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【番外編】のっぺらぼうの仮面
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※十勇士・由利鎌之助と清姫と才蔵の娘・八重のドタバタラブコメです。
本編を読んでいないとさっぱりだと思うのでご注意ください。
【のっぺらぼうの仮面】
本宮島にイギリス攻略へと出立していた戦艦「曙」部隊が帰還した夜、由利鎌之助は寝室の布団の上で頭を抱えていた。原因は自身の上に跨るこの娘のせいに他ならない。
「……お嬢……なにしてんの……?」
「夜這いよ」
「どこでそんな言葉覚えてくるんだよ!! で、しかもなんで俺のところなの!?」
「兄様が自由恋愛の時代だから好きな人と一緒になれ、っておっしゃった。私は鎌が好きだから来たの――いけない?」
今度は眩暈を覚えた。とりあえず元忍びがマウントをとられているのは落ち着かないので、襦袢一枚の八重を脇に座らせ、自身もその対面に座する。
「……あのね、確かに俺は忙しいご両親に代わって若とお嬢の世話係みたいにしてきてさ、今や二人とも立派な提督になってくれて嬉しく思っている。でもね、俺は君たちの父上とほぼ同じ年齢だよ? いくら自由恋愛って言っても歳の差がありすぎ。若も大事な妹の連れてきた相手が俺なんて知ったらひっくり返るでしょ。亡くなったご両親にも冥土で袋叩きにされるよ」
脇で正座をしている八重を懇々と諭すが、八重はきょとりと首を傾げてまるで解っていない様子を示す。タチの悪いことに鎌之助が人生で最後の恋だと思った女性とまったく同じ顔でそんな仕草をしてくるから、余計に心が乱される。
「年齢なんて気にしないわ。それとも、私が亡くなった母様と同じ顔だから受け入れられないの?」
本心を見抜かれて鎌之助は八重から視線を外した。その様子に、八重は「……そっか」と小さく呟いた。
「……お嬢、あの、――って、今度はなにしてるの!?」
しおらしく退散するかと思ったが、八重は退散するどころか、襦袢の紐をするすると外し始めたので、急いでその手に静止をかける。
「母様と同じ顔だなんて今更だもん。なら代わりでも好きな人に寄り添える方を私は選ぶわ。だって海の上ではいつ死ぬか解らないんだから……後悔だけはしたくない! 愛せないなら心はくれなくてもいい。でも、想いを打ち明けもせずに心残りだけは嫌」
まただ、と鎌之助は頭が痛む。この顔で彼女と同じ言葉を口にする。もう十年近く前に置いてきた思い出だというのに、八重は隻腕の鎌之助に血の涙で覆われた過去をまざまざと蘇らせる。無言の鎌之助に焦れたのか、不安げに顔を覗き込んできた。
「……鎌、怒ったの?」
「怒ってないよ。お嬢の本気は伝わった。それはありがたいけど、やっぱり俺はお嬢の相手には相応しくない。俺ほど相応しくない男もそういないだろうね……」
「私は、私の知っている『由利鎌之助』以外は資格もなにも要らないよ?」
「……じゃあさ、お嬢は素顔も解らない男をまだ愛せるの? 俺は男だけど、元々は清姫――君の母様の影武者だったんだよ。片腕になってからはその仕事もできなくなったから、この歳まで適当な男の顔で居たけど、俺の素顔は甚八や小助も未だに知らない」
「鎌の本当の顔?」
それこそはるか昔、故国在りし頃に捨ててきた物だった。
◇
父は知らない。母は吉原でもそこそこ人気の娼妓だった。しかし、毎夜幾人もの男を相手にする吉原で子供は女なら禿として娼妓の見習いになれるが、男はそうはいかない。結局、掏摸やかっぱらいに身を落とすしかなかった。
幸か不幸か、見目だけは中性的で男女どちらにも見えた鎌之助は物心つくと早々に吉原に見切りをつけて江戸の口入れ屋の戸を叩いた。
「ねえ、御庭番衆ってどうやったらなれるの?」
口入れ屋の主人は、藪から棒にそう尋ねてくる子供に口を開けたまま呆けていた。これで無理なら陰間にでも身を落とすかと考えていた鎌之助に手を差し伸べたのは、口入れ屋の御隠居だった。竹を割ったような性格の御隠居は「坊主か嬢ちゃんか知らねえが、大層な口叩くじゃねえか」と鎌之助を気に入り、大奥の厨に売り込んでいる油屋に紹介してくれたのだ。
江戸城に入ってさえしまえば、あとはとんとん拍子だった。御庭番志望だと吹聴していたら、拳骨を食らって当時の御庭番衆の筆頭の前に引き出された。
「忍びの技も何も知らねえガキが御庭番衆に入りてえだとか……なめるのもいい加減にしとけよ。顔と素性を知られちゃあお終いなんだぜ?」
さすがに御庭番衆の筆頭だけあって威圧感は半端ではなかった。だが、鎌之助とて生活がかかっているのだから、例え捨て駒でも使ってもらえれば良かった。
「じゃあ、顔は変えるよ。俺だと解らなけりゃあ良いんだろ?」
鎌之助のこの一言に、カカカと笑ったのは同じく御庭番衆の並び頭だった。
「庄三、おめえの負けだあ。――おい、坊主。おめえは毒を食らう度胸はあるかい?」
「毒? なにそれ。若君の御毒見役にでもなれってこと?」
「ほうら、飲み込みがはええやな。その通り。だが、若君じゃねえ。――お姫様だ」
「どっちでも良いよ。別に死ぬことは怖くないから平気だ。毒見でもなんでも使えるように使ってよ。生きられるならそれで良し。死んだら俺はそれまでだったってことでしょ」
この達観しているのか諦観しているのか解らないところが気に入られたらしい。当時の将軍の姫君の影武者を演じながら、鎌之助は忍びの技も教えられていた。毒で死にかけた事など数え切れない。籠に乗って城下で襲われたこともある。それでも鎌之助は生きぬいた。
元の顔が解らなくなった時には、同じ年ごろの御庭番衆達にも混じるようになった。後の十勇士との出逢いはこの頃だ。
中でも女ながらに次の御庭番衆筆頭に選ばれた猿飛佐助は容姿も才覚も飛びぬけていた。書物で読んだ伝説の忍びが江戸に出現したかのようで、密かに彼女に憧れ続けた。いつか彼女に必要とされる忍びとなろう、と子供ながらに思ったものだ。
「お前さんかい? 忍びのいろはも知らずに御庭番衆に異例の抜擢をされた百面相ってのは」
「おっさん、誰?」
よれた髷、焦げ茶色の単衣に鎖帷子、博打打ちを装っていながら隙の無い風体は近寄れば、酒か煙草の匂いがしてきそうだ。
「ははっ、確かにこりゃあ小奇麗な顔していながら曲者だなあ。俺は根津甚八の名を貰ったしがないおっさんさ。坊、今のうちに盗める技は根こそぎ奪っておきな。おめえの百面相は必ず御庭番衆の役に立つぜ」
「そのつもり」
鎌之助の興味のなさそうな回答に、甚八はまた笑いながら去って行った。そんな鎌之助の後頭部を殴ったのは太一という少年だった。
「お前、十勇士になんて口きくんだよ!! 良いか、真田十勇士の名前を賜った御庭番衆は俺達みたいなガキとは違うんだよ!!」
「ふうん。あのおっさん、そんなに偉いんだ。で、お前も十勇士を目指しているとかそういう志が高い口なの?」
「ここに居る全員が十勇士を目指している。なんでお前みたいな異端が混じっているのかが不思議なくらいだ」
鎌之助は掴まれた胸倉の手を汚物のように取り払って、太一を嘲り笑う。
「馬鹿馬鹿しい。結局は実力がものを言うんだ。――お前、真っ先に死にそうだね」
「なんだと!?」
そこからは乱闘が始まった。とは言っても、鎌之助が一方的に殴られていただけだが。おかげで筆頭直々に叱られて懲罰を受けたのは太一だけだった。誰もが鎌之助を異端と見なしていた。だが、やはり猿飛佐助だけは違った。
「甚八に聞いたが本当に抜け目がないな、お前。私は嫌いじゃないがね。お前が何をそんなに諦めているのか知らんが、意外と世の中捨てたものではないぞ」
木の上で木の実を齧っていた鎌之助に美しい女は、そう言い放った。
◇
それから数か月後、姫の影武者を演じていた時のことだ。
籠が襲撃を受けた。籠から引きずりだされた鎌之助だったが、その手には苦無を持っていた。だが分が悪い。襲撃者の人数を一人で捌ききれるか、初めて鎌之助が死を覚悟した瞬間、彼の背中を護ったのは太一だった。
太一と共に来た援軍のおかげでなんとか鎌之助は生き残れた。だが、太一は息も絶え絶えだった。
「……なにやってんだよ……」
「……だって、今は、お前が……お姫様なんだから……」
そう言い残して事切れた太一を鎌之助は呆然と見ていた。
「馬鹿だよ、やっぱり。なんの為の影武者だよ!! 命があってなんぼだろ!? 影武者を命懸けで護ってどうすんのさ!!」
動かない太一を罵倒する鎌之助の頬を佐助が殴った。
「確かにお前の言い分は間違っていない。……だがな、太一は命がけで『影武者を』護って死んだ。こいつが死んで、お前が生き残った――その意味と重みをお前は生涯考え続けろ。立ち止まることは許さん」
冷たくそう言い放つと、彼女は太一に「お前の働きは見事だった」と微笑んで、仲間に弔いはいつも通りにとの指示を出し、鎌之助を一瞥することすらなく襲撃者の検分に入って行った。
「……わかんないよ……考え続けろ、って……何をだよ……」
痛む頬を押さえながら立ち尽くす鎌之助に一人の少年が声をかけた。同じ歳の頃か鎌之助よりも年下の少年だった。
「やっぱり解らないんだね。君、やっぱり欠落しているものがいっぱいあるんだよ。僕は正しいことを言っている君よりも、太一の生き様に賛同する」
少年は言いたいだけ言うと颯爽と去って行った。これが後の海野六郎との出逢いだった。
太一の死を理解したのは「由利鎌之助」の名前を貰った時だった。
仲間であるはずの御庭番衆から口々に反対の声が上がったのだ。鎌之助は自分が場に溶け込んでいないことなど百も承知だった。しかし、ここまで仲間から異議を唱えられて愕然とした。
「今頃解かったのかよ。自分がどれだけ御庭番衆からはみ出し者扱いされているって」
一足先に霧隠才蔵を賜った青年も鎌之助を見下してそう告げた。鎌之助は言い返す言葉が見つからなかった。ただ悔しくて、ぼろぼろと涙を流しながら股引を握った。
「太一はちゃんと自覚していた。忍びは道具。例え偽物の護衛対象だろうが、全力で演じきった。それをお前はなんだ? てめえはただ若様や姫君の着物着て、同じ顔していた『だけ』だ。だから反発を呼ぶ。腹が立つなら這い上がれよ――相手して欲しければ、いつでもしてやるぜ」
涙ながらに睨みあげた才蔵も鎌之助の視線を外そうとはしなかった。
「一触即発。君たちの悪い癖だよ――才蔵も。鎌之助、意味が解かったところで今後の君を見る目はもっと厳しくなる。その中でどれだけ僕らを仲間だと思い、仲間だと思わせてくれるのか、期待しているよ」
才蔵の腕を引いて六郎はそう言い残した。
それからの鎌之助は語るまでも無い。常に太一を意識しながらも演技力を養っていった。半端な変化はしない、と心に誓って彼は素顔を捨てた。
◇
「鎌之助?」
八重の怪訝な声で鎌之助は過去から帰ってきた。らしくもない、と思う。引退してからも自分の命は太一の命の上に成り立っていることを胸に、絶対に素顔には戻らないと誓ったのだ。
「ああ、ごめん。ちょっと昔を思い出してた」
「昔って……母様のこと?」
「ううん、清姫に出逢うずっと前の事。……お嬢、気持ちは嬉しいけど……俺は素顔に戻れないんだよ。気持ちは嬉しいけどごめんね……」
その鎌之助の笑顔があまりに哀しそうだったので八重はそれ以上強気には出られなかった。部屋まで鎌之助に送られて寝床に入ったものの、眠れるはずもなかった。
◇
翌朝、八重は帯刀して甚八と小助が塾頭を勤める学校に向かった。
引退した二人はここで島の子供達相手に文字の読み書きや算術といった基礎学問を教えている。
八重の告白失敗を聞いて、二人は呆れるやら笑えるやらと不思議な顔をする。
「誤解しないで頂きたいのですが、さすが清姫の御子と言いましょうか、鎌之助に夜這いをかけるなど、お嬢も大胆な……」
職員用の部屋で小助の小言に、八重は唇を尖らせている。甚八も笑い飛ばしてくれるかと思ったのに珈琲を啜りながら、眼は空を泳がせる。
「そうさなあ……。由利坊の変化は訳ありだからよお……それを知っている俺達もあいつの決心の強さは曲がらねえし、素顔を詮索しようなんて野暮はしねえしなあ。しっかし、あいつはまだ比較的若いつっても、お嬢も厄介な恋をしちまったもんだ」
「……だって……子供の頃から鎌は優しかったし、片腕でも充分強いし……」
「顔じゃなくて腕っぷしで男を選ぶあたりに閉口します」
「お、なんだ。お嬢は由利坊を諦めるのかい?」
「一回振られただけだもん。諦めない……絶対お嫁さんにしてもらうもん」
小助に淹れてもらった珈琲をちびちび飲みながらも八重は決意を新たにする。その様子に小助も甚八も鎌之助に「ご愁傷さま」と心中で同情した。
「またえらいのに好かれたもんだ」
「煽った奴がそれを言うのか?」
けたけたと奇怪に笑う甚八達の元に、鎌之助が助けを求めて駆け込んでくるのはその三日後の事だった。
職員室の扉を開くなり、怒り心頭の鎌之助が現れた。
「ちょっと……あの子、煽ったのはどっち!?」
小助と甚八はお互いを指さす。なんとも醜いなすり付け合いだった。だが、鎌之助は「両方ね……解った」と両者を睨む。
「なんでえ、俺達はお嬢に一応はお前の事情も話したぜ?」
「……その割には毎晩夜這いを仕掛けてくるんだけど!!」
「さすが才蔵と姫の御子……打たれ強い。もう諦めて嫁にしたらどうだ? 幼妻は男の浪漫だろう。羨ましいぞ、鎌之助」
「棒読み!!」
まったく感情の入っていない小助の冗談にもいちいち噛みつくくらいには、鎌之助は追い詰められているのだろう。もうこうなったら清助に話すかとも思ったが、八重の一途な想いを咎められるのは忍びない。
「そういう優しさが余計にお嬢の行動を助長するんじゃないか?」
「……だって突き離せないんだよ。……昨日はとうとう泣かれてさあ、もう本当にどうしろってのさ」
まさかこの年齢で恋愛問題とやらに遭遇するとは夢にも思わなかった。これでは違った意味で才蔵に袋叩きにされそうだ。
「ところでよお、お嬢の話ばっかりだが、若はどうしてんだ? 若もいい歳なのに未婚じゃねえか」
「……それ、訊く?」
「若も訳ありか。兄妹揃って……なんとも……」
「若は海軍の金髪美人相手に手あたり次第に遊んでるよ。本命は居るらしいんだけど手強いんだってさ。……明らかに甚八の悪影響だよねえ」
久々に残った十勇士が一堂に会したが、空気はなんとも形容しがたい。
ひとまず、当面の頭痛の種である八重だ。これを解決しない限り前進はありえない。眉間に皺を刻んで、珈琲を飲む鎌之助に小助が尋ねた。
「念の為に訊くが、お前はまだ清姫の事が忘れられない、とかは言わないだろうな」
「あんまり見くびらないでよ。姫は確かに最後の女だと思っちゃいるけど、自覚した時から失恋してんだから、もう思い出に昇華してる……つもりだった」
「おい」
「だってえ……いざ、同じ顔に迫られてみろよ!! いくら十勇士でも心が折れるってば……」
意外と八重よりも鎌之助の方が未練がましい上に意志薄弱だと判明したので、甚八も小助も助け舟は出さないことに決めた。
「今更でっちあげの恋人作るのも無理だしなあ。いっそ三好兄弟みたいに出家したらどうだ」
「俺が説法する姿なんか想像できる?」
「おめえは煩悩の塊だもんなあ」
「……そもそも、あんたらに相談したのが間違いだった」
提案した瞬間に掌を返す甚八に鎌之助は軽く殺意を覚える。生きていたら迷いなく六郎に相談したのだが、と鎌之助は溜息を吐いた。
「……真剣にさあ、どうしたらいいんだろう?」
鎌之助の声音に小助がいい加減揶揄うのを辞めて、至極最もな意見を述べる。
「お前から見ればまだ子供だろうが、お嬢はもう立派な女性だ。それを考慮した上で受け入れられないのなら、きちんと失恋させてやるのも優しさじゃないか? 今後もちゃんと愛してやれるならお嬢の想いも全部受け止めてやれ――俺に言えるのはそれだけだな」
「……ごもっとも」
鎌之助は小助の意見に腹を括らねば、と残った珈琲を一気に呷った。
「腹は決まったかい?」
「まあね」
「じゃ、さっき逃げて行ったお嬢を急いで追うんだな。気配に気づかないってよお……おめえ、もう十勇士も語れなくなるぜ?」
「はあ!? いつから居たのさ!!」
「姫の事は思い出にしているつもりだった……の辺から」
「早く言えよ!! ああ、もう!!」
空っぽのマグを放り投げるように甚八に渡すと、鎌之助は現役時代さながらの素早さで立ち上がって八重の後を追った。残された二人は拳をぶつけ合う。
「さあて、どうなるかねえ」
「なんだかんだで鎌之助が押し負けるに十銭」
「おいおい、それじゃあ賭けにならねえじゃねえか」
「元博打打ちを相手に誰が勝負に出るか」
残った悪い大人は若人で遊びに興じるのだった。
◇
八重は予想通り戦艦「曙」の船首の上で膝を抱いて泣いていた。
「……なんで追いかけてくるのよ」
「お嬢がちゃんと最後まで話を聞かないからでしょ。――ほら、こっちおいで」
「またそうやって子供扱いする!! どうせ母様と同じ顔でも大人の魅力なんか無いもん!!」
どんなに戦艦を巧みに操る姫提督でも鎌之助からすると若かりし日の清に託された娘なのだ。年齢差ばかりはどうしようもない。片手を広げたままや八重を待つ鎌之助は夕陽を背に立つ彼女をそのまま待ち続けた。
「ねえ、来ないの? 今なら俺の胸に抱きつけるよ。――そのまま離さないよ?」
鎌之助の言葉に、八重の頬がカッと上気する。
「鎌、ずるい!!」
「大人だもんね」
にやりと笑う鎌之助に、八重は矢も楯もたまらず飛びついた。抱き止められた感触は右腕しか無くても幾度も死線を超えてきた男の腕だった。
「ちょ、お嬢……苦しい……!」
「今は私の方が現役だもん」
鎌之助が好んで着ている単衣からは僅かに汗の匂いがする。もう忘れて等しい父の香りよりも慣れ親しんだ香りだった。
「……母様の事は、もう良いの……?」
「昇華できてると言えば嘘だけど……俺の前で生きて笑ってくれているのはお嬢だからね――お嬢を振っても振らなくても、どのみち才蔵にはあの世で殴られる」
「……やっぱり、素顔は見せられない?」
「なんだ、お嬢。気がつかなかったの?」
どういう意味だろう、とそろりと顔を上げたら、目尻に小皺があれども、男性とも女性とも取れる役者のような男が微笑んでいた。男はそっと八重の耳元に口を寄せると「この顔、見せるのはお嬢だけね」と囁いた。声も替えていたのだろうか。
意外にも低い声に、八重はぞくりと甘い痺れを感じた。
◇
翌日の夜、鎌之助と八重の婚約前祝いということで酒樽を持ってきた甚八と小助は出迎えの鎌之助を見て、笑いをひたすら堪えた。
「おい、由利坊。どうしたよ、その右頬は」
「……解っているくせに、本っ当にタチ悪いよね。おっさんは」
「昨日報告に行ったら、兄様が部屋に入るなり、問答無用で鉄拳を……」
鎌之助の横で甲斐甲斐しく寄り添う八重も今日は女物の着物姿だった。
「男の浪漫は鉄拳と引き換えだったか。株が上がったな、鎌之助」
小助の嫌味に「これのどこが!?」と鎌之助が怒鳴る。
「……ったく、飯も碌に食えないっての……」
「それをお嬢に食わせてもらうんだろ?」
「なんだ、見せつけか」
「……ねえ、昔っから一回はあんたら殴りたかったんだよね……! 殴らせてよ」
「嫌に決まっているだろう」
「それより若は来るのかい?」
年齢を重ねてから甚八と小助はますます意地の悪さに磨きがかかった気がする。今にも乱闘を起こしそうな鎌之助を八重が必死で抑えつけていた。
「兄様ならもう来ているわよ。昨日から飲み倒していて、手が付けられなかったから二人が来てくれて助かった」
「……と、いう事は」
「絡み酒かよ、若は……退散するか?」
触らぬ神に祟りなしとせっかく持ってきた酒樽だったが、玄関に置いて早々に去ろうかと目論む二人の退路をへべれけながら、抜刀した清助が晴れやかに笑っていつの間にか背後に回り込んでいた。
「あれえ? 俺の酒が飲めないの、お二人さん? ねえ?」
結局、清助に脅されるまま祝宴という名目の地獄は朝まで続いた。甚八達の後から参加した戦艦「曙」の八重親衛隊も清助の絡み酒と泣き上戸が相俟って、とても祝杯といった雰囲気ではなかった。
「こいつら、何しに来たわけ?」
死屍累々とする酒の匂いが充満する中で、一滴も飲まずに済んだ鎌之助が家の中を一瞥する。その袖を引いた八重と共にこっそりと家を抜け出して、親衛隊が持ってきた花を家の裏にある庭から海に投げ込んだ。
「鎌?」
「ご両親への報告。あいつらのせいで最後になっちゃったけど」
――ねえ、姫、長。人生って解らないもんだね。八重は幸せにするよ、絶対。
明け方の庭で潮騒に耳を傾けながら、二人は寄り添って日の出を眺めていた。
★終...
本編を読んでいないとさっぱりだと思うのでご注意ください。
【のっぺらぼうの仮面】
本宮島にイギリス攻略へと出立していた戦艦「曙」部隊が帰還した夜、由利鎌之助は寝室の布団の上で頭を抱えていた。原因は自身の上に跨るこの娘のせいに他ならない。
「……お嬢……なにしてんの……?」
「夜這いよ」
「どこでそんな言葉覚えてくるんだよ!! で、しかもなんで俺のところなの!?」
「兄様が自由恋愛の時代だから好きな人と一緒になれ、っておっしゃった。私は鎌が好きだから来たの――いけない?」
今度は眩暈を覚えた。とりあえず元忍びがマウントをとられているのは落ち着かないので、襦袢一枚の八重を脇に座らせ、自身もその対面に座する。
「……あのね、確かに俺は忙しいご両親に代わって若とお嬢の世話係みたいにしてきてさ、今や二人とも立派な提督になってくれて嬉しく思っている。でもね、俺は君たちの父上とほぼ同じ年齢だよ? いくら自由恋愛って言っても歳の差がありすぎ。若も大事な妹の連れてきた相手が俺なんて知ったらひっくり返るでしょ。亡くなったご両親にも冥土で袋叩きにされるよ」
脇で正座をしている八重を懇々と諭すが、八重はきょとりと首を傾げてまるで解っていない様子を示す。タチの悪いことに鎌之助が人生で最後の恋だと思った女性とまったく同じ顔でそんな仕草をしてくるから、余計に心が乱される。
「年齢なんて気にしないわ。それとも、私が亡くなった母様と同じ顔だから受け入れられないの?」
本心を見抜かれて鎌之助は八重から視線を外した。その様子に、八重は「……そっか」と小さく呟いた。
「……お嬢、あの、――って、今度はなにしてるの!?」
しおらしく退散するかと思ったが、八重は退散するどころか、襦袢の紐をするすると外し始めたので、急いでその手に静止をかける。
「母様と同じ顔だなんて今更だもん。なら代わりでも好きな人に寄り添える方を私は選ぶわ。だって海の上ではいつ死ぬか解らないんだから……後悔だけはしたくない! 愛せないなら心はくれなくてもいい。でも、想いを打ち明けもせずに心残りだけは嫌」
まただ、と鎌之助は頭が痛む。この顔で彼女と同じ言葉を口にする。もう十年近く前に置いてきた思い出だというのに、八重は隻腕の鎌之助に血の涙で覆われた過去をまざまざと蘇らせる。無言の鎌之助に焦れたのか、不安げに顔を覗き込んできた。
「……鎌、怒ったの?」
「怒ってないよ。お嬢の本気は伝わった。それはありがたいけど、やっぱり俺はお嬢の相手には相応しくない。俺ほど相応しくない男もそういないだろうね……」
「私は、私の知っている『由利鎌之助』以外は資格もなにも要らないよ?」
「……じゃあさ、お嬢は素顔も解らない男をまだ愛せるの? 俺は男だけど、元々は清姫――君の母様の影武者だったんだよ。片腕になってからはその仕事もできなくなったから、この歳まで適当な男の顔で居たけど、俺の素顔は甚八や小助も未だに知らない」
「鎌の本当の顔?」
それこそはるか昔、故国在りし頃に捨ててきた物だった。
◇
父は知らない。母は吉原でもそこそこ人気の娼妓だった。しかし、毎夜幾人もの男を相手にする吉原で子供は女なら禿として娼妓の見習いになれるが、男はそうはいかない。結局、掏摸やかっぱらいに身を落とすしかなかった。
幸か不幸か、見目だけは中性的で男女どちらにも見えた鎌之助は物心つくと早々に吉原に見切りをつけて江戸の口入れ屋の戸を叩いた。
「ねえ、御庭番衆ってどうやったらなれるの?」
口入れ屋の主人は、藪から棒にそう尋ねてくる子供に口を開けたまま呆けていた。これで無理なら陰間にでも身を落とすかと考えていた鎌之助に手を差し伸べたのは、口入れ屋の御隠居だった。竹を割ったような性格の御隠居は「坊主か嬢ちゃんか知らねえが、大層な口叩くじゃねえか」と鎌之助を気に入り、大奥の厨に売り込んでいる油屋に紹介してくれたのだ。
江戸城に入ってさえしまえば、あとはとんとん拍子だった。御庭番志望だと吹聴していたら、拳骨を食らって当時の御庭番衆の筆頭の前に引き出された。
「忍びの技も何も知らねえガキが御庭番衆に入りてえだとか……なめるのもいい加減にしとけよ。顔と素性を知られちゃあお終いなんだぜ?」
さすがに御庭番衆の筆頭だけあって威圧感は半端ではなかった。だが、鎌之助とて生活がかかっているのだから、例え捨て駒でも使ってもらえれば良かった。
「じゃあ、顔は変えるよ。俺だと解らなけりゃあ良いんだろ?」
鎌之助のこの一言に、カカカと笑ったのは同じく御庭番衆の並び頭だった。
「庄三、おめえの負けだあ。――おい、坊主。おめえは毒を食らう度胸はあるかい?」
「毒? なにそれ。若君の御毒見役にでもなれってこと?」
「ほうら、飲み込みがはええやな。その通り。だが、若君じゃねえ。――お姫様だ」
「どっちでも良いよ。別に死ぬことは怖くないから平気だ。毒見でもなんでも使えるように使ってよ。生きられるならそれで良し。死んだら俺はそれまでだったってことでしょ」
この達観しているのか諦観しているのか解らないところが気に入られたらしい。当時の将軍の姫君の影武者を演じながら、鎌之助は忍びの技も教えられていた。毒で死にかけた事など数え切れない。籠に乗って城下で襲われたこともある。それでも鎌之助は生きぬいた。
元の顔が解らなくなった時には、同じ年ごろの御庭番衆達にも混じるようになった。後の十勇士との出逢いはこの頃だ。
中でも女ながらに次の御庭番衆筆頭に選ばれた猿飛佐助は容姿も才覚も飛びぬけていた。書物で読んだ伝説の忍びが江戸に出現したかのようで、密かに彼女に憧れ続けた。いつか彼女に必要とされる忍びとなろう、と子供ながらに思ったものだ。
「お前さんかい? 忍びのいろはも知らずに御庭番衆に異例の抜擢をされた百面相ってのは」
「おっさん、誰?」
よれた髷、焦げ茶色の単衣に鎖帷子、博打打ちを装っていながら隙の無い風体は近寄れば、酒か煙草の匂いがしてきそうだ。
「ははっ、確かにこりゃあ小奇麗な顔していながら曲者だなあ。俺は根津甚八の名を貰ったしがないおっさんさ。坊、今のうちに盗める技は根こそぎ奪っておきな。おめえの百面相は必ず御庭番衆の役に立つぜ」
「そのつもり」
鎌之助の興味のなさそうな回答に、甚八はまた笑いながら去って行った。そんな鎌之助の後頭部を殴ったのは太一という少年だった。
「お前、十勇士になんて口きくんだよ!! 良いか、真田十勇士の名前を賜った御庭番衆は俺達みたいなガキとは違うんだよ!!」
「ふうん。あのおっさん、そんなに偉いんだ。で、お前も十勇士を目指しているとかそういう志が高い口なの?」
「ここに居る全員が十勇士を目指している。なんでお前みたいな異端が混じっているのかが不思議なくらいだ」
鎌之助は掴まれた胸倉の手を汚物のように取り払って、太一を嘲り笑う。
「馬鹿馬鹿しい。結局は実力がものを言うんだ。――お前、真っ先に死にそうだね」
「なんだと!?」
そこからは乱闘が始まった。とは言っても、鎌之助が一方的に殴られていただけだが。おかげで筆頭直々に叱られて懲罰を受けたのは太一だけだった。誰もが鎌之助を異端と見なしていた。だが、やはり猿飛佐助だけは違った。
「甚八に聞いたが本当に抜け目がないな、お前。私は嫌いじゃないがね。お前が何をそんなに諦めているのか知らんが、意外と世の中捨てたものではないぞ」
木の上で木の実を齧っていた鎌之助に美しい女は、そう言い放った。
◇
それから数か月後、姫の影武者を演じていた時のことだ。
籠が襲撃を受けた。籠から引きずりだされた鎌之助だったが、その手には苦無を持っていた。だが分が悪い。襲撃者の人数を一人で捌ききれるか、初めて鎌之助が死を覚悟した瞬間、彼の背中を護ったのは太一だった。
太一と共に来た援軍のおかげでなんとか鎌之助は生き残れた。だが、太一は息も絶え絶えだった。
「……なにやってんだよ……」
「……だって、今は、お前が……お姫様なんだから……」
そう言い残して事切れた太一を鎌之助は呆然と見ていた。
「馬鹿だよ、やっぱり。なんの為の影武者だよ!! 命があってなんぼだろ!? 影武者を命懸けで護ってどうすんのさ!!」
動かない太一を罵倒する鎌之助の頬を佐助が殴った。
「確かにお前の言い分は間違っていない。……だがな、太一は命がけで『影武者を』護って死んだ。こいつが死んで、お前が生き残った――その意味と重みをお前は生涯考え続けろ。立ち止まることは許さん」
冷たくそう言い放つと、彼女は太一に「お前の働きは見事だった」と微笑んで、仲間に弔いはいつも通りにとの指示を出し、鎌之助を一瞥することすらなく襲撃者の検分に入って行った。
「……わかんないよ……考え続けろ、って……何をだよ……」
痛む頬を押さえながら立ち尽くす鎌之助に一人の少年が声をかけた。同じ歳の頃か鎌之助よりも年下の少年だった。
「やっぱり解らないんだね。君、やっぱり欠落しているものがいっぱいあるんだよ。僕は正しいことを言っている君よりも、太一の生き様に賛同する」
少年は言いたいだけ言うと颯爽と去って行った。これが後の海野六郎との出逢いだった。
太一の死を理解したのは「由利鎌之助」の名前を貰った時だった。
仲間であるはずの御庭番衆から口々に反対の声が上がったのだ。鎌之助は自分が場に溶け込んでいないことなど百も承知だった。しかし、ここまで仲間から異議を唱えられて愕然とした。
「今頃解かったのかよ。自分がどれだけ御庭番衆からはみ出し者扱いされているって」
一足先に霧隠才蔵を賜った青年も鎌之助を見下してそう告げた。鎌之助は言い返す言葉が見つからなかった。ただ悔しくて、ぼろぼろと涙を流しながら股引を握った。
「太一はちゃんと自覚していた。忍びは道具。例え偽物の護衛対象だろうが、全力で演じきった。それをお前はなんだ? てめえはただ若様や姫君の着物着て、同じ顔していた『だけ』だ。だから反発を呼ぶ。腹が立つなら這い上がれよ――相手して欲しければ、いつでもしてやるぜ」
涙ながらに睨みあげた才蔵も鎌之助の視線を外そうとはしなかった。
「一触即発。君たちの悪い癖だよ――才蔵も。鎌之助、意味が解かったところで今後の君を見る目はもっと厳しくなる。その中でどれだけ僕らを仲間だと思い、仲間だと思わせてくれるのか、期待しているよ」
才蔵の腕を引いて六郎はそう言い残した。
それからの鎌之助は語るまでも無い。常に太一を意識しながらも演技力を養っていった。半端な変化はしない、と心に誓って彼は素顔を捨てた。
◇
「鎌之助?」
八重の怪訝な声で鎌之助は過去から帰ってきた。らしくもない、と思う。引退してからも自分の命は太一の命の上に成り立っていることを胸に、絶対に素顔には戻らないと誓ったのだ。
「ああ、ごめん。ちょっと昔を思い出してた」
「昔って……母様のこと?」
「ううん、清姫に出逢うずっと前の事。……お嬢、気持ちは嬉しいけど……俺は素顔に戻れないんだよ。気持ちは嬉しいけどごめんね……」
その鎌之助の笑顔があまりに哀しそうだったので八重はそれ以上強気には出られなかった。部屋まで鎌之助に送られて寝床に入ったものの、眠れるはずもなかった。
◇
翌朝、八重は帯刀して甚八と小助が塾頭を勤める学校に向かった。
引退した二人はここで島の子供達相手に文字の読み書きや算術といった基礎学問を教えている。
八重の告白失敗を聞いて、二人は呆れるやら笑えるやらと不思議な顔をする。
「誤解しないで頂きたいのですが、さすが清姫の御子と言いましょうか、鎌之助に夜這いをかけるなど、お嬢も大胆な……」
職員用の部屋で小助の小言に、八重は唇を尖らせている。甚八も笑い飛ばしてくれるかと思ったのに珈琲を啜りながら、眼は空を泳がせる。
「そうさなあ……。由利坊の変化は訳ありだからよお……それを知っている俺達もあいつの決心の強さは曲がらねえし、素顔を詮索しようなんて野暮はしねえしなあ。しっかし、あいつはまだ比較的若いつっても、お嬢も厄介な恋をしちまったもんだ」
「……だって……子供の頃から鎌は優しかったし、片腕でも充分強いし……」
「顔じゃなくて腕っぷしで男を選ぶあたりに閉口します」
「お、なんだ。お嬢は由利坊を諦めるのかい?」
「一回振られただけだもん。諦めない……絶対お嫁さんにしてもらうもん」
小助に淹れてもらった珈琲をちびちび飲みながらも八重は決意を新たにする。その様子に小助も甚八も鎌之助に「ご愁傷さま」と心中で同情した。
「またえらいのに好かれたもんだ」
「煽った奴がそれを言うのか?」
けたけたと奇怪に笑う甚八達の元に、鎌之助が助けを求めて駆け込んでくるのはその三日後の事だった。
職員室の扉を開くなり、怒り心頭の鎌之助が現れた。
「ちょっと……あの子、煽ったのはどっち!?」
小助と甚八はお互いを指さす。なんとも醜いなすり付け合いだった。だが、鎌之助は「両方ね……解った」と両者を睨む。
「なんでえ、俺達はお嬢に一応はお前の事情も話したぜ?」
「……その割には毎晩夜這いを仕掛けてくるんだけど!!」
「さすが才蔵と姫の御子……打たれ強い。もう諦めて嫁にしたらどうだ? 幼妻は男の浪漫だろう。羨ましいぞ、鎌之助」
「棒読み!!」
まったく感情の入っていない小助の冗談にもいちいち噛みつくくらいには、鎌之助は追い詰められているのだろう。もうこうなったら清助に話すかとも思ったが、八重の一途な想いを咎められるのは忍びない。
「そういう優しさが余計にお嬢の行動を助長するんじゃないか?」
「……だって突き離せないんだよ。……昨日はとうとう泣かれてさあ、もう本当にどうしろってのさ」
まさかこの年齢で恋愛問題とやらに遭遇するとは夢にも思わなかった。これでは違った意味で才蔵に袋叩きにされそうだ。
「ところでよお、お嬢の話ばっかりだが、若はどうしてんだ? 若もいい歳なのに未婚じゃねえか」
「……それ、訊く?」
「若も訳ありか。兄妹揃って……なんとも……」
「若は海軍の金髪美人相手に手あたり次第に遊んでるよ。本命は居るらしいんだけど手強いんだってさ。……明らかに甚八の悪影響だよねえ」
久々に残った十勇士が一堂に会したが、空気はなんとも形容しがたい。
ひとまず、当面の頭痛の種である八重だ。これを解決しない限り前進はありえない。眉間に皺を刻んで、珈琲を飲む鎌之助に小助が尋ねた。
「念の為に訊くが、お前はまだ清姫の事が忘れられない、とかは言わないだろうな」
「あんまり見くびらないでよ。姫は確かに最後の女だと思っちゃいるけど、自覚した時から失恋してんだから、もう思い出に昇華してる……つもりだった」
「おい」
「だってえ……いざ、同じ顔に迫られてみろよ!! いくら十勇士でも心が折れるってば……」
意外と八重よりも鎌之助の方が未練がましい上に意志薄弱だと判明したので、甚八も小助も助け舟は出さないことに決めた。
「今更でっちあげの恋人作るのも無理だしなあ。いっそ三好兄弟みたいに出家したらどうだ」
「俺が説法する姿なんか想像できる?」
「おめえは煩悩の塊だもんなあ」
「……そもそも、あんたらに相談したのが間違いだった」
提案した瞬間に掌を返す甚八に鎌之助は軽く殺意を覚える。生きていたら迷いなく六郎に相談したのだが、と鎌之助は溜息を吐いた。
「……真剣にさあ、どうしたらいいんだろう?」
鎌之助の声音に小助がいい加減揶揄うのを辞めて、至極最もな意見を述べる。
「お前から見ればまだ子供だろうが、お嬢はもう立派な女性だ。それを考慮した上で受け入れられないのなら、きちんと失恋させてやるのも優しさじゃないか? 今後もちゃんと愛してやれるならお嬢の想いも全部受け止めてやれ――俺に言えるのはそれだけだな」
「……ごもっとも」
鎌之助は小助の意見に腹を括らねば、と残った珈琲を一気に呷った。
「腹は決まったかい?」
「まあね」
「じゃ、さっき逃げて行ったお嬢を急いで追うんだな。気配に気づかないってよお……おめえ、もう十勇士も語れなくなるぜ?」
「はあ!? いつから居たのさ!!」
「姫の事は思い出にしているつもりだった……の辺から」
「早く言えよ!! ああ、もう!!」
空っぽのマグを放り投げるように甚八に渡すと、鎌之助は現役時代さながらの素早さで立ち上がって八重の後を追った。残された二人は拳をぶつけ合う。
「さあて、どうなるかねえ」
「なんだかんだで鎌之助が押し負けるに十銭」
「おいおい、それじゃあ賭けにならねえじゃねえか」
「元博打打ちを相手に誰が勝負に出るか」
残った悪い大人は若人で遊びに興じるのだった。
◇
八重は予想通り戦艦「曙」の船首の上で膝を抱いて泣いていた。
「……なんで追いかけてくるのよ」
「お嬢がちゃんと最後まで話を聞かないからでしょ。――ほら、こっちおいで」
「またそうやって子供扱いする!! どうせ母様と同じ顔でも大人の魅力なんか無いもん!!」
どんなに戦艦を巧みに操る姫提督でも鎌之助からすると若かりし日の清に託された娘なのだ。年齢差ばかりはどうしようもない。片手を広げたままや八重を待つ鎌之助は夕陽を背に立つ彼女をそのまま待ち続けた。
「ねえ、来ないの? 今なら俺の胸に抱きつけるよ。――そのまま離さないよ?」
鎌之助の言葉に、八重の頬がカッと上気する。
「鎌、ずるい!!」
「大人だもんね」
にやりと笑う鎌之助に、八重は矢も楯もたまらず飛びついた。抱き止められた感触は右腕しか無くても幾度も死線を超えてきた男の腕だった。
「ちょ、お嬢……苦しい……!」
「今は私の方が現役だもん」
鎌之助が好んで着ている単衣からは僅かに汗の匂いがする。もう忘れて等しい父の香りよりも慣れ親しんだ香りだった。
「……母様の事は、もう良いの……?」
「昇華できてると言えば嘘だけど……俺の前で生きて笑ってくれているのはお嬢だからね――お嬢を振っても振らなくても、どのみち才蔵にはあの世で殴られる」
「……やっぱり、素顔は見せられない?」
「なんだ、お嬢。気がつかなかったの?」
どういう意味だろう、とそろりと顔を上げたら、目尻に小皺があれども、男性とも女性とも取れる役者のような男が微笑んでいた。男はそっと八重の耳元に口を寄せると「この顔、見せるのはお嬢だけね」と囁いた。声も替えていたのだろうか。
意外にも低い声に、八重はぞくりと甘い痺れを感じた。
◇
翌日の夜、鎌之助と八重の婚約前祝いということで酒樽を持ってきた甚八と小助は出迎えの鎌之助を見て、笑いをひたすら堪えた。
「おい、由利坊。どうしたよ、その右頬は」
「……解っているくせに、本っ当にタチ悪いよね。おっさんは」
「昨日報告に行ったら、兄様が部屋に入るなり、問答無用で鉄拳を……」
鎌之助の横で甲斐甲斐しく寄り添う八重も今日は女物の着物姿だった。
「男の浪漫は鉄拳と引き換えだったか。株が上がったな、鎌之助」
小助の嫌味に「これのどこが!?」と鎌之助が怒鳴る。
「……ったく、飯も碌に食えないっての……」
「それをお嬢に食わせてもらうんだろ?」
「なんだ、見せつけか」
「……ねえ、昔っから一回はあんたら殴りたかったんだよね……! 殴らせてよ」
「嫌に決まっているだろう」
「それより若は来るのかい?」
年齢を重ねてから甚八と小助はますます意地の悪さに磨きがかかった気がする。今にも乱闘を起こしそうな鎌之助を八重が必死で抑えつけていた。
「兄様ならもう来ているわよ。昨日から飲み倒していて、手が付けられなかったから二人が来てくれて助かった」
「……と、いう事は」
「絡み酒かよ、若は……退散するか?」
触らぬ神に祟りなしとせっかく持ってきた酒樽だったが、玄関に置いて早々に去ろうかと目論む二人の退路をへべれけながら、抜刀した清助が晴れやかに笑っていつの間にか背後に回り込んでいた。
「あれえ? 俺の酒が飲めないの、お二人さん? ねえ?」
結局、清助に脅されるまま祝宴という名目の地獄は朝まで続いた。甚八達の後から参加した戦艦「曙」の八重親衛隊も清助の絡み酒と泣き上戸が相俟って、とても祝杯といった雰囲気ではなかった。
「こいつら、何しに来たわけ?」
死屍累々とする酒の匂いが充満する中で、一滴も飲まずに済んだ鎌之助が家の中を一瞥する。その袖を引いた八重と共にこっそりと家を抜け出して、親衛隊が持ってきた花を家の裏にある庭から海に投げ込んだ。
「鎌?」
「ご両親への報告。あいつらのせいで最後になっちゃったけど」
――ねえ、姫、長。人生って解らないもんだね。八重は幸せにするよ、絶対。
明け方の庭で潮騒に耳を傾けながら、二人は寄り添って日の出を眺めていた。
★終...
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