間に強引に割って入った。
「メフィスト!! このガキが完全に暴走する前にゲートを開け!!」
「不可能です!! 王、頭上にご注意ください!! 別のゲートが開きかけています!!」
メフィストの忠告に空を見上げると、低く垂れこめた厚い雲が渦を巻いていた。
べリアルが咄嗟に糸をユーリの四肢に巻きつけて引き寄せ、自身が覆いかぶさってユーリを庇った。
「な、なに!?」
「なにが起こるか解らないから、こうしてんのよ!!」
夜の闇を切り裂いて、雷が落ちてきた。
光は収束し、禍々しいオーラを放つ二メートルをゆうに超す獣面奇人となった。牙の間から白い息を吐きながらギョロリとノラを睨む。
「……犬神か。まさか敵の総大将直々のお出ましとは驚きだ」
エルの呟きに「あれが?」とユーリはぼやけ始めた視界でも感じる気に身震いする。
(あれが……犬神? これだけ離れているのに……威圧感が……)
「と、う、さん……?」
茫然自失としているノラの首裏に、エルが目にも止まらぬ速さで手刀を叩きこんだ。ノラはがくりと膝を折り、エルの腕に倒れた。
「ほらよ、とっとと連れて帰れ」
「なゼ殺さナイ?」
「こいつにかまけている内に、てめえが俺の背を裂くからだ」
グルグルと喉で笑った犬神に、気絶しているノラを差し出してエルも口だけで笑みに応える。
「エル、そいつを足止めして!!」
「あ、こら!! お嬢!!」
べリアルの制止を振りきって、おぼつかない足取りでユーリは犬神に脇差を構えた。
「ほら、行け。うちにも面倒な命知らずがいるんだ」
「そのヨウだな――死神ノ娘か。なるほど。似ているナ……ノラが恋着するのハ、その容姿ゆえカ。……貴様トハまた相見えようゾ」
犬神はユーリを一瞥すると、のそりとゲートに吸い込まれて行った。
「待て――べリアル、離しなさい!!」
「その出血でなに言ってんのよ、おバカ娘!! あんたはもう黙ってな!!」
べリアルの糸がユーリの鼻と口を覆うと、ユーリは酸欠と失血で気を逸した。
「……うわあ、俺、その糸はお前の変な成分入っていそうで嫌いなんだよなあ。嬢ちゃんに同情するぜ」
「何も入ってないわよ、失礼ね!!」
緊張感の欠片もないべリアルとベルゼブブの後頭部を殴って、エルが失神しているユーリを抱き上げる。
「メフィスト、ノヴォシビルスク駅前まで戻るぞ。今日はホテルに一泊だ」
「はい。ふらふらで犬神に向かって行くなど……お嬢様は目覚めたらお説教ですね、ふふっ」
「目が笑ってないぞ」
エルの痛烈な一撃を食らったBコンビはアスモデウスに引きずられて、メフィストの呪文詠唱で現れた魔法陣の中に入って行った。
こうして『異界』による第一次人界侵攻は終結した。
二人の『BLUE ROSE』は不完全燃焼のまま、静かに眠っている。
戦場となったノヴォシビルスクの村は、この日を境に地図から消された。
◇
翌朝、ユーリは空腹中枢をくすぐる匂いで目を覚ました。
焼きたてのパン、香ばしくローストされた肉、唾液を大量に分泌させるガーリックなど、まだぼんやりとしている頭で「……お腹すいた」と寝ころんだまま、腹を撫でた。
煌びやかな天井は見知らぬ場所だ。このベッドも、ノリのきいた掛布団も、すべて見覚えが無い。開け放たれたドアの向こうからはB1とB2がぎゃあぎゃあと騒ぐ声が聞こえてくる。皆は向こうにいるのかと、まだ判然としない頭で認識する。
「起きたか」
「エル、ここ、どこ?」
「ノヴォシビルスクのヒルトンホテル――ちなみにスイートルーム」
「……代金は誰が払うと思ってるの? あんた達、ルームサービスまで取ったでしょ」
黒いシャツと黒のダメージジーンズに着替えたラフな格好のエルは、片手で林檎をもてあそびながらユーリが横たわるベッドに腰掛ける。身体中からガーリックの匂いがする。解っていながらこの距離に座ったのは間違いなく嫌がらせだ。
「金の心配ならいらん。Mは人界ではなんとかって老舗商社の会長だ。ブラックカードとかいうやつを持っているから、この部屋もすんなり取れたぞ」
皮が付いたままの真っ赤な林檎にかじりつきながらエルは平生と変わらぬ様子で語る。
「……頭痛がしてきた」
「額ならMが治したはずだが」
額に傷――昨日の記憶が鮮明に甦ったところでユーリはがばりと起き上がった。
「ノラは!? それに犬神!!」
「落ち着け。奴らはノラが暴走する前に『異界』に帰った。犬神と一戦交えるのも一興だったが、ノラの暴走を止める方が先決だった。うちの大将も万全では無かったからな。最終決戦まで、また特訓だな」
しゃりしゃりと林檎を食べながら話すエルに毒気を抜かれたユーリは「お腹すいた」と、きゅるきゅると鳴る腹を押さえる。
「林檎、食うか?」
「食べる」
差し出された半分近くなくなっている林檎に、果汁が垂れるのも構わずに齧りついた。
「意外だな」
「なにが?」
「俺の手からものを食うとは」
「今、過去最大級にお腹すいてるの。嫌味な相手からの施しでも喜んで頂くくらいには」
「ほう」
エルはユーリの口の周りに付いた林檎の汁をぺろりと舐めた。
当然ながら平手が飛んできて、エルの左頬が林檎さながらに赤くなる。
「可愛げのない……」
「あんたに可愛いと思って貰わなくて結構!!」
ベッドから飛び降りると、ユーリはエルを置いてけぼりにし、サテンのネグリジェのまま食事を求めて隣の部屋へと向かった。
「なんですか、その恰好は!? 慎みを持ちなさい!! まったく……昨日もですが貴女は――」
Mのお説教を聞き流しながら、ユーリはむしゃむしゃと残り少ない朝食を口に運ぶ。
「チェックアウトは何時?」
「十時です」
「じゃあもう少しゆっくりできるわね。午後にはニューヨークに発たなきゃ……行きたくないけど」
ユーリは一通りの食事を終えるとナプキンで口元を拭った。今まできちんと礼節を教え込まれてきたのだろう。いつものユーリならMの説教がどれほど長くなろうとも正座をし、ちゃんと耳を傾けて謝罪を口にしてきたのに、今日に限っては気もそぞろだ。
「なんだ、嬢ちゃん。まだ昨日の疲れが残ってんのかい?」
最後に残った七面鳥のもも肉を丸かじりしながら、B2が溜息ばかりのユーリの眼の前にどかりと座って体調を気にかける。
「ん? ああ、ごめんなさい。体調は万全よ。ただニューヨークに行くのがね……」
「今回の任務の報告と査定があるんだっけ? 成果ならノラの討伐は不可能だったけど、魔王と魔界四将を率いての初陣にしては上出来だと思うわよ。暴走もしなかったし、十年も表舞台に出てこなかった犬神まで引きずり出した。たった十四歳のお嬢ちゃんにしては充分すぎるほどじゃない。胸を張りなさいよ」
まだ煮え切らない物言いをするユーリにB1――べリアルが会話に割って入る。
「ありがとう。査定審査の内容にはあまり心配してないの。ただ……」
「ああもう、はっきり言いなさいよ。じれったいわね!!」
「会いたくない人が居るの。半年間、連絡を絶っていたから、嫌でも話をしないと……もう逃げられないわ」
とうとう机に突っ伏したユーリに四将たちは顔を見合わせる。そんなに会いたくない相手なのか、ここまで落ち込んでいると逆に気になってくるというもの。
「昔の男ですか?」
Mのわざと的を外した問いにユーリが噛みつく。
「そんな訳ないでしょ!! ……母よ」
「お嬢様のご両親と言えば、薔薇の死神と神殺しの聖女ですか」
「そう。ママは世界最大の情報シンジケート『クラン』の長で、『異界侵攻』対策委員会の相談役だもん。絶対居る。ついでに父も付いてきてる……あの二人、いっつもべったりだもの」
ユーリの両親――薔薇の死神ヴィンセント・シルバと神殺しの聖女リリィ=アンジェ。この二人の噂は人界、神界と隔絶していた『魔界』にも響いてきている。
死神として確かな実力を有し、最高神からの信頼も厚いヴィンセント・シルバ。約二十余年前に兄アベル・シルバを堕天した女神に殺された過去を持つ。その兄の養い子が聖女リリィ=アンジェであるという事実を知らぬ者はいない。
神界の重鎮と人界の重鎮の間に産まれた『BLUE ROSE』――ユーリのコンプレックスが根深いのも納得がいく。
(ニューヨークでも、ひと悶着ありそうだな……)
口には出さないものの、満場一致の推論である。
――そして、奇しくも推論は現実となるのだ。
to be continued...
0
お気に入りに追加
16
あなたにおすすめの小説

巻添え召喚されたので、引きこもりスローライフを希望します!
あきづきみなと
ファンタジー
階段から女の子が降ってきた!?
資料を抱えて歩いていた紗江は、階段から飛び下りてきた転校生に巻き込まれて転倒する。気がついたらその彼女と二人、全く知らない場所にいた。
そしてその場にいた人達は、聖女を召喚したのだという。
どちらが『聖女』なのか、と問われる前に転校生の少女が声をあげる。
「私、ガンバる!」
だったら私は帰してもらえない?ダメ?
聖女の扱いを他所に、巻き込まれた紗江が『食』を元に自分の居場所を見つける話。
スローライフまでは到達しなかったよ……。
緩いざまああり。
注意
いわゆる『キラキラネーム』への苦言というか、マイナス感情の描写があります。気にされる方には申し訳ありませんが、作中人物の説明には必要と考えました。

婚約破棄された私は、処刑台へ送られるそうです
秋月乃衣
恋愛
ある日システィーナは婚約者であるイデオンの王子クロードから、王宮敷地内に存在する聖堂へと呼び出される。
そこで聖女への非道な行いを咎められ、婚約破棄を言い渡された挙句投獄されることとなる。
いわれの無い罪を否定する機会すら与えられず、寒く冷たい牢の中で断頭台に登るその時を待つシスティーナだったが──
他サイト様でも掲載しております。


【完結】『飯炊き女』と呼ばれている騎士団の寮母ですが、実は最高位の聖女です
葉桜鹿乃
恋愛
ルーシーが『飯炊き女』と、呼ばれてそろそろ3年が経とうとしている。
王宮内に兵舎がある王立騎士団【鷹の爪】の寮母を担っているルーシー。
孤児院の出で、働き口を探してここに配置された事になっているが、実はこの国の最も高貴な存在とされる『金剛の聖女』である。
王宮という国で一番安全な場所で、更には周囲に常に複数人の騎士が控えている場所に、本人と王族、宰相が話し合って所属することになったものの、存在を秘する為に扱いは『飯炊き女』である。
働くのは苦では無いし、顔を隠すための不細工な丸眼鏡にソバカスと眉を太くする化粧、粗末な服。これを襲いに来るような輩は男所帯の騎士団にも居ないし、聖女の力で存在感を常に薄めるようにしている。
何故このような擬態をしているかというと、隣国から聖女を狙って何者かが間者として侵入していると言われているためだ。
隣国は既に瘴気で汚れた土地が多くなり、作物もまともに育たないと聞いて、ルーシーはしばらく隣国に行ってもいいと思っているのだが、長く冷戦状態にある隣国に行かせるのは命が危ないのでは、と躊躇いを見せる国王たちをルーシーは説得する教養もなく……。
そんな折、ある日の月夜に、明日の雨を予見して変装をせずに水汲みをしている時に「見つけた」と言われて振り向いたそこにいたのは、騎士団の中でもルーシーに優しい一人の騎士だった。
※感想の取り扱いは近況ボードを参照してください。
※小説家になろう様でも掲載予定です。

ドマゾネスの掟 ~ドMな褐色少女は僕に責められたがっている~
桂
ファンタジー
探検家の主人公は伝説の部族ドマゾネスを探すために密林の奥へ進むが道に迷ってしまう。
そんな彼をドマゾネスの少女カリナが発見してドマゾネスの村に連れていく。
そして、目覚めた彼はドマゾネスたちから歓迎され、子種を求められるのだった。
処刑された勇者は二度目の人生で復讐を選ぶ
シロタカズキ
ファンタジー
──勇者は、すべてを裏切られ、処刑された。
だが、彼の魂は復讐の炎と共に蘇る──。
かつて魔王を討ち、人類を救った勇者 レオン・アルヴァレス。
だが、彼を待っていたのは称賛ではなく、 王族・貴族・元仲間たちによる裏切りと処刑だった。
「力が強すぎる」という理由で異端者として断罪され、広場で公開処刑されるレオン。
国民は歓喜し、王は満足げに笑い、かつての仲間たちは目を背ける。
そして、勇者は 死んだ。
──はずだった。
十年後。
王国は繁栄の影で腐敗し、裏切り者たちは安穏とした日々を送っていた。
しかし、そんな彼らの前に死んだはずの勇者が現れる。
「よくもまあ、のうのうと生きていられたものだな」
これは、英雄ではなくなった男の復讐譚。
彼を裏切った王族、貴族、そしてかつての仲間たちを絶望の淵に叩き落とすための第二の人生が、いま始まる──。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる