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雨歌恋歌
3話
しおりを挟む梅雨も中ごろにさしかかった。
昼間は鈍いながらも太陽光も出ていたので、急いで洗濯物を外に干した。風呂には乾燥機が付いているがやはり太陽に勝るものは無い。例え僅かでも陽光が拝めると気分が変わる。
ベランダとは反対側にある公園からは濡れたアスファルトの匂いに混じって露を含んだ緑の匂いがする。花壇のアジサイに残った雨露も陽光を受けて輝く。太陽さまさまである。
あの飲み会以来、神崎美桜とは顔を合わせていない。彼女の出勤時間と圭輔の起床時間がズレているせいだろう。また誘ってみるかは悩みどころであった。ペタペタとサンダルを鳴らしながら部屋に帰るとスマートフォンのランプが点滅していた。
『今晩八時半、飲みに行かない?』
悪友からの誘いだった。どうせ店はいつものところだろうと目算を付けて了承の旨を返信する。こいつはいつも良いタイミングで飲み会に誘ってくるのがありがたい。
八時半に、ということは八時までには仕事を終わらせなければならないということだ。圭輔は仕事部屋のパソコンを起動し、仕事に取り掛かった。
◇
仕事に集中していたら見事に八時を経過していた。慌てて洗濯物だけ取り込んで着替えて家を飛び出した。悪友の藍澤龍は喫煙所で煙草を吹かしていた。息を切らして来た圭輔を認めると龍は煙草を灰皿に放り込んだ。
「おいっす。いつも五分前には来てるのに、今日はどうした」
「仕事……集中しすぎた。わりい」
「別に気にすんなよ。お前と飲むのも今日が最後だからな。寛容に見よう」
「は? なに、お前も神戸に移るのか?」
「ちげーよ……妹に、彼氏ができた……」
黙って立っていればモデルのような男前だというのに、しゃがみ込んでぐずり始めた龍に圭輔は呆れて文字通り開いた口が塞がらない。龍の重度のシスコンには慣れていたと思ったが、さすがに公共の場でいい歳をした大人が小さくなっているのは人目を引く。
「話は聞いてやるから、とりあえず店に入るぞ」
「おう」
半個室でまだ酒も入っていないのにべそべそと語る龍の話を聞いてみれば心配するだけ無駄だったと圭輔は机に突っ伏した龍の頭を殴った。
「なにが彼氏だよ……ただ家まで送ってくれた親切な少年じゃねーか!! あー、心配して損した!!」
「だって男だぞ!? 十八になったから結婚もできる年齢だぞ!? てめえ、うちの妹の可愛さ、なめてるだろ!!」
龍が力説すればするほど、圭輔は脱力していく。
龍の妹は八年前に目が見えなくなった。光を感じることもできない完全失明だそうだ。写真を龍が何度も見せてくるので、圭輔も顔だけは知っている。確かに下手なアイドルよりは可愛い。性格は龍曰くおしとやかだが、活動的。盲目なことにも後れを示さない芯の強い子だそうだ。この説明は龍が情報源なので誇張されているのは否めないが。
龍には六つ年上の兄も居る。二人揃って眼の中に入れても居たくないほどに可愛がっている妹だった。
「縁結びじゃなくて縁切りの神社って、お前知ってる?」
「知らん。だから、まだ恋人になった訳じゃないだろって言ってる……人の話を聞けよ!!」
「だってよお、手を握って連れてきたんだぞ!? 公園から家まで!!」
「お前んちから最寄りの公園って徒歩五分もないだろうが」
「長引かせたかもしれねーじゃん!!」
「知るか!!」
龍と飲めばいつもこんな感じだが、今日は一段と過剰である。家でこれを聞かされる龍の兄と当の妹にも同情を禁じえない。
「……お前さあ、もう八年経ったから忘れられたかもしれんけど、一応は自分が有名人だって自覚持てよな。まあ、テレビに出てた時からシスコンは公言してたけど」
「なんで隠す必要があるんだよ。俺は真実しか言ってねえ。――うちの妹は可愛い」
「忠告した俺が馬鹿だった……」
龍は元テニスプレイヤーだ。しかも二十歳で年間グランドスラムを達成した唯一の日本人という、実は実力者である。しかし、そんなテニス人生さえも全ては妹が好きだったからという末期だったので、グランドスラム達成と同時に龍は引退した。当時のマスコミやテレビは大騒ぎになったが、肝心の龍は平然としている。
「で、お前の方はどうなんだよ。相変わらず女っ気はなし?」
突如話の方向転換をする龍の問いに圭輔はビールジョッキを手に「……そうでもないかもしんない」と呟いた。
「へえ……気になるのは居るってか? 在宅勤務なのに」
「気になる、か。確かにその表現が一番正しいかもな」
それからは圭輔が先日の停電から始まった美桜との一件を話した。龍は枝豆をもそもそと食べながら時折相槌を打つ。
「つまりは胃袋掴まれたってことじゃねえの。お前、女嫌いの割には単純だよな」
「……やっぱりそう思う? 俺、料理だけで気になってんのかな。でもあののほほんとしてるというか、究極のマイペースも慣れたら会話が成り立つし、買ってくる酒もカクテルとかチューハイじゃなくて大吟醸ってところが意外と好印象でさ」
「……酒が女の指標ってのもなあ。お前の話聞いてたら、俺の知り合い思い出したわ。料理上手だけど超が付く程のマイペースで何考えてるか解らない女。けど、彼女の場合は実家阿が小料理屋やってたから料理が得意だった、かな。なにせ何年も逢ってないから、はっきりは覚えてねえんだよな」
「お前の元カノ?」
「ちげーよ。俺の永遠の彼女は妹だって言って」
「もういい」
また復活しかけた龍の語りを圭輔は一刀両断で断ち切る。そちらに流れを行かせてはならないことは、長年の経験から重々承知しているのだ。
一度、ある種異常性さえ感じた時があった。確か龍がスポーツトレーナーの資格を取った時なので、六年前だ。
「妹さんに手は出してないだろうな。ダチが近親相姦で捕まったなんかシャレになんねーよ」
そう言った圭輔に龍は「兄貴に強烈な釘刺されてるからダイジョウブ」とロックグラスを鳴らしながらニヒルに笑った。
「妹に手出したら去勢されんだ、俺。兄貴は監察医だし、兄貴の婚約者様も獣医だから本当にシャレにならない。あいつらなら本気でやる。たぶん麻酔なんか無いぜ」
「……確かに強烈……」
顔も知らない龍の兄貴に恐怖を感じたのはその時だった。伊達に問題児テニスプレイヤーの弟と盲目の妹の兄を務め上げるだけあると心底恐ろしいと諸手を上げて降参したくなった。
龍の口癖は「俺はどう足掻いても兄貴には勝てない」なので、好奇心から逢ってみたい気もするが恐怖が先に立ってしまい、未だに顔を合わせたことは無い。
「なあ、具体的にお前の兄貴って何が凄いんだ? お前が逆らえないってよっぽどだろ」
長年の疑問を龍に投げかけてみた。龍はビールから切り替えたばかりのハイボールグラスで氷をもてあそび、やっと口を付けてから答えた。
「んー……俺さ、学生時代もテニスで一回も負けた事なかったろ」
「お、おう」
「俺に黒星付けたのは兄貴だけなんだよ。しかも現役の時」
「は? ……おい、嘘だろ!?」
「マジだよ。頭は言うまでも無いけどさ、あの時ほど兄貴を怖えと思ったことない。俺にはテニスしか武器が無いんだって嫌って程思い知らされた。その後も俺があんな引退したから騒ぐマスコミから婚約者と妹――二人を護り通したんだ。どうやったのかは知らないけど、家や職場にもマスコミは一人も来なかったんだ。……敵わねえと思ったよ」
「……それって黒い人脈とか?」
「そんなもん持たなくても兄貴には必要ないな。――だから俺と言う危険な弟と妹を同居させておきながら、自分は暢気に神戸と大阪を往復してんだよ」
圭輔はますます龍の兄が解らなくなった。だが、龍ほどの男でさえ一目置くのだ。圭輔にはまるで勝算が見えなかった。
美桜の十年の片想いに次いで、また勝てない男ができたと圭輔は梅酒のグラスを噛んだ。
◇
その後、圭輔はなにかに勝負を挑むように飲んだが、あまり酒は強い方ではないのでハイボール一杯で潰れた。結局龍の肩を借りて家まで送ってきたらドアの前で美桜に出逢った。
「あれ、美桜?」
「……トールくん?」
圭輔を置いてけぼりにして二人は目を丸くしていた。しかし、龍が「はーん、眠そうなクールビューティね」と意味深に呟くので圭輔は拳で龍の背中を殴った。しかし、酒のせいで大した威力にはならなかった。
「久しぶりね。先輩が神戸に行って以来だから……二年ぶり?」
「おう。元気そうだな。あいつとも連絡取ってんだろ?」
「うん、もうすぐ帰国って聞いたよ。ルイのことだから、またよく解んないお土産を持ってくるんだろうね。ユズちゃんも元気?」
二人にしか解らない話が不快だった。なによりこんなに積極的に話しかける彼女の姿も、必死に話題を探しているように笑っていて、それが圭輔の勘に障った。龍も平然と話しかけている。背の高い龍と細い首がまぶしい美桜はとても似合いだった。途端に増した嘔吐感に圭輔が急いで口を押さえると龍は圭輔を部屋に押し込んだ。圭輔は一目散にトイレに飛び込む。背後では美桜と龍が何か遣り取りする声が聞こえている。
「……情けねえ……」
圭輔の零した独り言は下水に消えて行った。
「俺に妬くのはお門違いだぞ」
ソファで仰向けに倒れた圭輔に水を差し出しながら、龍は念押しをしてくる。
「……さんきゅ。解ってる、お前は妹が命だもんな。そうじゃなくて……」
「なんだよ」
「もしかしなくても……彼女の十年の片想いって、お前の兄貴?」
龍はしばし黙っていたが「まあ、そうだな」と肯定した。
「はは、こりゃ始まる前から終わってたかあ」
龍が絶対に勝てない男――圭輔も聞いた話だけでとても敵わないと痛感したばかりだというのに、美桜が十年も想いを寄せているのはそんな男だった。たった一度二人っきりで酒を酌み交わしただけで何を有頂天になっていたのだろうか。だが、そんな圭輔の痛む頭に龍は平手打ちをお見舞いした。
「阿呆。お前、失恋未満だと思ってるだろ? 言っておくが、美桜の方も報われないのは解りきってんだよ。兄貴は美桜の親友と結婚するんだからな」
知っている、と圭輔は思ったが口にはしない。それを良いことに龍は捲し立てる。
「それ以前にお前らは始まってすらないだろうが。失恋以前の問題だ。お前と美桜、ちょっと似てるよ。変に誰かに気を遣ってスタートラインにすら立たねえところ」
「……そりゃ、気を遣うだろ? お前の兄貴に十年捧げたんだぜ?」
「阿呆が突き抜けて馬鹿になったな。――じゃあ、今後十年、二十年、何十年経とうが未来は俺が貰うくらいのくさいこと言えよ!! 俺は何十年捧げようが経過しようが、この恋は実らないんだからな!!」
龍の言葉に圭輔は重石で頭を殴られた気分だった。茶化してシスコンと道化になる一方で龍は絶対に実らない恋をしているのをすっかり忘れていた。
「……ごめん……」
「別に。これは俺が兄貴に言われたことだし……『てめえの胸中なんざ知りたくもないが、想いが本気だと公に叫ぶなら、妹の最高の幸せを見届けるくらいの腹積もりで立ってろ』ってな」
腕で目を隠したままの圭輔は喉で笑った。
「かっこよすぎだろ、お前の兄貴」
「だろ? 勝てねえよ、あいつには一生……」
飲み直そうかという空気だったが、圭輔はまた口にはせずに龍を見送った。
龍と美桜が並んで立っているだけで腹が立つくらいには彼女に気持ちが向いているのだと自覚させられた圭輔はスマートフォンを握り締めて千鳥足ながらも「連絡先くらい聞いておこう」と玄関の扉を開けた。
「わ……!」
その拍子に聞き覚えのある声が耳に入り、開けたドアの反対側を覗いたら、そこには美桜が立っていた。
「神崎さん……なにしてんすか?」
「トールくんが……大家さんが倒れてるから後は頼んだって言い残して行ったものですから、様子を窺いにきました」
余計なことをとは言えなかった。むしろ、歩いても頭が割れそうだったのでありがたい。学生時代からの悪友だが、初めて龍に感謝をした。
「あの、体調は大丈夫ですか?」
「……正直に言うと頭が割れそうです……」
「お、お薬飲んでください……!!」
圭輔を部屋に押し戻して、美桜は手に持っていた小さな箱とコップの水を持って圭輔に差し出した。圭輔も小さく礼を言って薬と水を飲み干した。
「まさか大家さんとトールくんが御友人だとは思いませんでした」
「俺も。世間が意外と狭くて驚いてます。それにしても、龍は親友の彼氏の家族でしょ? そんなところとどうやって繋がったんですか?」
親友の家族ではなく、親友の彼氏の家族とはまず関わり合いが無いだろうと圭輔は疑問だった。
「高校の時に……親友が家出したんです。彼女、学校でも有名なマドンナで、夜の街でぶらついていたら男達に絡まれて、それを助けたのがトールくんのお兄さんだったんです。トールくんのご両親はその時他界されていたから、叔母様のお嫁入り先でお世話になっていたらしく、家に招かれて親しくなる内に二人も交際が始まったそうです」
「龍の家が複雑なのは知ってましたけど……それは初耳ですね」
「妹さんの目が見えなくなったの、実のお父様が原因だって言うのは?」
「え、それは知らない……けど、あいつが親父さんをゴミみたいに嫌ってるのは、そういうことかあ……あのシスコン」
「本当にものすごく複雑なんです。うちは実家が小料理屋なんですが……父が親友にまかないとかを持たせていました。皆がまだ四つくらいの妹さんの為に必死で何かしようとしていて、トールくんのシスコンが酷くなったのもその時からです。見える内に好きな物、綺麗な物なんでも見せてやりたいって」
美桜はどこか哀しそうに語る。哀しい物語を紡いでいるようにすら圭輔の目には移った。それは視力を失っていく親友の将来の義妹への同情だろうか、それとも惚れた男の妹へのものかは判じかねる。
「神崎さんは『先輩』に同情しているんですか? それとも『親友』? 龍の『妹さん』?」
圭輔の問いに美桜は小さく「わからないです」と囁いた。あまりにもその様子が儚げで消えてしまいそうだと思った。
「何かに似てると思ったら、蛍に似てる」
「は?」
「神崎さんの印象。俺の実家、田舎だから運が良ければ蛍がまだ見れるんですよ。今の神崎さんは、それに似てる」
「……大家さん、結構ロマンティストなんですね」
くすりとまたカスミソウの笑顔が浮かぶ。彼女には儚い物が似合う。だが、彼女の素顔は本当にそうだろうかと圭輔は美桜の頬を手の甲でそっと撫でた。
「大家さんじゃなくて、圭輔って呼んで下さいよ。龍は『トールくん』でしょ。……実は少し羨ましかったんです」
「何が羨ましいのかは、よく解りませんが……ケースケくん、で良いんですか?」
初めて龍の名を呼んだ時に伸ばす音に少し癖がある。それが可笑しくて圭輔がぷっと笑うと彼女は眉をハの字にする。その表情もおかしくてまた喉で笑いながら圭輔はソファから起き上がった。
「ねえ、美桜さん。連絡先を教えてください。また飯作って欲しいし、逢いたいから」
圭輔の意図するところが美桜にはよく解らなかった。しかし、「はい」と答えた彼女の頬が僅かに薄紅色に見えたのは化粧のせいだろうか。
to be continued...
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