4 / 14
Ⅲ
しおりを挟む
Ⅲ
激烈な痛みを感じている。痛覚はそのままに、肺と心臓を残して、腹を裂かれ、臓物を直に触られた不快感が未だに残っている。
気を失ってしまえたらどんなに楽だったことだろうか。だが、あの女はそれを許さなかった。真っ赤な唇が、弧を描いて『自分達』の形が変じていく様を見て悦に入っていた。
――僕の、脚
脚を動かそうとしたつもりだった。だが、脚は、己の知る『歩く』という行為とはかけ離れた動作をする。
そして冷たい鉄格子の中に入れられている、という情報を得た。次いで得た情報に、彼の絶叫は石壁すら震わせる咆哮であった。
◇
サン・ミッシェルから帰宅すると、ジャンヌが血相を変えてヴィンセントに縋りついてきた。いつものようにソファに座っているグランパも顔が真っ青だった。それだけで何か異常事態が発生したのだと、リリィは覚る。だから部屋を辞そうとしたのだ。だが、ジャンヌが震える声でリリィを止めた。
「なにがあった?」
先に問うたのは、リリィが初めて逢った時のような死神の声音をしたヴィンセントだった。
「アベルが……アベルが、行方不明なの……。神界で、ここ最近頻発していた下位の神格者の失踪事件……犯人の目星はついているんだけれど、相手が相手だけに手が出せなかったのよ」
「ラーラ・ファントム、だったか。主犯の堕ちた女神は」
「……リリィ、神界から通達じゃ。――初仕事じゃよ」
「え……?」
「おい、じじい!! ふざけんな!! リリィ、そんな通達を受諾する必要はない。俺がカタをつけてくる」
「ヴィンセント・シルバ、主神からの……命令書なんじゃよ。受け入れねば、お前の命も危うい」
怒って踵を返そうとするヴィンセントを静かに諭すグランパの声は涙まじりだった。
「リリィ=アンジェ」
足が床に縫い付けられたように動けなかったリリィに、グランパは涙を浮かべた目で彼女を呼んだ。
ふるり、とリリィは首を横に振った。
今度こそジャンヌは声を上げて泣き始めた。
「……“聖女”リリィ=アンジェ。白百合の下に罪人たる女神ラーラ・ファントムの滅殺を命じる――これが神界からの通達じゃ」
「その、女神を殺せば……アベルは戻ってくるのね?」
リリィの腹の底で小さな焔が産まれた。
――その女神を、殺すだけ。そうすればアベルは帰ってきてくれる。
リリィはそう信じていた。右手の白十字が無意識に熱を持った気がした。
「……ラーラを殺しても、アベルが帰ってこられるとは限らない」
ヴィンセントの静謐な声が、今は耳に痛かった。
「どうして?」
「……行けば解る。グランパ、ジャンヌ。最悪、アベルの『何か』は持って帰ってくるようにする。墓の用意だけしておいてくれ」
ヴィンセントはそう告げると、黒マントの死神の姿へと変じた。強い薔薇の芳香が部屋に立ち込める。リリィは一歩後退したが、右手を――否、右腕ごと強い力でヴィンセントに引かれて共に影の中に吸い込まれてしまった。
◇
神界とは、教会や美術館に描かれたような煌びやかで神々しい印象を持っていた。だが、ヴィンセントに抱かれて、連れて来られた『そこ』はリリィのイメージとは正反対の場所だった。
思わず顔を覆ってしまったひどい腐臭と濃厚すぎる生き物の血の匂い。腐らせた牛肉が発酵したようなそれは、神達が集う場所だとは到底思えないほどにひどい臭気だった。
「見るな」
ヴィンセントがリリィの目を思わず手で隠した。
「ハウンド、パンサー……アベルの場所は解るか?」
「申し訳ありません。我らの鼻もこの臭気では利きませぬ……お許しを」
「くそ……足頼みってことか」
「あっち」
逸る気持ちとは裏腹に、使い魔ですら封じられ、ヴィンセントが悪態を吐いた時、腕の中の少女が呟いた。
「リリィ?」
「ここから二時の方角。アベルならばそこ。ラーラ・ファントムならば四時だ」
腕の中を見れば、リリィを取り巻く金色のオーラが全身から溢れ出していた。少女の碧い眼は虚ろな金色へと変じてさえいた。
「……誰だ、『お前』」
「お前達がリリィ=アンジェの守護神と呼ぶ者よ。名前は教えられない。好きに呼ぶが良い、死神」
あまりに強い神気に、ヴィンセントは鳥肌が立った。
なんという者を身の内に巣食わせていたのか――先刻までの愛らしいリリィ=アンジェとは正反対の神と天使はリリィの身体を支配しているようだ。
「聞こえるか、死神。死を望んでいるのに許されず、尊厳すら玩具にされた下位の者達の慟哭が」
ふわり、とリリィの身体はヴィンセントの腕の中から地に降り立って周囲を見渡す。
「……なんと惨たらしい。ラーラ・ファントム、女神が堕ちるとかくも残酷になれるのか」
ヴィンセントに話しかけているようで、その実、リリィは辺りの惨状に語りかけているようだった。
肉片がついたままの青白い腕。
皮だけ剥がれた蛇の死体。
ヴィンセントがリリィの眼から遠ざけたというのに、この守護神と天使は躊躇う様子など微塵もなく、それらを一瞥しながら歩んでいく。
ほどなく進んだ頃、ピタリとリリィが歩みを止めた。そこは多数の鉄格子が並び、中空には抉られたままの眼球やらなにかの臓物がホルマリンの瓶に入れられていた。
――殺してくれ
空耳かと疑った。しかし、一人が叫べば共鳴するように、その小さな部屋はおよそ生者とは思えない物達の叫びが木霊する。
「……生きている」
「そうだ。斯様な姿にされ、蝕み続けられる痛みを強制されても死を許されないのだよ。――待っていろ、今、楽にしてやる……!」
「――待て、まだアベルが!!」
「……やめて!」
アベルがこの何処かにいるかもしれないのだ。
リリィの小さな背から、目も眩むほどの強大な黄金の羽根が広げられた時だった。
ヴィンセントが止めようと肩を掴むと、その掴んだ手が焼け爛れる。痛みを感じたのと同時に、よく知っている、あのかよわくも幼い声が耳に入った。
「リリィか?」
「お願い……ここ、アベルがいる……! 殺さないで……!!」
小さな身体を抱きしめて、身の内の神と天使と戦っているようだった。あまりに悲痛な声に抱き寄せてやりたいのに、ヴィンセントは彼女に触れることさえ許されない。
――その時だった。
『リ……リィ……ヴィ、ン……?』
「アベルか!? どこだ!?」
「アベル……アベル!!」
しゃくりあげるリリィの声にヴィンセントはマント越しに彼女を引き寄せる。
『は……めん、ね……ドジっちゃ、った……リリィ、泣かな……で』
「パパ!! 嫌だ! ねえ、アベル! 逢いたい、逢いたいよ! ラーラ・ファントムって女神にやられたんでしょ!? そいつを倒したら帰ってきてくれるのよね!?」
ぼろぼろと大粒の涙を流しながら、リリィは叫んでいた。
『……愛し、るよ……リリィ……ぼく、の、可愛い……後生、から、見ないで』
「くそ、拉致があかない!! パンサー、来い!!」
ヴィンセントはリリィを抱き寄せている手とは反対の手を空にかざす。すると、長身のヴィンセントを遥かに超える大鎌がその手に現れた。大鎌を手にすると同時にヴィンセントは渾身の力でそれを振るった。
鉄が裂ける音よりも風切り音が大きく聞こえ、鉄格子はたちまち細切れになる。そして格子の影になっていた『もの』達が仄暗い灯りの下に姿を現した。
「ヴィンセント……なに、これ……?」
初めはライオンだと、リリィは思った。だが、瞬時に違うと解る。ライオンの顔は右半分だけで、左側はリリィがよく知る愛しい顔だったのだ。
――アベルだ。あの、墓地で助けてくれた時と同じ優しい眼差し。
「……合成獣か……!!」
『気持ち、悪い……ごめ……ね。僕、ね、楽……なりたい、な』
「嫌……嫌だ、アベル……帰ろ? ね、私、ラーラって女神になんとしても元に戻すようにさせるから!! そうしたら……偉い人の命令も聞くよ……ちゃんと“聖女”のお仕事もするから!」
左の顔だけになってしまったアベルの眼から一筋の雫が流れた。
『 』
アベルの最期の言葉を、リリィの耳は受け付けなかった。
喉が裂けそうなほど叫んだ。
――どんなに希っても、守護神と天使は止められなかった。
舞い散る金の羽根は荘厳な吹雪。いつもなら美しいと思えたのかもしれない。
合成獣とされた者達には、それは確かに救いだった。
羽根に触れた途端に下位の神格者達は輝く砂となって行った。
『ありがとう』
無数の礼がヴィンセントには聞こえた。
――だが、リリィは壊れた人形のようにしゃがみ込んだまま動かなかった。
「リリィ」
ヴィンセントは硬直したまま動かない少女の手を取る。今度は焼かれこそしなかったが、リリィは声も上げず、ただただ涙を流していた。その手に、小さな小さな薔薇の蕾を持たせた。
「……俺は神格者を殺せない。俺にできるのは死期を迎えた者を薔薇にして、土に還らせるようにすることだ。アベルは……兄貴は、皮肉な事に獣と合わさっていたから、これだけだが、薔薇にしてやることができた。これを墓に入れてやろう。……グランパ達が用意してくれているから」
ヴィンセントが生み出す薔薇は総じて黒薔薇や剣弁の紅い薔薇だ。けれど、まるでその人柄を現すように、アベルの薔薇はリリィのピアスと同じ薄紅色の蕾だった。
その小さな薔薇を胸に抱いて、リリィは泣いた――父の名を何度も、何度も呼びながら。
ヴィンセントも一度だけ「……兄貴」と呼んだのが聞こえた。本当に消え入りそうな声だったので、リリィの耳に届いたかは怪しい。
◇
時間も忘れた頃、ヴィンセントの胸にしがみついていた少女は洟をすすりながらも、眼つきを変えた。
「ヴィンセント……あのね、お願いがあるの」
「なんだ……?」
「ラーラ・ファントムのところへは、私一人で行かせて」
予想外の願いに、ヴィンセントは閉口した。あまりに危険すぎる、という言葉は少女に渡された薔薇の蕾によって制される。
「これを……一刻も早くグランパ達に届けてあげて。きっと心配で心配で待っているわ」
「それは、お前の身の安全も同じだ……!」
「ありがとう……でも、ラーラのところへは私だけで行きたいの。――貴方には見られたくない……お願い」
きっとラーラを眼の前にしたら、彼女以上に残忍な獣と化するであろう己を、ヴィンセントには見て欲しくはない。リリィは言葉にせず、ただヴィンセントに目で諭す。
しばし逡巡(しゅんじゅん)した後、ヴィンセントはぎりと音がしそうなほどに奥歯を噛みしめてから頷いた。
「解った。だが、グランパ達に預けたらすぐに戻ってくる。これは絶対だ、良いな?」
「うん……それまでには、終わらせておく」
「念のためだ。お前の影の中にハウンドを置いて行く。何かあったら、それで報せを」
小さく首肯すると、ヴィンセントは大きな手の中に蕾を包ませて、影に溶けた。
ヴィンセントが消えたのを確認すると、リリィ=アンジェはアベルの末期の声を思い出して再び涙を流した。しかし、憎しみを糧に顔を上げ、気丈にも、声高に叫んだ。
「――さあ、私の身体を好きにしていいわ。その代わり、ラーラ・ファントムに、アベル達が味わった以上の苦しみと絶望を与えて!! “神殺しの聖女”の初陣を飾るに相応しい女神の死を!!」
続...
激烈な痛みを感じている。痛覚はそのままに、肺と心臓を残して、腹を裂かれ、臓物を直に触られた不快感が未だに残っている。
気を失ってしまえたらどんなに楽だったことだろうか。だが、あの女はそれを許さなかった。真っ赤な唇が、弧を描いて『自分達』の形が変じていく様を見て悦に入っていた。
――僕の、脚
脚を動かそうとしたつもりだった。だが、脚は、己の知る『歩く』という行為とはかけ離れた動作をする。
そして冷たい鉄格子の中に入れられている、という情報を得た。次いで得た情報に、彼の絶叫は石壁すら震わせる咆哮であった。
◇
サン・ミッシェルから帰宅すると、ジャンヌが血相を変えてヴィンセントに縋りついてきた。いつものようにソファに座っているグランパも顔が真っ青だった。それだけで何か異常事態が発生したのだと、リリィは覚る。だから部屋を辞そうとしたのだ。だが、ジャンヌが震える声でリリィを止めた。
「なにがあった?」
先に問うたのは、リリィが初めて逢った時のような死神の声音をしたヴィンセントだった。
「アベルが……アベルが、行方不明なの……。神界で、ここ最近頻発していた下位の神格者の失踪事件……犯人の目星はついているんだけれど、相手が相手だけに手が出せなかったのよ」
「ラーラ・ファントム、だったか。主犯の堕ちた女神は」
「……リリィ、神界から通達じゃ。――初仕事じゃよ」
「え……?」
「おい、じじい!! ふざけんな!! リリィ、そんな通達を受諾する必要はない。俺がカタをつけてくる」
「ヴィンセント・シルバ、主神からの……命令書なんじゃよ。受け入れねば、お前の命も危うい」
怒って踵を返そうとするヴィンセントを静かに諭すグランパの声は涙まじりだった。
「リリィ=アンジェ」
足が床に縫い付けられたように動けなかったリリィに、グランパは涙を浮かべた目で彼女を呼んだ。
ふるり、とリリィは首を横に振った。
今度こそジャンヌは声を上げて泣き始めた。
「……“聖女”リリィ=アンジェ。白百合の下に罪人たる女神ラーラ・ファントムの滅殺を命じる――これが神界からの通達じゃ」
「その、女神を殺せば……アベルは戻ってくるのね?」
リリィの腹の底で小さな焔が産まれた。
――その女神を、殺すだけ。そうすればアベルは帰ってきてくれる。
リリィはそう信じていた。右手の白十字が無意識に熱を持った気がした。
「……ラーラを殺しても、アベルが帰ってこられるとは限らない」
ヴィンセントの静謐な声が、今は耳に痛かった。
「どうして?」
「……行けば解る。グランパ、ジャンヌ。最悪、アベルの『何か』は持って帰ってくるようにする。墓の用意だけしておいてくれ」
ヴィンセントはそう告げると、黒マントの死神の姿へと変じた。強い薔薇の芳香が部屋に立ち込める。リリィは一歩後退したが、右手を――否、右腕ごと強い力でヴィンセントに引かれて共に影の中に吸い込まれてしまった。
◇
神界とは、教会や美術館に描かれたような煌びやかで神々しい印象を持っていた。だが、ヴィンセントに抱かれて、連れて来られた『そこ』はリリィのイメージとは正反対の場所だった。
思わず顔を覆ってしまったひどい腐臭と濃厚すぎる生き物の血の匂い。腐らせた牛肉が発酵したようなそれは、神達が集う場所だとは到底思えないほどにひどい臭気だった。
「見るな」
ヴィンセントがリリィの目を思わず手で隠した。
「ハウンド、パンサー……アベルの場所は解るか?」
「申し訳ありません。我らの鼻もこの臭気では利きませぬ……お許しを」
「くそ……足頼みってことか」
「あっち」
逸る気持ちとは裏腹に、使い魔ですら封じられ、ヴィンセントが悪態を吐いた時、腕の中の少女が呟いた。
「リリィ?」
「ここから二時の方角。アベルならばそこ。ラーラ・ファントムならば四時だ」
腕の中を見れば、リリィを取り巻く金色のオーラが全身から溢れ出していた。少女の碧い眼は虚ろな金色へと変じてさえいた。
「……誰だ、『お前』」
「お前達がリリィ=アンジェの守護神と呼ぶ者よ。名前は教えられない。好きに呼ぶが良い、死神」
あまりに強い神気に、ヴィンセントは鳥肌が立った。
なんという者を身の内に巣食わせていたのか――先刻までの愛らしいリリィ=アンジェとは正反対の神と天使はリリィの身体を支配しているようだ。
「聞こえるか、死神。死を望んでいるのに許されず、尊厳すら玩具にされた下位の者達の慟哭が」
ふわり、とリリィの身体はヴィンセントの腕の中から地に降り立って周囲を見渡す。
「……なんと惨たらしい。ラーラ・ファントム、女神が堕ちるとかくも残酷になれるのか」
ヴィンセントに話しかけているようで、その実、リリィは辺りの惨状に語りかけているようだった。
肉片がついたままの青白い腕。
皮だけ剥がれた蛇の死体。
ヴィンセントがリリィの眼から遠ざけたというのに、この守護神と天使は躊躇う様子など微塵もなく、それらを一瞥しながら歩んでいく。
ほどなく進んだ頃、ピタリとリリィが歩みを止めた。そこは多数の鉄格子が並び、中空には抉られたままの眼球やらなにかの臓物がホルマリンの瓶に入れられていた。
――殺してくれ
空耳かと疑った。しかし、一人が叫べば共鳴するように、その小さな部屋はおよそ生者とは思えない物達の叫びが木霊する。
「……生きている」
「そうだ。斯様な姿にされ、蝕み続けられる痛みを強制されても死を許されないのだよ。――待っていろ、今、楽にしてやる……!」
「――待て、まだアベルが!!」
「……やめて!」
アベルがこの何処かにいるかもしれないのだ。
リリィの小さな背から、目も眩むほどの強大な黄金の羽根が広げられた時だった。
ヴィンセントが止めようと肩を掴むと、その掴んだ手が焼け爛れる。痛みを感じたのと同時に、よく知っている、あのかよわくも幼い声が耳に入った。
「リリィか?」
「お願い……ここ、アベルがいる……! 殺さないで……!!」
小さな身体を抱きしめて、身の内の神と天使と戦っているようだった。あまりに悲痛な声に抱き寄せてやりたいのに、ヴィンセントは彼女に触れることさえ許されない。
――その時だった。
『リ……リィ……ヴィ、ン……?』
「アベルか!? どこだ!?」
「アベル……アベル!!」
しゃくりあげるリリィの声にヴィンセントはマント越しに彼女を引き寄せる。
『は……めん、ね……ドジっちゃ、った……リリィ、泣かな……で』
「パパ!! 嫌だ! ねえ、アベル! 逢いたい、逢いたいよ! ラーラ・ファントムって女神にやられたんでしょ!? そいつを倒したら帰ってきてくれるのよね!?」
ぼろぼろと大粒の涙を流しながら、リリィは叫んでいた。
『……愛し、るよ……リリィ……ぼく、の、可愛い……後生、から、見ないで』
「くそ、拉致があかない!! パンサー、来い!!」
ヴィンセントはリリィを抱き寄せている手とは反対の手を空にかざす。すると、長身のヴィンセントを遥かに超える大鎌がその手に現れた。大鎌を手にすると同時にヴィンセントは渾身の力でそれを振るった。
鉄が裂ける音よりも風切り音が大きく聞こえ、鉄格子はたちまち細切れになる。そして格子の影になっていた『もの』達が仄暗い灯りの下に姿を現した。
「ヴィンセント……なに、これ……?」
初めはライオンだと、リリィは思った。だが、瞬時に違うと解る。ライオンの顔は右半分だけで、左側はリリィがよく知る愛しい顔だったのだ。
――アベルだ。あの、墓地で助けてくれた時と同じ優しい眼差し。
「……合成獣か……!!」
『気持ち、悪い……ごめ……ね。僕、ね、楽……なりたい、な』
「嫌……嫌だ、アベル……帰ろ? ね、私、ラーラって女神になんとしても元に戻すようにさせるから!! そうしたら……偉い人の命令も聞くよ……ちゃんと“聖女”のお仕事もするから!」
左の顔だけになってしまったアベルの眼から一筋の雫が流れた。
『 』
アベルの最期の言葉を、リリィの耳は受け付けなかった。
喉が裂けそうなほど叫んだ。
――どんなに希っても、守護神と天使は止められなかった。
舞い散る金の羽根は荘厳な吹雪。いつもなら美しいと思えたのかもしれない。
合成獣とされた者達には、それは確かに救いだった。
羽根に触れた途端に下位の神格者達は輝く砂となって行った。
『ありがとう』
無数の礼がヴィンセントには聞こえた。
――だが、リリィは壊れた人形のようにしゃがみ込んだまま動かなかった。
「リリィ」
ヴィンセントは硬直したまま動かない少女の手を取る。今度は焼かれこそしなかったが、リリィは声も上げず、ただただ涙を流していた。その手に、小さな小さな薔薇の蕾を持たせた。
「……俺は神格者を殺せない。俺にできるのは死期を迎えた者を薔薇にして、土に還らせるようにすることだ。アベルは……兄貴は、皮肉な事に獣と合わさっていたから、これだけだが、薔薇にしてやることができた。これを墓に入れてやろう。……グランパ達が用意してくれているから」
ヴィンセントが生み出す薔薇は総じて黒薔薇や剣弁の紅い薔薇だ。けれど、まるでその人柄を現すように、アベルの薔薇はリリィのピアスと同じ薄紅色の蕾だった。
その小さな薔薇を胸に抱いて、リリィは泣いた――父の名を何度も、何度も呼びながら。
ヴィンセントも一度だけ「……兄貴」と呼んだのが聞こえた。本当に消え入りそうな声だったので、リリィの耳に届いたかは怪しい。
◇
時間も忘れた頃、ヴィンセントの胸にしがみついていた少女は洟をすすりながらも、眼つきを変えた。
「ヴィンセント……あのね、お願いがあるの」
「なんだ……?」
「ラーラ・ファントムのところへは、私一人で行かせて」
予想外の願いに、ヴィンセントは閉口した。あまりに危険すぎる、という言葉は少女に渡された薔薇の蕾によって制される。
「これを……一刻も早くグランパ達に届けてあげて。きっと心配で心配で待っているわ」
「それは、お前の身の安全も同じだ……!」
「ありがとう……でも、ラーラのところへは私だけで行きたいの。――貴方には見られたくない……お願い」
きっとラーラを眼の前にしたら、彼女以上に残忍な獣と化するであろう己を、ヴィンセントには見て欲しくはない。リリィは言葉にせず、ただヴィンセントに目で諭す。
しばし逡巡(しゅんじゅん)した後、ヴィンセントはぎりと音がしそうなほどに奥歯を噛みしめてから頷いた。
「解った。だが、グランパ達に預けたらすぐに戻ってくる。これは絶対だ、良いな?」
「うん……それまでには、終わらせておく」
「念のためだ。お前の影の中にハウンドを置いて行く。何かあったら、それで報せを」
小さく首肯すると、ヴィンセントは大きな手の中に蕾を包ませて、影に溶けた。
ヴィンセントが消えたのを確認すると、リリィ=アンジェはアベルの末期の声を思い出して再び涙を流した。しかし、憎しみを糧に顔を上げ、気丈にも、声高に叫んだ。
「――さあ、私の身体を好きにしていいわ。その代わり、ラーラ・ファントムに、アベル達が味わった以上の苦しみと絶望を与えて!! “神殺しの聖女”の初陣を飾るに相応しい女神の死を!!」
続...
0
お気に入りに追加
66
あなたにおすすめの小説
追放された偽物聖女は、辺境の村でひっそり暮らしている
黎
ファンタジー
辺境の村で人々のために薬を作って暮らすリサは“聖女”と呼ばれている。その噂を聞きつけた騎士団の数人が現れ、あらゆる疾病を治療する万能の力を持つ聖女を連れて行くべく強引な手段に出ようとする中、騎士団長が割って入る──どうせ聖女のようだと称えられているに過ぎないと。ぶっきらぼうながらも親切な騎士団長に惹かれていくリサは、しかし実は数年前に“偽物聖女”と帝都を追われたクラリッサであった。

婚約破棄はまだですか?─豊穣をもたらす伝説の公爵令嬢に転生したけど、王太子がなかなか婚約破棄してこない
nanahi
恋愛
火事のあと、私は王太子の婚約者:シンシア・ウォーレンに転生した。王国に豊穣をもたらすという伝説の黒髪黒眼の公爵令嬢だ。王太子は婚約者の私がいながら、男爵令嬢ケリーを愛していた。「王太子から婚約破棄されるパターンね」…私はつらい前世から解放された喜びから、破棄を進んで受け入れようと自由に振る舞っていた。ところが王太子はなかなか破棄を告げてこなくて…?
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

婚約破棄された私は、処刑台へ送られるそうです
秋月乃衣
恋愛
ある日システィーナは婚約者であるイデオンの王子クロードから、王宮敷地内に存在する聖堂へと呼び出される。
そこで聖女への非道な行いを咎められ、婚約破棄を言い渡された挙句投獄されることとなる。
いわれの無い罪を否定する機会すら与えられず、寒く冷たい牢の中で断頭台に登るその時を待つシスティーナだったが──
他サイト様でも掲載しております。

番から逃げる事にしました
みん
恋愛
リュシエンヌには前世の記憶がある。
前世で人間だった彼女は、結婚を目前に控えたある日、熊族の獣人の番だと判明し、そのまま熊族の領地へ連れ去られてしまった。それからの彼女の人生は大変なもので、最期は番だった自分を恨むように生涯を閉じた。
彼女は200年後、今度は自分が豹の獣人として生まれ変わっていた。そして、そんな記憶を持ったリュシエンヌが番と出会ってしまい、そこから、色んな事に巻き込まれる事になる─と、言うお話です。
❋相変わらずのゆるふわ設定で、メンタルも豆腐並なので、軽い気持ちで読んで下さい。
❋独自設定有りです。
❋他視点の話もあります。
❋誤字脱字は気を付けていますが、あると思います。すみません。
将来を誓い合った王子様は聖女と結ばれるそうです
きぬがやあきら
恋愛
「聖女になれなかったなりそこない。こんなところまで追って来るとはな。そんなに俺を忘れられないなら、一度くらい抱いてやろうか?」
5歳のオリヴィエは、神殿で出会ったアルディアの皇太子、ルーカスと恋に落ちた。アルディア王国では、皇太子が代々聖女を妻に迎える慣わしだ。しかし、13歳の選別式を迎えたオリヴィエは、聖女を落選してしまった。
その上盲目の知恵者オルガノに、若くして命を落とすと予言されたオリヴィエは、せめてルーカスの傍にいたいと、ルーカスが団長を務める聖騎士への道へと足を踏み入れる。しかし、やっとの思いで再開したルーカスは、昔の約束を忘れてしまったのではと錯覚するほど冷たい対応で――?
拝啓、許婚様。私は貴方のことが大嫌いでした
結城芙由奈@コミカライズ発売中
恋愛
【ある日僕の元に許婚から恋文ではなく、婚約破棄の手紙が届けられた】
僕には子供の頃から決められている許婚がいた。けれどお互い特に相手のことが好きと言うわけでもなく、月に2度の『デート』と言う名目の顔合わせをするだけの間柄だった。そんなある日僕の元に許婚から手紙が届いた。そこに記されていた内容は婚約破棄を告げる内容だった。あまりにも理不尽な内容に不服を抱いた僕は、逆に彼女を遣り込める計画を立てて許婚の元へ向かった――。
※他サイトでも投稿中

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる