薔薇の死神と神殺しの聖女

紺坂紫乃

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 激烈な痛みを感じている。痛覚はそのままに、肺と心臓を残して、腹を裂かれ、臓物を直に触られた不快感が未だに残っている。
 気を失ってしまえたらどんなに楽だったことだろうか。だが、あの女はそれを許さなかった。真っ赤な唇が、弧を描いて『自分達』の形が変じていく様を見て悦に入っていた。

――僕の、脚

 脚を動かそうとしたつもりだった。だが、脚は、己の知る『歩く』という行為とはかけ離れた動作をする。
 そして冷たい鉄格子の中に入れられている、という情報を得た。次いで得た情報に、彼の絶叫は石壁すら震わせる咆哮ほうこうであった。



 サン・ミッシェルから帰宅すると、ジャンヌが血相を変えてヴィンセントにすがりついてきた。いつものようにソファに座っているグランパも顔が真っ青だった。それだけで何か異常事態が発生したのだと、リリィはさとる。だから部屋を辞そうとしたのだ。だが、ジャンヌが震える声でリリィを止めた。

「なにがあった?」

 先に問うたのは、リリィが初めて逢った時のような死神の声音をしたヴィンセントだった。

「アベルが……アベルが、行方不明なの……。神界で、ここ最近頻発ひんぱつしていた下位の神格者の失踪事件……犯人の目星はついているんだけれど、相手が相手だけに手が出せなかったのよ」

「ラーラ・ファントム、だったか。主犯のちた女神は」

「……リリィ、神界から通達じゃ。――初仕事じゃよ」

「え……?」

「おい、じじい!! ふざけんな!! リリィ、そんな通達を受諾じゅだくする必要はない。俺がカタをつけてくる」

「ヴィンセント・シルバ、主神からの……命令書なんじゃよ。受け入れねば、お前の命も危うい」

 怒って踵を返そうとするヴィンセントを静かに諭すグランパの声は涙まじりだった。

「リリィ=アンジェ」

 足が床に縫い付けられたように動けなかったリリィに、グランパは涙を浮かべた目で彼女を呼んだ。
 ふるり、とリリィは首を横に振った。
 今度こそジャンヌは声を上げて泣き始めた。

「……“聖女”リリィ=アンジェ。白百合の下に罪人たる女神ラーラ・ファントムの滅殺を命じる――これが神界からの通達じゃ」

「その、女神を殺せば……アベルは戻ってくるのね?」

 リリィの腹の底で小さな焔が産まれた。

 ――その女神を、殺すだけ。そうすればアベルは帰ってきてくれる。

 リリィはそう信じていた。右手の白十字が無意識に熱を持った気がした。

「……ラーラを殺しても、アベルが帰ってこられるとは限らない」

 ヴィンセントの静謐せいひつな声が、今は耳に痛かった。

「どうして?」

「……行けば解る。グランパ、ジャンヌ。最悪、アベルの『何か』は持って帰ってくるようにする。墓の用意だけしておいてくれ」

 ヴィンセントはそう告げると、黒マントの死神の姿へと変じた。強い薔薇の芳香が部屋に立ち込める。リリィは一歩後退したが、右手を――否、右腕ごと強い力でヴィンセントに引かれて共に影の中に吸い込まれてしまった。 



 神界とは、教会や美術館に描かれたようなきらびやかで神々しい印象を持っていた。だが、ヴィンセントに抱かれて、連れて来られた『そこ』はリリィのイメージとは正反対の場所だった。
 思わず顔を覆ってしまったひどい腐臭と濃厚すぎる生き物の血の匂い。腐らせた牛肉が発酵したようなそれは、神達が集う場所だとは到底思えないほどにひどい臭気だった。

「見るな」

 ヴィンセントがリリィの目を思わず手で隠した。

「ハウンド、パンサー……アベルの場所は解るか?」

「申し訳ありません。我らの鼻もこの臭気では利きませぬ……お許しを」

「くそ……足頼みってことか」

「あっち」

 はやる気持ちとは裏腹に、使い魔ですら封じられ、ヴィンセントが悪態を吐いた時、腕の中の少女が呟いた。

「リリィ?」

「ここから二時の方角。アベルならばそこ。ラーラ・ファントムならば四時だ」

 腕の中を見れば、リリィを取り巻く金色のオーラが全身から溢れ出していた。少女の碧い眼は虚ろな金色へと変じてさえいた。

「……誰だ、『お前』」

「お前達がリリィ=アンジェの守護神と呼ぶ者よ。名前は教えられない。好きに呼ぶが良い、死神」

 あまりに強い神気に、ヴィンセントは鳥肌が立った。
 なんという者を身の内に巣食わせていたのか――先刻までの愛らしいリリィ=アンジェとは正反対の神と天使はリリィの身体を支配しているようだ。

「聞こえるか、死神。死を望んでいるのに許されず、尊厳すら玩具にされた下位の者達の慟哭どうこくが」

 ふわり、とリリィの身体はヴィンセントの腕の中から地に降り立って周囲を見渡す。

「……なんとむごたらしい。ラーラ・ファントム、女神が堕ちるとかくも残酷になれるのか」

 ヴィンセントに話しかけているようで、その実、リリィは辺りの惨状に語りかけているようだった。

 肉片がついたままの青白い腕。
 皮だけ剥がれた蛇の死体。

 ヴィンセントがリリィの眼から遠ざけたというのに、この守護神と天使は躊躇ためらう様子など微塵もなく、それらを一瞥しながら歩んでいく。


 ほどなく進んだ頃、ピタリとリリィが歩みを止めた。そこは多数の鉄格子が並び、中空にはえぐられたままの眼球やらなにかの臓物がホルマリンの瓶に入れられていた。

 ――殺してくれ

 空耳かと疑った。しかし、一人が叫べば共鳴するように、その小さな部屋はおよそ生者とは思えない物達の叫びが木霊する。

「……生きている」

「そうだ。斯様かような姿にされ、むしばみ続けられる痛みを強制されても死を許されないのだよ。――待っていろ、今、楽にしてやる……!」

「――待て、まだアベルが!!」

「……やめて!」

 アベルがこの何処かにいるかもしれないのだ。
 リリィの小さな背から、目も眩むほどの強大な黄金の羽根が広げられた時だった。
ヴィンセントが止めようと肩を掴むと、その掴んだ手が焼け爛れる。痛みを感じたのと同時に、よく知っている、あのかよわくも幼い声が耳に入った。

「リリィか?」

「お願い……ここ、アベルがいる……! 殺さないで……!!」

 小さな身体を抱きしめて、身の内の神と天使と戦っているようだった。あまりに悲痛な声に抱き寄せてやりたいのに、ヴィンセントは彼女に触れることさえ許されない。

 ――その時だった。

『リ……リィ……ヴィ、ン……?』

「アベルか!? どこだ!?」

「アベル……アベル!!」

 しゃくりあげるリリィの声にヴィンセントはマント越しに彼女を引き寄せる。

『は……めん、ね……ドジっちゃ、った……リリィ、泣かな……で』

「パパ!! 嫌だ! ねえ、アベル! 逢いたい、逢いたいよ! ラーラ・ファントムって女神にやられたんでしょ!? そいつを倒したら帰ってきてくれるのよね!?」

 ぼろぼろと大粒の涙を流しながら、リリィは叫んでいた。

『……愛し、るよ……リリィ……ぼく、の、可愛い……後生、から、見ないで』

「くそ、拉致らちがあかない!! パンサー、来い!!」

 ヴィンセントはリリィを抱き寄せている手とは反対の手を空にかざす。すると、長身のヴィンセントを遥かに超える大鎌がその手に現れた。大鎌を手にすると同時にヴィンセントは渾身こんしんの力でそれを振るった。
 鉄が裂ける音よりも風切り音が大きく聞こえ、鉄格子はたちまち細切れになる。そして格子の影になっていた『もの』達が仄暗ほのぐらい灯りの下に姿を現した。

「ヴィンセント……なに、これ……?」

 初めはライオンだと、リリィは思った。だが、瞬時に違うと解る。ライオンの顔は右半分だけで、左側はリリィがよく知る愛しい顔だったのだ。

 ――アベルだ。あの、墓地で助けてくれた時と同じ優しい眼差し。

「……合成獣キメラか……!!」

『気持ち、悪い……ごめ……ね。僕、ね、楽……なりたい、な』

「嫌……嫌だ、アベル……帰ろ? ね、私、ラーラって女神になんとしても元に戻すようにさせるから!! そうしたら……偉い人の命令も聞くよ……ちゃんと“聖女”のお仕事もするから!」

 左の顔だけになってしまったアベルの眼から一筋の雫が流れた。

『   』

 アベルの最期の言葉を、リリィの耳は受け付けなかった。

 喉が裂けそうなほど叫んだ。

 ――どんなにこいねがっても、守護神と天使は止められなかった。

 舞い散る金の羽根は荘厳な吹雪。いつもなら美しいと思えたのかもしれない。
 合成獣キメラとされた者達には、それは確かに救いだった。
 羽根に触れた途端に下位の神格者達は輝く砂となって行った。

『ありがとう』

 無数の礼がヴィンセントには聞こえた。
 
 ――だが、リリィは壊れた人形のようにしゃがみ込んだまま動かなかった。

「リリィ」

 ヴィンセントは硬直したまま動かない少女の手を取る。今度は焼かれこそしなかったが、リリィは声も上げず、ただただ涙を流していた。その手に、小さな小さな薔薇のつぼみを持たせた。

「……俺は神格者を殺せない。俺にできるのは死期を迎えた者を薔薇にして、土に還らせるようにすることだ。アベルは……兄貴は、皮肉な事に獣と合わさっていたから、これだけだが、薔薇にしてやることができた。これを墓に入れてやろう。……グランパ達が用意してくれているから」

 ヴィンセントが生み出す薔薇は総じて黒薔薇や剣弁の紅い薔薇だ。けれど、まるでその人柄を現すように、アベルの薔薇はリリィのピアスと同じ薄紅色の蕾だった。

 その小さな薔薇を胸に抱いて、リリィは泣いた――父の名を何度も、何度も呼びながら。

 ヴィンセントも一度だけ「……兄貴」と呼んだのが聞こえた。本当に消え入りそうな声だったので、リリィの耳に届いたかは怪しい。



時間も忘れた頃、ヴィンセントの胸にしがみついていた少女ははなをすすりながらも、眼つきを変えた。

「ヴィンセント……あのね、お願いがあるの」

「なんだ……?」

「ラーラ・ファントムのところへは、私一人で行かせて」

 予想外の願いに、ヴィンセントは閉口した。あまりに危険すぎる、という言葉は少女に渡された薔薇の蕾によって制される。

「これを……一刻も早くグランパ達に届けてあげて。きっと心配で心配で待っているわ」

「それは、お前の身の安全も同じだ……!」

「ありがとう……でも、ラーラのところへは私だけで行きたいの。――貴方には見られたくない……お願い」

 きっとラーラを眼の前にしたら、彼女以上に残忍な獣と化するであろう己を、ヴィンセントには見て欲しくはない。リリィは言葉にせず、ただヴィンセントに目で諭す。

 しばし逡巡(しゅんじゅん)した後、ヴィンセントはぎりと音がしそうなほどに奥歯を噛みしめてから頷いた。

「解った。だが、グランパ達に預けたらすぐに戻ってくる。これは絶対だ、良いな?」

「うん……それまでには、終わらせておく」

「念のためだ。お前の影の中にハウンドを置いて行く。何かあったら、それで報せを」

 小さく首肯すると、ヴィンセントは大きな手の中に蕾を包ませて、影に溶けた。
 ヴィンセントが消えたのを確認すると、リリィ=アンジェはアベルの末期の声を思い出して再び涙を流した。しかし、憎しみを糧に顔を上げ、気丈にも、声高に叫んだ。

「――さあ、私の身体を好きにしていいわ。その代わり、ラーラ・ファントムに、アベル達が味わった以上の苦しみと絶望を与えて!! “神殺しの聖女”の初陣を飾るに相応しい女神の死を!!」

続...
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