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Ⅵ
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Ⅵ
姫路城から車で約五分のところにある武家屋敷跡、本日の宿泊先はここだそうだ。閑静な住宅街の中で、一際古いこの家は明光と月の共通の友人が貸してくれたと聞く。
「うー……」
「ま、あれだけ泣けばね」
風呂に入った後、腫れぼったくなった瞼に薄手のタオルを巻いた保冷材を当てながら唸るリリィを見て、月や明光はからからと笑った。
夜桜の下での生演奏会は、結局警備員に叱られて、致し方なく解散となったが、リリィの頭には歌が残って消えてくれない。ふと気を抜けば、また思い出して泣いてしまいそうなので細心の注意を払っている。
「月、また歌がうまくなったね。アキテルもヴァイオリン素敵だった」
「お褒め頂き、恐悦至極。でも、俺のヴァイオリンはそろそろ限界だな。月の歌はまだまだ伸びしろがあるけど、俺はそんなに音楽にかける熱意もないしさ」
明光は眉尻を下げて、自分の手を見た。
「どうして? あんなに上手いのに……もう限界を決めちゃうの? 勿体ないよ」
「ああ、ごめん。言葉足らずだった。月の伴奏としてのヴァイオリンはって意味ね。でも当たらずとも遠からずかな。ソロでは趣味程度に弾ければ良いし、ヴァイオリンで食っていくつもりは最初から無いんだ。俺はもっと世界を知りたい」
「アキテルって、いくつ?」
「十四。中学三年生」
「お前も充分年齢詐欺だな」
居間で三人が語り合っていると、黒い浴衣姿のヴィンセントが頭から湯気を立てながら現れた。
「ひどいな、ムッシュウ。それは身長のせいじゃない? 俺、よく大学生と間違えられる」
百八十センチを軽く超えているヴィンセントに次いで、身長が高いのは明光だ。東洋人は若く見られがちだが、明光は既に百七十センチは超えているはずだとリリィは目算を付けていた。
「タッパだけでこんなこと言わねえよ。俺は中身の話をしている」
「なら、なおさらひどいよ」
二人の遣り取りに、月が人の悪い笑みを返す中、リリィだけはヴィンセントから目が離せなかった。保冷材の下から覗き見ていると、その視線に気づいたのか、ヴィンセントが明光に構うのをやめてリリィの方に近づいてくる。
「まだ腫れてんのか?」
「え、あ……うん、少しだけ。でも、冷やしているから平気!」
「見せろ」
ヴィンセントはリリィの手から保冷材を取り上げて、ゆるりと確かめるようにリリィの目元を指でなぞる。ここまでの至近距離で彼の顔を見た事が無かったことと、アベル以外の他人にここまで顔をじっくりと眺められたことが無かったので、いささか落ち着かない。
「いやあ、美男美女は絵になるね」
「過保護ね、ヴィンセント」
明光と月がにやにやとしながら、揶揄してくるものだから、尚更リリィの顔に朱が上る。
「お前らも充分お似合いだよ。ガキのくせに、大人をからかいやがって」
赤い顔をしているリリィに対して、ヴィンセントは絶対に表情を崩さない。死神である彼には年齢など無いも同然である。だから、リリィと共にいても彼はいつだって保護者の立場から動こうとはしないのだ。
(だから、この胸の高鳴りはきっといつもと違う恰好のせい……)
リリィは昼間とは違う速さで動く心臓を押さえて、己に言い聞かせる。
ヴィンセントはまだからかってくる明光と月の相手をしていたが、ジャンヌに「グランパが呼んでいる」と言われ、「夜更かしはしないようにな」と三人に言い残して、襖の向こうに消えて行った。
「うーん……」
「またくだらないこと考えてんでしょ、明光」
「いや、大人の貫禄っての? ムッシュウは男の俺から見てもかっこいいよなと思ってさ。あの人、なんの仕事してるの? モデルとか俳優でも充分通用しそうだ」
「えっと……グランパのボディガードとか、色々。モデルや俳優はしていないよ」
「へえ、道理で鍛えた身体している訳だ。『クラン』の惣領の護衛なら納得した」
「クラン?」
「あ、アキテル……なんで、それ知ってるの!?」
月が訝しむ中、明光はさっきまでの好青年の笑顔から、悪魔的に悪い笑顔をしてみせる。
「世界最大の情報シンジケート、通称『クラン』――普通、『クラン』と言えば、スコットランドで一つの氏族を指す言葉だよね。でも俺みたいな人種からすれば『クラン』は情報屋を意味する。特に俺の祖父さんが世話になったらしくて、跡継ぎになるかも解んないのに、俺に随分と教えてくれたんだ。その惣領は本名不詳で、ただアイルランド系の老人が『グランパ』と呼ばれている――身辺調査のようで悪いとは思ったんだけど、ごめんね、空港で俺の名前をすぐに答えられた時からピンときて調べさせてもらっちゃった。グランパ達も俺が気づいていることは、とっくに承知しているからおあいこね」
さっきから池の鯉のように口をパクパクと開け閉めしているリリィに、明光はウインクして謝る。月は「あんた……ヴィンセントの言う通りじゃない。暗躍しているとか趣味悪-い」などと棒読みで言ってリリィにわざとらしく抱き着いてきた。
「だって大切なことだろ? グランパ達が天使を護るように、俺は月と雪くんを護る義務があるんだからさ。じゃ、後は女の子同士で語り合いなよ。おやすみ、良い夢を」
ヴィンセントが消えたのとは、また違う襖に白い浴衣姿の明光は手を振って去って行った。
「……ったく。リリィ、ごめんね。気を悪くしたのなら謝る。明光に悪気はないの。雪はともかく、私がちょっと難有りなせいで、あいつも過敏になってるだけで……」
「月は、なにか病気なの?」
「病気ではないけど、体質かなぁ。自分でもよく解ってないんだ。うまく話せないから、いつか笑い飛ばして話せるようになったら聞いて」
「もちろんだよ! だから、元気出して!」
前のめりに月に向かって同意するリリィに、月はいつものように不敵に笑った。
「ありがとう。とりあえず電気消すよ。布団に入って」
リリィに一言断わると、月は部屋の電気の紐を引いた。暗闇を覚悟したが、二人が宛がわれた部屋は大きな窓がある部屋であったので、月光が入ってきて、完全なる闇にはならなかった。
「ねえ、月。訊いても良いかな?」
「んー? なんでもどーぞ」
「好き、ってどんな感じ? ユキや私への『好き』とアキテルへの『好き』は違うよね。それは何が違うの?」
「俗に言う『likeとloveの違い』って意味?」
「うん。私にはよく解らない」
リリィの問いに、月はなんの衒いもなく、あっさりと答えを導きだした。
「持論だけど、一番手っ取り早い方法は唇にキスして嬉しくて鼓動が高まるか否か……かな」
「直球すぎるよ!!」
「なんで? 理屈をこねても理論武装しても仕方ないじゃない。ましてや、精神論なんてなんの役にも立たないよ。もっとはっきり言うと、動物は愛や恋がなくても身体の関係は持てるんだもん。Amour(愛)の国の出身なのに、リリィは潔癖ね。リセに居た頃だって、カップルなんかあちこちに居たじゃない」
月の言葉にリリィはぐっと息を詰める。
確かにリセに居た頃、クラスの中でも、学校外でも――それこそ橋の上でくっつき合っている男女など山ほど目にしてきた。だが、リリィはそれらに欠片も興味や関心が持てなかったのだ。
ただ唸るだけのリリィを見て、月はわざと意地の悪い訊き方をする。
「ははん。保護者様との話が楽しすぎて、それどころじゃなかったんでしょ」
「う……!」
痛いところを突かれたリリィは、もごもごと口の中で言葉にならない言い訳をしている。リリィが必死に悩んでいると言うのに、悪いとは思いながらも月はその様子を微笑ましく思う。
弟と同じ歳のこの友人は、育ちの複雑さという点では自分達とそう変わりは無い。だが、育ってきた環境と彼女を取り巻く大人に、それは大切にされてきたがゆえに純粋で繊細である。箱入りと表現してもおそらく外れてはいまい。
だが、彼女には闇がある。月は敢えてそれに踏み込もうとはしないが、彼女の心に深く根差す闇は深く、一歩道を違えると壊れてしまう紙一重の危うさで生きている。だからこそ、月は彼女から感情を問う質問があったことが喜ばしい。きっとリリィは気づいていないのだろうが、これは彼女の大いなる変化だ。固く閉ざされ、ただ無償の愛を注いでくれる保護者達からの半歩の脱却だと月は感じる。
「ねえ、リリィ。さっき私は妙な体質をしているって話したよね。でも、正直に言うと困らせられたけれど、それに感謝しているところもあるんだ」
「苦しめられたのに、感謝できるの?」
「そうだね。苦しいよ。だけど、この体質があるから、私は雪を大切にできるし、明光を愛していられるの。――宝を失う恐怖を知らない人は、宝があってくれるだけで、どれほど恵まれているかを知り得ないと、私は思う」
「哲学的ね」
「うん。世の中には、それを知っている人がどれだけ存在するんだろう。宝を知っているリリィは大丈夫。保証してあげる。きっと、身を焦がすような恋を知る時が来るよ」
――恋に身を焦がす。
そんな恋愛を、月はしているのだろうか。経験者は語る、という言葉がリリィの頭を過ぎった。月の言う通り、今はまだ自分はその時ではないのか。
友人のアドバイスを噛みしめていると、静かにヴィンセントが入って行った襖が開かれ、また彼が顔を出した。
「悪いな。二人とも、まだ起きているか?」
ヴィンセントはよほどのことがない限り、声を荒げないせいか、この時も彼の声は夜陰に溶けそうなほど静謐だった。
「起きてる。どうかしたの?」
「……グランパが呼んでいる。旅行に水を差してしまうが――きっと最期だ」
ヴィンセントの台詞に、リリィの腹の中に氷塊が落とされた。
◇
屋敷の最奥の部屋を与えられたグランパのところには、既に月とリリィ以外は全員が揃っていた。皆、一様に沈んだ表情をしているのは、やはりこれから死の旅路へ向かおうとする者が発する空気を知っているからなのだろう。
「……グランパ! そんな……昼間はあんなに元気だったのに……!」
「おお……リリィ。すまんなあ……儂らはいつもお前の喜びを奪ってしまう……」
布団からにっこりと笑っていても、グランパはとても小さく見える。布団から、渾身の力でなんとか枕元に近寄ったリリィに手を差し伸べた。そのしわがれた枯れ木のような冷たい手をリリィは熱を分けるように受け取ると、グランパは今にも決壊寸前のリリィの頬を撫でた。
「リリィ=アンジェ……賢く美しい愛ぐし子よ……長じれば、さぞ麗しく誰をも引き付けるようになるじゃろうなあ……それをこの眼で見れぬ事だけが悔やまれる……」
冷たい手は愛を語る。もっとお前を見ていたかった、と。
「グランパ……大好きよ……グランパも私を置いて逝ってしまうの?」
「ああ……この爺は果報者じゃった。先にアベルに逢いに行く……リリィ、ジャンヌに託してある。儂がお前にできるたった一つの物じゃ。受け取っておくれ。……そして、幸せにおなり……必ずじゃ……幸せに、なりなさい……」
グランパはつうっと光る筋を流した。
「……あの桜、歌、なんと美しかったことよ……」
詠うような遺言を遺し、グランパの手はリリィの頬をひと撫でして音もなく布団の上に手が落ちた。
――老賢人は、最期までただ一人の少女の幸福を案じて逝ってしまった。
「あ……ああ……どう、して……!? まだ話し足りないよ? まだ……教えて欲しいことがいっぱいあるのに……!」
布団に落ちたグランパの手を握りしめて、リリィはグランパの亡骸に縋りついた。涙が出ないのが不思議で、グランパに申し訳なかった。きっと月の歌で流し過ぎたせいだ、とリリィはあまりに薄情な己の涙腺を責めた。
その小さくなった背中に涙声で、しかし毅然とした声でジャンヌが追い打ちをかける。
「リリィ=アンジェ――いいえ、我ら『クラン』の新しい惣領。貴女には、先代の葬儀が終わり次第、仕事を覚えてもらいます」
「……ジャンヌ?」
あまりに衝撃的な新たな肩書きでリリィを呼ぶジャンヌに、リリィは瞠目する。
――『クラン』の新しい惣領?
明光は言わなかったか。『クラン』とは、世界最大の情報シンジケートのことだと。
ジャンヌはリリィのことを「新しい惣領」と呼んだ。その響きは、いつもの姉のような慈愛はなく、ただ職務上の事務的なものだった。
突如、明光が立ち上がったのを雪が制したが、もう一人――ヴィンセントまでは誰も止められはしなかった。これほどまでに怒っている彼を見るのは、いつ以来だろうか。出逢った時にアベルを諫めた、あの怒鳴り声よりも、もっと音もなく焔を燃やしているようだ。そんなヴィンセントは片手でジャンヌの胸倉を掴み、引き寄せる。
「……おい、てめぇらは何様のつもりだ? ……幸せになれという。誰よりもその身に幸あらんことをとのたまいながら、まだ八つの子供に――リリィにこれ以上強大な役目を背負わせるのか!! ふざけるな!!」
「私だって反対したわ!! まだ幼すぎると! せめてリリィが学生を卒業してからでも遅くはないと! でも……彼には時間が無かったのよ。……惣領の決定事項なら、私に反対はできないじゃない……!」
ヴィンセントのあまりの剣幕に震えつつも――しかし、苦虫を噛み潰したかのようなか細い声でジャンヌは反論した。
二人の言い争いをリリィは、どこか遠いところで聴いているような既視感に陥った。これには覚えがあった。かつて兄・ルイス=ブライアンの腕の中で聞いた、兄が祖父に反論していた、あの時と同じ感覚だった。
「ヴィンセント……ジャンヌ……喧嘩、しないで。……お願い……今は、月達も居る。それに……ちゃんと解るよ。グランパは私を護る為に『クラン』を譲ってくれたこと。お祖父様とグランパは違うことくらい、ちゃんと解っているから、明日グランパをフランスに連れて帰ってあげようよ。ちゃんと安心して眠らせてあげたい……」
「……リリィ。お前もお前だ! なぜ怒らない! 初めて仕事をしろと言われた時は拒否できただろう!?」
「……ヴィンセント。横槍を入れるようで悪いけれど、これ以上安眠した人の前で騒がないで。リリィが『クラン』以外に何を背負っているのかは知らない。でも、グランパはそれを解っていながらも惣領としたのなら、それは決してリリィを追い詰める為ではない。彼女も理解していると言ったわ。――なら、もう騒ぎ立てても詮無いことじゃない」
悄然としながらも、全てを受け入れるリリィにまで当たり散らすヴィンセントを、月が冷静に諭す。ヴィンセントはギリと音がするほど歯を噛みしめると、ジャンヌを乱暴に離して部屋を出て行ってしまった。
「天使」
「……ごめん、グランパと二人だけにして」
なにかを言いかけた明光を手だけで押し留めて、月はそっと雪達に出て行くよう促した。
「明日、フランスに発てる直行便の用意だけはしておくわ。――じゃあね」
ぱたん、と軽い襖の閉まる音を確かめるとリリィは、もう答えを返してくれないグランパに問いかけた。
「ねえ、グランパ。――幸せって、なに?」
◇
ヴィンセントは裸足で月明かりだけの庭園に出ていた。丁寧に手入れが施されている芝生は柔らかく、多少土は付くが今はそんなことを気にしてはいられない。
この武家屋敷には小さめだが池があり、その上には立派な松の樹が聳え立っていた。松は大きな影を作る。影の中に入ると妙に落ち着いた。昂っていた心が些少ながら冷静を取り戻す。だが、怒りがおさまった訳ではない。
「主」
「ハウンドか。なんだ」
「神界で不穏な動きが」
間の悪い時に、とヴィンセントは舌打ちを漏らしたが、それでも詳細を話すよう促した。
「上位神格者の間で不正に神格位の売買が行われている様子。まだ未確定事項が多く、主犯の特定もできておりませぬゆえ我々も偵察の段階です。しかし、葬儀が終わり次第、正式に主と“聖女”の両方に動いて頂く運びとなるよう万神庁は動いています」
「なぜ俺まで動く必要がある? またリリィのお守りか?」
妙に棘のある言い方になってしまった。相手が感情の無い使い魔相手にだから問題はないが、いい加減に己の狭量さに嫌気が指す。
「神格位を買う者の中に人間も混じっているとのこと。主にはその人間の滅殺を、と」
「解った。後でリリィにも伝えておく」
下がれ、と命じようとした瞬間、ハウンドが先手を打ってヴィンセントの命令を妨げた。
「もう一点、二年前のラーラ・ファントムの事件の折、ご報告に漏れが」
「二年前のことを今更掘り返すのか」
「あまり重要視しておりませんでしたので。私は“聖女”の影に入って耳にしたことです。ラーラは“聖女”の守護神と天使を『失われた古の最高神と天使』と申しました。更に『クラン』の新惣領となった今、万神庁は“聖女”に神格位を与えるかという論議がされております」
「“聖女”に憑いている神と天使は代々変わりないはずだろう。惣領になったとは言え、なぜだ……?」
グランパは元々人間だった。だが、『クラン』を立ち上げ、世界に幅を利かせるようになった手腕を認められ、万神庁から特別に神格位が与えられた。その後は神界の情報にも通じ、人間界との橋渡し役となった。ゆえに新しい惣領であるリリィに神格位をというのも解らない話ではない。引っかかるのはハウンドが聞いたというリリィの守護神と天使の存在についてだ。
「ハウンド、ラーラの指す『古の神』に心当たりはあるか?」
「誠に遺憾ながら……我ら、使い魔風情では耳にすることもありますまい。パンサーも同じでしょう」
ヴィンセントは二年前へと思考を巡らせる。確かあの時守護神は言わなかったか――「名前は教えられない」と。そこに思い当たったヴィンセントは、いつの間にか怒りの焔は鎮静化し、今は必死に二年前の様子を思い出していた。
グランパが生きていたら知っていたかもしれない――否、それも怪しい。
神界の者の名は人間が暫定的に付けた通称である。主神に授けられた真名はよほどの力を有していない限り、表には出さないのが通例だ。なので、ヴィンセントは異例と言える。そうでなくば、呪法に長けた神格者に真名を握られると心臓を鎖で締め上げられたも同然の事態となる。十中八九、悪用されるからだ。
それゆえ、真名を隠すのは何も稀有な例ではないのだが、リリィに関しては別だ。
「まさか……あの双神……? いや、なにを馬鹿な……」
ヴィンセントは頭を過ぎった一つの可能性を無かったことにした。『古の神と天使』で行き当たった存在は、およそ人間の娘が背負える存在ではない。確かにリリィの守護神は桁外れだ。ヴィンセントすら、彼らからすれば路傍の石に等しいだろう。
「……有り得ない。第一、彼らは強すぎる力のせいで万神庁に封じられているはずだ」
ヴィンセントは思わず額に手を当てる。
――万が一、この可能性が当たっていたとしたら、今後リリィは神格位を持たねば命に関わることとなる。
「俺はこれから万神庁に戻る。パンサーだけ付いて来い。明日の朝までには戻る。ハウンド、リリィは頼んだ」
「……何をしに行かれるのです? 下手を打てば、貴方様の御命にも関わります」
「心配は無用だ。封じの間の結界がちゃんと働いているのかを確かめたら帰ってくる。それだけなら堅物共も多めに見てくれるだろうよ」
「くれぐれもお気を付けて」
ハウンドが影に入ったと同時に、ヴィンセントも死神に変じて影と同じ色のマントを翻して消えた。
続...
姫路城から車で約五分のところにある武家屋敷跡、本日の宿泊先はここだそうだ。閑静な住宅街の中で、一際古いこの家は明光と月の共通の友人が貸してくれたと聞く。
「うー……」
「ま、あれだけ泣けばね」
風呂に入った後、腫れぼったくなった瞼に薄手のタオルを巻いた保冷材を当てながら唸るリリィを見て、月や明光はからからと笑った。
夜桜の下での生演奏会は、結局警備員に叱られて、致し方なく解散となったが、リリィの頭には歌が残って消えてくれない。ふと気を抜けば、また思い出して泣いてしまいそうなので細心の注意を払っている。
「月、また歌がうまくなったね。アキテルもヴァイオリン素敵だった」
「お褒め頂き、恐悦至極。でも、俺のヴァイオリンはそろそろ限界だな。月の歌はまだまだ伸びしろがあるけど、俺はそんなに音楽にかける熱意もないしさ」
明光は眉尻を下げて、自分の手を見た。
「どうして? あんなに上手いのに……もう限界を決めちゃうの? 勿体ないよ」
「ああ、ごめん。言葉足らずだった。月の伴奏としてのヴァイオリンはって意味ね。でも当たらずとも遠からずかな。ソロでは趣味程度に弾ければ良いし、ヴァイオリンで食っていくつもりは最初から無いんだ。俺はもっと世界を知りたい」
「アキテルって、いくつ?」
「十四。中学三年生」
「お前も充分年齢詐欺だな」
居間で三人が語り合っていると、黒い浴衣姿のヴィンセントが頭から湯気を立てながら現れた。
「ひどいな、ムッシュウ。それは身長のせいじゃない? 俺、よく大学生と間違えられる」
百八十センチを軽く超えているヴィンセントに次いで、身長が高いのは明光だ。東洋人は若く見られがちだが、明光は既に百七十センチは超えているはずだとリリィは目算を付けていた。
「タッパだけでこんなこと言わねえよ。俺は中身の話をしている」
「なら、なおさらひどいよ」
二人の遣り取りに、月が人の悪い笑みを返す中、リリィだけはヴィンセントから目が離せなかった。保冷材の下から覗き見ていると、その視線に気づいたのか、ヴィンセントが明光に構うのをやめてリリィの方に近づいてくる。
「まだ腫れてんのか?」
「え、あ……うん、少しだけ。でも、冷やしているから平気!」
「見せろ」
ヴィンセントはリリィの手から保冷材を取り上げて、ゆるりと確かめるようにリリィの目元を指でなぞる。ここまでの至近距離で彼の顔を見た事が無かったことと、アベル以外の他人にここまで顔をじっくりと眺められたことが無かったので、いささか落ち着かない。
「いやあ、美男美女は絵になるね」
「過保護ね、ヴィンセント」
明光と月がにやにやとしながら、揶揄してくるものだから、尚更リリィの顔に朱が上る。
「お前らも充分お似合いだよ。ガキのくせに、大人をからかいやがって」
赤い顔をしているリリィに対して、ヴィンセントは絶対に表情を崩さない。死神である彼には年齢など無いも同然である。だから、リリィと共にいても彼はいつだって保護者の立場から動こうとはしないのだ。
(だから、この胸の高鳴りはきっといつもと違う恰好のせい……)
リリィは昼間とは違う速さで動く心臓を押さえて、己に言い聞かせる。
ヴィンセントはまだからかってくる明光と月の相手をしていたが、ジャンヌに「グランパが呼んでいる」と言われ、「夜更かしはしないようにな」と三人に言い残して、襖の向こうに消えて行った。
「うーん……」
「またくだらないこと考えてんでしょ、明光」
「いや、大人の貫禄っての? ムッシュウは男の俺から見てもかっこいいよなと思ってさ。あの人、なんの仕事してるの? モデルとか俳優でも充分通用しそうだ」
「えっと……グランパのボディガードとか、色々。モデルや俳優はしていないよ」
「へえ、道理で鍛えた身体している訳だ。『クラン』の惣領の護衛なら納得した」
「クラン?」
「あ、アキテル……なんで、それ知ってるの!?」
月が訝しむ中、明光はさっきまでの好青年の笑顔から、悪魔的に悪い笑顔をしてみせる。
「世界最大の情報シンジケート、通称『クラン』――普通、『クラン』と言えば、スコットランドで一つの氏族を指す言葉だよね。でも俺みたいな人種からすれば『クラン』は情報屋を意味する。特に俺の祖父さんが世話になったらしくて、跡継ぎになるかも解んないのに、俺に随分と教えてくれたんだ。その惣領は本名不詳で、ただアイルランド系の老人が『グランパ』と呼ばれている――身辺調査のようで悪いとは思ったんだけど、ごめんね、空港で俺の名前をすぐに答えられた時からピンときて調べさせてもらっちゃった。グランパ達も俺が気づいていることは、とっくに承知しているからおあいこね」
さっきから池の鯉のように口をパクパクと開け閉めしているリリィに、明光はウインクして謝る。月は「あんた……ヴィンセントの言う通りじゃない。暗躍しているとか趣味悪-い」などと棒読みで言ってリリィにわざとらしく抱き着いてきた。
「だって大切なことだろ? グランパ達が天使を護るように、俺は月と雪くんを護る義務があるんだからさ。じゃ、後は女の子同士で語り合いなよ。おやすみ、良い夢を」
ヴィンセントが消えたのとは、また違う襖に白い浴衣姿の明光は手を振って去って行った。
「……ったく。リリィ、ごめんね。気を悪くしたのなら謝る。明光に悪気はないの。雪はともかく、私がちょっと難有りなせいで、あいつも過敏になってるだけで……」
「月は、なにか病気なの?」
「病気ではないけど、体質かなぁ。自分でもよく解ってないんだ。うまく話せないから、いつか笑い飛ばして話せるようになったら聞いて」
「もちろんだよ! だから、元気出して!」
前のめりに月に向かって同意するリリィに、月はいつものように不敵に笑った。
「ありがとう。とりあえず電気消すよ。布団に入って」
リリィに一言断わると、月は部屋の電気の紐を引いた。暗闇を覚悟したが、二人が宛がわれた部屋は大きな窓がある部屋であったので、月光が入ってきて、完全なる闇にはならなかった。
「ねえ、月。訊いても良いかな?」
「んー? なんでもどーぞ」
「好き、ってどんな感じ? ユキや私への『好き』とアキテルへの『好き』は違うよね。それは何が違うの?」
「俗に言う『likeとloveの違い』って意味?」
「うん。私にはよく解らない」
リリィの問いに、月はなんの衒いもなく、あっさりと答えを導きだした。
「持論だけど、一番手っ取り早い方法は唇にキスして嬉しくて鼓動が高まるか否か……かな」
「直球すぎるよ!!」
「なんで? 理屈をこねても理論武装しても仕方ないじゃない。ましてや、精神論なんてなんの役にも立たないよ。もっとはっきり言うと、動物は愛や恋がなくても身体の関係は持てるんだもん。Amour(愛)の国の出身なのに、リリィは潔癖ね。リセに居た頃だって、カップルなんかあちこちに居たじゃない」
月の言葉にリリィはぐっと息を詰める。
確かにリセに居た頃、クラスの中でも、学校外でも――それこそ橋の上でくっつき合っている男女など山ほど目にしてきた。だが、リリィはそれらに欠片も興味や関心が持てなかったのだ。
ただ唸るだけのリリィを見て、月はわざと意地の悪い訊き方をする。
「ははん。保護者様との話が楽しすぎて、それどころじゃなかったんでしょ」
「う……!」
痛いところを突かれたリリィは、もごもごと口の中で言葉にならない言い訳をしている。リリィが必死に悩んでいると言うのに、悪いとは思いながらも月はその様子を微笑ましく思う。
弟と同じ歳のこの友人は、育ちの複雑さという点では自分達とそう変わりは無い。だが、育ってきた環境と彼女を取り巻く大人に、それは大切にされてきたがゆえに純粋で繊細である。箱入りと表現してもおそらく外れてはいまい。
だが、彼女には闇がある。月は敢えてそれに踏み込もうとはしないが、彼女の心に深く根差す闇は深く、一歩道を違えると壊れてしまう紙一重の危うさで生きている。だからこそ、月は彼女から感情を問う質問があったことが喜ばしい。きっとリリィは気づいていないのだろうが、これは彼女の大いなる変化だ。固く閉ざされ、ただ無償の愛を注いでくれる保護者達からの半歩の脱却だと月は感じる。
「ねえ、リリィ。さっき私は妙な体質をしているって話したよね。でも、正直に言うと困らせられたけれど、それに感謝しているところもあるんだ」
「苦しめられたのに、感謝できるの?」
「そうだね。苦しいよ。だけど、この体質があるから、私は雪を大切にできるし、明光を愛していられるの。――宝を失う恐怖を知らない人は、宝があってくれるだけで、どれほど恵まれているかを知り得ないと、私は思う」
「哲学的ね」
「うん。世の中には、それを知っている人がどれだけ存在するんだろう。宝を知っているリリィは大丈夫。保証してあげる。きっと、身を焦がすような恋を知る時が来るよ」
――恋に身を焦がす。
そんな恋愛を、月はしているのだろうか。経験者は語る、という言葉がリリィの頭を過ぎった。月の言う通り、今はまだ自分はその時ではないのか。
友人のアドバイスを噛みしめていると、静かにヴィンセントが入って行った襖が開かれ、また彼が顔を出した。
「悪いな。二人とも、まだ起きているか?」
ヴィンセントはよほどのことがない限り、声を荒げないせいか、この時も彼の声は夜陰に溶けそうなほど静謐だった。
「起きてる。どうかしたの?」
「……グランパが呼んでいる。旅行に水を差してしまうが――きっと最期だ」
ヴィンセントの台詞に、リリィの腹の中に氷塊が落とされた。
◇
屋敷の最奥の部屋を与えられたグランパのところには、既に月とリリィ以外は全員が揃っていた。皆、一様に沈んだ表情をしているのは、やはりこれから死の旅路へ向かおうとする者が発する空気を知っているからなのだろう。
「……グランパ! そんな……昼間はあんなに元気だったのに……!」
「おお……リリィ。すまんなあ……儂らはいつもお前の喜びを奪ってしまう……」
布団からにっこりと笑っていても、グランパはとても小さく見える。布団から、渾身の力でなんとか枕元に近寄ったリリィに手を差し伸べた。そのしわがれた枯れ木のような冷たい手をリリィは熱を分けるように受け取ると、グランパは今にも決壊寸前のリリィの頬を撫でた。
「リリィ=アンジェ……賢く美しい愛ぐし子よ……長じれば、さぞ麗しく誰をも引き付けるようになるじゃろうなあ……それをこの眼で見れぬ事だけが悔やまれる……」
冷たい手は愛を語る。もっとお前を見ていたかった、と。
「グランパ……大好きよ……グランパも私を置いて逝ってしまうの?」
「ああ……この爺は果報者じゃった。先にアベルに逢いに行く……リリィ、ジャンヌに託してある。儂がお前にできるたった一つの物じゃ。受け取っておくれ。……そして、幸せにおなり……必ずじゃ……幸せに、なりなさい……」
グランパはつうっと光る筋を流した。
「……あの桜、歌、なんと美しかったことよ……」
詠うような遺言を遺し、グランパの手はリリィの頬をひと撫でして音もなく布団の上に手が落ちた。
――老賢人は、最期までただ一人の少女の幸福を案じて逝ってしまった。
「あ……ああ……どう、して……!? まだ話し足りないよ? まだ……教えて欲しいことがいっぱいあるのに……!」
布団に落ちたグランパの手を握りしめて、リリィはグランパの亡骸に縋りついた。涙が出ないのが不思議で、グランパに申し訳なかった。きっと月の歌で流し過ぎたせいだ、とリリィはあまりに薄情な己の涙腺を責めた。
その小さくなった背中に涙声で、しかし毅然とした声でジャンヌが追い打ちをかける。
「リリィ=アンジェ――いいえ、我ら『クラン』の新しい惣領。貴女には、先代の葬儀が終わり次第、仕事を覚えてもらいます」
「……ジャンヌ?」
あまりに衝撃的な新たな肩書きでリリィを呼ぶジャンヌに、リリィは瞠目する。
――『クラン』の新しい惣領?
明光は言わなかったか。『クラン』とは、世界最大の情報シンジケートのことだと。
ジャンヌはリリィのことを「新しい惣領」と呼んだ。その響きは、いつもの姉のような慈愛はなく、ただ職務上の事務的なものだった。
突如、明光が立ち上がったのを雪が制したが、もう一人――ヴィンセントまでは誰も止められはしなかった。これほどまでに怒っている彼を見るのは、いつ以来だろうか。出逢った時にアベルを諫めた、あの怒鳴り声よりも、もっと音もなく焔を燃やしているようだ。そんなヴィンセントは片手でジャンヌの胸倉を掴み、引き寄せる。
「……おい、てめぇらは何様のつもりだ? ……幸せになれという。誰よりもその身に幸あらんことをとのたまいながら、まだ八つの子供に――リリィにこれ以上強大な役目を背負わせるのか!! ふざけるな!!」
「私だって反対したわ!! まだ幼すぎると! せめてリリィが学生を卒業してからでも遅くはないと! でも……彼には時間が無かったのよ。……惣領の決定事項なら、私に反対はできないじゃない……!」
ヴィンセントのあまりの剣幕に震えつつも――しかし、苦虫を噛み潰したかのようなか細い声でジャンヌは反論した。
二人の言い争いをリリィは、どこか遠いところで聴いているような既視感に陥った。これには覚えがあった。かつて兄・ルイス=ブライアンの腕の中で聞いた、兄が祖父に反論していた、あの時と同じ感覚だった。
「ヴィンセント……ジャンヌ……喧嘩、しないで。……お願い……今は、月達も居る。それに……ちゃんと解るよ。グランパは私を護る為に『クラン』を譲ってくれたこと。お祖父様とグランパは違うことくらい、ちゃんと解っているから、明日グランパをフランスに連れて帰ってあげようよ。ちゃんと安心して眠らせてあげたい……」
「……リリィ。お前もお前だ! なぜ怒らない! 初めて仕事をしろと言われた時は拒否できただろう!?」
「……ヴィンセント。横槍を入れるようで悪いけれど、これ以上安眠した人の前で騒がないで。リリィが『クラン』以外に何を背負っているのかは知らない。でも、グランパはそれを解っていながらも惣領としたのなら、それは決してリリィを追い詰める為ではない。彼女も理解していると言ったわ。――なら、もう騒ぎ立てても詮無いことじゃない」
悄然としながらも、全てを受け入れるリリィにまで当たり散らすヴィンセントを、月が冷静に諭す。ヴィンセントはギリと音がするほど歯を噛みしめると、ジャンヌを乱暴に離して部屋を出て行ってしまった。
「天使」
「……ごめん、グランパと二人だけにして」
なにかを言いかけた明光を手だけで押し留めて、月はそっと雪達に出て行くよう促した。
「明日、フランスに発てる直行便の用意だけはしておくわ。――じゃあね」
ぱたん、と軽い襖の閉まる音を確かめるとリリィは、もう答えを返してくれないグランパに問いかけた。
「ねえ、グランパ。――幸せって、なに?」
◇
ヴィンセントは裸足で月明かりだけの庭園に出ていた。丁寧に手入れが施されている芝生は柔らかく、多少土は付くが今はそんなことを気にしてはいられない。
この武家屋敷には小さめだが池があり、その上には立派な松の樹が聳え立っていた。松は大きな影を作る。影の中に入ると妙に落ち着いた。昂っていた心が些少ながら冷静を取り戻す。だが、怒りがおさまった訳ではない。
「主」
「ハウンドか。なんだ」
「神界で不穏な動きが」
間の悪い時に、とヴィンセントは舌打ちを漏らしたが、それでも詳細を話すよう促した。
「上位神格者の間で不正に神格位の売買が行われている様子。まだ未確定事項が多く、主犯の特定もできておりませぬゆえ我々も偵察の段階です。しかし、葬儀が終わり次第、正式に主と“聖女”の両方に動いて頂く運びとなるよう万神庁は動いています」
「なぜ俺まで動く必要がある? またリリィのお守りか?」
妙に棘のある言い方になってしまった。相手が感情の無い使い魔相手にだから問題はないが、いい加減に己の狭量さに嫌気が指す。
「神格位を買う者の中に人間も混じっているとのこと。主にはその人間の滅殺を、と」
「解った。後でリリィにも伝えておく」
下がれ、と命じようとした瞬間、ハウンドが先手を打ってヴィンセントの命令を妨げた。
「もう一点、二年前のラーラ・ファントムの事件の折、ご報告に漏れが」
「二年前のことを今更掘り返すのか」
「あまり重要視しておりませんでしたので。私は“聖女”の影に入って耳にしたことです。ラーラは“聖女”の守護神と天使を『失われた古の最高神と天使』と申しました。更に『クラン』の新惣領となった今、万神庁は“聖女”に神格位を与えるかという論議がされております」
「“聖女”に憑いている神と天使は代々変わりないはずだろう。惣領になったとは言え、なぜだ……?」
グランパは元々人間だった。だが、『クラン』を立ち上げ、世界に幅を利かせるようになった手腕を認められ、万神庁から特別に神格位が与えられた。その後は神界の情報にも通じ、人間界との橋渡し役となった。ゆえに新しい惣領であるリリィに神格位をというのも解らない話ではない。引っかかるのはハウンドが聞いたというリリィの守護神と天使の存在についてだ。
「ハウンド、ラーラの指す『古の神』に心当たりはあるか?」
「誠に遺憾ながら……我ら、使い魔風情では耳にすることもありますまい。パンサーも同じでしょう」
ヴィンセントは二年前へと思考を巡らせる。確かあの時守護神は言わなかったか――「名前は教えられない」と。そこに思い当たったヴィンセントは、いつの間にか怒りの焔は鎮静化し、今は必死に二年前の様子を思い出していた。
グランパが生きていたら知っていたかもしれない――否、それも怪しい。
神界の者の名は人間が暫定的に付けた通称である。主神に授けられた真名はよほどの力を有していない限り、表には出さないのが通例だ。なので、ヴィンセントは異例と言える。そうでなくば、呪法に長けた神格者に真名を握られると心臓を鎖で締め上げられたも同然の事態となる。十中八九、悪用されるからだ。
それゆえ、真名を隠すのは何も稀有な例ではないのだが、リリィに関しては別だ。
「まさか……あの双神……? いや、なにを馬鹿な……」
ヴィンセントは頭を過ぎった一つの可能性を無かったことにした。『古の神と天使』で行き当たった存在は、およそ人間の娘が背負える存在ではない。確かにリリィの守護神は桁外れだ。ヴィンセントすら、彼らからすれば路傍の石に等しいだろう。
「……有り得ない。第一、彼らは強すぎる力のせいで万神庁に封じられているはずだ」
ヴィンセントは思わず額に手を当てる。
――万が一、この可能性が当たっていたとしたら、今後リリィは神格位を持たねば命に関わることとなる。
「俺はこれから万神庁に戻る。パンサーだけ付いて来い。明日の朝までには戻る。ハウンド、リリィは頼んだ」
「……何をしに行かれるのです? 下手を打てば、貴方様の御命にも関わります」
「心配は無用だ。封じの間の結界がちゃんと働いているのかを確かめたら帰ってくる。それだけなら堅物共も多めに見てくれるだろうよ」
「くれぐれもお気を付けて」
ハウンドが影に入ったと同時に、ヴィンセントも死神に変じて影と同じ色のマントを翻して消えた。
続...
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